mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

わたしは心配ですぞい

2019-10-04 17:22:59 | 日記
 
★ システムの軋み
 
 先月末の朝日新聞「生活」版に「希望退職 許されざる勧奨」という記事が載った。「断ってもまた面談「辞めろ」とは言われないが…」とサブタイトルがつく。東芝の子会社などで《「まかせたい仕事がないと退職を促される」「希望退職」とは名ばかりの退職勧奨が、大企業で広がっています。》と、半年間で、富士通、コカ・コーラボトラーズジャパンホールディングス、アステラス製薬など上場企業17社を数え、昨年の一年分を上回っていると、ある。
 
 中小企業では「人手不足で閉店」とニュースにさえなっているのに、これはどうしたことか。記事は会社側の理由を《人員削減計画の達成が危うくなり、株主に約束した利益を出せるか不透明になる》と説明している。だがそういうことなのか。
 
 十年以上前から、転職しやすい雇用環境をつくろうと厚生労働省はをじめ、いろいろな政策提起を行ってきた。同一労働同一賃金というのも耳にした。派遣社員が急激に増えたというのも、女性(主婦)の就業が増えたこととも関係しているが、企業側からみると、首を斬りやすい環境をつくることでもあった。でもそうすると社員の確保が難しいから正社員採用を多くしたということも、ニュースになった。
 
 大企業の経営が、昔のように十年一日のごとく行っていては、とうていやっていけないという世界経済の事情もあろう。株主資本主義の傾向が強まってからは、当面の利益を確保することに経営の主眼が置かれ、社員の生活安定が二の次におかれるという傾きもないわけではないだろう。だが、社会システムが「転職を自在にする」ようになっていないのだ。そもそも給料にしてからが、相変わらず年功序列型の賃金体系を崩せずにいる。ただそのうちの若いうちの低賃金が、中堅層になっても相変わらず低賃金というように崩れてきている。だが、数多いる高年層の高賃金が崩せない。労組の既得権益確保の方針にもよろうが、昔日の賃金体系でやって来たそうと若年層との給料体系の凸凹を、企業が修正する方法を見つけられないでいると、私はみた。
 
 つまり企業は、高給取りの高齢者を退職に追い込み、低賃金の若い層を多数雇いたいともいえる。だから、定年を越えた高齢者を6割ほどの低賃金で再雇用することには、身を乗り出している。こうした社会システムが変わろうとしている過渡期の軋みが、上記のニュースになって浮かび上がってきているのだ。いつだって、世の動きの周縁部分でモンダイは浮上する。そのモンダイが、どこへ向かっているのかは、その場に身を置いている当事者も含めて、誰も知らない。たぶん十年も二十年も経ってから(すでに三十年経ってるよ、と声も聞こえる)、落ち着き先が見えてくるのかもしれない。たまらないね、当事者としては。
 
★ エリートのいない日本の針路
 
 関西電力の会長や社長、その他の部署の取締役たちが関連企業や団体の人物から金品を受けていたことが「話題」になっている。最初の社長記者会見で坦々と「通常の儀礼と考えていた」というのに、まず、驚いた。7年にわたるとはいえ、20人が3・2億円もの金品を受け取っておきながら、それを「通常の儀礼」と受け止める感覚。ああ、この人たちにとって、その程度(の金額)は通常なのだと、驚かされた。一年以上前に「告発」があった。その社内調査は、社外役員からなる監査委員会を通過して、「通常の儀礼の範囲」と認定されて承認されているというから、驚きだ。それを今ごろ記者会見して「釈明」するなんて、どういうこと? 「返却した」と言い、その時期を聞かれ、「回答を差し控えたい」だって? なんで? と疑問は次々と浮上してくる。それにつれて、メディアの取材も積極的になり、原発フィクサーだけでなく関連企業からの金品の授受も発覚して、いよいよ贈収賄のモンダイに発展しそうだ。
 
 だが私は、経営首脳はむろんのこと、監査役までが「通常儀礼の範囲」と認定したことに、関西の企業界にエリートはいなくなった、と思った。企業経営者を一概にエリートと括るのには抵抗があろうが、関西電力という公営企業のトップ、しかも関西経済団体の幹部を兼任しているとなると、日本の経済界を引っ張っていっている人たちだ。その人たちが、トボケているというより、コトの重大さに気づいていないってことに、引っかかった。ああ、この人たちも、もうエリートではなくなった、と。私らと同じ、ただのヒトだ。エリートというのをどう定義するか。わが身から目を話して「世界」を鳥瞰し、どこに、どうモンダイが生じ、それに対していかに対処することが、この共同体にとって必要なことかを思案し、具体的な思索を提示する。そういう人たちのことをエリートと(私は)呼ぶ。
 
 わたしたち庶民は、自分の感性に触ることにしか目が行かない。わたしたちが思案することは、たいてい自分の心的な安定を保つためになされている。自分の「せかい」のこと。つまらないことばかりだ。そう思うから、日本の政治や経済や社会や学問科学の世界などをリードしている人たちには、それなりの敬意を表して、期待もし、みつめてきた。もちろんその他大勢の庶民が、わが身を保ち、暮らしを立て、子を育てて、文化を受け継ぐ領域が、それとしてあることはいうまでもない。それはそれで、社会関係とかコミュニティという領域で、地道で丁寧な生き方というものがある。いわゆる情報文化に流されないで、伝統的に受け継いできた暮らしの立ち居振る舞いが、子や孫に受け継がれていくのは、親のわたしたちを通して受け渡していることだからだ。
 
 だが、世界や社会のこと全般を考えるのは、やはりエリートたちに頑張ってもらわねばならない。いくら民主主義の世の中になっていると言っても、世の中の立ち位置というものがある。そういう仕事をすることのできる立場にいる人が、それなりに力を揮ってくれなければ、「わたしたち日本人」がどうなるのか、行き着く先もわからないことになる。
 
 エリートと庶民とがはっきり分かれている「階級社会」というフランスでは、庶民が不服不満をデモや騒乱で表現するのは、エリートに何とかしてくれよ、お前さんたちの出番だぜと主張していることになる。ところが日本のエリートたちは、いつのまにか姿を消して、ただの金持ちになったり、ただのエライサンになってふんぞり返ったりしているだけになってしまった。庶民が(お上まかせで)おとなしいから、いつのまにかこの国の宰相までが巧言令色・美辞麗句を口にするばかりで、実が亡くなってしまった。政治家たちも、合法すれすれで何が悪い。非合法でなければなんでもとりつくろえると謂わんばかりの振る舞いをするようになった。その政治家たちが如何に愚かでも、きちんと支えて道を誤らないようにふるまってきたエリート官僚たちも、いつのまにか政治家のご機嫌を伺い、忖度して嘘をまき散らして恥じない人たちになった。そういう上級の人たちの社会をみている企業人たちも、わが身のまわりにしか目が行き届かない所業になっているのだろうね。
 
 「末は博士か大臣か」といわれたのは、エリートが庶民に範を垂れ、それが国柄ともいうべき文化を支えた典型的な俚諺であった。階級社会という意識がない日本では、では、どうやって社会の針路を定め、水先案内をするのか。だれがパイロットを務めるのか。どうやって案内人を選び出すのか。それとも、エリート抜きにして、あちらはふらり、こちらへほらりと、風の吹くまま気の向くままに、漂流をするのであろうか。子や孫も含めて、わたしは心配ですぞい。