mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「エリートの義務」

2016-02-14 16:17:14 | 日記
 
 岡本 尚也の《日本は「格差社会」である前に「階級社会」だ―― 「階級」を意識しない不毛な教育議論》を「東洋経済オンライン」で読む。
 
《26歳でイギリスのケンブリッジ大学物理学部に留学し、博士号を取得、“Nature Materials”に論文を載せるなど物理学者としての実績を上げながら、2015年にはオックスフォードで近代日本社会の研究に取り組み、特に教育社会学を学んだ。》
 
 と、東洋経済の、経歴紹介の「前ふり」がつく。ひょっとするとオックスフォードの教授になっていた刈谷剛彦の教えを受けたのかもしれない。
 
 日本の教育論議では「格差社会」と問題にはするが、「階級(階層)社会」というふうに問題にしない。そこでは、「個人の才能」という問題ステージは浮かび上がるが、その「社会的背景」に眼が及ばない。そう、日本の教育論議の批判をしているのが、要点。「格差」と「階級」の違いをこう説明する。
 
《格差とは社会の中で所得や待遇に差が生じている「結果」に重点を置く言葉で、階級・階層とは育った環境のような「社会的背景」に重きを置いた言葉である》
 
 分かり易く言うと、「格差社会」というのは「(本来)平等である社会」を前提にしている。「階級社会」というのは、「(現実に)出発点が違っている社会」から問題をみようとしている。刈谷剛彦は、その著書『階層化日本と教育危機――不平等再生産から意欲格差社会』(有信堂高文社、2001年)のなかで、戦後、社会階層が学校教育の中では[ないかのように]扱われてきたことを指摘し、それがいつしか、実際に存在する「社会階層」を無視する教育言説に定着したと解析して、一挙に教育論議の次元を変える功績をもたらした。
 
 「(本来)平等である社会」というのは、すでに「(現実には)平等でない社会」をみているからたてられる理念なのだが、学校の現場では、「すべての生徒を平等に扱う(べき)こと」として作用し、教師は、日常的にそう振る舞ってきた(にちがいない)。(にちがいない)とカッコにくくって言うのは、私の子どものころの(まだ占領下の)小学校においてどうであったかを、おぼろげながらの記憶から引き出して、(そうであったろうか、そうでなかったような気もする、でも多くはそうであったろう)と思っているからである。
 
 実際の子どもたちは、同じではなかった。健康的(体力的、栄養的、成長的)にも、バラつきははっきりしていた。親が(子どもに)目配りをする余裕においても、家庭環境的に育まれる種々の才能的にも、何よりも経済的な貧富の状況においても、出発点から差異があった。そもそも、父親が戦死した家庭も数多あって、親族が身を寄せて苦難を越えて行こうとしていた時代であった。戦争という(国家の)大事の前に個々人の(日常的な)小事は無視されてきたが、敗戦という混沌の前に(一面の焼け野原という)平等の地平が出現したような気もしたのであったろう。それが(当時の)子ども心にどう作用したかわからないが、我が身を思い返すと、「みんな一緒だが、運・不運がある」と受け止めて、心裡に落ち着かせていたような気がする。「平等」という理念は、その感触と一緒に身に備わっていたのである。
 
 高松の築港の雑踏の中で靴磨きをしている少年たちをみたり、街頭に立つ傷痍軍人の姿をみるごとに、両親がいて何とか日々の暮らしをしのいでいる「自分」は幸運であると感じていた(にちがいない)。「運・不運」というのが社会的政策によって緩和・克服できる(かもしれない)と分かりはじめたころに、世の中のためになる生き方をしようと思い始めたことが、記憶に残っている。中学を卒業するころのことだ。
 
 いつかも記したことがあるが、私のいた岡山県の玉野市の高校は全日制が1校、定時制が1校の二つしかなかった。小学区制であった。定時制高校は三井造船所の附属学校のように、造船所の正門前に設けられていた。当時の全国統計によると、全日制高校にすすむのは35%、定時制高校が15%、併せて中卒の半数が高校へ進学した。定時制は就職して学ぶことを考えると、65%が中学卒業と同時に就職したのであった。私の仲良くしていた小中学の同級生にも、高校進学をあきらめるものが何人かいた。それは私に「幸運」であると同時に、「恵まれたものの責任」を感じさせるものであった。(子どもからすると)天与の幸運に「恵まれた」条件は、自分の力で勝ちとったものではなく、社会的に授かった幸運と考えるようになっていたのである。
 
 これについては、どこで高校生になったかによって(たぶん)大きな落差がある、と後にわかる。還暦を越え仕事をリタイアしてから再会した中学の同級生で、父親の転勤で高校は東京にすすんだ友人は、「(高校進学者は)そんなに少なくなかった。もっと多かったよ」と感想を漏らしていた。東京が高いパーセンテージであったことは、間違いない。だが全国統計から類推すると、地方の小工業都市・玉野市辺りは(たぶん)全国平均に近かったのではないかと思う。
 
 さて岡本尚也は、
 
《(本来平等であるとして、階層がないかのように無視する)……日本の学校生活の中で「階層」を感じることはあまりない。制度上、とてもフェアな日本の受験で成功する者は「頭がよく、勤勉で優秀な人」と認識される。》
 
 とみる。つまり、出発点の環境的な差異がすっかり無視されるから、「優秀なエリート」たちは、自分たちの手に入れた「特権・権利」が社会的に付与された(特別なこと)と受け取ることがない。翻ってそれは、「社会的な義務」や「責任」を考える糸口を持たない、と解析する。私がいう「恵まれたものの責任」を、岡本尚也は「エリートの義務」と表現している。これは、「才能」や「地位」や「職分的な立場」を社会的な共有財産と考えないことに通じているかもしれない。つまりことごとくが、個人の所有物であり、各個人の自己実現の結果だとみなしていると言ってもよい。
 
 とどのつまりは、「人間存在」そのものを、社会的な視点でとらえることが阻害されている。各個人の才能や地位や職分的な立場は利用されるものであって、活かすべきものだという視点が成り立たない。(社会的な役に立とうという振る舞いの)内発性が、交換可能なかたち(利益誘導)以外には考えられなくなっている、とも言える。それが逆にまた、エリートを育てるのは社会的な事業という考えも阻害するから、簡略に言えば、(商品)交換的な仕組みでしか社会的インフラも為しえないことになる。今は為政者もまた、そのように考えているから、「(自ら)劣悪な環境に身を置いている人々」のことを視野に入れる「社会保障的」回路は、「治安維持」的に働かない。そう考えてみると、アベノミクスの「政策的」な迷いのなさ(企業活動を盛り上げることばかりを優先して社会保障的なことは後回しになっている)が、より鮮明になる。
 
 岡本尚也も《それでは、だれがこの問題を解決できるのか?》と「エリート」の担うべき社会的義務をまえに、途方に暮れているようにみえる。
 
 思えば私はエリートではなかったから、さほどの忸怩たるものを我がことのように感じないで済んでいる。だが、社会的関係自体を「交換的関係」ですべて処理しようという発想が社会の隅々にまで行き渡ってきた、まさにそのさなかに人生を送ってきた。それを放っておいて、途方に暮れたままで消えていいのかという意味で、少しばかり引け目を感じているのである。

老兵は消え去るのみ

2016-02-14 16:17:14 | 日記
 
 最後の「勉強会」に行ってきた。1970年から46年間、つづけてきたグルーピングも、この3月で終了する。 小中高の教職員ばかりか公団職員や町の不動産業者まで加わって、基本的には教育領域の問題を主軸にして、私たち自身の生き方を考えてきた。私はその出発点からある種の「文化闘争」を担っていると思っていた。「闘争」というと、倒すべき相手を明確にして反抗し攻撃を加えていく活動と思うかもしれない。だが、その相手がじつは「自分」であったということに気づくのに、そう時間はかからなかった。「現実世界」とその一角に位置している「自分」と、それをみている「私」という三点の関係が、常に私の関心事であり、「私の世界」であった。46年という歳月を考えると、いわば私の人生そのものであった。
 
 3月には「勉強会」を行ってきた「宿」を閉じなければならない。その手筈は2年前から着々とすすめてきた。土地を売り払い、「宿」の建物を家主に返却し、その荷物を全部始末する。それらの実務をしっかりと担ってくれる人がいたから、私はそれに煩わされることなく「勉強会」の素材の準備をし、次回は何を考えるかと思案することに集中できた。3月は最後の始末をする「宿」になるが、あいにく私は、日本の最南西端の島に行っていて出席できない。そういうわけもあって、「勉強会」は今回が最後ということになった。
 
 12/12の本欄で「地の塩として生きる」として紹介したMさんを「宿長」として、この「勉強会」は続けてきた。「宿長」は、「宿」の最後をみることなく亡くなってしまったが、46年間付き合ってくれた人たちもまた、「私の現実世界」であり「私」であったと、つくづく感じる。ただ「自分」だけは、相変わらず正体がわからないままに「身」を保って「私」の軸をなしている。その「わからなさ」は「世界」のわからなさと同じである。だからまだ、飽きが来ないのかもしれない。
 
 ともあれ、このグルーピングが3月をもって終わる。といっても、私の人生を終わりにするわけではないから、「私の身」の探求はつづく。それを察したのか、つきあってくれていた「私」の一人が、4月以降、形を変えて月1の「勉強会」をやろうと言い出した。まだ仕事の現役である3人はその気になれば顔を出せばいいとして、リタイアした老兵たちが、老人である立ち位置を存分に使って、「現実世界の私」を言葉でえぐりとる作業を、えっちらおっちらとやってみようではないか、「ささらほうさらに」と。
 
 こうして、ささやかな「あとのまつり」を起ち上げることにした。「まず名称を」という実務方の提案にしたがって私の頭に浮かんだのは、私が最初に赴任した土地ではじめて耳にした言葉、「ささらほうさら」であった。
 
 秩父盆地の入口にあった寄居という町の定時制高校に着任したとき、江戸から奥武蔵と秩父山地の周縁をなぞるようにたどって上州の藤岡へ抜ける「姫街道」の宿場町「寄居」は、周囲を桑畑が取り囲む寂びれた町であった。務めて何年かたったころ井上幸次の『秩父事件』(中公新書)が出版され、同僚の教師や地元の教会の牧師たちと読書会などをしたことがあった。授業の教室でその話をしたこともあった。するとある日、一人の生徒が「それ、おれんとこの曾爺ちゃんだって」と一人の「首謀者」の名を告げた。「爺ちゃんが話していたことがあった」と。寄居の町の中心部から荒川を渡って少しばかり山に入ったところに「風布」という集落がある。「ふっぷ」と読む。蜜柑栽培の北限地として名を知られた土地である。爺ちゃんはすでに亡くなっていたが、足を運んで話を聞くと父親が、秩父に住めなくなってこちらに移り住んだことを話しながら、「あのころはささらほうさらだったから」と言った。「ささらほうさら」というのが秩父地方の古い地口で、「はちゃめちゃ」「むちゃくちゃ」、関西弁でいう「わやになる」ことをいうと知った。
 
 はてそういうことばがどの程度の社会的承認を得ているのだろうかと、日本国語大辞典をひいてみると、あった。「ささら-ほさら」。
 
 《物事がすっかりだいなしになるさま。「一夜さに桜がささらほさら哉」》と一茶発句集の俳諧を添えてある。さらに《「方言」物事のさんざんな状態。めちゃくちゃ。「ささらほうさら」》と記し、福島県、群馬県、埼玉県秩父とつづけ、「あの家も主人が死んでからささらほうさらになった」と山梨県の使い方を紹介している。そのほかにも、長野県、静岡県、岡山県、山口県、愛媛県などにあると、記されている。ほほう、けっこう広く使われていた言葉なのだね。すると別の一人の「私」が、「それって、宮部みゆきの小説に使われてるよ。『桜ほうさら』っていうタイトルだけど、今、読んでいるところだよ」と、言を足した。
 
 言葉って、面白い出逢い方をするものだ。
 
 その後すぐに、実務方が「ささらほうさら会則」を作成してきた。会場を借りるために「会則」が必要という要請に応えたのだ。こうして、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」のゆっくりと消滅してゆく道が用意された。
 
 今日帰宅するときは、雨。午後に晴れて陽ざしが差す。