mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

青山文平の「武士」の幻影と原点

2021-06-07 06:50:56 | 日記

 このところ青山文平の作品をいくつか続けて読んだ。『江戸染まぬ』(文藝春秋、2020年)、『跳ぶ男』(文藝春秋、2019年)、『遠縁の女』(文藝春秋、2017年)、『半席』(新潮社、2016年)、『励み場』(角川春樹事務所、2016年)、『つまをめとらば』(文藝春秋、2015年)、『鬼はもとより』(徳間書店、2014年)、『白樫の樹の下で』(文藝春秋、2011年)。
 江戸の戦の無い時代の侍の苦悩に焦点を合わせる。取り扱う主題は、「武士」ってなんだ? 「わたし」は誰だ? 
 そこを軸として、江戸の時代の百姓や町人、女や素浪人の立ち位置へ思いを及ぼす。戦闘をもっぱらとすることによって百姓や町人たちの賄いを受けていた(はずの)武士が、戦の無い時代に何を矜持として生きていくか。なぜ、百姓や町人たちに先んじて収穫物を手にする立ち位置を保つことができるのか、それがこの作家の描く侍の問いかけとなる。
 それは、時代を換えていえば、すでに時代遅れになった「武士」という概念にしがみついて特権を振り回している人の実在が何によって支えられているかを自問自答する姿でもある。そうそう、公務員がなぜ税金から給料をもらえるのかも、自問自答してもらうようなものだが、いまのご時世、単なる商品の交換関係と思われているから、江戸の時代の「身分」制と同じセンスなのかもしれない。
 もうひとつついでに飛び越して言えば、すでに社会的にわが時代を終えた年寄りが、何を矜持として振る舞うことができるかという問いかけでもある。そう考えると、自問自答しているのは「わたし」であり、青山文平の描く武士の姿は、すなわち「わたし」の現在と言える。
 でもなあ、そう言うと、答えに行きつけるかどうか、逡巡してしまう。なぜなら、青山文平の描き出す「武士」は、死ぬことと見つけたりという「覚悟」を根柢に抱えて、振る舞う。
 つまり「武士」としての原点を見出すことによって、かろうじて百姓や町人に拮抗しているからだ。つねに死に場所を探る。腹を切るでもよいが、果し合いでもよい。あるいは、何かの拍子に斬りあうことになって、相手を切り殺したがゆえに腹を切るでもよい。あるいは、相手に切り殺されるために剣術の腕を磨き、あわよくば強い相手に巡り合って切り殺されることを期待する。
 他方で時代は移り変わり、町人が剣術を習おうとする。「武士」の身分を売り買いすることも流行り始める。武家も内緒が苦しくなって、養子縁組が金銭関係に変換されたりする。その世相の中の「武士」が、果たして原点を保つことができるかどうか。
 今風にいうと、「生-政治」が生きつづけることを当然としているとすることによって、「死ぬこと」を原点とする高齢者が「覚悟」を定め兼ねる逡巡につながる。ただひとつ、コロナウィルスの時代になって、高齢者ほど「死ぬことと見つける」ことが当然となった時代の風潮。その流行に乗って「覚悟」を決めるなんて、なんだか「覚悟」も原点を離れて彷徨ってるんだね。
 さて、今の時代に原点に戻って、剣術の腕を磨くとは、何をすることであろうか。斬りあう相手をみつけるとは、何をどうすることなのか。そこで果し合いをして、幸いにも切り殺されるには、どういう場面をイメージできるだろうか。そう考えていると、今の時代、死ぬことの困難さをいやというほど思い知らされる。
 結局行きつくところは、『励み場』の主人公に重なる。己の(偶然にも)おかれた社会的立場を保つ(自分なりの)役割を見出し、そこに「命がけで」身を投ずる。そうか、それを「投企」と言えば、実存主義に通じる。己自身の「正しさ」に身を投じる。つまり社会的な「正義」が消え失せて、「正義」もまた、個々一人一人の内心に保たれるだけのものになってしまった。トランプ現象とも言えようか。
 その「己自身の正しさ」に、ある種の社会性を認めようとするのは、幻影を追うような所業なのか。そうやって考えてみると、今も江戸の時代も、そう変わりはないのかもしれない。