mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「明るい日本の30年後」は明るいか?

2016-02-08 14:47:16 | 日記
 
 2月5日の朝日新聞の「社説余滴」で「教育社説担当」の氏岡真弓が「日本の30年後は明るい?」と題して、小中学校教員の社会意識や教育観を調べた常葉大学・紅林教授の調査結果をとりあげている。
 
《グループが注目したのが「日本の30年後は明るいか」との質問への答えである。/「とても」「まあそう思う」と応えた教師が計22%。その楽観派を残り78%の「あまり」「まったく思わない」と回答した懐疑派と比べた。/すると楽観派は懐疑派より「リーダーシップ」「愛国心」を育てることに力を入れていた。……「最優先の政治課題は経済発展である」「社会に競争原理は必要である」とも考えている。/「日本は平等な社会」と考える割合も懐疑派より多い。……「教育課程が適切に教えられていることを教育委員会が管理・指導することは必要である」とも思っている。……/こうした楽観派はベテランより若手に多いこともわかった。今の学校は団塊世代が退職し新人が増えている。/楽観派ほど「学校や教育を自分が変えてやるという気持ちを持っている」と答えていることだ。》
 
 と、結果の特徴をまとめ、
 
 《彼らが子どもの教育を変え、次の社会をつくることになったとしたら。/果たして「日本の30年後は明るい」ですか。》
 
 と、読者に問うている。もちろん反語であろうから、これでは明るくないと言いたいわけだ。
 
 氏岡は、調査した紅林教授の見立てを、次のように紹介する。
 
《「教師が現場に山積する課題をこなすのに精いっぱいで自ら考えなくなっているためでは」と紅林教授はみる。/「社会の問題を見つめないから、政権の大きな設計図も無批判に受け入れ、幸せな未来を夢見ることができるのではないか」というのだ。》
 
  つまり、楽観派の教師たちは「能天気だ」と言いたいようだ。この見立ては、紅林教授の「解析」なのだろうが、ご自分の「世界の見方」が正解であり、楽観派の教師たちが(現下の政治状況について)何も考えていないと断じているにすぎない。本当にそうだと考えるのなら、「自ら考えなくなっている」「調査解析」の根拠を示すべきである。
 
 それを引用する氏岡にしても、「楽観派の学生が教師の道を選んでいるとの見方もありうるだろう」と付け加える逸脱をしている。この読み取り方は、いかにも我田引水である。学術的な信頼できる「調査」の結果であるなら、根拠も示さずご都合主義的な「見方」に肩入れするのは、いただけない。結果がご自分の好みに合っていなくとも、それを率直に読み取るのが、新聞記者の社会学的な態度ではなかろうか。
 
 まず私が疑問に思ったのは、この「調査」結果を読み取って「明るいか」と心配する氏岡の「傾き」である。調査に応じた78%の教師が「明るいと思わない」と応えているのは、明るい兆候ではないか。「日本は平等な社会」と答えた割合も、楽観派より懐疑派が少ないというのも、明るいではないか。22%ほどの教師が、現実認識で能天気であると見立てているようだが、仮にそうだとしても、その程度の数の教師がいるのは、別に不思議ではない。皆が皆「明るい」と応えるようになるのは困ったことだと思うが、皆が皆「暗く」なる必要はない。
 
 どうして「明るいと思わない」教師が78%を占めることを「明るい兆候」といわないのか。世界を見て取るとき、「楽観的」であったり、「明るい」ことを無前提に称揚する姿勢は、人間や関係に対する見方を浅いところにとどめてしまう。交換経済を主軸とする現代社会は瞬発的な欲動を掘り起こそうと身構えているから、「明るい」「面白い」「楽しい」ことに接触することをまず優先する。「暗い」「哀しい」「みじめな」ことも、それを観ているものの内心で反転して、安堵感や快感に変わることを醸し出すように提供される。それらに触れているうちに、私たち自身が、「明るい」「面白い」「楽しい」ことに接触することなくては生きている甲斐がないと感じるようになる。それが今の社会の一般的な空気(エートス)である。
 
 だが学校というのは、今の社会を生き抜いてゆく人生の基本を教えるところである。教師は、生きることの厄介さやしんどさ、思うがままにならないことを耐え抜いていく力を身につけさせるのが、仕事である。それには、避けて通れない「暗い」「哀しい」「みじめな」ことを熟知していなければならない。それがないと、人間や関係に対する見方が出来上がらない。たとえ、「明るい」「面白い」「楽しい」ことを過ごして生きるのが人生の最大の幸せだと考えている教師であっても、「暗い」「哀しい」「みじめな」ことに目をつぶって教壇に立つことは、半面しか見ていないと言わねばならない。
 
 だから、78%の教師が「明るいと思わない」という現実認識を持っていることは、まだ希望を持てる状況にあるといえる。楽観派の教師が能天気だとみるのは、「暗い」「哀しい」「みじめな」半面を観ていない――何も考えていないか、(仕事に忙しくて)考える余裕がないと、調査をした教授は見立てているようだが、そうだろうか。「暗い」「哀しい」「みじめな」反面のことがらがなぜ起こっているかについて、調査教授と異なった見方を(直感的に)しているのではないか。それが安倍政権に対する支持につながっているのだとしたら、それを「無批判」と断じるのは、調査教授の価値判断を押し付けているにすぎない。それなら、わざわざ「調査」を持ち出す必要さえない。
 
 氏岡弓子は、この「社説余滴」を通じて、何をいおうとしているのだろうか。「調査結果」がご自分の意見にそぐわないことに不満を漏らしているのだろうか。だとしたら、失礼ながら、新聞記者としての資質を疑ってしまう。まず、調査教授の「解析」を吟味する必要があるのではないか。その上で、別にご自分の「解釈」を打ち出すべきであろう。この「社説余滴」は、「吟味」の前の段階で、思い浮かんだ感懐を記述しているとみえる。それでは氏岡が結論的に投げかけた問いが、楽観派に対する批判(非難)に終わるだけである。
 
 じつは四半世紀も前に、私たちは『子どもが変だ!』という冊子を世に出した(別冊宝島129『ザ・中学教師』JICC出版局、1991年3月)。当時の小中高の学校の生徒たちの振る舞いの断片を読み取ったものだ。その巻頭に「この本に出てくる子供たちが不気味なのは、それがどこにでもいる、例えばあなたの子どものようなごく普通の子どもたちだということだ」と書き始めている。当時の「荒れる学校」をみる世間の目は、学校が「管理教育」をしている、教師が無能である、純粋無垢な子どもたちが権利を侵害されているというものであった。つまり、子どもが変わってきていることに世の中は気づいていなかった。考えてみれば、その子どもたちの世代が、いま、30代40代の社会の中堅になっている。教師になる人たちが相応にいたとしても不思議ではない。「楽観派の学生が教師の道を選んでいる」という見立てよりは、その「相応」を22%とみる方が、はるかに妥当である。
 
 氏岡は『子どもが変だ!』が出版された当時、私たちのグループに取材に来たし、それなりに評価してくれた記者であったと記憶している。それを思い起こしていれば、
 
 《彼らが子どもの教育を変え、次の社会をつくることになったとしたら。/果たして「日本の30年後は明るい」ですか。》
 
 というような記事で、お茶を濁すのはどう考えても、いい加減に過ぎる。もう一つ論陣を張る次元を引き上げて、懐疑派の%を「明るい」と評価するところから、見直してもらいたいと思った。