mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

や、思い出した。まさに、これこれ。

2020-11-08 20:00:02 | 日記
 
「すべて政治に属する」か

  池澤夏樹が今年のノーベル文学賞の受賞者ペーター・ハントケのことを書いている(朝日新聞11/6、「終わりと始まり」)。いくつもの刺激的な事実があり、思い出されることがあって面......
 

 1年前に書いたこれを、すっかり忘れていた。読みながら、なんだ今朝書いたことも、これと同じモチーフではないかと思った。いや、今朝の思いよりも、先を行っている。身に堆積するってことが、歳をとると難しくなるってことだ。だからこうして、繰り返し繰り返し、何度でも何度でも、提示してみせてくれるってのが、大切なんだね。年寄りには。ありがとうよ。


「コミュニティ」への価値意識

2020-11-08 11:24:24 | 日記

 はじめに目くらましにあっているみたいと感じた、同窓先輩Wさんの「かつて大徳村にいた農民岡村仙右衛門(現在の茨城県龍ケ崎市大徳町辺り)」の「無頼漢」の話とは、争いが絶えず、訴訟合戦になったものを幕府権力が利害調整するという「江戸期末の農村コミュニティーの姿」を紹介したものです。でもそれを、現代社会のコミュニティ論に持ち出して、どう読み取ろうとしているのか、わかりませんでした。

 Wさんは、
《そのようにコミュニティーには限界もありますが、知識でしか過ぎなかった村落共同体つまりコミュニティーの存在と活動を私は古文書を通して具体的に知りました》
 と続けます。つまり、「コミュニティ」を村落共同体と同様のものとみているばかりか、現在自分が身を置いている社会集団のこととは、別のものと認識しています。
 これでは、私の「コミュニティの社会学的考察」と噛みあわないわけです。
 さらに続けて、
《そういう(団地建物の維持管理の)必要から生じた、自然発生的なコミュニティは大いに重要だと思っています》
 と、私の「社会学的考察」もありだと肯定したうえで、
《しかし、此の頃のコミュニティー強調論は、どうも手抜きをするためのコミュニティーのような気がします。老人や病者の介護をコミュニティーでやるべしというのは、権力が税金をデタラメに恣意的に、使い放題に使って、そのツケをコミュニティ論を美化し、煽り、持ち上げてやらせようとしているように思われるのです。利用しようとしているのですね》
 と、公権力の意図的な操作とみて非難しています。

 まず、私の団地管理組合における取り組みは「自然発生的」なものではありません。10/31の「どういう角度で「コミュニティ性」を取り上げているか。」でも述べましたが、国土交通省の「模範法」に拠る指導に基づいて(マンション建設業者の起動によって)設立されています。「自然発生的」ではなく、公権力の「指導」という古典的な「お上」による民草への、共助の方向性を(建設業者を媒介にして法的に)授けたものです。むろんそこには「利用しようとしている」要素もないわけではないでしょうが、集合住宅の区分所有というこれまでになかった「所有関係」をめぐる争いを事前に(居住者が)自前管理できるように制度設計をして、調整している姿でもあります。
 そして気づくのですが、「此の頃のコミュニティー強調論は、どうも手抜きをするためのコミュニティーのような気がします」という見立ては、本来そういう(調整は)公的な行政機関が直に乗り出して行うべきものであって、それを管理組合の自前管理に任せようというのは、行政機関が「手抜きをするための」便法だとみなしていることです。そうでしょうか。

 この区分所有法が最初につくられたのは1962年。ちょうど新築の「高島平団地」が都市の新しい住まいとして紹介され、テレビに(当時の)皇太子夫妻が訪れてキッチンやダイニングルームに風呂、トイレも組み込まれた「3DK」とか「2LDK」ともてはやされたころです。今から振り返ると、これが高度経済成長に向けての人口移動政策であり、逆にみると、農村の最終的な解体でもあったわけです。私などもその社会的な流れに(それとは気づかぬまま)乗って、東京に出てきた口でした。
 じつは1963年頃に私の所属する大学のサークルでもやりとりされていた「話題」に「サイバネティクス」とか「フィードバック」という言葉がありました。当時農学部の学生であったサークル・メンバーのひとりが「これからは、これだよ」と盛んに口にしていて、「理科学系の試行錯誤の知的蓄積」の方法論かと思っていました。のちに、このあたりから人間の振る舞いを工学的にとらえて社会設計に組み込む時代に入ったんだと思ったものです。別様にいうと、国家権力が民衆をただ単に搾取して利用しようという時代から、フーコーのいう「生-政治」の時代に入っていたんだと(遅ればせながら)気が付いたわけです。
 ところがWさんは「……権力が税金をデタラメに恣意的に、使い放題に使って、そのツケをコミュニティ論を美化し、煽り、持ち上げてやらせようとしているように思われる」と、国家権力による操作として「コミュニティ論」をみていることがわかります。逆に私は、そういう時代はもうとっくに終わっていると感じていることに気づかされたわけです。
 なるほど国家権力による陰謀論的な操作によって「コミュニティ論」が提出されているんだとなると、私の「コミュニティ性」の提起が「金無垢の正論」と揶揄いたくなるのも、わからないでもありません。(Fは)踊らされているとは思いもよらず、団地管理組合の理事長を務めた勢いで、片棒を担いでいるわいと思ったのでしょうね。
 私の立論の起点を抑えながら、振り返ってみます。

 まず、団地管理組合が建物の維持管理の意思決定を自前で行うのは、当然のことだと考えています。
 近頃の高層マンションは管理人のことをコンシェルジュとフランス語で呼んで、新しいシステムのように見せていますが、要は、管理会社に全面的に委託しているにすぎません。いわば商取引です。もちろんそれを拒否するのがいいと、ひと口にはいいませんが、自前でできるだけやって行こうというのが、(さして金持ちでもない私たちの)矜持のように思っています。
 たまたま集合住宅であったがために、戸建て住宅の持ち主が(わがままに)自己決断することを、管理組合の理事会や総会でやりとりしなければなりません。でも少し子細に考えてみると、戸建て住宅の場合は、家族で言葉が交わされることになります。それがスムーズに運んでいるかというと、たぶんそうではないことがいっぱいあると思います。夫婦の間にだって齟齬があります。親子の間となると、もっと大きなズレが生じているかもしれません。単なる住宅の補修管理と財源という問題なのに、ほかのコトゴトが絡み合って、日ごろの不平不満が噴出して収集がつかなくなるってことは、他人でないだけに余計めんどくさくこんがらがってしまうかもしれません。つまりそれが「コミュニティ性」なのです。
 こうも言えましょうか。私たちは暮らしていくうえで、いろいろな他者と出逢い、言葉を交わし、いわば、齟齬と利害の調整を行わなければなりません。それを市民社会では、問題の局面ごとに限定して取り交わします。行政が取り仕切るのだけが公共性ではなく、それぞれの社会団体がその限定された局面において調整機能を発揮し、「かんけい」の縺れをほぐしていくのが、「コミュニティ性」だと思います。しかし、いうまでもなく、他者と向き合うわけですから、いいことばかりではありません。意に反する(つまり自分の意思が組み込まれない)調整が行われることも少なくありません。そこに、自分と他者と調整機能を果たす(他の他者がとりしきったり、長年の慣習でそうなっている)団体のルールや規範も、かかわってきます。それは(総合的俯瞰的にみると)あたかも、人類史が総集されたような「混沌」の展覧会のように見えるかもしれません。
「コミュニティ性」というあいまいな言葉が必要なのは、言い当てようとすることがらがこれこれと名指しできる実体をもった集団とは言えないからです。そこに集まる人々がもちよる身に付いた振る舞いや言葉、「情報」や知見の繰り出し方、対立や合意を形成する手順や重点の置き方、権威や習わしの傾き、異なる意見を組み込む度量などなど、ありとあらゆる「人類史的遺産の堆積」が交錯するからにほかなりません。
 ちょっと横道にそれますが、今回のアメリカの大統領選挙は、この様相をよく表しています。ああ、これが民主主義なのだと私は、感心してみています。「#ミー・ファースト」のトランプが、4年間を通じて全米に沁みわたり、半ばの人々の(憤懣の)心をとらえていることも、よく見て取れます。それを毛嫌いする(民主党を支持する)人々の(憤懣の)勢いも、敵を見つけた喜びにあふれて噴き出しているようです。
 古代ギリシャの民主主義時代に(おおよそ一万人の市民を相手に)弁論術が流行ったというのも、この選挙のやりとりをみていると、むべなるかなと思います。と同時に、ソフィストたちのむなしい言葉のやりとりに辟易して、ソクラテスという人が違った次元を切り拓く振る舞いをして、後世に残る哲学的なメルクマールを画したのも、その時代の溢れる言葉の空虚さが限界に達してもたらした時代的な精華であったようにみえます。
 いまの民主主義も、そのような転機を迎える限界領域に来ているのかもしれませんね。

 話を元に戻します。
 日頃私たちは「コミュニティ性」に包まれて暮らしています。それをそれと意識しないでいることを「コミュニティ性の消失」と私が名付けたことが、いけなかったのかもしれません。
 意識しないで、どうやって過ごしているか。誰かに預けてのほほんとしている。ボーっと生きていると言ってもいいかもしれません。誰に預けているのだろうか。それを意識しようではないかと、問題提起したつもりであったのです。
 だから「コミュニティ性」という言葉に善し悪しの価値は埋め込んでいません。「コミュニティっていいことばかりではない」とWさんはいいますが、そんなことは言われなくても当然のことです。人類史的な遺産が、いいことばかりといえないのと同じです。むしろ、言葉の原初に立ち返って「中動態的に」言葉を吟味することを、私も提唱したいほどです。いいも悪いも、まるごと組み込んで考えていきたいと思っています。
 でもそれには、もう一つ大きな、越えなければならない壁があったことが、同窓後輩Mさんの言葉からうかがえます。それはまた、後ほどに。