mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

エル・システマという「かんけい」世界

2014-12-15 09:44:35 | 日記

 昨日トランペットのすそ野を広げる音楽家の活動をウィーンの街の気配と対照させて2、300年かかる壮大な試みと褒めていたら、そんなことは、すでに始まっていたことが分かった。「エル・システマ」という。ベネズエラで公的資金の援助を得て、オーケストラを演奏する子どもたちを支援して、実際に世界各地へ演奏活動を展開するまでになっている。

 

 そんなことを知ったのは今日、図書館で雑誌『考える人』2014年秋号、創刊50号(新潮社)の特集で「オーケストラをつくろう」とやっているのが目に留まった。昨日のコンサートを聞きに行っていなければ、そして帰宅してのちにトランペットで食べて行けるのかなあと従兄の娘婿の暮らしを心配しなければ、(たぶん)目に留まらなかった「特集」であろう。じっくりとその「特集」を読ませてもらった。

 

 ベネズエラで始まった「エル・システマ」の活動は、オーケストラの器楽を学ぶことで、犯罪や非行に向かわない暮らしを子どもたちが手に入れられるということに効用を見出している。音楽を広めるというよりも、まさに社会活動としての意味が強い。これは読んでいて、当を得ていると私も思う。

 

 まず第一に、器楽演奏というのは、指導と非指導の関係が容易に受け入れられる。明らかに指導者は器楽の扱いについて優位性をもっており、学ぶ子どもたちは明白に劣位に立っている。そして、学びたいという自らの内発的な気持ちに押されて学ぼうとする。そこに、指導―非指導の関係が成立する。義務的に学ぶ学校の教室で成立させることが難しい指導―非指導の関係が出立点からできている。それも、「学ぶのよ」という意思によってではなく、明らかに具体的な扱い方について学ぶほかにない状態におかれているからだ。

 

 第二に、一つひとつの到達段階が、誰が見ても分かるように設定されている。自分がどれだけ努力したかが、目に見えて現れる。しかも周りの学ぶ子どもたちとの(自ずからなる)比較において。つまりインセンティヴがあらかじめ組み込まれているのが、器楽演奏である。

 

 第三に、器楽演奏というのが、自らの身体の動きを一つひとつ対象化してみることを要求する。無意識に振る舞うのは熟達者の域。修行中は意識的な振る舞いを無意識の世界に落としてゆくように、繰り返し繰り返しの修練を積む。たぶんこれは、自分の身体が環境とのかかわりによってつくられていることを根底的に形成するのではないかと、私は考えている。それは、まわりの人たちと自分の振る舞いとのかかわりを浮き上がらせてゆく。

 

 じつはこれが第一の前ににあるとは思うが、グループで学ぶということが形成していく社会性である。「犯罪や非行に向かわない」という子どもへの期待は、じつはこのグルーピングそのものにある。しかもオーケストラ(の演奏)というのは、端からグルーピングを必須としている。そのハーモニーこそが窮極において問われるのであるから、共に学ぶというかたちの積み重ねにおいて「チームワーク」がつくられていく。グルーピングというのは、一人の子どもからみると、自分を全体のなかに位置づける超越的な視線を我が身の裡に取り込み、かつ、我が身の意思と感性とにおいて振る舞う作業である。

 

 つまり、個人としての学びへのスタンスの取り方とインセンティヴが備えられ、かつ、学習過程そのものが、集団性を培うという仕掛けは、社会の気風をつくっていくうえで、なかなか妙手であると言える。集団を身の裡に組み込み、かつ、我が身を集団の中に組み込む。こういう相互作用が、じつは人の人生である。外部から入ってきた器楽演奏という媒介項は、(その個人と社会にとって)画期的な転機になる。

 

 『考える人』では、グスターボ・ドッダメルという1981年生まれの(つまり早熟な)指揮者のインタビューを載せている。その中で33歳の彼は、次のように語っている。

 

 《僕自身は自分の中に子供がいることを強く自覚していて、その大切さも意識しています。「子供」とは、何かに初めて出会ったときの驚きを忘れない人。日の出を見て、新しい一日がはじまる喜びを感じられる人。自分が巨大な宇宙の一部であることを日々新たに感じ、自分の存在が何者かであって、同時に何者でもないことを分かっていれば、いつも幸せで、楽観的でいられます》

 

 と語っている。グスターボ・ドッダメル自身、20歳代にして70歳の指揮をすると老成した感性を評価されている指揮者だそうだ。彼のこの感性を育てたのが、エル・システマとのかかわりであったと思う。彼の言葉の後半部分は「子供」の意識としては出来過ぎである。だが、すでに高齢者となった私としては、まさにその通りだともろ手を挙げて賛成したい気分である。

 

 このエル・システマ・ジャパンがすでにスタートしていると増田ユリヤが紹介している。東日本大震災の被災地ではじめられたという。音楽というのが、聴く者にとっては脳幹にじかに触れてくる感性世界。だが、その演奏の技法はしたたかに意識されて習得され表現として用いられる。つまり、感性世界の源泉である身体性の極北にたどり着いてそこから戻ってきて「感性の物語り」を語り伝える熟達を擁する。その意味では、人が生きつなげることの根源を体現する宗教性ともいうべき、世界に触れる業(わざ)である。被災地の復興にふさわしい。

 

 トランペットの演奏というひょんな機会に触れたことで、目に留まったコトゴトが私の「かんけい」世界を広げる。これも、面白い。