mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

うれしい返書

2022-10-18 09:07:08 | 日記
 古い友人に、訳あって私が毎月発行している私誌「ささらほうさら・無冠」を送った。早速、それへの返信が届いた。思わぬことが記されていて、「誤解」を解こうと直ぐに返事を出した。その二つを、まず掲載する。
***古い友人からのメール
Fさま
 10/14に勝沼から帰ってくると机の上に封書。差出人の記載なし。達筆の書きなれた手書き。中身は印刷物らしいので思い切って開封。貴兄からと判明。その旨、机上に配達した家内に言うと、字面から「藤田さん」と分かっていたとのこと。何でそんなことが分からなかったのかとまず反省しました。
「ささらほうさら」は、子供のころ聞いたことはあるが今は余り使われていない、懐かしい言葉です。
 以前より定期的に発行している冊子らしいですね。今回は74号とは凄い。これまで受け取ったことはなく、それを今回頂けた意味を、差出人の記載もないことも含めて考えました。
 この冊子はセミナー仲間向けに発行しているようですね。巻頭の「睡蓮の属性」は「上手い」と感心。メールの抜粋が有ったりするが、参加していない人間には理解が難しいものもありました。
 冊子の後ろのほうにはブログの抜粋あり、その中に、この間の4人での飲み会の感想がありました。「寿老人の美味しいお酒の苦汁」と題名からして難しい。文章も難しくなかなか文脈が追えないで苦労しました。
 この飲み会で、貴方の話したいと思っていた、「自分の外面をおおよそ装う苦汁は何んだったのか」との問いかけは「貴方の言っていることは普遍的ではないよ」と高飛車に拒絶された。これでは、何で今回自分に声が掛かったのかも分からず、まずい酒を飲むこととなった、というのが趣旨と読みました。
 自分としては「苦汁を飲ます」結果となってしまったようで申し訳ない気持ちで一杯です。会えば理解が深まるとばかり思っていたのにそうはならなかった。話したいことが話せなかったあなたと同様に、私にとっても不満な飲み会でした。。/確かに私は貴方の言っていることに口をはさんだ。しかし問答無用と高飛車に言ったつもりは全くないし、それから、これは貴方指摘するような場面ではなかったと思っています。
 貴方が、古典力学から量子力学への展開を語り、最近はこれに「心の問題」を入れるようになったと話を始めました。私には量子力学などサッパリわからず、話に着いていけませんでした。ただ、現代の科学が分析的になり細分すればなんでもわかるような気持ちなっているのは違うと思う。最先端の分子生物学者だった中村桂子が生命誌に方向転換したように、命や心の問題などを量子論的に論じても難しいのではないか。そこで、私の言いたいことはただそれだけでした。
 この日、ほんとに話したかったのは、松村圭一郎の「うしろめたさ」の話。
 自分はぎりぎりのだが何とか生活していける。しかし世の中になんと厳しい生活を余儀なくされている人のなんと多いことか。何か手助けは出来ないか。これまで世の中のために何もしてこなかった「うしろめたさ」から、ここ数年、週一回のペースでフードバンクのボランテイアに通っています。食品を寄せる沢山の人達、心優しくて、優秀なフードバンクの職員、色んな経験を持ったボランティア仲間などに接すると、日本もまんざら捨てたものではないなと思えてきます。小さなことですが、出来ることを一歩ずつ続けて過ごしていこうと思っています。
 本当はこんな話をしたいと思っていました。
 でもこの冊子の文章を読んで、貴方の思いと私の思いとは結構重なるところがあったような気がします。何でこんな行き違いになったのか。理解力もなく、思い込みばかりで寛容な心を持たない頑固一徹な老人は反省しています。
 またいつかちゃんと話せる機会があればよいなと思っています。とりあえず感想を書きました。ますますお元気でご活躍をお祈りしています。 T


***返信メール
Tさま
 早速のご返信、ありがとうございます。
 誤解が二つあります。
 一つは、「寿老人の美味しいお酒の苦汁」の「苦汁(にがり)」は、飲まされる「苦汁」の意味ではなく、豆腐が固まるニガリのことです。ほとんど意識することなく「ニガリ」とタイプすると「苦汁」と表示されるので、そのままにしておいたものです。ワタシが何者かつかめなかった大学在学中の私が「苦汁(ニガリ)」によって「ワタシが意識される原点の表面加工が為され」て職に就くようになったが、はてこの「苦汁(ニガリ)」とは何だったのだろう? と味わいの違いを探るような心持ちが「寿老人の美味しいお酒」の席にあるような気がしています。つまり学生の頃には「苦い思い」であった「苦汁」を(豆腐が固まる苦汁だったのではないかと)肯定的に見ています。ちょっとした自己形成のパラドクスに気づいたってことでしょうか。
 二つは、「「貴方の言っていることは普遍的ではないよ」と高飛車に……」というのを、あなた自身のことばのように受け止めていますが、そうではありません。7月に皆さんと一緒に会ったとき、あなたと遣り取りした「高見に立って決めつけるようにものをいう学者老人」のことを指しています。つまり、「そういうエライさんと会うことはないと見切った」のがあなた、という文脈です。
 ごめんなさい、わかりにくい文章を書いて、と思っています。でもこの誤解は、私のあなたに対する信頼度をいっそう高めています。あなたは人のことばを自身への批判として受け止める身の習いをもっていることがわかるからです。私はいつも「自己を対象化する」といっていますが、自分の身を振り返るようにモノゴトを考えるのがクセになっています。たぶんそれが、後段であなたが「貴方の思いと私の思いとは結構重なるところがあったような気がします」と書いているように、たぶん自分を見ているセンスが似ている所かなと好ましく思います。あなたのご指摘は私の文章の拙い点を衝いているのだと思いました。
「一徹老人」は我が道を行くという独立自尊のあなたへの敬称です。フードバンクのボランティアのように、あなたは、社会的な関わりに於いて、躰がまず動いています。それがワタシは苦手で、見知った人たちの間でしか、そのように振る舞えません。思えば学生のときからあなたは、そのように振る舞っていましたよね。そこが私の目には、「一徹」に思え、素晴らしいと感じているわけです。
「ささらほうさら」を「子供のころ聞いたことはあるが今は余り使われていない、懐かしい言葉」と受け止める方に出会えて、本当に嬉しい。この名称を用いて公民館などで「会」を開くと、ほぼ間違いなく「ささらほうさら」ってなんですか? と訊かれます。私は仕事について後、秩父事件のことを調べていたときに寄居町風布(ふっぷ)にいた、秩父事件関係者の子孫から聞いたことばです。
 いま「ささらほうさら」は、半世紀以上のグルーピングをしてきた私の友人たちの老人会のようなものです。コロナ禍のせいで今は休止していますが、月1回、交代で講師を務め、開いてきました。「ささらほうさら・無冠」は、その毎回の印象や感懐を綴った私の「個人通信」ですが、このところコロナのせいで会えないこともあって、「ささらほうさら」の「会誌」として一部を間貸しして、毎月発行しているわけです。
 今号は、あなたとの遣り取りに触れて書いた部分がありましたので、タカハシさんとあなたにお送りしました。タカハシさんからは、「難しくて読めないよ」と苦言を頂戴しました。「読まなくていいよ、こいつこんなメンドクサイことを書いて元気なのだ思ってて」と返事をしておきました。
 ありがとうございました。また機会あるときは、声を掛けて下さい。お会いするのを楽しみにしています。  2022/10/18 F