すぶんろこ!のジャパニーズドリーム

■『すぶんろこ』とは、コロンブスの逆転の発想

■日本国独立宣言!「日本国憲法」無効宣言、日本軍再構築宣言!

+ クロユリの冬・・・ 神秘という道徳、「偶然」という不道徳

2007年04月30日 07時02分07秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

  クロユリを 博多の冬に 連れてきて


     馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 

 

 クロユリは、石川県の白山を西限とする高山植物である。

 めったに見ることのできない神秘の花を、信州の店からネット

ショップで手に入れて一冬を過ごした。


 博多で花を開いたクロユリは一層神秘で、はかなく美しい。 

 

《神秘という道徳》

 道徳とは、神秘への畏れである。

 政治権力は、神秘の叡智によって正統となる。

 美の本質は、神秘にある。

 神秘は、偉大な宗教指導者の下に語られる。

 教育は、宗教教育によって聖業となる。

 

 神秘とは秘められたる神の創造世界である。

 秘められたる叡智である。


 人間が神秘への畏敬心を見失ったとき、堕落が始まる。

 女から神秘の精神が見失われたとき、醜悪に堕してゆく。


 そもそも、人の出現自体が、神秘である。

 この世の存在が神秘である。


 人間の努力は、神秘の発見にある。

 創造は、神の叡智の発見である。

 神の叡智を発見し、それをどのように使うかを神は人に許

し、その賞罰を神の法則に委ねたというべきか。

 

 その法則が霊実在界の天国と地獄に展開し、あるいは、

計り知れない大宇宙の生成発展として展開しているのかも

しれない。


 一切は、目的を持って存在し、原因結果の法則として展開

している。

 存在の在り様は、神の意志によって始まり、神と人間の関

係、「神人関係」として、展開している。

 即ち、存在の世界に『偶然』ということはありえないことであ

る。

 

 

 

《偶然と言う不道徳》

 人間の登場を偶然だと説明するのがNHKの方針である。

 「人間は偶然の産物であり、その本質は物質である」という

唯物論を「科学」と称して広めている。

 「人間は偶然の産物である」というのは、不道徳の極地で

ある。

 なぜなら、偶然に成立したというものに必然性はなく、目的

もなく、努力ということもありえないからである。 

 人間の生死も、目的なき偶然なのであり、それを否定する

根拠もないことになる。

 それこそは、科学ではなく、不道徳であろう。

 

 


《社会主義放送・NHK・粛清の必要》

 「唯物論的進化論」は悪魔の思想であり、これを広げよう

としているのがNHKである。

 この悪行をこのまま、許しておくわけには行くまい。 

 NHKの粛清改革が求められる。

 

 NHKを「公共放送」と言っているが、安易に公共、公益とい

う言葉を用いるべきではない。

 因みに、NHKの公共放送とは、視聴料を強要する社会主義

放送という意味である。

 決して、公益放送でもない。

  

 「偶然」という不道徳は裁かれるべきであり、恥じて慎むべ

きであろう。  

 

                             梅士 Baishi

 

 

 

 

 

http://www.pref.ishikawa.jp/hakusan/kuroyuri/index.htm

http://www.geocities.jp/mr_keik/hana060.html

                         

 

 

 

 

 

 

 

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+ 医療社会主義改革論・・・ 病院保険から健康管理保険へ

2007年04月26日 08時06分12秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

 

 

 

  鉢の枇杷  苦節十年の  実を結び


   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 十年一昔というが、世紀末が近づいていた頃、久しぶりに食べ

た枇杷がおいしくて捨てがたく、その種を植えた。


 それから、苦節十余年、ふと見ると5,6個の青い実をつけていた。

 そういえば、春先に花をつけて、メジロが遊んでいた。

 メジロたちの、名残の枇杷坊主である。


 枇杷は、庭木としては疎まれるらしい。

 葉が茂って、家が日陰になるからだろう。

 しかし、枇杷の葉は健康茶として利用されるほど、生命力のある

植物である。

 

 桃栗三年、柿八年、葉を茂らせて枇杷十年、めでたい枇杷の実

が成った。

 

 

《介護・医療制度の破綻から再建へ》

 健康、これは、21世紀発展のキーワードである。

 ところが、病院が病んでいる。

 介護制度が疲弊している。

 何とかせねばなるまい。

 

 介護保険制度を機会に、老人介護事業に人も企業も群がった。

 一体何のために?

 創意工夫をする自由競争の論理ではなく、決められたパイに群が

る社会主義の論理である。


 資金源となる税金は、必要のためではなく、欲望のために、枯渇

か増税かの選択を迫られる。

 医療保険も同じ道を辿っているのだ。

 

 一時はホームヘルパーという資格が大人気で、たくさんの養成講

座が売り出され、たくさんの受講者があった。

 しかし、介護福祉士というもう一段上の国家資格をとっても、重労

働にかかわらず、介護職では食べてゆけないほど安い給料である。

 人はどんどん辞めてゆくばかりで、求人には応募者が少ない。

 

 当たり前のことである。

 創意工夫で交換価値を高める仕組みではない。

 最初から分類された仕事には報酬が決められており、その質は報

酬には反映されない仕組みである。

 社会主義の論理には、創意工夫と発展の論理は成立しない。

 

 医療の分野は、医者の高給を増税型医療保険によって賄う仕組

みで膨らんできたが、飽和状態なので、これからは潰し合いが始ま

る。

 医療保険の不足を介護保険制度が補ってきたものの、限界が見

えた。

 次の増税は、消費税増税、介護保険の拡大増税という方向を準備

している。

 このまま、社会主義路線を辿らせるのか。


 税源を賄っている企業を批判し、増税には反対し、福祉には予算

を増やせという共産党や社民党の街頭活動の厚顔無恥にはあきれ

るばかりである。

 

 

 健康保険にも競争原理を入れるべきであろう。

 医療費を使わない人には保険料を下げ、使う人にはあげなければ

なるまい。

 一定金額を消費した人の医療費負担割合を上げなければなるまい。

 

 介護保険は、民間保険に委ねるべきであろう。

 介護サービスは企業に任せるべきである。

 病院は、病気と投薬に依存しないで、生涯スポーツ振興の事業を

ヒントに、健康管理サービスを開拓することである。

 免疫力を高める指導、長続きできる運動クラブ、管理栄養型食事

メニューの処方など。

 

 医療保険は、健康競争型「健康管理保険」に転換することだ。

 老人に必要なのは介護ベッドではない。

 スポーツを取り入れたコミュニティーである。

 観光ホテルに行き詰まっているなら、スポーツを楽しむためのスポー

ツ指導などのホテルサービスを工夫することだ。

 「スポーツと温泉」という組み合わせである。

 

 

 農業社会主義、医療社会主義、公務員社会主義を追放せよ。

 自立し、独立せよ。

 社会主義体質が、デフレ経済の元凶である。

                           

 

                  立憲女王国・神聖九州やまとの国

                   梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+  春眠の山・・・ よい敵、悪い敵  ポスト団塊世代の競争原理 

2007年04月22日 23時17分15秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 春眠の  山の寝息の  雲流れ

 

   馬糞 Bafun

 

 Bafun

 

 

 

 忙中閑あり。草木目覚めて花を咲かせ新緑を伸ばして

いる。

 生き物たちは巣作りに、えさ集めに多忙である。

 人もまた、新年度の仕度にあわただしい。

 

 そうした生き物たちが駆け回っている春山は、忙中閑あ

というように、のんびりと春眠を楽しんでいるように見える。

 そんな雲を見ていると、

 「う~ん、忙中閑ありであることよ・・・」と、春眠同通、うと

うととする。

 

  その春眠を揺り動かすように各地で地震が頻発している。

 まだ、世紀末に預言された天変地異は終わっていない。

 目覚めない自己中心の人間が多すぎるからであり、戦争

の世紀がまだ終焉しておらず、地球の喉元に核兵器を突き

つけているからである。

 人口爆発地帯はチャイナやインドばかりではない。

 地獄もまた急激に悪霊人口が増え続けているらしい。

 暗く寒く、臭く汚い地獄が、悪霊の臭い息で充満している

のかと思うと、ぞっとする。

 

 自殺者、邪淫の男女、詐欺強欲の徒、嘘つき、間違った

教育をしている教師、ごくつぶしの公務員、愚痴・不平不満

を撒き散らす根暗人間、暴力団、邪教教団・・・。


 日本人の半数以上がその類だというから、天変地異でク

リーニングする最終手段も残っていて不思議はない。

 

 

 

 

 

《「敵」とは何か》

 団塊の世代は、仮想敵がいなければ発展できない時代を

駆けてきたといえるかもしれない。

 政治に物申す世代として権力を敵に回した。

 貧困をみて育ったから資本主義を敵に回した。

 それが、誤った反政府左翼運動となって大暴れした。


 しかし、その熱もはしかのように治まって、夢から覚めた

ように就職し、アメリカの背中を追い詰めていった。

 その彼らが、今年から大定年時代を迎えるというのであ

る。


 その後に続く若者たちは、一体何のために競争し、努力

するのかと、自分の所在なさに迷っているように見える。


 敵とは一体何のか。

 敵の本質とは何か。

 競争に欠かせない善なのか、それとも、地獄の鬼か。

 

 発展に欠かせないのはライバルである。

 しかし、競争には、よい競争とわるい競争があるように、

「敵」にも善悪がある。

 

 善なる「敵」とは、発展の友というべきライバルである。

 お互いにルールを守り、切磋琢磨してゆける、尊敬できる

相手である。

 

 悪い「敵」とは、ルールも誠実さもない暴力闘争の輩であ

る。

 いわば、暴力団のようなものである。

 これは、発展する競争社会に対立する、悪質で陰険な「敵」

にほかならない。

 

 

 

 

 ライバルと、発展障害とは区別しなければならない。

 ライバルにたいしては、誠実に努力してゆけばよい。

 問題は、悪質な「敵」にどう立ち向かうかである。

 同時代に生きる人間の責任である。

 人間社会の負の清算である。

 だからこそ、司法権力が毅然として立ち上がらなければ

ならない。

 これは、公権力の役割である。

 悪に立ち向かうには、反社会的表象行動に対して予防

的に拘束隔離しなければならない。

 ばい菌に感染したら殺菌処置をとるというのでは手遅れだ。

 事前に抑制しなければならない。

 ルールを守るという信頼関係はないのだから、駆除のた

めの識別と倫理道徳および職業訓練等の手段を講じる必

要がある。

 だから、結果責任に終始する刑法理論は、見直されなけ

ればならない。

 個人主義、自由主義の理想論からマイナーな世界に追い

やられてしまった近派の教育刑論は、根底から再評価され

なければならない時代に来ているのではないか。


 刑罰の目的は行為責任としての応報刑だけでは不足である。

 ルール無視の世界に、人権尊重のルールが機能するはず

もない。

 どのルールを無視したかよりも、ルールを無視する価値観

そのものが再教育されなければならない。

 反社会性の程度はさまざまであろうが、スポーツマンシップ

を共有し、フェアプレーの信頼関係がもてなければ、競技は

成り立たないのと同じことである。

 

 

 

 

 

 国際政治でいえば、チャイナ・コリア・北朝鮮は悪質な障害、

まさに、「敵」である。

 発展の必然ではなく、発展の障害である。

 こうした国際障害政府に対して、ルール違反国家としての

レッテルを宣言し、制裁しなければならない。

 コリアは一見まともそうだが、バンコクには、コリアの偽ブラ

ンド専門店が観光ガイドを使って暗躍している。

 日本政府がチャイナ政府を国家として認定することは国際正

義に反する。

 独裁政治が行われ、北朝鮮を傀儡とし、周辺国家を侵略し、

まともな法体系をもたず、環境破壊、不法経済は国際的混乱

を招いて止まない権力機構だからである。

 他方で、台湾政府を国家として正式に認定しないことも正義

に反する。台湾が国家でなければ一体なんだというのか。

 チャイナにおもねて、台湾を裏切るような政治姿勢では、筋

が通らない。

 国際ルールを守らないことは悪であり、善悪は明示しなけ

れば、悪が正されることはない。

 悪と同じ土俵に立つべきではない。


 したがって、国際法上の国家の認定基準も見直されなけれ

ばならないであろう。

 正義は貫かれなければならない。


 ルールを守らず、約束を守らない国は、国家として認定すべ

きではない。

 国際平和の障害だからである。

 北朝鮮の核生産防止のための六ヶ国協議が成立する土俵

はないのである。

 正義は、アメリカを最高責任者とする、核兵器撤廃の宣言で

あり、最終的に、アメリカが最後の核を廃棄するというプログ

ラムであろう。

 そうでなければ、北朝鮮への核兵器放棄の要求は、所詮、

力の論理でしかない。

 これを主張するのが日本の役割であろう。

 政治の駆け引きは、正論が示された後の実施プロセスでは

あり得ても、正論なき駆け引きは、暴力団の体質とさして変わ

らないことになるであろう。

 政治は神聖である。

 襟を正して、叡智を持って行われるべきである。

 

                           梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ ジャスミン香る・・・ 経済の意義と若者の生きがいについて  

2007年04月22日 20時20分21秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 春雨に   ジャスミン香る   異郷かな

 
    馬糞 Bafun

 

 

 

 

 穀雨の季節、ジャスミンの花が満開に香り立っている。

 南国の故郷を思い出させるのが日本の春なのであろうか。

 東南アジアは、もうすぐ雨季に入る。

 

 

 

 

 

 

 

《若者の生きがい・・・ これからの競争とは》


 若者たちよ、生きがいが分からないとは言わせない。

 新しい競争が始まっているのである。

 これまでの競争は、自分や自分の国の生産力を高め、販

売力を高めるための競争であった。

 経済の第一段階は、貧困の克服にその意義があるから

である。

 しかし、そうして世界第二位の経済大国とはなっても、

幸福感が満たされるわけではなく、生きがいを見つけること

が難しい段階に入ったともいえる。

 貧しさという顕著な課題が見当たらなくなったからである。

 

 経済発展の第二段階は、友好国を豊かにする競争である。

 よりよいものを提供して、繁栄を外部に拡大する競争であ

る。
 
 指導力の競争といってもよい。

 欧米との指導力競争の時代に入ったということである。


 だから、個人もまた、国際的な貢献を視野に入れてビジ

ネスを構想しなければならない。


 まず、農産物を含めて、貿易の自由化を進めるべきであ

る。

 その上で食物自給率を確保する競争力を持たなければ

ならない。

 大事な産業であればこそ、競争で鍛えなければならない。

  だから、米といえども、関税障壁を設けるべきではない

のである。


 世界に冠たる農産物を作ればよいのだ。

 若者たちの仕事である。

 

 また、日本のよき伝統文化を海外に提供することも必要

であろう。

 日本の和の精神を指導することも大切であろう。

 多くの神々を尊敬するよき生徒としての精神文化も世界

に理解してもらうべきよき伝統である。

 

 もっとも、邪教はいけない。

 「世界の非常識」といわれる宗教音痴ではいけない。

 

 因みに邪教といえば、最近驚いたことがあった。

 福岡ドームそばにある日航グループが運営するホテルは、

福岡を代表するよいホテルだと思っていたが、悪名高いコ

リア宗家のT教会グループに、それと知って活動拠点を提

供しているのだ。


 なんとも品のないあつかましい一団が闊歩しているのに

むかついたことだった。


 若者狩りであろうか。

 拉致は、北朝鮮ばかりではない。

 そこに手を貸すとは、愚かなことだ。

 モラルを失うほどに貧すれば鈍するという経営状態なの

であろう。


 モラルなき企業は敗退する。


 若者よ、潔くあれ。

 生きがいとは、潔さの中に見出されるものである。

 貧しても、鈍してはならない。

 それが、武士道の伝統でもある。

 高度の技術を培った百姓の心意気である。

 

 な、忘れそ。

                         

                                                 梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 雛節句・・・ ジェンダーフリーは、悪魔の思想

2007年04月20日 08時23分23秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

 

 

 平安の   春風そよぎ   雛節句  

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 今年は、4月19日が桃の節句ひな祭りであった。

 女らしく美しい心で育って欲しいという願いを、桃の花に託

して祝福する親心の祭りである。

 

 

 

 

 

 

 

《悪魔の思想・ジェンダーフリー論》

 もっとも、「男女なき平等」のジェンダーフリーとかいうフ

リーセックス論では、「女らしさ」など許されない差別用語

であり、雛節句などあってはならないことである。


 神が創り給うた男と女という差別は仕方がないと忘れる

ことにして、セックスは自由平等に楽しもうという悪魔の思

想でもある。

 日教組の信条でもあるらしい。


 その信条の下、小学校の公教育で公費を使って堂々と

セックス指導が行われているという調査資料を見てびっくり

たまげてしまった。

 実施した教師名も分かっているようだ。

 子供をそんな公立学校に預けては大変なことになる。

 だから、ジェンダーフリー教育をしている学校は正義の

校なのだろうから、その名を、その教師名を、明らかにして

公表するべきである。

 そうでなければ、親権者の学校選択の自由が奪われてし

まう。


 良識ある企業家よ、「ジェンダーフリー教育は悪魔の教育

である」と反旗を翻す私立学校を多数設立しようではないか。

 そうでなければ、子供たちが可哀想である。


 フォービズムの女は男を堕落し、国を滅ぼすものである。

 女は貞節でなければならない。

 それが、美というものである。


 

                           梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 統治力の本質について・・・ 一蓮托生の本義

2007年04月17日 08時09分49秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 紫に すみれ群れ咲き 笑みて咲き

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 百花繚乱、春の楽しみは仲良く機嫌よく咲き競う花々の
笑顔にある。
 民族というのもそのようでありたいものだ。
 政治派閥もそのようでありたいものだ。
 人間関係もそのようでありたいものだ。

 なぜ、人間は民族が争い、党派や派閥が争うのか。
 それは、よい意味では、人間の向上心である。
 よりよいものを求める性質を持っているからである。
 悪い意味では、自己中心に陥りやすいからである。
 自己中心は排他的である。敵対的である。

 他人を理解することは難しい。なぜだろうか。
 他人を理解するための、多彩多様な人物尊敬パターンが
乏しいからであろう。そのような教養が足りず、認識力が劣っ
ているからであろう。

 他人を尊敬し、称える文化は、発展の基礎である。
 人間関係の調和に欠かせない和の文化である。

 この文化を培うには、やはり幅広い教養を養う教育が欠か
せない。多様な思想、民族の歴史、季節や気象環境、食物
文化、宗教、生活レベルと教育レベル・・・。


 ああ、だから円満で発展的な世の中にするには、何よりも
教育なのだ。
 紛争国に有効な支援型投資も、多様性の教育である。

 教育の目的は、認識力を高めることにある。
 多様多彩でありながら同じ地球人類として、優れた文明を
作ろうとしている仲間である、一体の生命体である、という
認識力を養うことである。


 一蓮托生という言葉があるが、自己保存的な托生であっ
てはならない。
 仏神の心をわが心として、命を託するということである。
 人は、仏神の下に心を一つにすることができるものである。

 だから、理想を語ることは大切である。
 その理想は、仏神の心を受けて語られるものである。
 それゆえにこそ、政治家は心清くあらねばならない。
 経営者は心清くあらねばならない。

 マネージメントとは、理想の共有に心砕くことである。
教育こそが組織の成長力であり、統治の基礎である。

 仏神の心に通じる理想とは何か。
 これを語ることが肝要である。

 それなくしては、教育は成り立たない。
 発展的組織は育たない。

 

 信仰心を涵養することが、教育の基礎であるのだ。
 人は仏神の下に心を一つにすることができるからである。
 命を託することができるからである。
 人生これ修行と心得て試練を超えて行けるからである。
 故にこそ、教育は国家百年の大計なのではないか。

                           Bafun 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 花くぐり・・・ 神聖やまとの倫理道徳   潔きこと 

2007年04月16日 07時44分58秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

  花くぐり   春をくぐりて   新しき

    馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

  春は、心機一転に至る揺らぎの季節であるかもしれない。

 しかし、春風にはかなく舞い散る花のトンネルをくぐると、もは

や、不動の心が定まっていなければならない。

 それが、決然とした花の魅力でもある。

 

 さあ、花は散った。

 もはや決然として進むのみである。

 不動心とは、損得ではない。

 覚悟である。

 もはや不動の時を刻み始めたのである。

 未だ迷いの中にある者よ、不動心を確立せよ。潔くあれ。

 戻るべき扉はすでに閉じられたのである。

 新しい時が、決然とした一歩を求めている。

 

 迷いを克服する『不動心』とは何か

 揺らがない心、動じない心である。

 ちょっとしたことで心がざわつく、揺らぐ、不機嫌になるというこ

とがある。

 器が小さいといわれる。なるほど、茶碗の水はちょっとしたこと

で大いに揺らぐものだ。これではいけない。

 衛星から見る大海原は、嵐のところがあっても、いつも平静に

見える。

 そのようでありたいものだ。

 

 揺らがない心はどのようにしてできるのか。

 無知の知、これである。

 大いに学ぶことだ。

 認識力の基礎を大容量にすることだ。

 専門馬鹿ではいけない。


 学ぶことにおいて好き嫌いはいけない。

 食事と同じである。

 もう一つは、潔いことである。

 自己保身にとらわれず、人生修行と心得て、神の御心のまま

に己の使命を求め、果たしてゆくのみと心得ることである。

 公に生きるという潔さ、これが、不安と恐怖を克服する。

 これが、信仰の力でもある。


 

  仕事を腐らせる不平不満の自己責任

 潔くあれ!

 心清く、

 明るくあれ!

 私心を離れ、公に生きると決めることである。



 仕事を腐らせるもの、 それは、「不平不満」である。

 他人の心まで曇らせる「愚痴」である。

 「功名心」であり、評価を求める「奪う愛」である。 

 それが、如何に職場を不幸にしていることか!


 職場とは幸福を生産する拠点である。

 幸福とは、人々に尽くすことができるということである。
 
 光は高く掲げられるものだ。

 自分が感謝されないからといって、理解してもらえないからと

いって、中心に使ってもらえないからといって、不平不満を抱き、

愚痴るのであれば、何もかも、台無しである。

 光り続けること、それが、光の喜びである。

 

 「天知る、地知る、子知る、我も知る」。

 これは、悪事について語られたことであるが、人間の誠実な努

力についても同じである。

 潔くあることが、逆境という名のチャンスをつかみ、心の曇りを

晴らし、些細なことで心揺らがない不動心の核を作るのである。

 

 人生は、これ、修行である。

 そう思えるものは、幸いである。

                           Bafun 

 

 

                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+  仕事の遣り甲斐、働き甲斐について・・・ 新しい企業ランキング

2007年04月14日 19時06分37秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

  春に散る   命定めて   春に咲き


    
 馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 「人は石垣、人は城」と教えられつつも、目先の利益を追
うのが経営の「常識」であろう。人件費削減というコスト意識」
を命令してきた経営者の本音である。

 ところが、ニート、フリーター問題に端を発して、「働き甲斐」
がテーマの競争が始まった。

 企業のランキングも、企業内のやる気を問うランキングが
定着してくると、おそらくは、企業の成長性をはかる指標とし
て、競争のメインテーマになる可能性が高い。

 顧客満足は、社員満足から生まれるということである。

 社員満足とは、仕事の遣り甲斐と、経営者の愛社員精神を
含む人徳を本質的要素とするであろう。


 人件費削減というコスト競争を演じてきた企業が生み出し
たものこそが、消費の低迷、ワーキングプア、ニート・フリー
ターという社会悪であった。
 その反動として、人が育たず、企業の信用も劣化している。

 聖書に、「新しいぶどう酒は、新しい皮袋にいれるべきであ
る」という一節があった。
 まさに、企業もまた、人徳なき企業こそは古い皮袋であり、
新しい時代の繁栄を入れるべき器ではないということである。
 そのことが、株価に反映し、倒産にも現象してくるであろう。
 IR情報としても、人的要素が重視され、投資モラルとしても
拝金主義が戒められることになるであろう。

 
 経営者は、その見識と、未来ビジョンと、人徳が問われる
時代に入ったということである。それが、天意であろうと思う。

 

 仏神を畏れよ、拝金主義を悔い改めよ。なぜなら、繁栄の
神が、自己中心を嫌い、拝金主義を嫌うからである。それが、
信用の水脈であり、本質だからである。 

 政治家を筆頭とする公務員もまた、しかりである。


 ちなみに、企業の体質を審査する資料として会計帳簿があ
るが、法人の人徳を反映する制度にはなっていない。信用
の基礎が金だという思想である。
 あらためられるべきであろう。
 これからの経済学、会計学の研究課題でもある。
 これもまた、新しい人材を入れる新しい大学に期待される
ことである。大学もまた、「徳」によって、評価されなければな
らない。

                           Bafun 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 若葉の季節・・・ 国旗を拒否する公務員教員、生徒の怪  公式の式典の意味

2007年04月14日 10時37分45秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

    花散って   元の桜の   若葉かな


         馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 

   早いもので、花も若葉の季節になった。

 別れも出会いも、砂時計のように散ってゆく桜とともに、心機一転

の若葉のごとく、一歩前に進み始めている。

 その一歩が、過去となった昨日からは、最も遠い所に踏み込む一

歩であることよと思う。

 けじめというのは大事である。

 

 そうしたけじめの式典が卒業式であったり、入学式であったりする。

 花の季節に似合う式典である。

 小学校にもランドセルがGPSを組み込みつつもピカピカと光っている。

 

 公式というのは、仏神の前であり、国家の前で心清めてけじめを挙

行することである。

 そこには、日の丸の国旗が掲げられ、国家を斉唱する。

 結婚式でさえも公式の式典であるから、国旗を掲揚するべきであろう。

 

 ところが、国旗掲揚もしないで式典を行う学校があったと聞いたこと

がある。

 また、ある学校の開校式を兼ねた入学式で、在日韓国人の
代表が、

国旗への礼法を拒否して関係者を戸惑わせたということがあったそう

である。

 

 なんという無礼、何という傲慢、あきれたことであった。

 しかも、広島という、原爆に続く、教育崩壊の中心地では、会場に

国旗を掲げることは公式では慎まれることであるらしいのだ。

 これにもまた、あきれ、驚いてしまうことであった。


 『公式』の式典の意味を見失ってはならない。

 公式とは、仏神への誓いであり、仏神の前で明らかにすることであ

るのだ。


 日本を無神論国家にしてはならない。

 

                       馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+  花の命・・・ 死に甲斐の論理、転生輪廻

2007年04月08日 17時45分32秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

  その花も   花の命の   ままに散り

              馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 桜花は、維新の志士のごとく、若々しく咲いたままに散ってゆく。

 老いてゆくのも悲しいが、若い面影のままに別れて行くのも悲しい

ものだ。

 

 しかし、花は散れども、季節は巡る。

 諸行無常の人生観は、一期一会の花鳥風月を愛でつつも、死に甲

斐を求める修行の旅である。

 その旅は、三途の川を越えても続く。

 

 死ぬということは、一幕のこの世の人生ドラマを終えるということで

あるが、そのドラマを素材にして、あの世での課題研究が始まる。

 そしてまた、未来に転生する。

 

 諸行無常とは、永遠の時を駆けてゆく学びであり、一万年一昔という

大きな文明への取り組みでもある。

 散る一花に思いを寄せつつも、一万年一節のロマンにも生きている

ということである。

 人生はまさに、気宇壮大である。

 

 倫理道徳教育が仕込まれつつあるが、ちんまく生きることではない。

 人の輪も、人の道も、無限の宇宙に通じるロマン街道でもあるのだ。

 


 だからこそ、自己中心であってはならない、他人のために己を発展さ

せよと教えられるのである。

 愛と慈悲、智慧と勇気が、やりがいを生み、生きがいを生み出す。


 

 やる気が出ない、生きがいがないというのは、自己中心の思いを捨

てていないからである。

 それこそが、不幸の鎖なのだ。



 死に甲斐とは、自己中心の思いを捨てることに他ならない。

 他人のために、時代のために、命を惜しまないという生き方に他な

らない。

 


 花もまた、散ってこそ美しく、また、新たな春に花を咲かせるのだ。

 転生輪廻とは、巡る季節の花のようでもある。

 転生輪廻は、この世限りの唯物論的人生観からは生まれない。

 この世限りの人生であるならば、この世限りに楽しく自己中心に生き

ることを間違っているとはいえないであろう。

 

 老後を悠々自適に海外ですごすことが流行っている。

 しかし、悠々自適に過ごすなら、あの世で十分である。

 この世は、死ぬまで学び、死ぬまで修行に努める場所だからである。

 

 心安らかであることは、老後には大切であるが、修行者であることを

悟るならば、如何なるときも心安らかである。

 それが修行の課題でもあるからだ。

 


 倫理道徳とは、このような人生観を教えることである。

 転生輪廻の理をしらずして、倫理道徳の根拠を語ること能わず、と知

るべきである。

 しからざれば、死は恐怖であり、死はあまりにも空しい。

 


 いずれ死ぬる人生に、生きる意味を見出すことは難しい。

 自分がよければよいという人生観に分があるということにもなろう。

 

 しかしながら、そもそも、因果の法則に終末があれば、論理として成

り立たない。

 原因結果の法則があるということは、「存在」は変化してやまない、

永遠の存在であることを示唆しているのである。

 

 その永遠を語るとき、そこに仏神の存在を悟らざるを得なくなる。

 それが、論理のむこうにある洞察というものであろう。

 

 アインシュタインが、特殊相対性理論の果てに、神を悟ったように・・・。

 プラトンが説いた「無知の知」もまた、ああ、なんと、無限であること

よ・・・。

                          

                   立憲女王国・神聖九州やまとの国

                    梅士 Baishi

 

 

 

 

 

  花ごとに   巡る輪廻の   彼岸かな

    
     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  咲き誇る   花は輪廻の   花吹雪 

   吹き渡りたる  彼岸にも咲き                           


     
 白川 馬草 Magusa

 

 

 

 

 

 長い時を駆ける者にとって、この世はあまりにも短すぎる。

 転生輪廻なくして、どうして走り続けられようか。

 どうして、死を受け入れられようか。

 転生輪廻は仏神の慈悲であり、存在の理由である。

 

  梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 根を背伸びして花開く・・・ 日本よ、独立国家たれ! 九州建国構想と立憲の課題

2007年04月08日 11時52分45秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

  春深く 根を背伸びして 花開き


     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

  蜜をたたえて花が咲き、虫たちも羽を伸ばし始めた。

 鳥たちもフィールドに出て、軒先にはあまり遊びにも来なくなった。

 いよいよ、それぞれの道に進み始める春である。

 また、新しいドラマが始まる。

 太陽のエネルギーも増してゆく。

 人生の試練を最後まで楽しもう。

 


 今日は、県知事、県議会議員、市議会議員の選挙であった。

 ぱっとしない顔ぶれに楽しみもないが、若い新人には少し期待して

みようかなとも思う。

 それが、4月の楽しみでもある。

 

 

 

 

《九州建国構想》

 日本国は、独立国家ではない。

 独立の意思も、危機感もないならば、この国を救うのは九州やまと

の国をおいてほかにあるまい。

 独立国家とはいかなるものか、示さんとする気概、これが、九州建

国の志である。

 

 政治改革は、九州国建国と象徴君主制と議院内閣制という柱で行

くべきかと考えている。

 君主は、皇族から迎える。

 

 行政府の知事制度は廃止して、議院内閣制で中央政府との統一

を図る。

 国家の裁判所は、最高裁判所に限定し、下級裁判所は九州国司

法裁判所に設置する。


 法曹資格は、弁護士も裁判官も司法試験合格と、民間でのキャリア

3年以上を考慮して任命する。

 

 学校運営は、公設民営化し、教員身分は公務員としない。

 また、義務教育の教員資格は、採用試験で審査し、特別の教職課

程は必要としない。


 採用年齢は25歳以上とし、3年以上の継続的職歴ないし、2年以上

の自衛隊歴を条件とする。


 政教分離を見直し、宗教教育による道徳教育の再生を図る。

 ただし、宗教とは特定宗派・教義を意味しない。

 いわば、倫理道徳の基礎となる宗教入門というべきものである。

 

 警察は、司法試験に準じる司法警察試験合格と体育試験合格を

要件とし、2年以上の自衛隊入隊後に警察官任命を受ける。


 その他の取り締まり業務においては、民間警察委託制度を設ける。

 

 個人課税は、収入の10%とし、納税額と住居費を控除した年収の

総額が250万円を下回らない範囲とする。

 法人課税は売り上げ金額から人件費を差し引いた収入の10%と

する。


 州政府は、独自のサービス業務で収入を計って人件費にこれを宛

てる。

 税制は単純化しなければならない。


 予算単年制は廃止し、財源の貯蓄を進めるべきである。

 州政府は、税収の25%を中央政府に納付する。

 


 日本国の独立再建が、阿部内閣に課された使命である。

 教育改革と税制の簡素化、財政のスリム化は急務である。

 巨大化した日本国の多元化と独立国家としての一元化が、立憲

の課題である。

 

                           馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 望月の花・・・ 権力は正義を守るべし⇒ 裁き心が悪への入門となる

2007年04月07日 21時04分09秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

       望月の   花の小雪を   酒に映し 

    馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 数年ぶりに、海の中道公園の桜を楽しんだ。

 おそらくは福岡で一番の花であろう。

 小雨の花見だったが、それも風情がある。

 西行の望月の頃の花である。



 清明の頃、桜といわず、さまざまな花が咲き乱れる。

 毎年迎える春ではあるが、なんと味わい深いことか。

 それは明らかに「善」なる世界である。

 善とは、明るく、清清しく、味わい深い。

 

 




《裁き心・・・悪への落とし穴》 

 この世にもあの世にも、善と悪がある。

 しかし、あの世の悪は、地獄に封鎖されている。

 魂もエネルギーなくしては生きられないから、地獄は、北朝鮮のよ

うに疲弊して飢えと恐怖と病に犯され、吸血鬼のようにこの世の人間

にとり付いて吸血するほかはない。

 

 この世の悪も暗躍するほかはないのだが、善なる世界に混在して

いるから厄介だ。

 悪とは、失望、恐怖、嫉妬、恨み、自我我欲・・・、すなわち自己中

心という思い違いからくる排他的な人生観、人間観である。

 それが、他人を害することを正当化しているのである。

 ある意味で、裁き心というべきではないだろうか。

 

 正しく生きているつもりでいても、この、裁き心こそは落とし穴である。

 裁きの基準が、「被害者である自分」を中心とする自己中心に他な

らないからである。

 イエスキリストが、「汝、裁くことなかれ」と教えたのは、裁き心が悪

を正当化する落とし穴になるからだと気付く。

 己の裁き心こそは、獅子身中の虫、己心の魔であるということなの

である。

 

 人々を悪から守るためには、悪を制裁する公権力が悪を見逃さな

いように充実していることが肝腎である。

 制裁とは、摘発し、隔離することである。

 再教育は、仕事能力と道徳を施すことだ。

 再犯には、死刑を含めて厳罰に処すべきであろう。

 

 

 

《企業の教育責任》

 この世の教育機関としては、企業の教育責任を忘れてはならない。

 雇用は、生活を成り立たせ、社会生活のルールを叩き込み、犯罪

の制裁を克服して復帰してきた者にチャンスを与える責任がある。

 

 このような雇用を成り立たせるためには、価格競争に依存するよ

うな企業には無理である。

 無理だということは、価格競争は正当な競争のルールを逸脱して

いるということを示唆するであろう。

 そこにも、企業倫理がある。

 

 


 

《消費者倫理》

 消費者も、価格競争を求めてはならない。安ければよいという安易

な貪りが、ワーキングプアを生み出してもいる。

 安いということを、正当な競争力とする経済学は、競争のあるべき

ルールを無視した拝金主義経済学というべきであろう。

 

 企業は、先行投資として、貧困ならざる報酬を投資せよ。

 それが、リーダーとしての責任でもあるはずである。

 経済活動の意義は、貧困の追放にあることを忘れてはならない。



 消費者は、投資価値としての質の高さを善なる消費であると知る

べし。

 低価格主義の消費は、一種の拝金主義である。

 倹約すべきは浪費であって、投資ではない。

 
 学校の教育責任と家庭の教育責任が対であるように、企業倫理

と消費者倫理もまた、対の関係である。


 投資とは、人々の役に立つ消費に他ならない。自分を生かし、他

人を生かす道である。

 

 新しい経済の倫理を確立しなければならない。

 

                           梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 


  
望月の  諸行無常の  花の下


    ひとひら舞いぬ   薄紅の花


      白川 馬草 Magusa  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 風に舞う 六十年の 桜かな  

2007年04月01日 09時28分32秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 それぞれに  六十年の  桜かな

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 満開の桜の空は、花曇りだった。花の命をわが命として
散っていった青年のその後に育った桜もまた、満開の桜花を、
花曇りの空に散らしている。

 散った空の下、その日本人の心は潔く、清清しくしているだ
ろうか。
 彼らの死に甲斐を無にしてはいないだろうか。
 彼らが日本から神々を追い出したとでも言うのか。

 「民主主義とは神を畏れず、神を政治世界から追放した、
政治システムのスタンダードである」と定義されるであろう。
 現代政治の金科玉条は、政教分離である。
 分離とは、仏神を公共の場から追放するということである。

 神を畏れず、神を政治や教育の場から追放することがなぜ
正義であるのか。

 仏神は正義の根拠である。
 正義なき政治は悪政である。
 仏神を敬わない社会は地獄である。
 信仰なき人間は不遜である。

 仏神の心をわが心として咲く桜よ・・・。
 だからこそ、彼らも桜花のごとくに散っていったであろうに。

 つくづくと、人間は謙虚でなければならないと思う。

 

                           馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

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+ 人間中心主義の反省

2007年04月01日 00時21分39秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

  春雷の   幕を開きて   弥生去り

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

  春雷なり始めるという暦通り、風雲急を告げて花は舞い、
鼓を打つがごとくに春雷を連打して三月が終わった。
 明日からは新年度を始める四月である。
 また、新しい一年の挑戦が始まる。

 守るために戦い、攻めるために戦うということは、その一戦
に集中して覚悟も決まるものである。
 しかし、敵を必要とするから、人類の事業とは成り難い。

 敵を想定しない戦いとは何か。

 もはや、他人ではない。己の未熟との戦いであり、時間と
の戦いにならざるを得ない。
 それは人間完成への道であり、文明創造への貢献という
べき大事業であろう。

 そこに立ちはだかるのは、敵ではなく試練である。
 試練に対しては、敵対心は通用しない。
 試練に向けられるべきは、志と知恵と努力である。
 その志こそは「愛」であると、キリストは教え、墨子は語っ
たのではなかったか。
 その点、仏教は、戦いを越えたところから始まっていたとい
える。

 

 

人間中心主義の都市

 さて、美しいやまとの春の情景を邪魔するのが、電線と
コンクリート作りの集合住宅である。
 都市の美観を愛する志がなければ、特に問題とはならな
いであろう。

 しかし、大和の四季が美しいように、大和の都市もまた美
しくありたいものだ。
 江戸の町並みは現代の都市に失われた美しさがあった。
 味わいがあった。
 現代の町並みの無粋であることよ。
 自己中心を形にしたかのようである。

 安全堅固だけが建築基準ではあるまい。
 モルタルやコンクリートの建造物は、屋上も壁面も緑化す
ることを義務付けてよいのではないか。

 道路も水がしみこむ素材に切り替えるべきである。
 そうでなければ、都会の土が窒息してしまう。

 電線ほど景観を害しているものはない。
 観光地を優先に、地下ケーブルに切り替えるべきである。

 人はもっと自然に遠慮深く生活するべきなのだ。
 傲慢になりすぎてはいないか。美意識をもつことだ。
 現代アートのような歪んだ「芸術」意識ではない。
 率直で素直な美意識である。
 教育にかけている徳目である。

 人間中心主義は間違っている。
 この点で、社会主義も共産主義も、資本主義も、それ以外
の自由主義も間違っているのである。

 人を超越した存在に対して、畏敬の念を持ってこそ、生き
ることが許されているのが人間なのだ。

 人類は、地球のがん細胞となりつつある。

 そのことを、深く反省するべきである。

 自我我欲、自己中心、拝金主義。
 これが、いじめの正体でもある。
 あらゆる社会悪の汚染源であると知らなければならない。

 自我我欲、自己中心、拝金主義、それは人間の驕りから
来ている。人の上に神も仏もおかない人間中心主義の驕り
である。その驕りゆえに、環境破壊、地球破壊を自己保存の
手段とする愚を犯す。

 

 人間は、仏や神の下に反省し、謙虚にならなくてはならない。
 
 敵は己のうちにあり。

                             Bafun 

 

 

 

 

 

 思いつつ  一衣を脱ぎて  春去りぬ

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

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