mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

身を守る鎧と社会的共生のことば

2020-09-17 12:49:08 | 日記

 山から帰ってきた翌日(9/16)、WEBサイトに「バイバイと」と見出しを付けた記事があった。「?」と思って読んでみると、9/7の格安航空(LCC)ピーチ・アビエーションの機内であった「マスク騒動」の当事者が、メディアやチャットなどで言われっぱなしに我慢が出来ず、ブログを開いて自分の言い分を公開したというもの。要点は以下のようなもの。読むとそれなりに、説得力がある。

(1)マスクをすると圧迫感があるアレルギーだったが、それを皆さんに公表する理由はないと考えた。
(2)「マスクは義務」となっていなかったのでつけない「選択」をした。
(3)マスクをつけてくださいというCAに、「義務ですか? 文書をみせてください」と聞いても、応えてもらえなかった。「同調圧力」で片づけようと感じたので、それに抗することも思った。
(4)機長命令で降りろと言われ、文書でそれを確認して新潟空港で降りた。威力業務妨害と報道されたが、そのとき立ち会った警察官には「業務妨害の事実はない」と確認した。ピーチも「業務妨害」とは言っていない。
(5)その後の報道やチャットで大声を出したとか乱暴な振る舞いをしたといわれるが、その事実はない。黙っていると、それが事実のように独り歩きするので、やむなくこのブログを起ち上げた。

 発端の出来事は《北海道の釧路空港から関西空港に向かっていた格安航空(LCC)ピーチ・アビエーションの機内で、新型コロナウイルスの感染対策としてマスクをつけるよう求められた男性が、着用を拒否したことをめぐり、他の搭乗客や乗務員と口論になった。同機の機長は新潟空港での緊急着陸を選択、当該男性は機外へ出されることとなった》というもの。

 もし彼が(1)を表明していれば、たぶんそれで、このモンダイは片づいたであろう。だが「乗り合わせただけの乗客に公表する義務はない」というのも、その通りだ。ピーチが「マスク着用義務」を規定していれば、もともとこのモンダイは起こらなかった。にもかかわらず、CAが着用させようとしたことがムリ筋だったと考えると、モンダイは解ける。そのとき同乗の人たちは「不快になる」かもしれないが、CAが「ご事情がおありだそうですので、ご理解ください」と、周りの人たちに呼び掛けて済ませればよかったのであはないかと、(いまさらながらだが)思う。
 しかし中には、コロナウィルスに感染しているにもかからわず、飲みに行きカラオケを歌って広めてワザと伝染(うつ)していやるという輩もいた。陽性であることを隠して働いているヒトもいる。だから、このヒトがそうではないと思えないと、同乗者にとってはハイジャックの未遂犯のようにみえて落ち着かない。世の中の出来事は、そのように全部つながって起きているといえる。ことに情報がグローバルに共有されるようになると、人々の胸中の思念は他の人に理解してもらうことも、ムツカシクなる。つまり、知らない人たちが共存する近代的市民社会というのは、「人のことはわからない」と考えて振る舞うことが、出発点となる。
 
 このピーチの男にも逆に、近代的市民社会の規範が通用しないことに腹を立て、意地を張ったのであろう。ひょっとしたらその一角に「前近代的な日本の同調圧力に抗する」という「正義」があったかもしれない。つまりこの男もまた、自分の主張がCAや同乗者に理解されない振舞いと、わが身を見つめる必要があったと思える。でも、同じ飛行機に乗ったというだけで、彼らの頭の中まで変えてやろうというのは、余計なお世話、逆もまた真なりだ。
 どんな奴だかわからないが、でも同じ社会の空気を吸っている共生者という、相反する気分を土台にして暮らしている現代の、軋轢なのだ。
 それも、単なる商品取引の市場社会なら、その軋轢は貨幣に媒介されて支障なく展開するであろうが、暮らしの全部を包括する社会では、そう簡単に機能的に片づけるわけにはいかない。余計なお世話にまで行かなくとも、琴線に触れる言葉くらいは、添えておかねばならない。それが、郷に入っては郷に従えという意味ではないか。
 
 同調圧力というのは、別様にいえば、場を共有している共存意識である。いくら近代的市民社会とは言え、危ない相手とも共存するという意味ではない。
 しかし「危ない相手(と思える)」かどうかとなると、境界領域はあいまいになる。(思う)かどうかは、ヒトによって違いがある。鷹揚な人もいるだろうが、いい加減な人もいる。厳密にそれを求める人の基準も、法的言語を使う人と生活言語を用いる人との間にも、大きなズレがある。
 法的言語を用いるケースで、このピーチの男で思い出すのは、大西巨人の『神聖喜劇』。軍隊で上官から苛め抜かれるのを「軍律のどの条文にそれが記されているか」と上官を問い詰めて、敬して遠ざける下僚の論理を思い出す。文字通り彼は、法的言語の世界を極めることによって、生活言語の世界で傍若無人に振る舞う上官たちを封じ込めたのであった。
 このピーチの男の振る舞いは、生活言語を組み込んでいない点で、市民社会からはみ出している。同乗者の懸念を振り払うことができるのは、彼とCAである。彼が「ごめん、アレルギーなので」と一言いっておれば、大騒ぎにならなかった。あるいはそれを察知してか先回りして、CAが「お客様のご事情がおありのようですので」と、彼に変わって周りの方の不審を解くように付け加えて折れば、たぶん片づいたであろう。そういう文化が、デジタル時代がすすむに連れて廃れていっているとみえる。今回のピーチの出来事は、それが凝集されて噴き出した一つのケースである。
 
  こうして、騒動を回避するために次なる法的な整備をしようと、「マスク義務規定」を、法的にか運行会社かで整備しましょうというのが今後の動きとなるであろう。こうしてますます、社会は窮屈になる。まして、今後コロナウィルスの落ち着きをみて、世界的なビジネスパーソンの行き来は開いて行こうとしている。マスク嫌いでデモをするような国からもヒトはやって来る。
 せめて日本文化は、「場」を共にするものはともに相手の気持ちを慮ることを旨としている。郷に入っては郷に従うことを、ビジネスの人も旅人も日本体験として体感していってほしいと願わずにはいられない。