mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第18回 Aag Seminar ご報告(3) アユの食べ方、アユ漁のさまざま

2016-02-04 10:09:23 | 日記
 
 さらに話は続きます。
 
O:湖産アユを各組合が欲しがるのは、たいへん闘争心が旺盛だからなんです。旺盛だから、友釣りするといちばん早く釣れる。ところが、天竜川では魚道が狭いものだからそこから上っていかずに、天竜ダムの麓で、溜まってしまう。そこで河川組合の人たちが、それを掬って車に乗せて上流へ運んで放流する。何やってんだと、私は思いますね。でも、それが現実です。養殖孵化したアユは、野生的ではなくなる。最近アユの性格が変わってきたと冒頭に話しましたが、大人しくなった。みんなで渡れば怖くないというか、縄張りを持たないアユが増えてきた。だから私の友達なども、アユ釣りが面白くなくなったと言って、やめたものもいます。
 
 かつて長良川で上るアユは、身体に黄色い斑があって、上から観ていると川全体が黄色くなって見事なんです。また、それだけ数多くなって上ると川全体が香るんですね。いわゆる芳しい香華の香りがする。今そういうことはないですね。アユの養殖というのも、地域創成ということで必要なことではありますが、あまりにも過剰なんですね。養殖アユの放流も、稚魚ではなく成魚放流ということをしている。そういうのは釣っても面白くもおかしくもない。食べてもおいしくない。
 
 アユの食べ方ですが、まずは塩焼きですね。生でも食べられます。川魚だから虫がいるのではないかと心配されるムキはありますが、一年魚ですからまずは大丈夫ですね。瀬ごしと言いましてね、ウロコとヒレを除き、頭を落とします。切り口から内臓を取り出し、水洗いした後、骨ごと薄い輪切りにして、氷水を放って身を引き締めていただきます。アユを食べる時にぜひお願いしたいのは、骨を残さない。アユは頭も骨も食べて残るのはお皿だけ。そういう食べ方をしてもらいたい。
 
 さきほど神武天皇の話をしましたけれども、甕に酒を入れて川に流すと、魚が浮いて来た。でも、酒で魚は酔いません。絶対に酔わない。甕に入れたのは、山椒の実か蓼の葉かエゴの実か、これは毒ですけれども、エゴの実を擦りおろす。山椒の実は、人間には毒ではないけれども魚は仮死状態になるほど強烈です。つぶして流す。蓼はご存知でしょう。蓼酢、青い色のね。京都なんかでは必ず蓼酢につけて食べる。蓼の葉というのは、釣りをやるときには河原で採って噛み潰すんです。これが苦くてなかなかアジなんですが、魚には(毒のように)効くんです。甕に酒を入れたというのは、これらの何かを入れたのではないかというのが定説です。それを川に入れると魚は仮死状態になる。ある程度時間が経つと魚は生き返るんですよ。で、つかまえられるわけですよ。それで願いがかなって畿内平定ができたというわけです。もちろん今は、そういう漁の仕方は禁漁です。つかまります。
 
 アユの漁法というのは、いろいろあるのですが、縄張りを持たないアユを獲るのはどぶ釣りといって、酒匂川なんかはどぶ釣りのメッカです。毛鉤です。糸に毛鉤をつけて、ユスリカなどの水生昆虫に似せた毛鉤で釣る。それと、海に潜っての引っ掛け漁がある。いちばんすごいと思うのは火ぶり漁です。四万十川とか仁淀川は解禁が早いのですが、産卵の時期だけ禁漁になる。10月から11月中旬までは禁漁になる。そのあとにまた漁をする時に、アユは火に弱いから、夜松明をともしてやるんですね。寒い時期です。私もTVでしか見たことはないのですが、厳しくて寂しい漁です。
 
 綱を張りまして、糸切れを等間隔で下げる、アユはそれを怖がりますので、下からそれでアユを追って、資格をもって免許を持った人が網をもって獲るわけ。いっぺんに40も50も獲れる。天然のアユですね。年魚ですから、取り尽くすということがね、天命を全うするということですから、産卵後のアユを取り尽くすというのは、それはそれでいいことだと思います。アユの天敵は、トンビやカラスですし、ウナギやニゴイも天敵です。アユが死んでもそういうのが食べるから、死んで腐乱して川を汚すということはない。この食物連鎖というのが行われています。それは自然界の鉄則ですから、アユは儚い一年でありますけれども、いろいろ知ろうと思って勉強してみると、なかなか奥深いものがあります。
 
 鵜飼いをみられたことはありますか。長良川の鵜飼いはぜひ一度ご覧になられた方がいいと思います。もしご希望があれば、おいしいアユを食べて、チャップリンの幽玄の世界に浸るというのもいいのではないでしょうか。
 
 一方的にお話をしていますが、もしご質問があれば、遠慮なくしてください。
 
(養殖のアユというのは、焼くときにどんどん脂が出るのですが……)
O:そうですね。人工飼料を与えていますから、藻なんかは食べていません。人工飼料は早く大きくしなくちゃなりませんから、脂が多くなるんですね。アユのかおりは、分かり易く言うと、スイカのかおりです。ここから、そうですね、3mほど近くになりますと、香ってきます。釣ったときにもね。スイカの皮の香りがする。
 
(人工飼料で? 天然のアユは香りがしないの?)
O:いやいや、香魚っていうのですから、いい香りがします。私らが釣ったアユも持ち帰らないときは、河川組合が買い上げてくれるんです。多いときには1回で、5,6千円になりますよ。組合に行くとね、特大アユはいくらって値段まで書いてある。これは特大ですね、これは雑ですねって書いてある。
 
(料理になって出てくるのが匂わないというのは、人工ですか?)
O:そう、養殖のやつね。有名なアユの店があるでしょ。山口県の高津川にある料理旅館の出先なの。だからそこからアユを持ってきているから、それは天然ですよ。まず普通にアユっていうと、養殖だと思います。ぜひ岐阜県にお出でいただいて、天然アユをワインと一緒に食べていただきたい。酒通のSさんどうですか?
 
(大きいのがいいの?)
O:う~ん、大きいというよりも、陽当たりが良くて、流れが強いところで育ったやつですね。陽当たりが良いといい苔がつくんですよ。流れが強いと、上流から流れてくる泥などが石につかない。まったく純粋な苔がつく。アユも食べるときに砂や泥を口に入れると、じゃりじゃりとうまくないから、苔しか口にしない。だから頭から全部食してやっていただきたい。
 
(養殖場は川沿いにあると思うんですけど、稚魚の放流アユを釣るというのは、放流した養殖アユを釣るんじゃないでしょ。)                                                             
O:そうですね。養殖のアユを買って、それをおとりにして(稚魚で放流した天然アユを)友釣りします。それで、かかって野アユを獲ったら、今度はそれをおとりにして次を釣るんです。そうして次から次へとおとりを変えて釣りをつづけるんですね。養殖のアユというのは一つだけ利点がありましてね、天然アユみたいに怖い目にあっていない。ちょうどお尻のところが弱点ですが、それを目指して突っかかってくるんですね。アユに訊いたことはないのですが、そこは攻撃を受けると猛烈な痛みがあるんだそうです。その怖さを養殖アユは知らない。だからおとりにしても、繋(かか)りやすいということがあるんです。それで、釣れたら、すぐに野アユに換える。
 
(養殖を産卵からやるということは、成魚に育てるまでの手順が完成されているってことですか?)
O:そうです。サケと一緒です。完全に。徳島とか岐阜というと、もう地場産業ですね。岡山で言うと、吉井川、朝日川、高梁川とありますが、いちばん西の高梁川がいちばんいいんです。新見辺りがいちばんいい。
(私の母の実家が高梁です)(高梁へ行くとよくアユを食べさせてくれますね)
O:そうです。
 
(養殖アユは痛みを知らないからおとりにいいとなると、どうして釣った野アユにおとりを取り換えるんですか? 何度も養殖アユを使えばいいのではないですか。)
O:それもありますが、友釣りの一番の、素人でも釣れる条件には、おとりアユが元気なことというのがあります。(おとりアユは)流れに負けてすぐ弱っちゃうんですね。元気がいいのはひょいひょいと自分で泳いで行って、すぐに友達を連れて帰ってくるんです。
 
(アユの愉しい食べ方というのがあって、こうやって…頭から尻尾の方へ順番に…箸で身を押さえていって、骨をスポッと抜くってことをやりますよね)
O:そうです、身から骨を離して。頭をとって背びれや尻びれもとって、こうやって押さえてやると、骨は抜けるよね。それは養殖アユではだめ。できない。
(それは、骨まで食べてくれっていうのとどういう関係にあるの?)
O:いやそれはね、やっぱしね、やんごとなき方っていうのをもてなすときのやりかたですね。鵜匠は公務員だと話しましたが、各国の大使、公使が来たときのもてなしの一つに、長良川の鵜飼いか埼玉越谷のカモ猟をお披露目するってことになっている。カモ猟はね、鉄砲で撃つってのではなく、朝早く網を張って飛び立つカモを獲るんですね。こういうのは、世界広しといえども、日本にしかない。鵜飼いもない。宮内庁の主催で、どちらかをみられる。宮内庁の御用達のアユの漁場がある。歯型のアユが最高のアユ。友釣りのアユと鮮度は変わらないんだと思うけどもね。
 
(でも、川魚ですからね。徳島の友人がアユを贈ってくれたことがあるんですが、やっぱり川魚の臭みというか……)
O:はいそうですね。いくら香魚といっても、川魚は臭みが取れないという人もいるんです。漁師なんかが、やはり海の魚がうまいといわれるとね、私なんかも、ハイそうですかっていうしかない。そりゃあ、貴方みたいに、玉野のうまい海の魚を食べていれば、川の魚は臭みがありますよ。徳島の川といえば、吉野川とか海部川がありますが……。
(そうじゃなあ。なんでアユなんじゃろか。これならサツマイモ贈ってくれた方がええのにって思うたことがあるんじゃ)
O:徳島って言えば、レンコンか金時ですよね。
(でもね、俺はアユ独特の風味とか苦みが好きなんよ。)
O:あの苦みがね、あれがいいんよ。それと「うるか」をね、酒の肴にしたらいいだよね。瀬干しというのも、良いんですよ。骨まで食べれるというのはね、骨が海の魚みたいにごつくないんですよ。30センチのアユの骨はごついかもしれないけど、ふつうは頭から最後まで食べてもなんともないね。入れ歯でも大丈夫よ。(つづく)

「知っていることを知らない」ことを知っている?

2016-02-04 10:09:23 | 日記
 
 スラヴォイ・ジジェク『事件!Event』(河出ブックス、2015年)に面白い記述があった。アメリカの国防長官ドナルド・ラムズフェルドが2002年のイラク侵攻に際して行った記者会見で披歴したこと。ラムズフェルドは、「(われわれが)知っているということを(われわれ自身が)知っていること」「知らないということを知っていること」「知らないということを知らないこと」と分節化して、サダムが驚異的な秘密兵器をもっていることを浮かび上がらせ、イラク侵攻を正当化した。それに対してジジェクは、「知っていることを知らないということ」を見落としていると指摘して、次のようにつづけている。
 
《(「知っていることを知らないということ」が)実際、アメリカがイラクで直面した問題の主な原因だった。ラムズフェルドがそれを見落としたということは、彼が本物の哲学者ではないということだ。「知っていることを知らないということ」は、哲学の特権的な主題である。》 
 
 「自分が知っているということを知らない」ことを、《フロイトのいう無意識であり、フランスの精神分析家ジャック・ラカンが「みずからを知らない知」とよんだもの》と解説する。腑に落ちる。私自身がこのブログを書きながら、「自分の輪郭を描き出す」ことと考えているのと合致する。去年の8/23日のこの欄で、若い数学者・森田真生が『数学する身体』で記していることを引用した。
 
《ハイデッガーは「初めから自分の手元にあるものをつかみ取ること」あるいは「初めから自分がもっているものを獲得すること」こそが「学び」の本質なのではないかと論じる。》
 
 私が、教師という仕事をしながら考えてきたことをハイデッガー(と、それを引用する森田真生)は言い当てていると受け止めた。これと同じことを、ジジェクは(場を変えて)言っているのだ。
 
 ま、こうした諸「権威」のことばを借りて、私自身の思っていることを正当化しているのだから、私もラムズフェルド同様、「本物の哲学者ではない」。でも、自分の思索や判断の根拠を探り当てようと自らの裡に探求の目を向けているという意味では、哲学の亜種ではある。でも、亜種は哲学する庶民の特権である。根柢的に思索し通してはいない(と思っている)。「本物の哲学者」のことばを聞いて、「へえ」と思ったり、「なるほど思い当たるわ」と共感したり、「それって、アレと一緒だ」と自らのたどった経験と重ねたりする。そうやって、自らの輪郭を描き出し、世界をつかまえる。庶民の「知恵」というのは、そういう専門家のことばによって裏付けを得て、自らの亜種哲学を(自己)確信に変えていっている。専門家だけではないが……。
 
 哲学するということは、特権的なことだ(と私は考えている)。いつであったか、現象学者である友人が「知も欲望だ」といったとき、たしかに知的探求心も欲望の発露ではあるが、哲学だけは特権的なところに位置しているのではないかとやりとりしたことがある。「欲望としての知的好奇心」は是非善悪を考えない。その好奇心が何に依存しているとは(直には)考えない。科学的探究心は、それ自体は価値的な枠組みを簡単にとびこえて展開する。まさに「欲望」だからである。だから、わざわざ原子力研究にせよ遺伝子組み換えにせよ、倫理的問題と絡ませて、その「限界」を詮議しなくてはならなくなっている。
 
 しかし哲学は、「知的好奇心の行き先」ではなく、その根拠を考えている。その根拠の最大のテーマは、(自己―世界の)存在とは何かであり、それを観る「主体」とは何かである。つまり世界の全体性の根拠に探求の眼が向いている限り、「知」も「科学」も「欲望」も包括する問いが、哲学的探求の「原点」であり「極み」である。分節化される前のギリシャ哲学の出発点を思い出させる。
 
 そして、その亜種であっても、その入口に立って庶民としての人生を全うしていることを、日々私はワクワク感じながら過ごしている。なにひとつ謗ることもなく、なにひとつ詫びることもない。すべてが存在したことであり、いまなお我が身とともに、現実に「ある」と感じていることであり、かつ、感じていないことである。「知っていることを知らない」我が身を感じている。
 
 ラムズフェルドを介在させてはいても、そうした、「哲学亜種である私」の実存に触れる言葉を提示してくれたジジェクに感謝したいくらい。至福の心もちでいる。