mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

門前小僧の受想行識

2022-10-30 06:30:16 | 日記
 昨日の記事「文化の戦争」の最後のところで、著者のことばを引用して「中国やトルコのような」統治センスだと「政敵の検閲を正当化するために反ヘイト法を利用しかねない」懸念を表明した。違う。そうじゃない。文化の戦争は法的な整備のモンダイではなく、すでに世間というか、私たちの生活の平場で戦争ははじまっていると思うネットニュースをみた。
 TBSが22日土曜日に放送した「報道特集」にフジTVが質問状を出したという。TBSの報道は旧統一教会の二世信者が「安倍元首相へのオンライン献花を呼びかけている?」というもの。番組は、二世信者へのインタビューで構成され、何人かの「呼びかけられた」とする手づるを伝って発信元を辿ったが、遂にわからないままになったというものであった。フジTVの質問状は、そういう世間の不確かな流言蜚語を番組として取り上げること自体が、旧統一教会に対する印象操作ではないかというもの。TBSは、確かな情報に基づいて取材し構成しているので、指摘されるようなものではない、という趣旨の返答をしたとあった。
 著者の言うような「恐れ」は、統治的センスの政治空間で問題とされることだ。私たちの暮らしの平場では、むしろ流言蜚語の応酬に満ちあふれ、それをSNSなどのネット空間は増幅し、加速している。それを「法的に規制する」というのは、端から統治的センスの問題解決法であった。それが通用するのには、ドイツの人々が共有する(エマニュエル・トッドがいう)哲学的な社会的共通感覚が必要になる。日本のような自然的な身の自然(じねん)を共有している一体感覚だけでは、統治は為政者にお任せになって、平場では、違う対処法をしなくてはならない。それだからこそ「文化の戦争」なのだ。
 どうしたらいいか。ことばとしては「情報リテラシー」と簡単にいう。だが、知的能力を高めて・・・などというのは、何も言っていないのと同じだ。ドイツの人たちがカントやヘーゲル哲学を常識のように共有しているように(たとえば)西田哲学や柳田國男の民俗学を共有していこうというのは、荒唐無稽な話しだ。
 文化の戦争は、日々日常の暮らしの中で行われている。私のような戦中生まれ戦後育ちの年寄りは、身に染みている或る種伝統的な文化の振る舞い作法が、SNSなどの発信に違和感を醸す。その違和感がなぜ起こるのかと、自らの躰に聞くようにしていくことが、情報リテラシーになっているのかな、と思う。
 えっ、なによそれ? と問われるかもしれない。
 昨日引用したエイミー・チュアのことば《往々にして、民族、性、文化、あるいは宗教を隔てる境界――わたしたちのアイデンティティの最も深い層――に沿って分断が起きる傾向にある》ということが、わが身の裡に起こっているのかもしれないと、まず最初の構えを作る。簡略に言えば、ジブンを信用しない地点から「違和感」の根源を探る。
「或る種伝統的な文化の振る舞い作法」がジブンの身を作っていると思っているから、その探索は、戦中、戦後の食糧難や混沌、経済の復興と高度経済成長、一億総中流という高度消費社会、そしてその崩壊と失われた*十年。その過程の、いつどこでこの「違和感」の素がつくられたのか。それはさながら自分史の総覧であり、言葉を換えて言えば、わが身から振り返る戦後史の総括でもある。
 そうして行き着いたところが、エイミー・チェアのことばじゃないが、「わたしたちのアイデンティティの最も深い層」の感触だ。
 いつかも書いたが、寿老人の一人「一万歩老人」が「ねえ、どうして人って憎しみあうんだろう」と溜息をつくように訊ねたことがあった。私が、カインとアベルの時代からそうじゃないか? と応えると、えっ、あんたいつからキリスト教徒になったのよと、すっかり神話を神話の儘に受け止めて笑ったが、それこそ世の初めから隠されていることが、わが身にきっちりと刻まれている。
 若い頃にはそれに振り回され、どうやってかワカラナイがいつしかそれをクリアしてここまでやってきた。振り返ってみると、仏教的な観想が一つの軸になっている。祖母が亡くなって暫くの間、母親が誦経するのに付き合って門前の小僧をしたことがあった。何を言ってるんだか判らないが、そのテンポ、リズム、もうそろそろ終わりだなという呪文が出逢いの一歩。その後二歩目の一歩は、濫読の御蔭で出合った仏教関連書やその解説引用本のあれやこれや。
 そして還暦を過ぎて引退後、四国のお遍路をして般若心経をしみじみと詠んだ。その一言一句をほぐしながらあじわってみると「色即是空 空即是色 受想行識亦復如是」というのが、身に響いてくる。悟達というのではないし、達観というのでもない。わが身を見る起点であり終着点の感触。どちらも、ずうっと遠方に見える。わが身が誕生する遙か以前からわが身を見晴るかすとそう見える。そしていま、そう感じられるといいなあという感触。わが身が人類史だけでなく、生きとし生けるものというだけでもなく、全宇宙の大海の中に一体となって溶け込んでいく感触に、そうだこれだと膝を打ち、生きているということは、目下受想行識の途次にあると観念することとなった。相変わらず門前小僧の儘である。
 つまり、生きているあいだずうっと、違和感を媒介にしてジブンと向き合って、なぜだ? どうして? と問い続ける。この自問自答こそが、情報リテラシーなのだと思うようになった。わがアイデンティティの根源に触る寸前というような感触で受け止めている。