すぶんろこ!のジャパニーズドリーム

■『すぶんろこ』とは、コロンブスの逆転の発想

■日本国独立宣言!「日本国憲法」無効宣言、日本軍再構築宣言!

+ 山茶花Sazanka の姫・・・ 人生の冬に咲く

2008年01月28日 23時00分35秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 山茶花sazanka を   訪ねし人の   香りして

   馬糞 Bafun 

 

 

 

  姫君のように美しい山茶花sazanka が咲いていた。

 西洋のバラよりも美しいと思う。

 主はどうしたのか、廃屋の庭にも、見事な山茶花の一

木が花をいっぱいに咲かせていた。

 虫たちも知らない冬の花であることよ。

 

 

 

 さざんかの    白雪姫を    めでてゆき

     馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 

 冬といえど   山茶花さざんか    咲いており

   馬糞 Bafun 

 

 

  冬に咲く花がある。 

 人生の冬を嘆くことなかれ。

 人生の冬だからこそ咲かせる見事な花がある。

 

 山茶花を見ていると、

 人生の冬も捨てたもののじゃあないと思う。

 あえて冬山に登る人もいる。

 

 それが人生の美意識というものだ。

 また、不況の波が襲っているが、

 危なくなったら、荷物を捨てよ、会社を捨てよ。

 

 命を先に捨てては山茶花を知らない虫と同じだ。

 知らない世界をのぞいてみようではないか。

 きっと、人生の冬に魅せられるに違いないのだ。

 

 人生の冬に吹かれていても、天衣を重ねて咲く花があ

る。  

                              

梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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+ 寒衣の梅・・・ 国家崩壊を招く性の自由化

2008年01月27日 10時32分36秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

 ほのぼのと  母繕いし  生地の梅

      馬糞 Bafun

 

 

  

 猫の目で梅花の風景を見ると、梅の花模様なのであろ

う。

 ずっと昔、子供の頃、こんな風合いの生地を母が縫っ

ていたように思う。

 着れなくなった服をほどいて、母は子供のために服を

作ってくれていた。

 モーツァルトのように立派な服なのだが、周りの子供

からは浮いていた。

 

 思えば、貧しかったけれど、恵まれた家庭に育ったの

だと思う。

 母は、高等小学校しか出ていないが、裁縫、料理、茶

道、生け花、歴史や読み書きそろばんの教育など、幅広

くこなした。

 

 父は、ラジオを組み立て、大工道具で造作し、頑丈な

体をしていた。

 自分もいつかは父のような逞しい腕になるのだろうと

期待していたが、ずっと細いままだった。

 

 現代の女性は、裁縫どころか、料理もろくにできない

人が大半になった。

 母のイメージから、家庭のぬくもりが失われているに

違いない。

 

 

 

 


 寒衣  ふくらみて咲き  梅の花
 

  小太刀差したる  その胸元に

    馬草 Magusa

 

 

 

 

現代国家崩壊の要因

 

 国家の崩壊は、家庭崩壊の連鎖である。 

 家庭崩壊は、母性の劣化を伴う。 

 母性の劣化は、男性の軟弱化と男女のモラル喪失の延

長線上にある。

 

 女性のモラル喪失は、フリーセックスという性的堕落

の風潮による。

 

 性的モラル崩壊を進めているのが大手出版社の低俗週

刊誌をはじめとする風俗メディアとその黙認によるとこ

ろが大きい。

 

 他人の迷惑を顧みない違法駐車、迷惑駐輪のように、

堕落とは思いやりのない安易な私利私欲である。

 

 男女の関係もまた、思いやりのない安易な性欲に堕し

てしまったというべきであろう。  

  それが、フリーセックスというありがたい自由の大義

に実った果実であり、売春婦と区別のつかない下品な娘

たちの増殖を招いているのである。

 

 性表現を垂れ流しにしてはならない。

 性を自由化してはならない。

 性には、モラルと禁欲の鍵をかけて、男女の健全と家

庭の安全を守らなければならないのである。

 

 「女性政治家は、ジェンダーフリーではなく、女性の

下品化防止こそ、最優先の政治責任があるんじゃない

ですか。」

 

 それが、国家の崩壊を食い止める要諦である。

        

                    

梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 梅と猫・・・ 恋愛論

2008年01月26日 07時58分30秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

 眠り猫  今多忙なり  春なれば

  馬糞 Bafun

 

  

 猫派ではない。犬派である。

 ところが、猫ともねずみとも、ディズニー漫画のよう

な思い出がある。

 

 朝早く、東公園の梅に感心していたら、足元で猫がじ

ゃれ付いていた。

 あんた、だれ?という関係なのに、ミャーミャーと擦

り寄ってくるのである。

 

 梅の香りに酔いしびれているのか。

 猫の世界は、人には計り知れないところがある。

 たとえば、猫の目には、二次元的にしか認識されてい

ないらしい。

 猫の絵を見せると、猫だと思うらしいのだ。

 

 梅の季節、猫にとっては恋と喧嘩の季節が巡ってきた

ようである。

 

 

 

 

 猫三尾  梅の香りに   くすぐられ

   馬糞 Bafun

 

 

 

 恋というのは、人も動物もあずかり知らない天の仕掛

けである。 

 恋の仕掛けが感情を生み、後は出会いとバランスでな

るようになる。

 動物もあちこち散策して出会いを求め、強さ、美しさ

でバランスを計っている。

 

 しかし、この感情というやつは厄介である。

 心の波立ちが、至福と堕落の間を揺れ動く。

 原因はあっても実体がない。

 

 人間であれば、自分を磨くことによって相応の出会い

とバランスを高めることができる。 

 失恋は、バランスに問題があったというだけのことで

ある。

 ところが、感情にふりまわされて、失望のうちに自殺

する若者が結構多いらしい。

 

 ロミオとジュリエットは失恋ではないがバランスが悪

かった。

 やっぱり感情に振り回された愚かな恋だった。

 もっとしっかり勉強しなさい、と叱るべきところであ

った。 

 深い教養があれば、そう簡単に感情に振り回されるこ

とはない。

   

 恋心の根本は、天の仕掛けなのである。

 失恋して悩むほどのことではない。

 客観的な優劣の問題ではない。

 個人的な好みとバランスの問題にすぎない。

 

 感情に振り回されないことだ。

 蓼食う虫も好き好きである。 

                            

梅士 Baishi 

  

 

 

 

 梅の苑   そんな昔を   思い出し

        馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 「梅干だって、昔はかわいい梅の花だったんですよ。」

 

 「考古学って、相当むずかしいんですね。」

 

 「・・・。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 娘の悲しみ・・・ 畜産不況  家族の自殺  自殺の不幸連鎖を断つために

2008年01月25日 20時39分00秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

  せむかたも   なき悲しみや   やるせなき

 娘の父逝きぬ   白雪の梅  

     梅士 Baishi

 

 

 

 「父が死にました」

 女学生が呆然として言った。

 畜産業に行き詰まってのことだろう。

 「娘をよろしく」と言っていた父親だったのに・・・。


 身内の自殺ほど苦しいことはない。

 こうした苦しみを味わっている家族が毎年3万件を超え

ているのである。

 その苦しみを背負った家族の人々のために、励ましの

言葉を思う。

 

 家族であるならば、自殺した家族の苦しみを思わない

ではいられないであろう。

 なぜ救えなかったのかという自責の思いに苦しめられ

ることであろう。

 

 しかし、それを悩み苦しみとしたところで、救いは得

られない。

 苦しむことが責任でもありえない。

 しからば、考えても仕方のないこと、すっぱり思考停

止することだ。

 

 考える代わりに唱えるがよい。

 『その父を裁かず、己を裁かず、人を裁かず。』 

 他人に対しても、自分に対しても、裁き心を断ち切る

ことが肝腎の要だ。


 それぞれが己の人生に責任を持って生きて行くしかな

いのである。 

 自殺者は、悩みを整理できないで誤った選択をしてし

まったのである。

 

 人は、自殺しても霊として生き続けている。

 あの世はあるのである。

 しかし、自殺者の世界は暗く憂鬱な地獄である。

 その過ちに気づいて、反省しなければならない。

 

 己の心の闇が呼び込んだ悪霊との関わりを断ち切らな

ければならない。

 そうでなければ、さらに、家族を苦しめることになる

からだ。

  

 自殺した者の家族の苦しみを思えば、どうせいつかは

死ぬる命、自ら絶ってはいけなかったのだ。

 その命の使い道は、捨てたつもりで、他人のために使

って果てたらどんなに喜ばれたことか。

 

 だから、自殺を思っている人は、命を絶つかわりにま

ず、その髪を断ち切って葬って欲しい。 

 

 残された家族の人たちよ、それは家族の責任ではない。

 悔やんではいけない。

 裁いてはいけない。 

 人には及ばないことがあるのである。

 

 人の心は、家族といえども、父・母といえども、自由

にはならないものである。 

 自殺した者は、家族への思いから憑依して禍を連鎖す

ることある。

 そうしたことにならないように、残された家族は明る

く生きることが肝要である。

 責任を放棄せず、楽しく働く姿を見せてやることであ

る。

 

 心の世界を、霊の世界を、やはり学ぶ必要があるのだ。

 幸福の生産者を増やし、不幸の連鎖を断ち切るために。 

                            

梅士 Baishi.

 

  

 

 

  

 

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+ 大寒の琴線・・・ 三種の貧乏

2008年01月25日 14時29分00秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

  大寒の  琴糸kotoitoにふれ  梅咲きぬ

  
    馬糞 Bafun

 

  

 

 冷気がぴんと張った寒い季節に、その琴線にふれて梅

の花は咲く。

 ああ、なんて高貴な香りだろうか。

 

 

三種の貧乏

 

 この世の試練で最も辛いのは貧乏ではないだろうか。 

 その貧乏にも人は慣れ親しむのであるが、周りが豊か

であると、格差としての貧乏が惨めで辛く思えるのであ

る。

 だからといって、その惨めさは豊かな人たちが悪いの

ではない。

 むしろ、豊かな人々が貧乏を少なくしている働き手で

あるのだ。

 ところが、貧乏が少なくなると、いっそう貧乏が惨め

になる。

 

 「格差」を問題にする考え方は、嫉妬に他ならない。

 問題は、貧乏をどう克服するかである。

 克服されるべき貧乏は、人生の問題集として用意され

ている。

 国家政策として解決されなければならないのではない。

 

 

 貧乏には三種類がある。

 最悪、最下層は、妬み、逆恨み、失望、堕落というス

ラム化の貧乏である。

  弱い貧乏人はホームレスのように堕落し、強い貧乏人は

逆恨みして犯罪者になる。

 

 二番目はやせ我慢とも言うべき「清貧」というツッパ

リの貧乏である。

 「いや、私は貧乏が好きで貧乏しているんですよ。

れは哲学なんです」という額縁入りの貧乏というべきか。

 

 三番目は、夢を実現するための磨き粉のような貧乏で

ある。

 早春というべき貧乏である。

 お金がないからできないとは言わない。

 貧乏だからこそ先行投資をする積極性を持っている。

 結果としての貧乏ではない。

 豊かになるための貧乏なのである。

 

 早春の花は、三番目の貧乏に咲く。

 

 

 

 この花も あの花も咲き 白梅の

 冷たき枝に 香りたちたり

    馬草 Magusa

 

 

 

 真冬の冷たい枝に香りたつ梅の花のように貧乏に咲く

若い人たちのことを思うと、 心がうきうきとする思いで

す。

 若いときから、手段を選ばず贅沢をしている人もいま

すが、それをすばらしいことのようには思えません。

 若いときの苦労は買ってでもせよ、というほどに、青

春の貧乏時代は価値のあることだということでしょう。

 

 現代は欝に陥る人が多い時代だといわれます。

 情報洪水のように、悩みが押し寄せているのでしょう

か。

 しかし、悩みと思えることを一つ一つ整理してゆくと、

意外とシンプルに解決すべき課題が見えてくるのではな

いでしょうか。

 

 本当の悩みとは、努力して解決できる問題です。

 それ以外の問題は、問題解決の条件であって、悩みで

はないはずです。

 

 中間管理職の板ばさみの悩みとか言いますが、矛盾す

る両極にいい顔をしようとするから矛盾するのです。

 

 志があれば、上を押し上げ、下を牽引することもでき

るでしょう。

 悩みと思わず、志という原点に返って努力すれば、必

ず道は開けるはずです。

 

 どうか、尊い志を持って、新しい時代を切り開く勇気

を発揮してください。

                             

馬草 Magusa

 

  

 

 

 2006年リバイバル(神とともに住む日本アニミズムの再評価)

 ⇒ http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/9a475603e22003b9e4d55ef3957f0fdc

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 大寒の梅・・・ 試練を楽しむ

2008年01月24日 08時11分48秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

  手のひらに  白雪重ね  梅咲きぬ 

  馬糞 Bafun

 

 

 

 

 地球温暖化の暖冬とはいえ、大寒の頃の寒さは鮮烈で

ある。

 その真冬の只中に梅の花は咲く。

 梅の花を見ると、大寒の寒さは真冬ではなく、早春に

なる。

 

 梅の花は、真冬の中にある春を呼吸して香っている。

 武士Mononofu の花というにふさわしい。

 人生の試練というものも、梅の花のように楽しみたい

ものである。

 

 

 人生は修行である。

 試練なくして修行なし。

 すなわち、人は、試練を楽しむために生まれてきたと

いうべきではないか。

 

 梅の花の冬も去ってゆく。

 去るべき早春を惜しみつつ楽しみたい。

 愛すべき試練も、長くは続かないのである。

 

 

 


   手のひらに  降る白雪や  梅の花 

     悲しきことの   はかなくもあり

    馬草 Magusa

 

 

 

  白雪のような梅の花が香りたち、今を盛りと咲き始め ました。

 ああ、なんて美しいのでしょうか。

 でも、桜の頃が近づくと、もう梅の花は散りすぎてい ます。

 それを思うとはかなく、惜しみつつ眺めてしまいます。

 

 心に残る美しさというのは、逆境の中に咲き、はかな

いものの中にこそあるものなのでしょうか。

 

 真冬の中に春を香り立たせる梅の花を、やまとの人々

は愛して止みませんでした。

 

 東風吹かば  匂いよこせよ梅の花  

 主なしとて 春な忘れそ

 と歌っ菅原道真の心境は、京への未練であるかのよ

うに伝えられていすが、逆境に身を置きながら、早春

の梅に共感していたのではないか、と思えてくるのです。

 

 『チャンスは逆境の顔をしてやってくる』。

 逆境の中にあるみなさま、梅の花のように、春を香ら

せようではありませんか。

 

 早春を楽しむ者には、悪魔も退散するといいます。

 どんなに苦しめようと試みても、それを楽しみながら

成長してゆくのですから、悪魔にとって、こんなに面白

くないことはありません。

 

 ですから、逆境が訪れたら、香り立つ梅の花を楽しも

うではありませんか。

 その愛すべき逆境も、はかなく過ぎ去るものなのです。

 

 早春の梅の花を、わたくしは愛してやみません。

                               

 Magusa

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ びわの花・・・ アジアの初春を祝おうではないか 

2008年01月20日 13時50分23秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 びわの花  チュンと飛んだり  雨の中

   馬糞 Bafun

 

  

 

 びわの花は正月頃に咲く。

 花が咲いているとは気づかないほど、産毛に覆われた

小さな白い花である。

 

 そんな目立たない花に、メジロは何度もくちばしを入

れて蜜を吸ってくれる。

 今日は、寒波の影響で、雨である。

 あったかいのだ。

 その雨宿りに、メジロがびわの葉をさして遊んでいた。

 

 明日は大寒。

 まだまだ、春は遠いと思っていたら、梅の香りにはっ

とした。

 梅の花が咲いている。

 

 もう、梅の季節である。

 春である。

 

 太陽暦の正月も、初春にふさわしく花が咲き、梅が香

る。

 梅の花を見ると、あらためて、新春のお喜びを申し上

げたくなる。

 

 今年の旧正月は、2月7日Thur.である。

 アジアの正月として、連休にして欲しい。

 どうせ、ニッパチ、商売よりも企画が大事な時期であ

る。

 国民の祝日として、加えて欲しい。

 

 アジアの早春を共に祝いたいものである。



J.D.Subunroco.


 

 

 

 

 2008年リバイバル(不文憲法の法理)

http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/b720dc57ef5caa6ab519b38494f873b9

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 大寒の水・・・ 善悪をわかつものとは

2008年01月19日 08時33分50秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 


   指先に 響きし水を 土にかけ

   馬糞 Bafun

 

 

 

 キュルル、キュルルと、今朝もメジロが機嫌よい。

 そのメジロたちにみかんをやって、指先を水で洗った。

 じ~んと響く冷たさである。

 今朝は冷えたらしい。

 この冷たい水を庭木の根にかけても大丈夫なんだろう

かと思いつつ、控えめに注いだ。

 もうすぐ、大寒という寒い季節である。

 

 

 

 

善悪について

 大学の自治という考え方から、大学紛争の拠点が作ら

れ、ゲバ棒が林立した時代があった。

 そのときも冷静だったのはスポーツ系の大学生ではな

かったか。

 

 ところが最近では、大学スポーツが学生自治の時代に

はいったらしい。

 学生のための大学スポーツなのだから、伝統とか監督

に縛られたくない、というのである。

 その流れの中で、ラグビーの名門、関東学院大学の不

祥事が起こった。


 自治といい、主体性といい、それは良いことであると

思われがちだが、果たしてそうなのかという問題提起で

ある。

 食べることはいいことか、悪いことか。

 歌うことはいいことか、悪いことか。

 

 善悪が分からないでは、教育は成り立たない。

 善悪が分からないでは、学問の意味がない。

 

 如何。

                          

J.D.Subunroco.

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 牧島・曲崎古墳群・・・ 国民主権リストラ法の制定を請願する 

2008年01月18日 13時14分15秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

  この島に  釣りし日もあり  冬の青  

   馬糞 Bafun 

 

 

 

 君が手も  まじるなるべし  花すすき

 

 俳諧師、向井去来が長崎街道の難所、日見峠あたりで

詠んだである。

 これに由来して、すすき塚という地名を残した。

 今では新しいトンネルができて、歩いて越える峠では

なくなった。

 

 その日見峠を越えて下ったところが、網場Abaである。

 さらに、かつての宿場町矢上を海岸沿いに入り込んで

行くと、牧島という半農半漁の島がある。

 イチゴとイリコが産物だった。

 

 その島によく釣りに出かけたものだった。

 はやる気持ちを抑えながら、きわどい岩場を越えて釣

りポイントの畳岩まで渡ったものだった。

 

 その畳岩は潮が満ちると海没し、帰れなくなる。

 その緊張の場面が時々夢に現れる。

 思えば、青春などではなかった。

 青い冬、青冬であった。

 

  

 

 

 その島に、30数年ぶりに立ち寄った。

 思い出の釣り場がどこだったかは分からなかった。

 その代わり、新しい発見があった。

 曲崎古墳群である。

  

 

 

 

 古墳とは言っても、聖徳太子あたりの時代だから、少

し古い時代の墓という程度ではあるが、飛鳥村の古墳、

石舞台の時代だから、やはり古墳なのであろう。

 

  

  

 海族の   古墳の磯に   風巻shimakiして

    馬糞 Bafun 

 

 

 

 古墳といえば、当時の貴族、豪族の墓と相場が決まっ

ているが、曲崎古墳は、村民の共同墓地という風情であ

った。

 海岸の丸まった石を運んで、小さなストーンサークル

を配列した感じである。

 

 

 

 

 かつては、倭寇として恐れられた水軍の一部族であっ

たかもしれない。

 日ごろは漁民とも言うべき九州の海族が、大陸中国を

威圧していた時代があった。

 

 そう思うと、古墳の小さな石が誇り高く、気高く見え

てくる。

 

   

 


 ああ、現代日本は、倭人は、どうしてしまったのか。

 人間は蟻ではないというのに、

 「安い労働力」と言い習わして、飼いならしているつ

もりなのか。

 15年後には、日本はなく、中国人たちの島になってい

るであろうに。

 

 その日のために、憲法改正をできなくし、政権を弱体

化し、政治を罵りあっている。

 

 世界国家の理想のために、国を明け渡すのが崇高な平

和への道であるというように、残りわずかな日本の春を

祝いあっているのである。

 

 公務員だけではない。

 主権国民のリストラも急がねばならない。

 国家と地方を問わず、選挙を3回怠った者は、選挙権を

失うというリストラ法を是非制定してもらいたい。

  

                          J.D.Subunroco.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 小浜鉄道の跡・・・ ローカル鉄道の役割と再生への方策

2008年01月16日 08時16分16秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 岩を切る   鉄道跡の  春細く

     馬糞 Bafun

 

 

 

 戦争体験を聞くように、「昔、この海岸線に沿って小

浜鉄道が走っていた」という幻のような風景を耳にした。

 切り立った海岸に鉄道跡の道が続いているというので

ある。

 

 本当に道が続いているのだろうか・・・

 コロンブスの船の船員たちのように不安な航路である。

 

 その細い道は海岸の崖道を削って、橘湾の春の海の絶

景を見せてくれる。

 車を寄せて、その絶景を深呼吸する。

 

 

 


  やがて、道はいよいよ細くなり、車の離合もままなら

ないほどになった。

 崖の両端を木々の緑がトンネルを作っている。

 そこを、ローカル電車の運転士のようにくぐり抜けて

ゆくのである。

 

 

 

 

 鉄道再生への工夫

  昔の駅は蒸気機関車の煙にいぶされて、旅の緊張と臨

場感があった。

 現代技術からすれば不便で不合理であったが、美しか

った。

 だから今でもSLファンがいる。

 

 ところが、次々にローカル鉄道が廃線に追い込まれる。

 第三セクターの経営に生き残りを図っても、経営は行

き詰まる。

 

 なぜか。

 交通機関としての利用価値が向上しないからである。

 

 交通の便利は、いつでも誰でも楽に早く行けるという

ことである。 

 1時間に1本、一日に数本とかの運行では、もはや交通

機関の利便性を失っている。

 希少性があっても、便利を向上させなければ経営は成

り立たない。

 

 ローカルの町には希少価値がある。

 都会の人が求める天然自然手作りがある。

 その都会とローカルを結ぶ利便をこそ提供すべきなの

だ。

 希少価値だけでは生き残れない。

 価値そのものの充実が欠かせない。

 

 交通機関の利便性として、20分に一本くらい運行すべ

きだろう。

 さらには、今後、ロボット化を進めることも視野に入

るだろう。

 

 自己中心の車に依存しない旅の交通機関、鉄道の復活

を待望する。 

                         

J.D.Subunroco.

 

 

   

 

 

 

 

 

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+ 小浜の湯気を通り過ぎ・・・ 観光イノベーションを!

2008年01月14日 15時02分50秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 
 正月の 雲仙を下り 浜の湯気


      馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 かくして、名所金濱の眼鏡橋を後に、小浜の温泉街に入った。

 後は、長崎駅までの帰り道である。

 

 小浜に入ると、硫黄のにおいが、湯の町の風情を訴える。

 小浜温泉には久しく入っていないが・・・と思いつつ通り過ぎる。

 帰省の車でか、渋滞気味である。

 

 こういうときは、海岸沿いに走る、旧小浜鉄道の跡をたどる道が

一興である。

 

 

 

 

 

 

 

観光イノベーションかスラム化か


 
ところで、雲仙といい、小浜といい、古い温泉街であるが、街づ

くりも、旅館のサービスも老化して、イノベーションができていない。

 手慣れてはいるが、プロフェッショナルではないのである。

 

 団地のような建物、気配りのないスタッフ、まずい料理、一部ス

ラム化した町や建物・・・

 温泉とは何なのか。

 もう一度、原点に返って考えてみてはどうだろうか。

 

 観光地でありながら、電線を煩わしいとは思わないだろうか。

 観光スタッフは、旅館内だけのサービスでよいのか。

 町ぐるみで経営するプロジェクトを立ち上げてはいかがか。

 

 アラブのお大尽も来てみたくなるような一流を磨いてはいかがか。

 

 

 立憲女王国 神聖・九州やまとの国の「観よ、九州の光を!」

プロジェクト課は、いつでもお手伝いをいたしますよ!

 

                           J.D.Subunroco.  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 小浜のオランダ橋・・・ 縄跳びの子にあいさつをもらう

2008年01月14日 14時00分11秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

                                                                (クロガネモチの赤い実)
 

 

  昇る日の  クロガネモチに  栄えたり

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 雲仙国民休暇村は小浜の温泉街をずっと過ぎて、観光名所金

濱橋の先の交差点から雲仙方面に上る。

 帰り道、ずっと気になっていた小浜のオランダ橋に立ち寄った。

 ちいさな漁村という風情の集落に、立派な眼鏡橋がかかってい

る。

 

 金濱の分限者が、雲仙岳に負けない心意気で作ったのだろう

か。

 長崎の眼鏡橋にも負けないオランダ橋の名作である。

 

 

 

 

 

 

 橋の近くに、クロガネモチがたわわに赤い実をつけていた。

 苦労をしないでお金がたまるという縁起のいい庭木の代表であ

る。

 新年の青空に、たわわの赤い実が千寿、万寿の太陽を映している。

 

 実にめでたく、縁起の良いことである。

 

 

  

 

 

 

 意気上げて  登り初めたり  眼鏡橋 


  
 馬糞 Bafun

 

 

 

 眼鏡橋を渡るには、よいしょこらと、急の石段を登らなければな

らない。

 荷物を持って渡るには不便だが、縁起が良いという気分になる。

 橋を作らせた分限者や技術者たちの心意気を、後からよじ登る

といった風情である。

 

 橋の頂上に立つと視界が開けて、国見の気宇壮大な気持ちに

なる。

 

 

 

 

 

 縄跳びの  子があいさつし  松の内 

 


    馬糞 Bafun  

 

 

  

 

 眼鏡橋を渡ると、女の子が元気そうに縄跳びをしていた。

 めずらしい観光客が通り過ぎようとしたとき、「こんにちは」とあ

いさつしてくれた。

 「こんにちは」と笑顔であいさつを返した。

 

 いまどき、なんて珍しく気持ちのよいことか。

 

 人は、そんなことで幸せな気持ちになれる。

 縄跳びの女の子がくれた幸せが、クロガネモチの赤い実のよう

に、たくさんたくさん育ちますように!

 

                          J.D.Subunroco.   

 

 

 

 

 

  眼鏡橋  正月気分を  跨ぎつつ


    馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 窓の初日・・・ 雲仙国民休暇村とグランドゴルフの魅力 

2008年01月11日 10時16分45秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 旅の宿の  窓にまぶしき  初日かな

           馬糞 Bafun 

 

  

 

 

 

 

  

  正月は、戦争の辛酸をなめて生き抜いた戦中派の両親

と、雲仙の国民Q暇村に出かけた。

 

 

 

 

 ここの魅力は何と言っても、グランドゴルフを楽しめ

ることだ。

 それに、格安の値段なのに会席料理の味がよい。

 支配人の誠実さもあって、両親の行きつけの宿になっ

ている。

 

 

 

 

 グランドゴルフは、腰の痛み、ひざの痛みに苦しんで

いても、つい夢中になって、楽しみながらしっかり歩く

効果がすばらしいニュースポーツである。

 

 

 

  

 近くには諏訪の池があり、バスフィッシングの名所で

ある。

 ところが、記録的な少雨で、すっかり干上がって、水

鳥の姿もなかった。

 

 

 

 

 池のほとりに諏訪神社がある。

 長崎の諏訪神社の本家社だという。


 

 

  

 縄文、弥生の遺跡に囲まれているから、そのルーツは

紀元前後にも遡るのであろう。

 

 ところが、鳥居も社も粗末である

 由緒ある神社の建て直しを願いたいものだ。

 

  

 

 

 その土地を守っている神(高級霊)はいるものであり、

その神を奉るのは住人の礼である。

 その神に拝礼するのは訪問者の礼であろう。

 

  

 

  

 それにしても、グランドゴルフの腕前は一向にあがら

ない。

 年金生活者のみなさんには、是非、出かけていただき

たい。

 そして、グランドゴルフを改良し、盛んにして欲しい

と思う。


 

 


 雲仙国民Q暇村へどうぞ。

⇒ http://www.qkamura.or.jp/unzen/

 

                                J.D.Subunroco. 

 

 

 

 

2005年リバイバル(公務員社会主義を警戒せよ)

⇒ http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/d128fe585d17a0f2c6e99f657cf325ae

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 商売繁盛・・・ 恵比寿さまの智慧袋

2008年01月09日 08時22分03秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 初春や  大根生えぬ  父母の庭


         馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 父母は老いてゆくが、その父母の植えた庭の大根は大いに元

気そうだった。

 良い門松である。

 

 

 

 

 

 

 十日恵比寿神社の幻の賑わいが始まった。

 商売繁盛。

 恵比寿の袋は智慧袋だという。

 その智慧は、人を幸福にしようという智慧である。

 

 知将・野村監督がプロ野球について言っていた。

 体力ややる気はあって当たり前、問題ではない。

 知力一本に絞るのがプロの勝負であると。

 

 野村監督の智慧は、伸び悩む選手、スランプの選手の潜在する

力を引き出す智慧である。

 球界の恵比寿様というべきであろう。

 

 

 

 

 

 

 人を生かす智慧、会社を生かす智慧、国を生かす智慧。

 これが、商売繁盛の願いでありたい。

 敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。

 即ち、コミュニケーションである。

 「敵」とは、客の不満足というべきであろう。

 

 

 

 

 

 

 豊かな愛と智慧を発揮して、商売繁盛したいものである。

 

                            J.D.Subunroco.

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ ぼたん雪・・・ 透明な人生観について  

2008年01月08日 08時07分03秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 


 悲しさも  うれしさもあり  ぼたん雪


   
馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 大晦日の夜、

 おおきな雪の結晶が天使の羽のように降りてきた。

 天地は雪化粧をして新年を迎えた。

 

 ゆっくりと降りてくるぼたん雪をみていると、

 雪の数ほどの出来事が沈殿しているように見える。

 悲しいことを、いつまでも引きずってはいけない。

 透明な風となって、新しい一年を始めたいものである。

 

 

 


 

 手をつなぎ  楽しげに降り  ぼたん雪


       馬糞 Bafun

 

 

 

 

 透明な人生観について

 

 透明な人生観とは、私心なく生きる覚悟のことである。

 あれがほしい、これが欲しいという生き方ではない。

 欲しいと思う生き方は煩い迷うことの多い人生である。

 

 透明な人生観とは捧げる人生観である。

 支える人生観でもある。

 欲深い人間からどのようにして生まれ変われるのだろうか。

 

 そのヒントが、戦争で多くの戦友を失って生き残った戦争体験者

が語る人生観にある。

 「生き残った者の責任」という、涙が出るような切ない思いであ

る。

 戦争を体験していない者にも、その切ない気持ちに触れて泣け

てくる。

 

 愛する人を失い、友を失い、尊敬する人を失い、師と仰ぐ人を失

い、その死に立ち会った者にとって、自己保身という死の恐怖は

失われ、「生き残った者の責任」に突き動かされることであろう。

 

 その究極が、救世主イエスを犯罪者として処刑されるという形で

失った弟子たちの人生観であったろう。

 それは、つらい罪の意識を背負った生き方でもある。

 キリスト教の強さであるとともに、罪の意識は負の遺産でもある

と思う。

 

 

 

 

 

 満天に  ぼたん雪降る  下駄の音

 
         馬糞 Bafun

 

 

 

 人生の基本は、修行としての人生観である。

 魂を磨くことが人生の目的である。

 転生輪廻ということがなければ、修行の人生観は成り立たない。

 だから、キリスト教には基本的に修行という考え方は成り立た

ない。

 その代わりに、贖罪(つみほろぼし)という人生観に主導される。

 故に、悲しい。

 

 しかし、人は、感謝、愛、信頼、尊敬という人間関係の中に生か

されている。

 それゆえに、捧げる人生でありたい。

 

 人は皆、試練の中に生きている。

 裕福な人もまた、人知れぬ試練を生きている。

 平穏無事な老後を楽しんでいるように見える人でも、老いという

試練の中にいる。

 

 そう思うと、人々は、いとおしい戦友でもある。

 見事に、その試練を克服して見せたいではないか。

 

 人生は仏神に提出する卒業課題である。

 故に、裁き心は無用である。

 人生は、私心なき願いでありたい。

 

 かくして、2008年の門出を清める。

 

                              J.D.Subunroco.

 

 

 

 

 

 

 羽衣を  枝におきつつ  ぼたん雪


        馬糞 Bafun

 

 

 

 子供の眼には、羽をつけた天使が見えたりするようです。

 大人になったら、天使は感じるものではないでしょうか。

 ぼたん雪が、天下る天使の軍団のようにも感じられました。

 

 天下りというのは、やはり天使のようでなくてはいけませんねぇ。 

                               J.D.Subunroco.

 

       

 

 

 

 

 

 

 

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