すぶんろこ!のジャパニーズドリーム

■『すぶんろこ』とは、コロンブスの逆転の発想

■日本国独立宣言!「日本国憲法」無効宣言、日本軍再構築宣言!

+ 吾亦紅・・・ 民主主義とは、要求ではなく、志である

2009年11月30日 08時08分18秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 吾亦紅waremokou  小さき花の  紅の声 

    中村 梅士 Baishi 

 

 

 

 室内気温は20度、寒いという気分が足元に張り付いて

いるが、やっと普通の秋に戻った

 

 ああ、寒かったというように、肩をすぼめて朝顔が咲

いていた。

 もう、虫は鳴かないだろうけれど、ほっと一息、晩秋

が楽しめそうである。

 いつもは、夜しか通らない公園が、すっかり紅葉して

いた。

 とうとう、耶馬溪にもゆかなかったが、公園の秋も、

結構な美しさである。

 

 

 

 

 

 

 民主主義とは、要求ではなく、志である


 すっかり冷え込んで、鼻びしびしなのが、鳩ぽっぽ政

権下の日本経済と政治の状況である。 

 

 国民の多数が選択した公務員労組政権の「公約」が実

現しつつある状況なのだから国民の多数は、文句の言え

ない状況である。

 それが、多数決の大衆民主主義でもある。

 ナチスドイツもそのようにして国民が望んで誕生した

のだった。

 

 しかし、民主主義とは、国に対してああしてくれ、こ

うしてくれと私利私欲を要求することではない。

 国のために、自分はああしたい、こうしたいと志すの

が民主主義である。

 

 国家は、そうした国民の教育と産業を応援する立場で

ある。

 国民の生活資金をばら撒くのが政治ではない。

 それは、亡国の政治である。

 

 学生の就職活動も、欲しがるばかりで、企業や国家の

ために志すところが感じられない。

 自助努力、そして高い志、これが民主主義の本義であ

る。

 

 幸福実現党には、政策論議ばかりではなく、民主主義

の本義を柱に、国民教育活動をこそ、その政治活動の本

体として欲しいと思う。

 政治教育は、既成政党からは失われた、政党の重要な

役割である。  

 

             

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

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+ 銀杏の陽だまり・・・ PB商品圧力に負けるな~ デフレ克服の秘策

2009年11月29日 08時24分23秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

   

 貯えし  黄金の銀杏を  敷き並べ

   中村 梅士 Baishi 

 

 

 

 銀杏の影は、金色konnjiki の陽だまりである。 

 金を敷き詰めているかのような銀杏の姿は、祇園精舎

を寄進した、スダッタ長者の故事を髣髴させる。

 

 釈尊の法に触れて感銘したスダッタ長者は、仏陀に精

舎を寄進しようと、ジェーダ太子の所有する森を譲って

欲しいと交渉した。

 ところが、ジェーダ太子は「金を敷き詰めた分の土地

ならば提供しよう」と言うのである。

 

 スダッタ長者は、言われるままに、その土地を譲る受

けるべく、たんたんと金を敷き詰め始める。

 スダッタ長者のその熱い思いには、泣けてくる。

 ジェーダ太子も心を動かされ、スダッタ長者と共に、

精舎建立に尽力したという。

 

 金のない自分に敷き詰められるものがあるだろうか。

 金がなくても、貧者とは言われたくない。

 銀杏でさえ、金色の葉を敷き詰めている。

 現成の仏陀の法に触れながら、貧者であってはなるま

い。 

 

 

 

 

 

  

PB商品圧力に負けるな~ デフレ克服の秘策

 目に余る安売り競争を仕掛けるスーパーがある。

 安ければよいかのように、中国のコーラーまで山積み

している。

 それを見ただけで、節操のないスーパーだと思った。

 

 山上憶良の貧窮問答歌は、次のように締めくくる。

 

 いとのきて  短き物を 

 端切ると  云へるが如く

 笞杖shimoto 執る  里長satoosa が声は

 寝屋処neyado まで  来立ち呼ばひぬ 

 かくばかり  すべなきものか  世間yononaka の道

 

 安売りのPB商品の請負を迫るスーパーの圧力は、短き

ものの端を切るという里長のようなものであろう。

 結果、倒産している会社も出ている。

 超えてはならないラインを超えて端を切らされた結果

であろう。

 

 非情なPB商品に手を貸さなければ売れないのであれば、

事業をたたんだほうがよい。

 戦争というような安売り競争は、リストラの犠牲を強

いる。

 デフレスパイラルに陥るような安売りに加担すべきで

はないのだ。

 

 経営者は、安易にPB商品に乗るのではなく、独自商品

の販路拡大の努力に社運をかけるべきである。

 PB商品をつくりたいというなら、工場ごと買ってもら

えばよいではないか。

 「売れなくなったから」というのは、言い訳に過ぎな

い。

 

 メーカーは、もはや問屋任せ、小売負かせでは成り立

たなくなったということである。

 

 製造請負では、豊かさは生み出せないという状況にな

っているということだ。

 だったら、営業力のある人材を募集すべきである。

 デザイン力のある協力者や人材を募集すべきである。

 

 人材をカットするのではなく、人材を補充すべきなの

だ。

 弱点は、人材の弱さにあるはずだからである。

 

 デフレ克服の秘策は、人材雇用と社長の営業努力にあ

り!

 やれない理由を並べるな!  

 逆転の発想にチャンスあり!


 

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 紅葉のさくら・・・ 新しい経済と信仰  『敬天愛人産業』へのヒント

2009年11月27日 08時11分24秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

   

 桜舞う  花をもみじに  秋吹雪

   中村 梅士 Baishi

 

 

 

  

 公園の桜が見事に紅葉している。

 秋の桜吹雪は、イヴモンタンの歌のようである。

 

 銀杏の葉もすっかり黄金色に染まってはらはらと散っ

ている。

 咲く花は美しいが、散る花を美しいと感じさせる花は

少ない。

 その花が梅、椿、桜という寒い季節の花である。

 

 亡き父の人生は無欲な人生だったと思う。

 禅の修行僧のような人生だったと思う。

 しかし、一家を構え、信仰を持ち、墓を建て、家族を

養って生涯を終えた。

 立派だったと思う。

 

 見事に散るためには、見事に咲かねばならない。

 さても難しきこの世である。

 大川隆法著 幸福の科学出版刊『社長学入門』を学ぶ

としよう。

 咲いて散るには、晩年の社長業が手っ取り早いであろ

うから。 

 

 

 

 

 新しい経済 

 新しい経済とは、信仰告白を信用の基礎とする企業経

営でありたい。

 

 企業経営は、信仰によって競争力を身につけるわけで

はない。

 しかし、経済は人助けである。

 信仰なくしては、真の経済は実現しない。

 

 信仰もまた実力なのだ。

 信仰者としての努力と実力が発揮されなければならな

い。

 そうした、敬天愛人の努力が、新しい豊かさを生み出

すのだと思う。

 

 そこで、介護現場にヒントあり。

 町工場には、老後の安心、介護の安心を生み出す商品

開発を期待したい。

 紙おむつに代わる、携帯トイレの開発、裸で過ごせる

寝たきりベッドなど、まだまだ未開の分野である。

 

 車の中でトイレが済ませる道具もまだ、不十分である。

 トイレに「敬天愛人産業」の活路あり!

 

 

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 野牡丹の花ルアー・・・ 家具業界、茶碗業界の活路のヒント 生前葬具の備え

2009年11月26日 08時02分35秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 野牡丹の  花のルアーを  風に投げ

  馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 紫紺の鮮やかな花が目立っていた。

 おしべが毛むくじゃらに見える。

 不思議な花があるものだと、覗き込んだ。

 

 「はい、一匹釣れました」

 

 紫紺野牡丹というブラジル原産の花らしい。

 良く見ると、毛むくじゃらに見えたおしべは、釣り針

の仕掛けのようだった。

 それが、10本ほどあるのだ。

 

 『釣り針草』と名づけてもよいくらいだ。

 すると、紫紺の花は大漁旗ということか。

 野母崎の磯風がしゃれて見える花である。

 

 

 さて、今日も少し温かな小秋日和になりそうである。

 新しい仕掛けを考えることにしよう。

 紫紺の大漁旗をめざして!

 

 

 

  

 

この世の始末

 父の葬儀は、プロテスタントの教会葬だったから、飾

りの少ない、シンプルで心温まるよい葬儀だったと思う。

 

 父らしい、飾りのない、誠実な人生を祝福するにふさ

わしかった。

 葬儀社の負担も少なかった。

 それでも、100万円ほどの経費がかかったようである。

 

 もっとも、資産のない老人が孤老死しても、自治体が

最低限の葬儀を出してくれるそうである。

 この世を去る道案内も、死後の肉体の始末も、他人の

手を借りなければできないことである。

 

 「人は一人で死んでゆく、故に一人であるかのように

生きなければならない」というパスカルの言葉は、一見

かっこよい。

 確かに、自助努力の人生修行である。

 

 しかし、一人で生きて、一人で死ぬということなら、

間違っている。

 結局は、他人の手助けなしには生きられないし、あの

世への旅立ちも、導かれるものである。

 「人は修行の努力によって、生かされる存在である」

とでもいうべきか。

 

 【 新しい仕事の提案

 ところで、家具業界は製造も販売も苦戦している。

 というより、大不況のどん底から明かりが見えないと

いう状況かもしれない。

 生活スタイルの変化と建築需要の低迷による、構造的

不況である。

 

 そこで、提案したいのが、生前葬型の葬儀家具一式の

製造販売というのはいかがだろうか。

 人はいつか必ず死ぬ。

 死ぬ覚悟こそは、潔く生きるヒントでもある。

 

 棺桶、蝋燭立て、献花台、骨つぼ、戒名札、写真、そ

の他、宗教葬具等であろう。

 骨つぼとなれば、有田青磁もよいではないか。

 蝋燭は、櫨蠟がよい。

 棺桶は、大川家具で作られた組み立て式でよい。

 

 墓地というのは、なくてもよい。

 墓というのは、一族の勢力の顕示という意味がある。

 しかし、この世の欲望から解脱しなければ、三途の川

は渡れない。

 自分の属する宗教の納骨堂でよいと思う。

 仲間と共に葬られるのだ。

 

 父は、生前に墓地を買い求め、空っぽのまま20年程が

過ぎた。

 その見晴らしの良い墓地に葬られたが、墓に住むわけ

ではない。

 

 同時に、教会の納骨堂に分骨し、定期的に賛美歌をう

たって故人を偲ぶ会が行われる。

 それだけでも良かったと思うほどである。

 

 信仰を持つ者は幸せである。

 幸福の科学の葬儀がどういうものかは知らないが、そ

うしたことを準備する必要もあるだろう。

 月刊誌でPRしてはいかがだろうか。 

 

 生きることは、死ぬ準備でもある。

 だから、自分の信仰の備えと共に、葬儀一式を、生前

に少しづつでも買い揃え、後顧の憂いなく、潔く生きる

糧とすると良いと思うのだ。

 

 「家具業界も、茶碗業界も、発想を転換してみれば、

意外と活路が開けているのではないでしょうか。」

  

 

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 北風アフガン帽になじむ・・・ アフガン問題に「戦争の大義」はあるのか

2009年11月25日 07時37分41秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

 寒風や  アフガン帽に  なじみたる

    馬糞 Bafun 

 

  

 

  すっかり冬になったが、今日は小秋日よりだという。

 

 通勤の帽子は、アフガン帽になった。

 重量感のある毛糸で編んだ、耳隠しのある頭巾である。

 これを買ったのは、球磨川沿いの人吉だっただろうか。

 難民支援事業で輸入された手作りのものだった。

 

 アフガンは寒いところなのだろう。

 その山岳地帯で、今もゲリラとアメリカ兵との戦が続

いている。

 その火種はやがて、ペルシャを核武装させ、オスマン

トルコを軍事大国としてゆくのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 戦争の大義について

 アフガニスタンに巣食っているテロリストは、国家で

はあるまい。

 ならば、アメリカという国による「戦争の大義」は成

り立たない。

 戦争とは、国家間の独立問題だからである。

 

 アメリカを脅かした航空機テロは、戦争のような衝撃

を与えた。

 しかし、どの国がアメリカに戦争を仕掛けたというの

か。

 

 イラクではなかった。

 テロリズムは、私戦である。

 そこに、国家としての大義がないからである。

 

 テロの根っこはアフガンにあるのではないだろう。 

 しかし、テロには理由がある。

 恨み以外の要求に耳を貸すべきである。

 

 アメリカは、公平でなければならない。

 キリスト教の本質は、排他性にあるのではない。

 むしろ、愛にあるのである。

 

 ならば、まず、公平でなければなるまい。

 そして、教育支援を惜しまないことだ。

 正しい目的のためには、方法もまた正しくあるべきで

ある。

 

 一般市民をも巻き込むような自爆テロには、正しさが

見出しがたい。

 神を冒涜する暴力以外の何ものでもない。

 

 彼らがアメリカに敵対して、自分の国を誇りある国に

するためには、国民を教育し、国を豊かにするべきであ

る。

 それが、イスラムの正道ではないのか。

 

 イスラムの敬虔な信仰を不幸な血で汚してはなるまい。

 イスラムの人々は、質素であり、敬虔であり、純情で

ある。

 それを、テロの不幸で汚したくはないものだ。

 

 テロには戦争の大義、国家としての大義はない。

 もし、戦争というなら、アフガニスタンという国家に

対して宣戦布告して戦うべきであろう。

 そうでなければ、アメリカの戦争の大義もまた成り立

たないと思う。

 

 ただし、公務員労組政権である鳩ぽっぽ民主党政権の

『友愛』ほど、友愛という言葉を冒涜する標語はない。

 

 愛という中には、「国家の独立を護る戦争の大義」も

また含まれるものであることを忘れてはなるまい。

 人生の大義は、死に様にこそあるからである。

 

 

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 櫨ろうの灯・・・ ダメ旅館・日昇館  ホテルグループに見る倒産癖

2009年11月24日 19時40分58秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 晩秋の  櫨蠟hazerou 揺れぬ  亡き人と

   馬糞 Bafun

 

 

  

 縁側に、熟し柿を置いた。

 すると、ホオジロか・・・と思ったが、よく見ると、

ホオグロだった。

 頬に黒い点があるからホオグロだが、要するにすずめ

だった。

 そうか、雀はホオグロだったんだ・・・。

 

  父が息を引き取って一ヶ月、純粋櫨蠟のキャンドルに

を点して意気消沈の母を励ました。

 

 小さな蝋燭だが、1500円もする手作りの櫨蠟のキャン

ルである。

 父が傍にいれば、せめて炎なりとも揺らせはしまいか

というかすかな願いもあった。

 

 父の介護は、この三ヶ月は、空しさと不安の日々であ

ったはずが、それでも唯一の生きがいであったと気づい

たというのだ。

 

 今は何も手につかないという母の悲しみを、過ぎれば

執着になるよ、と慰めたが、ずっと二人で苦労を共にし

てきた父と母であった。

 

 来年は、ダイアモンド婚を家族で祝おうと楽しみにし

てきた二人でもあった。

 昭和五年生まれの母にとっても、人生最大の試練が訪

れている。

 

 がんばれ、昭和五年世代!

 

 渡部昇一先生も、竹村健一先生も、日下公人先生も、

上坂冬子先生も、岡崎久彦先生も昭和5年世代である。

 名門昭和5年世代の誇りを持って、快活な人生を締めく

くって欲しいと願う。

 役割なくしては、人は生きてゆけないものである。

 

 

 

 

 

  

長崎のダメ旅館、日昇館グループ『梅松閣』に思うこと

 長崎の旅館、ホテルに泊まるということはほとんどな

かったが、最近、利用する機会が度重なった。

 大半のホテルが経営に行き詰まって経営者が交替して

いるという。

 客が少なくなったのではなく、宿泊のニーズの変化に

対応しなかった結果である。

 

 不景気なこともあって、団体の利用が少なくなったの

だろう。

 あぶく銭で飲み食いしていた公務員の利用が減ったの

であろう。

 宴会のニーズが減ったのであろう。

 

 駅近くの便利な場所の新しいビジネスホテルは、一泊

5000円程度、サービスも簡易、食事も申し訳程度の朝食、

それでも、清潔だし、明るいし、コンビニエンスなホテ

ルとして、十分ににぎわっていた。

 

 ところが、次には満室で泊まれなかった。

 そんな時、かつての観光ホテル、日昇館ホテルが空い

ていた。

 

 

 

 

 

 

 ここは、かつては夜景が人気の観光ホテルだったが、

経営破綻して、なんとか営業を続けていたものの、従業

員の士気もなく、食事もサービスも手入れも最低だった。

 そこが買収されて、新装開店していたのである。

 

 一泊4000円、部屋は広く、夜景は最高、大満足であっ

た。

 この値段なら、気晴らしにちょくちょく利用できる。 

 ところが、それが次第に人気になっているのか、連休

には満室だという。

 でも、隣の旅館なら空いていますという。

 

 同じグループで、『日昇館ホテル』の上に建つ、旅館

「梅松閣」である。

 

 しかし、値段は、一泊食事つきで一人、1万7千円。

 安くない!

 卓袱料理か、会席料理が部屋食で取れるという。

 ものは試しということで、投宿した。

 

 食事がよければ、日昇館は復活するかもしれない、と

も思った。 

 広い和室と調度品、長崎港を一望する展望は、納得の

贅沢だった。

 

 ところが、肝腎要の会席料理というのがひどかった。

 えっ、これが一万七千円とる旅館の会席料理か、とあ

きれるほどに給食のようで、貧弱だった。

 これが、長崎の刺身か? 

 

 

 

 

  

 これで、満足感は台無しになった。

 フロントの社員らしい従業員も無礼で、サービス精神

に欠けている。

 

 結果、最低の旅館という評価になった。

 せいぜい、八千円が相場の旅館だろう。

 あとでネットで調べると、そういう値段で売り出して

いるではないか!

 

 やはり、倒産するホテル、旅館というのは、経営者が

代わってもだめなものはだめということらしい。

 サービスとは、気配りである。

 旅館は、一日であっても、癒しをもとめる生活空間で

ある。

 

 高級そうな部屋のしつらえであっても、ベランダは、

公団のようなコンクリートのままだし、廊下はタバコの

煙が充満して息苦しかった。

 カウンターの男の対応はもっと不愉快だった。

 

 結局は、観光旅館は人でなりたっているのだ。

 たいした料理が出せないなら、料金を下げて、高齢者

が平日の気晴らしに泊まれるような旅館に仕立てたほう

がよい。

 

 お茶の楽しみ、音楽の楽しみ、花の楽しみを企画して、

高齢者の楽しみの場を提供することもニーズである。

 あるいは、気心の知れた老人たちが集まる老人たちの

住居となってもよいだろう。

 

 人材なきホテル、旅館は、やめたほうがよい。

 どうも、長崎の観光産業には驕りがあるようだ。

 観光産業の命ともいうべき、サービス精神が欠けてい

る。

 

 経営破たんしている日本航空も同様だ。

 日本航空は、国費で援助するべきではない。

 従業員や労組がそのままで、体質改善などできるはず

がないではないか。

 

 もっとも、労組政権というべき鳩山政権では国費をど

ぶに捨てることになるのだろう。

 しかし、また、倒産するだろう。

 日本航空は、清算したほうがよいのだ。

 

 日本の政治もまた、同類なのかもしれない。

 サービス精神、思いやり、気配り、誠実、こうしたこ

とを忘れたところ

に、仕事のやりがいも成果もないと知るべきであろう。 

 

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi 

 

 

        

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 木枯らしを楽しむ・・・ プロスポーツの無様と有り様について

2009年11月20日 07時08分17秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 木枯らしに  吹かれてゆくも  面白く

    中村 梅士 Baishi

 

 

 

 

 11月20日(金)


 真冬になって一週間、室内気温は8度、ついにストーブ

に点火した。

 温暖化というのが、いかにありがたいことかと思う。

 

 しかし、北風も、厳しい冷え込みも、それぞれに楽し

めるものである。

 逆境というのは、「ああ、面白かった」という大満足

の始まりというべきである。

 

 ストーブの温かさが、楽観的にさせるのだろうか。

 しかし、厳しい冷え込みがあるからこそ、ストーブの

楽しみが生まれたのである。

 やはり、逆境は、いろんな満足の宝庫である。 

 

 

 

 

 

 

 プロスポーツのありようについて


 川崎フロンターレの無様、相撲界の不始末、バスケッ

トJBLとBJリーグの対立など、プロスポーツの迷走という

べき事態は、スポーツ教育にも迷惑な話である。

 

 プロスポーツには二つの観点から改革する必要がある。

 一つは、スポーツ倫理の責任である。

 プロスポーツのスポーツマンシップが問われている。

 

 プロスポーツとは、魅せるスポーツであり、観客のた

めのスポーツである。

 表現ビジネスであるから、人々に対して良い影響を与

えるべき表現責任がある。

 プロ野球の王、長嶋、イチロー選手を見習うべきであ

る。

 

 もう一つは、マネージメントの問題がある。

 世の中のニーズ、魅力がなければ企業として成り立た

ないのであるから、生み出す感動の品質と価格にはこだ

わらなければならない。

 

 最初からリーグありき、高給ありきでは成り立つはず

がない。

 

 感動スポーツ産業という自覚を持って、一チーム一ベ

ンチャー企業という自覚をもって、興行の工夫をするこ

とだ。

 

 一チーム一道場という考え方をすれば、教育産業とし

ても起業を目指すことができるはずである。

 そうであれば、なおさら、スポーツの教育品質、感動

品質を磨く必要があるであろう。

 

 感動スポーツ産業として考えるとき、スポーツ人特有

のネックについて自覚する必要がある。

 

 すなわち、プロスポーツ選手の魂の傾向として、天狗、

仙人といわれる、念力系の人種に特徴的な弱点があるの

である。

 すなわち、自慢したがる傾向から、思いやりに欠ける

という、サービス産業には致命的な弱点になりやすいと

いうことを常に自覚し、反省しなければならない。

 

 そのままに任せておけば、勝てばいい、負ければ自己

中心的に悔しいという、勝利至上主義に陥る傾向性があ

るのだ。

 

 だからこそ、プロスポーツには特に、フェアプレーや

紳士的な競技精神であるところの武士道精神ないしスポ

ーツマンシップの教育が欠かせない。

 

 ところが、教育現場においてさえ、マナー指導ができ

ていない。

 大会ともなれば、応援してくれている人たちへの敬意

と感謝が欠かせないのだから、周囲への礼儀や思いやり

指導は欠かせない。

 

 ガムをかみながら試合に臨んだり、表彰台に立つなど、

無礼である。

 ガムをかみながら接待したり、大事な交渉に臨んだり

はしないだろう。

 ガムをかむことの効用の問題ではない。

 

 「食」に関することは、場と作法をわきまえるべき欲

望の象徴というべきであろう。

 そうしたことも、教えなければ分からない。

 

 チューインガムスポーツに堕落している野球、バスケ

ットなどのプロスポーツには反省を促したい。

 

 スポーツ文化には、競争を楽しむ文化、健康を楽しむ

文化がある。

 現代社会に欠かせない教育的要素である。

 

 だからこそ、天狗仙人的な思いやりに欠ける弱点を克

服し、スポーツ本来の役割を果たそうという使命感が求

められる。

 

 スポーツ選手には、日本の繁栄と活力を象徴的に表現

し、鼓舞する役割もある。

 知性とマナーを磨いて欲しいと願う。

 そのための教育こそが、活路となるであろう。

 

 大いに反省していただきたいことである。

 

             

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi  

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 冬の蝶・・・ 面白そうな地政学  「百年予測・未来の覇権地図」・・・ 日本、ポーランド、トルコ

2009年11月19日 08時07分48秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

   

  すすき穂を  仮の宿りに  冬の蝶

    中村 梅士 Baishi 

 

 

  

 めっきり寒くなった。

 気温は室内でも10℃を切っている。

 ストーブを出すのも億劫なほどに手がかじかんでいる。

 

 二酸化炭素排出の効果も空しく、11月中旬から真冬

になった。

 それとも、凍りつくような「民主」政治のせいだろう

か。

 

 今年は裁判所下の蔦の紅葉を見逃すまいと思っている。

 紅葉の秋よりも早く冬になったので、もうすぐ蔦を赤

らめることであろう。

 

 たまに出かける筥崎宮庭園で、Canon EOSx3一眼レ

フの使いぞめをした。

 小型高性能、スタビライザー付のレンズも快適だった。

 望遠でも、滅多に画像がぶれないのがありがたい。

 キュンと鳴るシャッター音も気持ちがいい。

 

 薄も、街にはめずらしい庭園の花である。

 箒になった薄穂の中に、越冬の蝶が包まれるように、

秋雨をしのいでいた。

 まさか、蝶を見るとは思っていなかった。

 花も蝶も、いじらしく咲いていることである。  

 

 

 

 

 

  

面白そうな地政学

 「百年予測~ 未来覇権地図」(ジョージ・フリード

マン著)という本を読み始めた。

 

 2050年頃には、日本、ポーランド、トルコが、アメリ

カと覇権を争う枢軸国になって、戦争の危険が迫るとい

うのである。

 メキシコもアメリカに戦争を仕掛けるほどになってい

るという。

 

 突拍子もない予測である。

 日本はともかくとして、中国をさしおいて、ポーラン

ドとかトルコを予測するような評論は聞いたことがなか

った。

 その根拠となる方法が、地政学なのだそうである。

 

 人の情、リーダーの人格から政局が生み出されること

も否定はできないであろうが、それを運命付ける地政的

磁力が働いているというのだ。

 

 目先の情報に翻弄されないためにも、こうした考え方

も学んでおく必要がありそうである。  

 

 

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 小走りする下駄の歯音・・・  下駄の似合うファッションショー  中央集権体制の必要  ビジネス倫理としての国際政治

2009年11月17日 09時27分31秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 


 木枯らしの  下駄の歯音の  小走りに

    中村 梅士 Baishi 

 

 

 

 

 今時、 下駄を履いている女性などいない。

 京の舞妓さんくらいだろうか。

 しかし、木枯らしが吹くころ、カタカタと下駄の歯音が駆

けて行く音が聞こえてきそうである。

 

 許されるものなら、下駄履き、雪駄履きで通勤したいもの

である。

 もっと、日本らしい正装を推奨する政令を出しても良いの

ではないか。

 

 下駄の似合うファッションをテーマにファッションショー

を仕掛けてみたい。

 あるいは、新しいビジネスファッションをテーマに仕掛け

てみたいものだ。

 

 このところ、木枯らしよりも、イベント行事に追われた。

 やっと一服である。

 

 さて、次の仕掛けは、『スブンロコ TV』の開局である。

 テレビ局をつくる。

 しかし、マスコミではない。

 お便りコミュニケーションとでもいうべきか。

 

 そんなふうに、新しいことに取り組んでこそ、仕事が楽し

くなるというものである。

 

 

 

 

 

  

 

 

中央集権化の効用としての平和】 

 

 江戸時代、日本は鎖国のために貧乏はしたが、徳川幕府に

よる中央集権化によって、天下泰平の時代を謳歌した。

 しかし、軍事競争がなくなったことから、軍事小国となり、

海外の脅威にさらされて明治維新の戦争をしなければならな

くなった。

 

 20世紀は国際的な戦国時代であり、アメリカ合衆国が天下

をとることによって、世界大戦はおさまった。

 

 しかし、国際的中央集権化が確立されたわけではない。

 国連は、中央集権の仕組みではない。

 政治の中枢でもない。

 

 いわば、国際協調の象徴であろうとしているが、集権的権

力なくしては、象徴としても確立されない。

 一度は軍事的に天下を治めなければ、統一の象徴とはなら

ない。

 

 国際的中央集権が確立するまでには、まだ、数百年の歴史

作りが必要なのだろう。

 すなわち、国際政治の世界では、軍事競争の時代が終わっ

ていないということである。

 

 その時代に軍事放棄するというのは、平和主義ではなく、

亡国主義である。

 ヘルメスでさえも、地中海世界に秩序をもたらせるために、

剣を取って闘ったではないか。

 

 その地中海が、太平洋、大西洋、インド洋にまたがる全地

球的規模に拡大したのが、現代の戦国的国際社会である。

 

 その覇権をめぐって、中国が野心を抱き、あるいはフラン

スが今でも姑息な野心を抱いているであろう。

 

 平和を望むなら、アメリカを助け、アメリカを軸とした軍

事権力を確立する必要がある。

 日米に、インド、台湾、韓国、英国らが加わってゆけば、

世界大戦を避けることが可能となる。

 

 民間企業はいわば国際政治の血流であるから、下克上的な

野心を持つ国とは距離を置くべきなのだ。

 中国に投資する企業は、いわば、悪徳商人というべきであ

る。

 ビジネスの倫理とは、国際政治の道理をもわきまえなけれ

ばならない。

 

 このように考えてゆくと、国内の地方自治については、廃

止すべきである。

 普天間基地問題についても、地方自治の仕組みが禍し、日

本の危機を招きかねない状況にあるではないか。

 幸福実現党の構想にあるように、大統領制による中央集権

体制を整備するべきである。

 

 外交については、アメリカを軸とする軍事的中央集権化を

推進するべきである。

 いわば、アメリカに幕府を置き、これを日本が支えるとい

う構図である。

 

 しかし、その体制は、幕府の段階である。

 大名的国は、しっかりとした軍事力と忠誠を持たなければ

ならない。

 

 このように考えてくると、今の民主党政権は、日米ともに、

世界を戦国の世に引き戻そうとする反平和主義の政権という

べきであろう。

 

 結局は、経済人が行くべき方向を見定めて行動し、意見を

言わなければ、国を失うことになるであろう。

 このような国際政治の大局観は、人々が持つべき良識とい

うべきである。

 それが、民主主義でもある。

 

 戦争と平和とは、相反するものではない。

 平和をもたらす引力として、軍事があるということを忘れ

てはならないと思う。

 

 

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ もみじ葉の風・・・ 学校経営と教育  職業とは選択ではなく、出会いであると心得よ

2009年11月14日 07時29分00秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 


 もみじ葉の  散るや散らずや  父のこと


   中村 梅士 Baishi

 

 

 

 

 父が亡くなってから三週間が過ぎた。

 し残した親孝行が切ない。

 

 ここ二、三年、父方の小父小母が次々とこの世を去った。

 そして、父が去ってしまった。

 

 島原の乱に遡って考えたりもする。

 苦労を絆とした兄弟だったといえるかもしれない。

 逞しい世代であった。

 

 悲しみのリアルはなかなか去らないが、もみじ葉のよう

物思いつつも、散ってしまえば、次のリアルに取って代わら

れることであろう。 

 

 今日は屋外での大イベントの日である。

 昨日は秋雨やまず、天を仰いだが、何とか低気圧も寒冷前

線も過てくれた。

 

 天気の神さまに、感謝します!

 おかげさまで、忙しい一日になりそうである。

 さあ、ドラマチックに働こう!

 

 

 

 

 

学校経営と教育


 ある大学事務局の人と、教育と経営について話題となっ

た。

 一部の大学を除けば、入学者確保に苦慮している。

 入学試験どころではない。

 

 それにしても、小中高、まともに教育を受けていない子

が多い。

 学力がない、まじめに勉強する気がないといって、入学

を許可しなければ廃校に追い込まれるだろう。

 教育のために厳しくすると、退学者が激増したという学

校もあるという。

 そこで指導を緩めると、退学者が激減したのだという。

 

 かといって、昨今の厳しい雇用環境で、就職させられず

に苦慮している学校が大半だろう。

 経営のために甘やかして在学させたところで、就職でき

ないという二律背反の悩みである。

 

 しかし思う。

 学ばなければ苦労するのは子供たちである。

 やはり、工夫して教育してこその学校経営である。

 それで経営が成り立たなければ、ほかのサービス業に転

業したほうが良い。

 それが、職業倫理なのではないか。

 

 

 

 

 

 

仕事とは出会うものである


 学生たちの迷いは、職業選択にある。

 

 何をしたいのかが分からないが、その仕事はしたくない、

気が向かないというのである。

 結局、仕事をする気になれないから就職活動にも気が向

かないとうことになっている学生がたくさんいる。

 

 仕事を選ぶほどの知識や熟考もないくせに、仕事を選ぼ

うとするからおかしなことになる。

 職業選択の自由という言葉に惑わされているのである。

 

 自由であるためには、相当の努力、実力が要求される。

 それが十分でないのならば、選ぶべきではない。

 権力に制約を受けなければ自由に選択入手できるかとい

うと、そうではない。

 自由といっても、取らぬ狸の皮算用であることが多い。

 自分が望んだ職業が手に入るというわけにはゆかないの

である。

 

 職業とは選択というよりも、むしろ、出会うべきもので

ある。 

 憧れの仕事があったとしても、思っても見なかった仕事

に就いていることが多い。

 恋愛のことを考えても、出会ったという表現のほうが、

結婚の縁には適切であろう。

 

 仕事も同様である。

 

 仕事とは選ぶものではない。

 一期一会の出会いである。

 蒔かれた種のように、蒔かれた土地に根を下ろし、芽を

伸ばせばよい。

 縁なくしては出会わないものである。

 

 仕事にも、美人不美人、人気不人気というのがあるかもし

れないが、芸として磨けるものではないかと思う。

 いわば、エンタテーメントである。

 苦しいものではない。

 楽しむべきものである。

 

 舞台のように、その役柄を演じることと心得れば、夢中に

なれない事などないのではないか。

 すなわち、恐れることはないのである。 

 競争の中で記録を伸ばし、創意工夫して新しい作品に仕立

ててゆうと思えばよいのだ。

 

 単純労働であっても、どうすれば成果を伸ばせるか、どう

すればよ安全に働けるか、どうすればやる気を持続できる

か、どうすれば、この会社をより発展させられるか、そうい

ことを考えていれば、やりがいのない仕事など滅多にあるも

のではあるまい。

 

 だから、出会った仕事から始めればよいのだ。

 

 学生たちよ、良い出会いを望むならば、己の魅力を高めよ。

 より自由になりたいならば、より深く、より広く学ぶこと

である。

 それが、仕事を楽しむための秘訣である。

 

 

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 木枯らしに咲く・・・ 立冬越えの朝顔  佐藤守著『金正日は日本人だった』が投げかける日朝問題

2009年11月11日 07時57分17秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 木枯らしに  あさがお咲きぬ  花三つ

    中村 梅士 Baishi 

 

 

 

 

 11月11日水曜日。

 今朝は、木枯らし二番であった。

 外気温16度、強風、小雨という荒れた天候である。

 

 昨日はうっかり水遣りを忘れたが、幸い雨だった。

 今朝こそは、と水遣りをした。

 山茶花が今を盛りと咲き始めている。

 

 すると、紫色がゆれている。

 なんと、朝顔が三つも咲いていた。

 もはや、枯れるばかりであろうと思いつつ水をやっていた

が、見事、立冬越えの花を開いたのである。

 

 天晴れ、見事である!

 人間も、そう簡単にめげてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

佐藤守著『金正日は日本人だった』という驚き


 『金正日は日本人だった』という、軍事評論家・佐藤守氏

の衝撃的な本が出ている。

 すなわち、正日は、金日成の実子ではなく、日本軍の残留

工作員「金策」の子だというのである。

 

 実際、正日は日本食が大好きで、望郷の念とも思えること

を趣味としてやっているし、日本国内には、正日の神経とい

うべき人脈が張られてもいる。

 

 それがあって、北朝鮮ひいきの政治家が与野党に混在して

いるのかもしれない。

 軽率な感情論に陥ってはならないものを・・・。

 

 正日の実父、日本人工作員金策の意識から見れば、日本が

異質の国になったと思うだろう。

 北朝鮮こそが、自分のあるべき日本国と思って国づくりを

したとしても不思議ではない。

 

 北朝鮮といえば、チャイナの傀儡国家として日本やアメリ

カに敵対する異国だというのがこれまでの認識だった。

 しかし、正日が日本人の血を自覚しているとすれば、そこ

には複雑な愛憎の感情が働いて当然である。

 

 だからといって、北朝鮮に親しみがわくとか、金正日を日

本人のように思うということはないが、愛憎を考えれば、日

本を支配下におきたいというこだわりもわかるというもので

ある。

 

 朝鮮が単なる異国であるならば、理性的に政治バランスを

とればよいだけのことである。

 反日国家として制裁することもあってよい。

 

 ところが、朝鮮がかつて35年間日本になったということが、

政治論ではおさまらない愛憎というべき感情を生んでいると

思える。

 

 もともと、半島南部は、日本人の国があったというべき、

同族的な関係にあったといえる。

 そう考えると、感情的には、血族的な同族国家として、

日本同様に繁栄したい、日本を守るべき位置にあるなら、

日本を守りたいと思えるような保護者的な立場でありたい

という願望があるのではないか。

 

 日本から尊敬されたいのではないのか。

 ところが、なかなかプライドが立ちがたく、日本に強気

に振舞ってしまうのである。

 

 これまで、韓国を敵国と断じ、軽蔑し、植民地化すべき

ではないかとさえ考えてきた。

 

 しかし、韓国の立場を考えると、韓国には感謝をし、彼

らの幸福を日本の国内問題のごとくに思いやってしかるべ

きではないのかと思えてくるのである。

 

 朝鮮半島を、よい国にしたい、とさえ思えてくるのである。

 

 衝撃の一冊だったが、日本と朝鮮の血族的考察という視

点を投げかける重たい問題提起であった。

 大川隆法著 幸福の科学出版刊『金正日守護霊の霊言』

を理解する上でも参考になる一書である。  

 

 

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ ヒヨドリの声すなり・・・ 地方自治廃止論のメリット  軍隊の新しい仕事

2009年11月10日 09時32分19秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 奥山も  寒くなるらし  ヒヨの声 

    中村 梅士 Baishi 

 

 

 

 

 朝一番に、ヒヨドリの声が鳴き渡ると、秋だなあと思

う。

 奥山で聞く声である。

 

 町に下りてきたということは、山里もずいぶんと寒く

なるのだろう。

 ヒヨドリの声はキーなのか、それではちょっと品がな

い。

 ピョーがいいのか、ヒョーか、人の言葉の発音にはな

い声である。

 

 鳥というのは元気がいい。

  

 

 

  

 

地方自治廃止のメリット


 財政破綻に陥っているカリフォルニア州は、オランダ

一国に相当するGNP規模を持つ。

 アメリカの州知事は、国家元首の規模の責任があると

いうことである。

 

 これに対して、日本の地方自治は、たしかに廃藩置県

に見るように、小規模であり、地方公務員が支配する小

藩政治の性格がある。

 地方自治は、公務員エゴと地方利権エゴというべき実

態もある。

 県相互の連携もほとんどない。

 

 福岡県の物産展で、品不足のしいたけのとりまとめを

頼まれて、隣町の大分県の農家の助けを借りて集めたと

ころ、大分県産だから使えないと断られて面目をつぶし

たたとい話もあった。

 福岡県が大分県の物産を紹介応援して何が不都合なの

か。

 隣り合わせ、住民は相互に助け合っているのである。

 これでは、確かに日本という国家の統一的発展は阻害

されるだろう。

 福岡県も福岡市も廃止したほうが良い。

 

 地方自治を廃止するともっと大きなメリットがある。

 自治体エゴで阻害される国防体制がとりやすくなると

いうことだ。

 沖縄は、中国領に入れという誘いに尾を振っている。

 米軍基地排除に戦力を注ぐ、反日左翼政権が沖縄自治

をとりでとしているのである。

 

 沖縄は地理的条件から見て、やはり国防の要である。

 米軍基地が嫌なら、日本軍の強大な基地が必要となる

だろう。

 沖縄県も那覇市も廃止したほうが良い。

 

 同様に、対馬にもまた軍事都市を建設する必要がある。

 韓国に買収された土地も強制収用して、ミサイル基地、

攻撃ヘリの基地を建設する必要がある。

 「平和とは戦わないことである」などと寝ぼけたこと

を言っている長崎の空気では、軍事政策は阻害されざる

を得ない。

 長崎県も長崎市も廃止したほうが良い。

 

 

 

 

 

 

軍隊の新しい仕事

 軍隊は、国家としての実力である。

 実力がなければ、「平和」的に他国の領土に組み込ま

れる。

 軍の仕事は、国家間の軍事バランスをとりながら、他

国の侵略を阻止する国防に主たる任務がある。

 

 21世紀中は、国家間の緊張関係はなくならないだろう。

 有事の危険がない間、軍隊は無駄金を使うというわけ

でもない。

 

 無事の間は、宇宙開発、ロボット開発、海洋開発、地

下開発、新エネルギー開発などを国家プロジェクトとし

て進める役割がある。

 これを、軍の仕事と考えるべきである。

 先端産業は、軍事力の強化ともなるからである。

 

 産業開発最先端の仕事が軍事にあると考えれば、軍の

強化は、日本の繁栄と国際貢献を進めることになるであ

ろう。

 国家の独立を守ることが、国民の安全と生存の要であ

ることを誰が否定できるだろうか。

 

 国家の独立を護るために、いざとなれば戦争も辞さな

いのが独立の気概であり、使命である。

 国家を失い、他国に隷属する民族に安全と平和と誇り

があるなどとは、誰も考えないであろう。

 

 ところが、犬を食いたがる中国に、尻尾を振って擦り

寄っているのが、民主党である。

 日本嫌いといわれる習近平・国家副主席(政治局常務

委員)が来日する日も近そうであるが、民主党政権の間

に、首輪をつけて手なずけたいところであろう。

 東京は、スパイ活動がにぎやかなことであろう。

 

 ばかな日本という油断をさせるところに、民主党政権

の意味があるのかもしれない。

 その間に、劇的な軍事大国日本の構想を仕込むことで

ある。

 軍の仕事は、国防と、先端産業開発にある。

 そうした人材確保に動いて欲しい。

 

         

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 柿はがき・・・ スポーツの美学を汚染したJリーグ川崎の外道ぶり  サッカーの下品を反省せよ

2009年11月08日 15時02分06秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 柿の葉に  はがきしており  里のこと  

   中村 梅士 Baishi 

 

 

 

 

 庭の柿は、もう、葉っぱ一枚を残すのみとなった。

 先日の冬一番で散ってしまったらしい。

 

 しかし、ここ数日は穏やかな秋日和である。

 夜中の外気温も18度程度、耳を澄ますと、ちらほらと虫の

声が聞こえた。

 冬ごもりの扉を少し開いて、最後の秋を惜しんでいるのだ

ろう。

 

 さて、柿の色模様は複雑だ。

 文字にあらわあせない思い出が、模様をたどる。

 あれやこれやと、思い出される。

 

 なかなか吹っ切れないのは、まだ、時間が過ぎていないせ

だろう。

 さて、このはがき、やっぱり、風に吹かれて行くのが良か

ったかもしれない。

 

 この世にさしたる未練もないとおもうが、書店の歴史書、

哲学書、教養書の前に立つと、し残した学びの無限の大海に

心がはやる。

 読みつくしたいものだ。

 学びつくしたいという思いを残して、この世を去ることで

あろう。

 

 しかし、そればかりではあるまい。

 かくもふがいない日本となったのであれば、八百万の神々

と共に、最後の一戦を交える覚悟で白刃の剣を抜き放ちたい

ものである。

 武士道というべき姿を残してこの世を去りたいものである。

 さて、如何。

  

 

 

 

 

 

サッカーにスポーツマンシップはあるのか


 11月3日に行われたヤマザキナビスコカップ決勝戦に敗れた、

サッカーJリーグの川崎フロンターレの選手の無礼無作法が大

問題になっている。

 

 負けた悔しさからからか、表彰台にガムをかみながら上が

る、すぐにメダルをはずす、握手を拒否するなど、およそ、

スポーツマンとしてあるべからざる無礼無作法下品を観衆の

前に晒したからである。

 

 いまさらのことでもない。

 高校のサッカー部でも、最も下品でマナーが悪いというの

が通り相場であるらしい。

 それが、サッカー文化だと思っているのだろう。

 つまりは、サッカーそのものが下品なスポーツではないか

とさえ思う。

 

 野球もバスケットも、選手の下品な行動が日常的である。

 アメリカ文化なのか、大衆文化なのか、大衆スポーツは下

品である。

 そういうと、何を言うかというむきもあるだろうが、事実

であろう。

 

 もともと、スポーツは貴族の教育科目だった。

 日本の武道もそうであり、英国もそうだった。

 勝敗よりも、武士道ないし、騎士道精神が問われた。

 スポーツマンシップというのは、スポーツに内在するもの

ではない。

 スポーツを通して、競争のあり方、自己鍛錬、礼儀作法を

教育するための文化だった。

 

 ところが、大衆スポーツになってからは下品さが目立つよ

うになる。

 大リーグのプロ野球選手をみても、下品である。

 勝利至上主義、商業主義が、スポーツマンシップを軽視し

たのである。

 

 もう一度、スポーツ競技の神聖、スポーツマンシップの武

士道、騎士道、美学というものを教育しなおさなければなる

まい。

 川崎フロンターレの選手は、本来、スポーツマンの資格が

ないのだ。

 

 もしかしたら、サッカーそのもが、スポーツ文化というべ

き資格がないのではないかということを、問われるべき良い

機会ではないか。

 野球もまた、しかりである。

 

 ガムをかみながら試合をするな。

 紳士的な教養と振る舞いを選手の条件とせよ。

 スポーツの神聖を侮辱するな。

 

 プロならば、スポーツの神聖、美学、武士道精神というべ

き真剣を示すべきである。

 スポーツの堕落は、教育の大きな損失である。

 見せしめとして、厳罰に処することを望む。

 そして、スポーツ教育を根底から見直す機会としてほしい。

 

 

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi

 

 

 

 

 川崎、ナビスコ杯決勝後のマナー問題で謝罪
    http://www.sanspo.com/soccer/news/091104/sca0911042216012-n1.htm

 

 『Jリーグ1部(J1)の川崎は4日、ヤマザキナビスコ

カップ決勝後に所属選手が表彰直後にメダルを外すなど、行

為・態度が悪かった問題について、公式HPで謝罪した。

 

 川崎は、「首にかけて頂いた準優勝メダルを外す行為」、

「握手を拒む行為」、「壁に寄り掛かる、しゃがみ込む行為」、

「ガムを噛みながらの表彰式参加」と4点の行為が判明した

と発表。

 

 武田信平代表取締役社長は「弊クラブ所属選手の行動で皆

様に大変不快な思いをさせてしまい、ご迷惑をお掛けしまし

たことを深く反省し、心からお詫び申し上げます」と謝罪。

 

 「今回の首にかけて頂いた準優勝メダルを外す行為、握手

を拒む行為などについては、一人の社会人として、また、ス

ポーツマンとしても大いに恥ずべき行為であります。このこ

とをクラブとして重大に受け止めております」とコメントした。

 

  

 

 

 

 

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+ 石垣、白刃のごとし・・・ 立冬  地方自治再考(廃止論)  世界の宗教建造物建設を国際事業とせよ

2009年11月07日 08時34分25秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 黒田城  石垣の刃に  月を見む

    中村 梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 11月7日土曜、今日は立冬である。

 一頃の冷え込みで紅葉の秋のスイッチが入ったが、今朝は

穏やかな秋日和のようである。

 裁判所下の大木に絡まる蔦が鮮やかに紅葉するのも、もう

そろそろのことであろう。

 

 さて、今日はアクロス前中央公園で、福岡県の農林水産祭

りがあるらしい。

 来週の土日は、福岡市鮮魚市場会館前で、福岡市の農林水

産祭りがある。

 

 べつに、県や市に音頭をとってもらわなくても、民間でや

れることである。

 やるべきことでもある。

 地方公務員の音頭とりは、無駄な仕事に見える。

 

 

 

 

 

 

 

地方自治再考


 やはり、地方自治は廃止の方向で再検討すべきかもしれな

い。

 必要な行政サービスは国家公務員に一元化する。

 国会議員の調査研究施設や民間の会議研修の施設を設けれ

ば、地方議会以上の働きをするであろう。

 

 条例は必要ない。

 歩きタバコ禁止条例というのがあったが、それに費やされ

た公費は無駄に終わった。

 

 市役所前の通りでさえ、堂々と歩きタバコが闊歩し、ポイ

捨ての吸殻が点々としている。

 地方の自主立法など、理念としても必要あるまい。

 法体系は複雑にしてはならない。 

 

 自治というならば、自主自立の民間活力を引き出すほう

が、地方自治という公務員支配体制よりもはるかに民主的

である。

 九州を一国とするには、南北朝鮮に対抗できる以上の繁

をめざすべきであろう。

 

 今は、日本の独立を確立することが先決最優先である。

 中央集権体制を強化する政策を支持したい。

 

 

 

 

 

 

 

世界の宗教建造物建設を国際事業とせよ 


 福岡も城下町であるが、城はない。

 黒田藩の居城は、石垣だけが残っている。

 福岡城の再建運動をしている人たちがいるが、すくなくと

も、福岡のほこりとなるべき建物は欲しいものである。

 

 国の建物として、神殿が建てられないというのは、残念な

ことである。

 仏陀再誕の地でありながら、竹林精舎のような建物を寄進

するような繁栄を作りたいものである。

 

 あるいは、世界の主たる宗教寺院を建設するのも良いでは

ないか。

 キリスト教寺院、イスラム寺院、仏教精舎、ギリシャ神殿

を迎賓館として、あるいは国際的礼拝施設として、建設した

いものである。

 

 これこそは、国際都市宣言ともなろう。

 国際的な観光名所ともなろう。

 歴史的建造物ともなろう。

 

 日本を、国際的で豊かな国にしたいものである。

 オリンピック開催を東京と福岡が競ったように、九州の

概を示したいものである。 

 

 

 立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 

  

 

  

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+ 秋の悲しみ・・・ 選挙管理委員会の不正責任。 不信仰を恐れよ。 信仰におごるな。

2009年11月06日 08時04分15秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 


 父去りぬ  供tomoせし五月satuki を  秋に問い

   中村 梅士 Baishi 

 

 

 

 

  五月の連休は、父と行った最後の雲仙旅行だった。

 生命感にあふれた五月であった。

 また、お盆に行こうと、楽しみにしていた。

 

 倒れてからも、宿をキャンセルするするなと言っていたと

いう。

 その二ヵ月後に父は倒れ、10月21日に父は修法・エルカン

ターレヒーリングの中で息を引き取った。

 

 かつて在籍した会社の恩人が癌で倒れたときも、修法・エ

ルカンターレヒーリングを施したが、二週間後に息を引き取

った。

 霊体は、必ずや癒されたはずだと思う。

 所詮、人は必ず死ぬのである。

 

 今度は残された母を大切にしたいと思う。

 未亡人という言葉がつくづくと身にしみるといっていた。

 つっかえ棒をなくしたような空しさを感じていることだろ

う。

 

 父は霊として、今はまだ地上にあると分かっていても、悲

しくて仕方がない。

 人生とは、かくも尽くせぬものらしい。

 

 しかし、教会の葬儀は心にしみるものだった。

 簡素で、清らかで、優しかった。

 キリスト教の歴史である。

 

 

 

 

 

 

 

 幸福の科学に至高の宗教を発見し、再誕の仏陀に帰依し

ているが、幸福の科学会員を、それだけで仲間だとは思わ

ない。

 自他ともに、未熟な修行者である。

 

 三宝帰依というが、現成の仏陀の時代に、僧に帰依する

ことは難しい。

 すなわち、組織のヒエラルキーには親しみがたい。

 

 わが言論は、幸福の科学を代表してはいないし、組織を

弁してもいない。

 自分のエルカンターレ信仰を語っているだけである。

 

 

 

 

 

 

 

選挙管理委員会の違法選挙責任について


 かつて、八月の衆院選について、選挙管理委員会の横暴

を批判した。

 

 選挙管理委員会は、法律に従って事務手続きを進めただ

けだという反批判があるが、公正な選挙を害する行為を合

法的というほうが間違っている。

 そうしなければならない明文があるわけではない。

 是々非々は明らかに論じられてしかるべきであろう。

 

 法とは、正義であり、正義にしたがって解釈運用されなけ

ればならない。

 それができない法律であるならば、無効と判断すべきであ

る。

 選挙管理委員会は正当な選挙を実施する責任がある以上、

これに反する実施について、重大な責任があるといっている

のである。

 

 浅薄かつ悪意あるブロガーが、正当ぶった議論で幸福の科

学にナンクセをつけていた。

 単なる悪口雑言の類である。

 信者としての自分の意見とは同列には論じられない。

 

 これも、幸福の科学を代表して言っているのではない。

 法を深く学んだ者として、言っている。

 

 「王といえども神と法の下にあり」

 「法といえども、神の下にあり」

 しかして、神とは愛であり、正義である。

 

 新しい政党の進出を規制する法律が神の意思といえるわけ

がない。

 悪法は、法ではない。

 ましてや、民主主義の根幹に関わる選挙活動制限問題であ

る。

 選挙民の判断を制限する規制問題である。

 

 幸福実現党の政党活動は、まず、政教分離という偏見を排

除する努力にあるのではないか。

 信仰がいかに尊い人間の精神であるかを教える必要がある。

 

 世界を見よ、無神論を誇れる国は、共産圏と日本くらいな

ものである。

 それを、なんと考えるのか。

 グローバル社会といいながら、信仰なき者に、国際人の資

格はあるまい。

 

 

 

 

  

 

 宗教は排他的であり、だから戦争になるというが、確かに、

そうしたところがあることは否定できない。

 

 しかし、神を否定したら戦争はなくなるのか。

 そんなことはあるまい。

 現に、共産主義の国ほど戦争に明け暮れた国はない。

 そればかりか、恐怖政治で多くの同胞を粛清し、殺戮し続

けている。

 宗教を排他して侵略と殺戮を繰り返しているではないか。

 

 人間も同じだ。

 信仰心のないものほど、心無く、排他的である。

 すなわち、個性が排他性をはらんでいるのである。

 だからこそ、愛が必要なのだ。

 

 これからは、宗教間の相互理解を進めてゆかなければなら

ない。

 幸福の科学は、そのための大きな器なのである。

 仏陀再誕の時代に、それに気づかないのは愚かであり、あ

まりにも未熟な失態というべきであろう。

 

 まして、仏陀を誹謗中傷するとは、なんと罪深いことであ

ろうか。

 イエスを十字架につけた者は、命じられてそうしたした者

であっても、何と罪深く、汚名消えがたい魂であることか。

 

 人々よ、不信仰を恐れよ。

 信仰者よ、幸福の科学に驕ることなかれ。

 

 

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 

 

 

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