mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第24回aAg Seminar ご報告 (3)江戸から現在へと「解体」されてきたこと

2017-02-02 10:48:49 | 日記
 
 江戸時代の市場経済が繁栄したのは、参勤交代の費えが大きく影響していたと、時代物小説の愛読者である講師のM.ハマダさんはいう。おおよそ各藩の収入の半分ほどをつかったらしい。その費えは街道筋の宿場などに落とされであろう。それに加えて、江戸屋敷の経費がある。これは江戸の町そのもので消費される。江戸の町がエコという感覚は、たぶん、消費物資がおおむね地産地消であったことと下肥などが江戸周辺の農家に買い取られていたということ、つまり、循環が現地主義的に完結していたことによるのではないか。江戸のエコということを下肥を近隣農家が買い取っていったという循環に絞って考えては的を射ていない。循環の社会的規模が適当な大きさであったことを忘れてはいけない。参勤交代が落とした経費もそうだが、まず前提として各藩の独立採算というか、自治的なまかないが前提であった。各藩の規模、つまり広さと抱える人口と差配する範囲が適切な大きさであった。いずれそのために、江戸に物資が集中するにせよ、必要経費を賄うために特産物を市場に出して換(金)銀しなければならない。米だけでは融通が利かない。
 
 だが江戸期における幕藩体制は「中央集権」的ではあったが、各藩の自治組織がそれとして独立性を保っていた。この独立性とは、地産地消的なことも含めて自分たちの暮らしは自分たちでたてるしかないという不羈の精神に支えられていたと言えよう。つまり自治制とは暮らし向きを左右するのも自分たちの責任という共同責任制をベースにしている。藩の侍たちと町人たちや農民たちの立ち位置は異なっていたであろうから、誰もが同じように考え、同じように振る舞ったわけではないが、総体としては自分たちのことは自分たちで責任を背負い、力のあるものもないものも、同じ土地で暮らしているという理由だけで助け合わねばならない共同性を与えられていたのであった。自治というのは、そういう(交換ではない)相互扶助・相互依存性を運命づけられている。武家の立場から見れば、江戸暮らしとか参勤交代で必要な「経費」は「輸出」支出とみて、ではなにで「輸入」収益を賄うか、工面せざるを得なかったから、自ずから「特産品」をつくりだし、それを(他藩との)市場の交換に出して金・銀・貨幣を手に入れていたと思われる。昔風に言えば、市場経済は発達せざるべからずの状態であった。
 
 それに対して明治以降は、全面的に中央集権になった。「上からの近代化」をすすめるために、地方の知事も中央から派遣され、中央からの命令伝達機関となった。中央は地方を依存させることによって集権制を高め、中央の都合によって「資金」を交付し、ますます依存性を高めることによって「近代化」をすすめてきた。ある状況においてそれは有効に作用したであろう。だが、どこでも、いつでもそれが通用したかというと、どうもそうではない。地方の自治制は中央政府の行政の下請け機関となった。相互扶助的な関係は、地主と小作のあいだには(江戸さながらに)残されてはいたかもしれないが、地主が小作をも食べさせていかねばならないという必然の土台が、明治以降には取り払われてしまったのであった。まさに農村の解体=資本の原始的蓄積であった。
 
 江戸の土地所有制度はどうなっていたの? と質問が飛ぶ。

 講師は応える。江戸の土地所有制度がどうであったか、さだかにはわからないが、町人として一人前とみなされていたのは、表通りに間口をもっていたものだけ、つまり、家主や商家である。裏長屋に住む熊さんや八さんは一人前の町人として認められていたわけではなく、大家が責任をもって「管理」という身分保証をし、いわば存在の責任をもっていた、と。そうか、落語で「大家を親と思って」というのは単なる比喩ではなく、生活実務の関係を表していたのだったんだな。講師によると、長屋の暮らしにおいても自治的なしくみは行き渡っていたから、江戸の町民はやはり「迷惑」をかけないように心得て過ごさなければ、自分の不始末で他に類を及ぼすということが目に見えていたのだ。
 
 その抑圧的な「共同性」が明治を迎えて解体され、「四民平等」となった。と同時に(人生における)個人責任が浮上してくることになった。農村の集落とか町の長屋といった「地縁的共同体」は解体され、「血縁的共同性」が伝統を引きずるように残るところには残され、「近代化」がすすむにつれて(さらに農村が分解し都市へ人が集まってくるようになって)それさえも「(核)家族」へ分割されていくようになって現在を迎えている。
 
 関東大震災とその後の「後藤新平による帝都復興」、東京大空襲と「戦後の復興」とがどのようなグランドデザインに導かれてすすめられたか。その中身にまで話しは行き着かなかったが、とどのつまり、高度経済成長の市場原理によって家族も共同性も個人もすっかりのみ込まれて今に至ったのだと、壮大な流れを肚に呑みこむような面持ちで話を聞くことになった。(続く)

脇道と見えることこそが本筋なのです

2017-02-02 09:32:12 | 日記
 
 貫井徳郎『空白の叫び』(小学館、2006年)上下二巻を読む。人を殺した三人の中学生の人生を描く。とりわけ優れた人物の造形があるわけでもなく、ミステリーとしての物語りも際立っているわけでもないが、ひょっとすると今風の(といっても十年も前の作品だが)若い人のシニシズムを描き出しているだろうかと思った。生きているのが苦であるという気配が、人を殺す出来事の前に、すでに裡側に堆積している。その在り様は哀切ですらないというのが、私の読後感。
 
 山の行き来に、保坂和志『地鳴き、小鳥みたいな』(講談社、2016年)を読む。エッセイ風に記された短編集。「笛吹川と釜無川が合流してちょうど富士川になるあのあたりに」と書かれた一文を読みながら、ちょうど私は身延線の「特急ふじかわ」に揺られていたのでした。
 
 この作家は、20年ほど前に芥川賞をもらっているが、そんなこととも知らず、知っていたからといってそれが何だと気にも留めなかったであろうが、何であったか、エッセイのような、創作論のような、小説のような、ああでもないこうでもないというとりとめもないことをだらだらと書き綴った、読点ばかりの文章を読んで、なんだこいつ私と似た「世界と自画像の描きとり方をしている」と、以後少しばかり気に留めていた。
 もちろん私より14歳も若いから人の輪郭はずいぶんと違うし、好みも人柄も隔たりがあると思うが、芥川賞をもらっているからか付き合う人もそれなりに高名な人が登場していて、それはそれで人との付き合い方を浮かび上がらせていたり、関心の焦点が次から次へと移り変わっていって、へんなのと思ったりヘエと感じたりして、興味は尽きない。
 
 その短編に一つ「彫られた文字」にこんな一節があっ手、面白い。
 
《「この本では脇道と見えることこそが本筋なのです」/とカフカの登場人物たちがたいていみんな繰り返すこの論法のように、というかこの本には脇道と本筋のような保守的・権威主義的な二分法はない、私はそろそろこの本それ自体を離れて勝手な思い込みを書いているのかもしれないがそういうことだ、この本には論者としての慎重さ、ということは臆病さがない、この本を読んでいると明治末から大正時代というのはみんなが街頭で演説する、心が沸き立つほど騒然とした時代だった。》
 
 何の本のことをとっかかりにして保坂がこう述べたのか、読み終わった私はすっかり忘れているが、この一節の謂わんとしている趣旨は(私の内心では)ヘエの部類だ。山歩きにくたびれた電車の中で、読むにはちょうど良い。「脇道と本筋という二分法を権威主義的」と片付けるところは、わが身に引き寄せて読んでしまう。