すぶんろこ!のジャパニーズドリーム

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■日本国独立宣言!「日本国憲法」無効宣言、日本軍再構築宣言!

+ 「東の国」に梅かおる・・・ 国家に冠すべき神聖  『立憲・民主主義』の論理  

2007年01月28日 11時30分53秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 梅栄り   東の国の   風ゆきぬ

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 今年は特に早いのだろうか、東公園の梅が早くも紅梅

梅に咲き始めた。

 梅の花は日本人がこよなく愛してきた花である。


 早春の寒風の中に凛として気高く、寒青の空に映えて

紅梅白梅に咲き分ける。

 日本人が日本の伝統と共に見失ってきた気高さの香り

である。

 脂臭いアメリカ文化にはない美意識に咲く花である。

 

 仏陀が入滅のときに語った仏陀再誕の地「東の国」や

まとの春の香りが北風に乗っている。

 

 

 

 

 同様に、日本人が見失ってきた美意識に、「神聖」と

いう言葉がある。

 聖業という職業観も見失われた。

 聖なるものを、隠れキリシタンのように隠し持たなけ

ればならないような社会に堕落した。

 それが現代日本である。

 

 本来、職業は聖業である。

 尊い働きである。それが、プロフェッショナルの精神

である。

 その代表が教職であり、医療職であり、政治家の仕事

あった。


 現代の青年たちに、聖職ということが分かるだろうか。

 

 憲法学者らに「民主主義の根幹である」と賞賛される

マスコミ業であるならば、「マスコミ業は聖業である」

と書いてもよさそうであるが、誰しも違和感を感じるで

あろう。


 憲法学者がどんなに権威化しても、「聖業」という品

格ある働きはしていない。

 むしろ、他人の不幸で食っているといえる側面が強い。

 スキャンダルといえば、マスコミが生み出す村八分の

暴力ではないか。


 

 なぜ、聖業が姿を消したのか。

 「大衆」の職業観に信仰が失われたからである。

 世の中の評価基準が、美意識から欲望の満足度に変わ

たからである。


 これが拝金主義である。

 企業は大衆の欲望に迎合することによって儲かる。

 芸能も芸術も、大衆の欲望満足に迎合するほど著作権

収入が増える。

 マスコミも政治も同様である。

 

 人間中心主義が集まると大衆中心主義になる。

 大衆中心文化、大衆中心資本主義、大衆中心メディア、

大衆中心民主主義・・・

 

 大衆とは、すなわち、多くの者が努力せずして楽しめ

る欲望に他ならない。

 それは多数決によって正当化される。

 

 企業がマスコミに求めているものは視聴率であって、

正しさや品格や愛国心ではない。

 

 「商人に愛国心は関係ない」というだろう。

 結局、品格のないマスコミ権力を支えているのは、そ

のスポンサー企業であり、大衆迎合の拝金主義に他なら

ない。

 

 同様に、大衆中心民主主義は聖なるものを否定こそす

れ、聖なる価値観はない。

 それが、憲法学者の人権観であり、民主主義観である。

 

 政治もまた正式なやくざ家業でもあるかのように国家

の政策論議の場で悪口雑言を尽くして罵り合っている。

 およそ、聖業の姿ではあるまい。

 そのように、マスコミに「報道」されている。

 

 マスコミばかりの責任ではない。

 テレビで討論しても、共産党、社民党、民主党そろっ

て、悪口雑言の域を出ないのだから。

 

 

 

 

【立憲・民主主義の論理】

 政治は神聖でなければならない。

 「王とえいども神と法の下にあり」という法の支配の

原理が、権力の正統性には不可欠の根本原理である。

 

 

 「民主主義といえども神と法の下にあり」。

 これが、立憲民主主義の理念である。

 政治とは民意である前に、神の心に適うものであるか

どうかが計られなければならない。

 神の心を推し計るもの、それが法の精神である。

 憲法が問うべき法源である。

 

 政治家もまた、神の意を代弁するものでなければなら

ない。

 それなくして国民の意思を反映すれば、欲望の政治、

弱肉強食の政治にならざるを得ない。

 

 大衆民主主義とはおぞましい政治である。  

 

 人の上に神の意思というべき法がある。

 立憲民主主義というべき考え方が大切である。

 そこにいう「憲」とは、神の意思である。

 神を見失えば、人は傲慢になり、欲望に堕落する。

 

 『民主』の本義は、権力者のための政治であってはな

らないという戒めである。

 国民は国家に対して責任を持てという理想でもある。

 国民という名の利害を代表せよというのであってはな

らない。

 

 現代の民主主義は、欲望の民主主義、無責任な「世論」

治に堕している。

 しかも、愛国心を拒絶する非国民が教育を蝕んでいる。

 もっとも警戒すべき大衆民主主義という病気である。

 

 「民主」を冠しても、人の上に仏神への畏敬がなけれ

ば、人の支配に他ならない。

 

 人の支配は、社会主義国家に見るように、いかに理想

を掲げようと独裁を生み、恐怖政治を生む。

 民主主義は独裁へのブレーキを踏みながら走る制度で

あるが、いずれ堕落か独裁かに陥らざるをいない。


 『立憲』とは、『神聖な』という意味である。 

 人の上に、仏神とその法がある。

 神聖日本国を新生日本の本源としてほしい。 

                      

梅士 Baishi

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 寒の海・・・ 憲法改正論 1 『立憲民主主義の論理と教育・マスコミ改革』

2007年01月21日 10時56分30秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

  灼熱の  夕陽は入りぬ  寒の海


   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 津屋崎の浜は、夕陽の名所である。

 玄界灘が吹き付ける寒中に、燃えながらジュ~ッと湯気を立

てて夕陽が沈んでゆく。

 そのようなダイナミックな光景なのである。


 その太陽を、人のものだと思ってはならない。

 

 『人間中心主義』とは、身分制社会に対するアンチテーゼで

はあっても、神を無視する傲慢であってはならない。

 その傲慢が、支配と戦争、堕落と独裁の温床となるのであ

る。

 

 

 

【民主主義の危険性】

 『民主主義』とは、『共産主義』に匹敵する危険性をはらんで

いる。

 一見理想を語っているようであって、未成熟な社会に持ち込

むと、堕落と恐怖を招くからである。

 

 共産主義は貧乏の平等と恐怖政治に陥った。

 同様に、民主主義は大衆民主主義の状況の中で、政治的

無関心と匿名の独裁者というべきマスコミ独裁の弊害を現し

つつある。

 民主主義が長生きしているのは、競争の原理が働いてい

るからである。

 エリートが殺されていないから、社会が支えられている。

 

 

 

【民主主義の生命線~ 教育とマスコミの正統性】

 

 民主主義の生命線は、高度の国民教育である。

 その教育の柱には、国家と一蓮托生の責任感(郷土愛・祖

国愛)と、人として如何に生きるべきかという宗教教育(倫理

道徳)が不可欠である。


 自己中心を排除しなければならない。


 国のため、他人のために生きるという価値観が根底に確立

しなければ、民主主義は転落してゆくであろう。

 ゆえに、教育とマスコミの正統性を確立することが不可欠の

改革課題なのである。

 

 

 

 

 

 

【マスコミの正統性システムについて】

 教育改革だけでは不足である。

 マスコミの正統性を如何に統制するかが民主主義に欠かせ

ない課題である。

 

 マスコミを商業として認めるためには、経済的規制が欠かせ

ない。

 さらに、権力的影響力をマスコミ企業に与えてはならない。

 経団連、経済同友会など、スポーンサー企業連合がマスコミ

運営権限と責任を持つべきである。

 消費者による民主的統制が働くシステムである。

 

 マスコミの弊害は無視できない。

 国民教育責任がマスコミにあるにかかわらず、偏見と堕落

は目に余る。

 マスコミに対する理性的な統制を如何に計るか、具体性を

持ったマスコミ憲章が必要であろう。

 法の支配の確立である。

 

 『マスコミといえども、神と法の下にあり』というマグナカルタ

を確立し、番組審査制度と事後的責任追及制度も必要にな

るであろう。

 

 マスコミ独裁は、表現の自由の問題ではない。

 権力の問題である。

 民主的統制の問題である。

 国民に対する影響力、政治的影響力は国家権力というべ

きだからである。

 

 「表現の自由の優越性」というマスコミ権力の呪縛を解か

なければならない。

 『表現の責任論』こそが人権なのである。


 
自由権という言葉は憲法から削除すべきであろう。

 人権とは、幸福な人間関係論でなければならない。

 権利という言葉自体もふさわしくないであろう。

 「人権」とは、本来、人としての、国民としての道であり、責

任である。

 人権の章を、『人を幸福にする権限と責任』と表記してはい

かがか。

                            梅士 Baishi 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 自由について⇒ 人権論 ①        

2007年01月20日 15時22分07秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

  ストーブと   バッハの波に    書を浮かべ


      馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 バッハの旋律には神の光が射してくる。

 音楽は霊的である。

 普通には精神的というのだろうが、現代の精神は脳みその電気信

号らしいのだ。

 そうであれば、精神的という言葉はバッハに失礼である。

 音楽はすっかりCD化されてしまったが、豊かな時間を感じるには、

アナログなレコード針がよい。

 

 ヨーロッパでは再びレコード人気が高まっているらしい。

 アナログには伝統の儀式のような豊かさがある。

 デジタルは粒子であり、アナログは波である。

 どちらも光の性質である。

 

 ならば、今後、微細な光学的アナログ波のレコードとその波を拾う

光ピックアップの針を開発すれば、光のレコード針で温かなアナログ

の音楽を楽しむことができるのかもしれない。

 

 

 

《自由のゆくへ》

 人生を左右する岐路では、信じるか信じないかという選択を迫ら

れる。

 学校の選択も、職業選択も、結婚も、そして信仰も。

 選択をするのは、その人の価値観、人生観である。

 すなわち、「自由」とは選択であり、その本質は信仰のごときもので

ある。


信じる力、それが人生を左右する。




 目に見えて証明しなければ存在するとは言えないとして、目に見え

ない世界を葬るのが科学信仰である。

 すなわち、現代の科学認識は、物理的現象世界に閉鎖された視界

に過ぎない。 

 

  しかし、科学論理や現象は所詮現象にしか過ぎない。

 それは、物事の本質を意味しない。

 目に見えない本質の手がかりが実証的に捉えられることがあると

いうに過ぎない。


 目に見えない本質の原因もまた、目に見えない世界にその端を発

しているはずである。

 科学は唯物論の呪縛を解くことにこそ最大の課題があるというこ

とに気づかなければならない。

 自由の本質もまた同じである。

 

 たしかに科学技術は多くの便利を提供してきた。

 さまざまな事象の仕組みの一端を認識させてもきた。

 しかし、善悪の観念や美意識を見失わせてもきた。

 唯物論の罪である。

 仏神を排除する罪ということである。


 目的合理主義の「目的」そのものが問われているにもかかわらず、

方法論の合理主義ばかりが先行した。

 

 

 

              朝もやの橘湾

 


 自己中心の自由、これが、現代社会の重い病気である。

 しかも、その自己とは、肉体我の欲望である。教育の実態でもある。

 「美しい国日本」とはおよそ違った方向の「自由」がまかり通っ
てい

るのである。

 

 唯物的自由とは、肉体我を束縛しないことである。

 権力によって束縛されないこと自体が人権としての価値だというの

である。

 その結果、「信仰の自由」とは信じない自由を含むという。

 同様に、「学問の自由」も学問をしない自由を含む。

 「職業選択の自由」にしても何を選ぶかの自由だけではなく、
職業

を選ばない自由、経済活動をしない自由(ニートの自由)も人権とし

て国家は尊重しなければならない。

 

 これが憲法学者の唱える人権論の論理的帰結になる。

 倫理道徳なき国家論が前提の人権論が展開されている。

 


 なぜ信仰なのか。

 信仰が人間の幸福にとって本質的な価値だからであろう。

 信仰なくしては倫理道徳も人生の試練も不合理なものとなるであ

ろう。

 

 なぜ学問なのか。

 学問が人間の幸福の資源となるからである。

 学問なくしては心の豊かさは得がたいものだ。

 大切なものであるからこそ人権の項目に上がっている。

 人権とは、「幸福」に本質的なものとして尊重されるのである。


 

 では、幸福とは何か。

 それは、人間関係としての幸福にほかならない。

 他人に喜んでもらえることの幸福と言ってもよいであろう。

 そのために人は己を磨き、役に立つ人間になろうと努力する。

 

 ところが、憲法学者の幸福論は、個人としての幸福論、欲望
の幸

福論である。

 ただし、他者との利害関係でやむなく制限されることがあるという

論理である。

 もらうことの幸福、奪うことの幸福、それが現代人権論である。

 実に醜悪である。

 美しくないのである。

 だから、憲法制定には、憲法学者にとらわれてはならない。

 


 人間は神、仏の子であろうと思う。

 創造する権限を与えられているからである。

 しかし、小さな神様が無数に産み落とされた。

 そこに、善悪の起源がある。

 子供たちがその偉大なる親を知って、力を合わせて新しい繁栄を

めざすところに善という観念がある。

 堕落すること、傷つけること、嘘をついて裏切ることは悪である。

 

 確かに人は、堕落することもできる。

 犯罪人になる選択もできる。

 しかし、その選択を人権として国家が保障するとはいわないであろう。

 裸の自由には、選択可能性という意味はあるが、その選択が正し

いことを意味しない。

 選択には、必ず責任を伴うものである。

 

 好ましくない選択に対しては非難され、制裁されることがある。

 それを、自由権の保障というのは、言葉の意味として適切ではない

であろう。

 正しい選択を示唆することが憲法としての人権論でなければなら

ない。

 項目だけの人権論に学問としての価値はないであろう。


 

 新しい、日本国の憲法を制定するに当たり、人権の本質に「善」

という観念が必要である。

 「人間関係としての幸福を探求するところに人の道がある」とい

倫理道徳の観念が必要である。

 人の支配ではなく、『王といえども、主権国民であろうとも、まして、

マスコミ権力であろうとも、神と法の下にあり』。

 『立憲民主主義』の本旨である。

 

                        馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 

                諏訪の池の鴨

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 組織犯罪への対処、企業評価基準としての雇用・賃金体系    

2007年01月19日 23時32分48秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 大寒の   清めし手水に   手を清め

     馬糞 Bafun  

 

 

 

 

 里の水も凍るという大寒。

 清めの寒さというべきか。

 とは言っても、暖冬ではある。

 

 は生物の繁栄を許さない厳しい季節である。

 木立は葉を落とし、鳥も動物も命がけで春を待つ。

 いわば、孤高の厳しさがある。

 孤高はシンプルであり、清純で美しい。

 自然の厳しさには、研ぎ澄まされた美しさがある。

 

 しかし、人の世の厳しさには、信頼を裏切る邪悪な心の闇が広がっ

ている。

 これには美しさがない。

 だからといって、都会を離れ、孤高の世界に篭ることは人間の本

に反する。

 人は関係の中に生かされているからである。

 

 では、人は関係としての邪悪にどう向き合ったらよいのか。

 いじめに遭遇している子供たちの苦しみでもある。

 自然の中にありながら、なぜ、人の心に邪悪があるのか。

 自然は神が創られた世界である。

 だから美しい。

 人もまた、神が創られた。

 ならば、人も美しいはずだ。

 本来はそうである。

 

 

 

 

 

 しかし、人の心は創造する権限を神から与えられた。

 それは、孤高の美しさにはない、繁栄への挑戦であったろう。

 繁栄とは関係としての美である。

 その難しさは、個人としての意識が関係という目標を見失うところ

にある。 

 

 人間の邪悪は、神としても新たな創造への試練であるに違いない。

 だからこそ、人は善良でありつつ、邪悪と向き合ってこれに光を当

てなければならない。

 神もともに戦っているのだ。

 

 



《組織犯罪への対処》


 組織犯罪といっても、その正体はボス一人である。

 犯罪組織は、恐怖でつないだ尻尾で悪事を働く。

 だから、尻尾をたどってボスを見つけ、頭から一人一人押さえ込む

ことだ。


 そのためには、善の力を結集し、圧倒的な光の束となって悪党の

ボスを白日の下にさらし、隔離して制裁することだ。

 徹底的に監視し、悪事を引きずり出すことである。

 学校にも、制度的に警備会社等の監視員をおいて、問題児を監視

するとよい。

 学校を治外法権としてはならない。



 ボスをつぶせば悪の組織は崩壊する。

 なぜなら、悪の勢力はばらばらだからである。

 悪は自己中心であり、孤独な闇である。

 組織犯罪といっても、それは信頼関係でつながってはいない。

 自己中心を取っ手に、恐怖という鎖で繋がれているにすぎない。

 断ち切られたいと願うもろい鎖である。

 

 これに対して、光は無限の相乗的な関係として結び合うものである。

 連携し、結集することが大切なのだ。


 

 神は、孤高をもってよしとはしなかった。

 だから、人を創った。

 ゆえに人は、孤高であってはなるまい。

 関係の美を探求しなければならない。

 繁栄をこそ求めるべきである。

 高貴で豊かな人間関係を作ってゆくべきである。

 

 人間関係は誠意によってつくられる。

 愛によって希望をもつ。

 智慧によって強くなる。勇気によって道を切り開く。

 

 

 

 

 

 

 

《新しい企業評価の基準・・・ 雇用と賃金の体系》

 企業もまた同じである。

 恐怖によって繋がれた組織になっていないか、反省すべきである。

 誠意と愛による絆が、巨大な智慧と勇気を生んでゆく。

 経営者は、孤高を気取ってはなるまい。

 ましてや恐怖で社員をつないではなるまい。

 

 人を動かす力は、命令ではない。

 愛である。

 正しさである。

 神の意に叶った願いである。

 人々に尽くす誠意と愛と智慧と勇気を日々に反省しなければなら

ない。

 そうでなければ、その企業は錆びてしまうだろう。

 

 不二家という会社もまた、恐怖政治の企業になっていたことであろう。

 買収され、再建しようにも、人間関係を総入れ替えにしなければ悪

い体質は変わらない。

 

 生活が成り立たないような雇用は、誠意のない経営者のする
こと

である。

 低賃金の会社は、会社としての存在資格がない。

 競争を悪いものにする企業である。

 

 企業のモラルとして、消費社会のモラルとして、家族を養える賃金

を基準として組み立ててゆかなければならない。

 低賃金の企業は、社会的に貢献できない会社、信用のない会社で

ある。

 

 従業員の豊かさ、幸福度による評価が重視されるべきであろう。

 そのような格付機関があってよい。

 社員を貧しくする企業に投資してはなるまい。

 力を貸してはなるまい。

 企業に注がれるべき光は、正しい基準を持った市場の監視ではな

いだろうか。

 会社四季報にも、企業の賃金体系を明らかにすべきであろう。

 

 教育とは幸福な人間関係とは何かを考える基礎作りである。

 企業の使命は幸福を増産することにある。

 れこそが、教育の本質であり、企業の倫理であることを忘れてはな

るまい。

 

                        馬糞 Bafun  

 

 

 

 冬の雲仙にセンダングサの小花が咲いていた。山に入ると、セーターにいっぱい

くっつくやつだ。

 

 

 


  春遠く   数ゆる花は   冬枯れの

  草の波間の   渡し舟かも               


       白川 馬草 Magusa

 

 

 

 

 

 

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+ シベリアの月暮れ難く・・・ 団塊世代引退の戦後~ 「スポーツ観光」の提案   グランドゴルフ

2007年01月17日 08時15分09秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

      

 

 

 シベリアの   死地暮れ難き   暮れの月           

               馬糞 Bafun

 

 

 暮れ難くあり   老いし此岸に


   白川 馬草 Magusa

 

 

 

 

 

 

  団塊の世代という言葉が定着している。

 戦後の第一次ベビーブーマーたちが、今年2007年から定

年退職を迎える。


 

その親の世代は、太平洋戦争世代である。

 昭和5年の金融恐慌、軍靴が高まる戦前と、さらに筆舌に

尽くし難い敗戦そして、貧困の戦後の辛酸をなめた。



 父はシベリア抑留の悲惨をくぐりぬけた。

 しかし、戦後を生きるために炭鉱にもぐらざるを得なかった。

 炭鉱も過去のものとなったが、死と隣り合わせの戦中、戦

後だった。

 あまりにも悲惨で、定年後も贅沢は罪だった。

 その跡継ぎが団塊の世代である。

 

 




 

 

 

 

【団塊の世代のルネサンス】


 

  団塊の世代は、集団就職に始まる高度経済成長世代であり、学生

運動世代でもある。


 その彼らが定年退職の時期を迎え、次々と組織から開放される。

 彼らにとっても、戦争のようなビジネス人生をがむしゃらに働いて

きたに違いない。

 その戦いは勝ったのだろうか。

 結局は「バブル崩壊」とかで、未曾有のデフレ時代のまま

に引退となる。

 いわば、戦後が始まる。

 

 

 しかし、敗戦の卑屈はないであろう。

 中世的抑圧から解放された彼らの団塊のルネッサンス始まろう

としているのかもしれない。

 子育ても終わった。

 これからの10年、エネルギッシュな彼らは退職金を片手に、最後の

激動を開始するに違いない。

 



 まずは、欲しかった贅沢な一品と贅沢な時間であろうか。

 よみがえる60年代の青春は、田舎を拾いに帰るのかもしれない。

 親孝行もしたいではないか。

 祭りもにぎやかになる。


 地方の時代を作るチャンスである。

 

 

 

 

 

スポーツ観光立国のすすめ

 

  アクティブな彼らを九州やまとの国に迎えようではないか。

 そのためには、一人でもスポーツが楽しめる観光というコ
ンセプト

が必要だと思う。

 スポーツガイドも必要だろう。

 そうすると、一人旅でもスポーツを楽しむ観光旅行ができる。

 そうした、スポーツ観光を自治体ぐるみでサポートするとよい。

 まず、投資してみることだ。

 

 水泳ができる観光地、モンゴル馬で乗馬ができる観光ホテル、

ポーツスチュワーデスとグランドゴルフが楽しめる国民宿舎・・・。        


 

 夫婦で楽しめるニュースポーツにも注目したい。

 たとえば、雲仙小浜温泉から車で15分くらいのところに諏訪の池

という所がある。

 そこに、官営の国民宿舎があり、スポーツが楽しめる。


 

 その一つにグランドゴルフがある。

 歩くリハビリにもなりうる楽しいスポーツだ。

 そいうところをNHKは宣伝すべきなのだ。

 

 スポーツ上がりの温泉、温泉上がりのビール・・・。

 健康スポーツこそは、九州国にふさわしい観光資源である。

 

 

 


   起伏のあるコースで楽しめる『グランドゴルフ』


 

 

 スポーツだけではない。

 ピアノやギター、CDが作れるスタジオを用意してもよい。

 趣味が楽しめる観光、これを是非、創意工夫したいものだ。

 

                            梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 グランドゴルフは一人でも楽しめるが、一緒にプレイしてくれて、

写真も取ってくれるサービスがあると人気にもなると思うのだが・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+  学校正常化・・・ 法治主義・宗教教育学校の建設を。

2007年01月15日 07時02分31秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

  門松も   恵比寿も納め   小正月

     馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 

 十日恵比寿も納まり、門松もとれた小正月。

  小正月というと、すこしほっとする。

  さあ、2007年が平常に戻って、かぶとの緒を締めなおす心地で

ある。

 

 さて、2006年は戦後61年、さすがの戦後も還暦で折り返したの

だから、新しい時代が始まっていなければならない。

  始まっていなければ、日本は殻を脱げなかったということだ。

  滅亡の一途を辿るということである。

 

 しかし、財政改革、行政改革、教育改革が始まった。

  安部新政権も誕生した。

  株価の1万8千円付近まで戻ってきた。

 台湾に日本の新幹線が開通し、トヨタが実質的に自動車業界のトップ

に立ったことも、日本の技術大国としての新しい時代に入った象徴

と思える。


 

 新しい時代が始まった。

  これは、福音である。

  福音には気づかなければならない。

  希望の時代が、早春の足音のように、確実に始まったのである。

 

 これから世の中に出る若者の中には、歴史的に名を残す優れた

英傑がたくさん出ているはずだ。

  その子供たちを悪魔のいじめ犯罪から守らなければならない。

  いじめシンジケート問題は日本の未来のために早急に排除しなけ

ればならない病巣である。

 

 既存の学校は、悪質な教職員が占拠し、これを法的に排除するこ

とはできないであろう。

  スクラップ・アンド・ビルドで行かなければならない。

 

 法治主義の正常な学校を用意するためには、新しい小中学校を

建設しなければならない。

  ただし、宗教教育のできる私立でなければなるまい。

  公立学校改革としては、教職員を民間委託する公立学校という体

制が不可欠であろう。

 早春の仕事である。

 

 財政再建も避けては通れない。

 これを増税問題としてはならない。

  その病巣は、肥大化して発展の力を削いでいる公務員である。

これを切り取らなければならない。

  「福祉」という名の自己肥大を崖から突き落とさなければならない。

 独立採算ということが彼らに残された道である。

  原点に立ち戻るべきである。

 「セルフヘルプ」、自助努力である。

 自助努力を国家が支えるのである。

  これを教育するのである。

                      馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 寒九の風・・・ 幸せ産業のすすめ

2007年01月13日 23時02分14秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 めじろにも  寒九の風が  ぴゅうと吹き

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 今朝は気温5℃、少し暖かいが、まだまだ寒い日々が続く。

 小寒から数えて9日目、寒九という。

 この日に雨が降ると豊作なのだそうである。

 

 寒い日が続くとインフルエンザが流行る。

 宮崎では鳥インフルエンザで大量の鶏が死んだ。

 今日にも8,000羽を「処分」するのだそうだ。

 鶏も運動不足なのではないのか。

 

 運動不足でいかにも不幸せな鶏の卵は、安くてもいい気持ちがし

ない。

 放し飼いにしてのびのびと生活している鶏の卵はないかと見るの

だが売っていない。

 幸せな卵には健康で幸せに満ちた栄養素が詰まっているもので

ある。

 養鶏の形も変わらなければならない。


 

 そこで提唱するのが、「幸せ産業革命」である。

 鶏だけではない。

 企業もまた、健康で幸せな社員であってこそ、幸せな商品、幸せ

が詰まったサービスを生み出すことができるものである。

 

 では、社員の幸せとは何か。

 仕事のやりがいと健康と家庭の調和であろう。

 仕事のやりがいとは、意欲を持って創意工夫することである。

 経営者自らがその範を示して推奨しなければならない。

 

 健康については、大半の企業で軽視されている。

 すなわち、運動不足が制度的に解消されていないということである。

 いわば、鳥インフルエンザに罹った養鶏場のようである。

 そうであってはならない。

 

 平日の勤務時間中に、スポーツタイムを設けることを提唱したい。

 また、産学官が連携して、スポーツクラブの設立を進めてほしい。

 平日が活用されてこそ、スポーツクラブの経営も成り立つ。

 さらには、プロスポーツも地域スポーツ振興の役割がある。

 教育産業としての役割である。

 

 学校では体育が軽視され、スポーツ文化は国民に普及していないが、

スポーツは人づくり、街づくり、国づくりの主要な柱であることを認識

してほしい。

 すなわち、教育、都市計画、国家制度の根幹に属する最重要課題

だということである。

 

 幸せな卵を生み出す産業革命ということを、この九州国から発信

しようではないか。

                       馬糞 Bafun 

 

             スポーツクラブは都会のオアシスである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 十日恵比寿の大漁・・・ 繁栄の条件

2007年01月12日 15時12分20秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 大漁の  恵比寿の子らの  十日かな

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 日ごろは村はずれに閑古鳥が鳴いているほど人気のない十日恵比寿

神社である。

 それが一転して大都会のような賑わいだった。

 なにしろ、自分がどこにいるのかが分からなくなるほどの人並みなの

である。

 そして再び、閑散となった・・・。

 不思議な神社だ。

 

 

 

【繁栄の条件】

 商人の町、博多の面目躍如というような熱気あふれる十日恵比寿

大祭であったが、繁栄するためには、神の目から見て繁栄すべき理由

がなければそのようにはならない。

 努力によって証明される人の願いが神の願いに同通するとき、偉大

な他力が働くということではないか。

 そこが大事である。

 

 人々が幸福になるビジョンと創意工夫、これがビジネスの本義で

あると思う。

 では、人々が幸福になるビジョンとは何か。

 人生は修行である。

 修行者にとっての幸福とは何か。

 そこにヒントがある。

 

 修行者を励ます要素、学ばせる要素、指導する要素、すなわち、

教育的要素が商品やビジネスモデルに求められる要素ではないか。

 

 

 

【ネット社会と倫理・道徳】 

 

 ネット社会の村八分、「グーグル八分」という怖い本を読んだ。

 「悪徳商法?マニアックス」というサイトを運営している吉本敏洋氏の

著作である。

 Googlといえば、便利な検索エンジンとして世界の70%にも達し

ようかという独占的な市場シェアを持っているらしい。

  ドイツでは90%、イギリスで75%、日本でも40%超という独走態

勢を広げているそうである。

 

 そこに新たに発生している脅威として、『邪悪なネット犯罪』とともに、

『検索エンジンによる村八分』、および、『名誉毀損罪を導入とする

司法権力の悪用』という問題が浮上しているようである。

 表現責任と司法権力という、現代社会の弱点が問われつつある。

 

 検索エンジンといえば、ネット社会における住民基本台帳(人別帳)

ないし電話帳のようなものである。

 そこから恣意的にはずされるということは、村八分にされるというこ

とである。

 

 不特定多数の人に発信しているサイトにとっては、ネットによる表現

手段を事実上失うことを意味する。

 ということは、検索エンジン運営会社というのは、ネット社会の政治

権力という性格を持っていることになる。

 

 ネット社会というのは、精神世界といってよい。

 純粋に表現社会だからである。

 一種の霊界といってもよい。

 現代のネット社会は地獄の勢力が幅を利かせている。

 現代社会の反映であるとも言える。

 特に、色情地獄阿修羅地獄が野放しに拡大している状態である。

 

 社会が正常に機能するためには、秩序がなければならない。

 法と取り締まり権力がなければならない。

 人々に責任感(倫理道徳)がなければ、権力は暴力的支配を及ぼ

さざるを得ない。

 すなわち、ネット社会における国家秩序の確立が今後の課題であり、

どのような国家となるかは、人々の人格的成熟度に比例する。

 モラルが低ければ、民主国家には遠くならざるを得ない。

 

 今後、検索エンジンの国営化ないし国家的規制が課題となるだろう。

 ルールが守られなければ、商業の発達も繁栄もない。

 

 ネット社会はおぞましさと危険に満ち溢れている。

 これを秩序立て、清浄化しなければ、ネットの暗雲はさらに深刻の

度合いを増して広がることであろう。

 倫理道徳教育は、Web2.0革命といわれるようなネット社会による

発展可能性の生命線なのである。

 邪悪なネット社会に正義の光を!

 

                         馬糞 Bafun 

 

 

 

                        島原藩・千々石湾の元旦

 

 

 

 

 

 

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+ 水鳥並みて・・・ 成人の日に 「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」

2007年01月08日 16時20分40秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 初春を  水鳥並みて  指し行きぬ

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 祝いの席に一指し舞うほどの優雅さを身につけたいものだ。

 舞もまた、歌心である。一人舞うもよし。

 天知る、地知る、人知る、我知る。

 よき事もまた、自ずと知られ、天の宴となろう。

 ゆえに、一人にても美しく正しくありたい。

 

 己を小さくするのは、自己保身である。

 保身のわが身の小ささよ。

 人生は捧げものであってこそ心を尽くすことができる。

 「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」。

 その本意は、窮地限りのことではあるまい。

 人の道ではなかろうか。

 

 「自分が何をしたいのか分からない」という若者が少なくない。

 ならば、したいことを捨てればよい。

 その欲を捨て、献上するべし。

 献上するからには磨くべし。

 献上の物は極上である。

 その人生を何に捧げるかをこそ考えてみよ。

 「何をなすべきか」と問うて見ることだ。

 

 人は多くの義理を受けて今日ある。

 その義理は倍返しに返すべきである。

 その義理をどれくらい大きく捉えることができるかがその人の器量

でもあろう。

 

 大人気ない成人式が引き継がれていよう。

 その者たちは、いじめ犯罪と同根であろう。

 暴力があれば、厳しく処罰すべし。

 己に身を投じる者は徳を失い、悪に身を投じる者は処罰される。

 

 この世に克服すべき貧困、救済されるべき貧困は尽きることがない。

 貧困をなくすのは豊かな智慧である。

 悪をなくすのは善である。

 闇をなくすのは光である。


 

 今日は初恵比寿。

 一年の大半を閑散としている博多の十日恵比寿神社は幻の都の

ように賑わっている。

 商売繁盛の願いもまた、豊かさであり、善であり、光である。

 成人の日の今日、若者たちの心に刻んでほしい願いである。

 

                         馬糞 Bafun 

 

 

 

 初春を  水鳥並みて   指し行きぬ

   行くへは知らず  わが身一つは

                   白川 馬草 Magusa

 

 

 

 

 

 

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+ 霊光明かし・・・ 太陽の神聖と悪魔の論理

2007年01月07日 11時30分06秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 里山も  霊光明かき  初日かな


   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 何といっても正月はめでたく、ご来光は神聖そのものである。

 太陽は、生きとし生けるものを生かしめている。

 生命の根源ではないか。

 その太陽は、おぞましくなく、陰湿でなく、隠れて悪事をなすもの

ではない。

 

 己自身を燃やし、地上のあらゆる生き物にエネルギーを注ぐ。

 我らが心身に漲る生命を供給してやまない。

 すなわち、生命の本質は、太陽のごとくである。

 人もまた、太陽に恥じる生き方をしてはならない。

 

 光のごとく生きよ。

 その明快なる真理が太陽の神聖に他ならない。

 日本という国柄は、日のごとく、太陽のごとく生きることを信条とす

る「太陽の文明」を継承している。


 神道は「神は太陽のごときものである」としてこれを祭る素朴な宗

教である。

 教えがないといわれるが、「太陽のごとく生きよ」という教えは曲げ

がたい感謝と報恩の人生道を示すものであろう。

 

 念仏よりも正しい生き方を示す霊験というべきである。

 想像を絶する小学生の残忍な組織的いじめの実態は、子供という

観念を汚すおぞましさである。

 それは、例外ではなく、およそ全ての小中学校に潜伏していると見

てよいだろう。


 

 「うちの学校にはいじめはありません」と言う学校は、極めて危険

で愚かな教職員が支配しているところだといってよいだろう。

 第三者による公正な調査をすれば明らかになることである。

 そのような凶悪な子供が平然と生きており、その親が生きており、

それをおぞましいと思わない同類の教師たちが教壇に立っている。

 彼らもまた、初日の出を仰ぎ、初詣の拍手を打ったのであろうか。

 不思議である。

 

 

 

 

 

  億年の  契りを拝む  初日かな

    馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 

 

【悪魔の論理】

 彼らは、太陽の神聖に対しても嘯くのであろう。

 「太陽は物質に過ぎない。

 その物質環境に偶然生命が発生し、それが偶然に変化して人間

ができたのだ。

 人間もまた物である。

 まして神などいない。

 思想信条は自由である。

 何を善とし、何を悪とするかもまた、人それぞれである」と。

 味噌も糞も、人それぞれであるのだろう。

 

 すなわち、法としての善悪はないということになる。

 太陽のごとき法を認めないこと、これが悪魔の論理である。

 いじめ犯罪の基本信条である。

 彼らにとって、仏神を認めることは不都合である。

 天国地獄を認めることも不都合である。

 

 その不都合を科学の精神のごとく摩り替えて教育基本としている

のが、日本の戦後教育なのである。

 NHKが宣伝しているダーウィンの闇の思想の本性である。

 

 それにしても、NHKには悪魔が潜んでいるとしか思えない。

 おぞましい韓国ドラマを放送し、神を否定するダーウィンを科学の

象徴として放送している。

 公共放送局ではありえない実態がある。

 そのような職員が番組を作っている。

 

 ついでに、日経新聞の悪質さも見逃せない。

 色情経済新聞というべきか。

 色情系の悪魔というべきエロ作家渡辺淳一ものを連載し、その毒

水を世の中に流し続けているのだ。

 これを喜んでいる経営者たちを囲い部数を伸ばそうとしている。

 経済を汚染するメディアである。

 

 「道徳という土なくして経済の花は咲かず」と知るべきである。

                              

                                      梅士 Baishi 

 

 

 

 

 

 山赤く  初日めでたき  湯につかり

 
     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 小寒 猪突の風・・・ 行政改革標的を明示して猛進せよ。がんばれ安部総理!

2007年01月06日 19時35分34秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 


 

 小寒の 猪突の風の 年始かな


   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 一年で一番寒いという小寒。

 文字通り、第一級の寒波が吹き荒れた。

 まさに、猪突猛進の年始と承った。


 その上手を行くのがめじろチュンコさんたちだった。

 座頭市の閃光走る剣のように、木枯らしを縦横無尽に切って飛んだ。

 今日もミカンがおいしかったらしい。

 

 

 
【安部総理の顔】

 さて、阿部総理がどのような政治をやろうとしているのか見えにくい

という批判をされている。

 小泉元首相と比較されてのことである。

 郵政民営化に匹敵する明確な政策目標が見えないということだ

ろう。

 

 しかし、明確だからこそ、官僚を筆頭とする改革反対派の陰謀が

渦巻いているのだ。

 政治家のスキャンダルというのは、目障りな改革派政治家を葬る

暗殺のようなものである。

 

 政治にスキャンダルを持ち込むのは下衆の民主主義である。

 なぜ、今というタイミングにスキャンダルなのか、というケースには

必ず裏がある。

 その裏を暴くことのほうが、問題にたどり着きやすいかもしれない。


 

 安部政権が掲げていることは、郵政民営化をきっかけとする、行

政改革に他ならない。

 これは、憲法改正の土木工事でもある。

 官僚支配とマスコミ支配は統制されなければならないからである。

 そこで、郵政の次の照準をどこに向けるか、明確にするとよいのだ。

 

 

 

【改革の標的】

 

 メスを切り込むべきターゲットは、文部科学省ではないか。

 教育改革は、教育委員会の解体と再編成、公立学校の民営化、

すなわち、公立学校教職員の非公務員化文部科学省の権限縮小

と人員の縮小等々、国家百年の計の大本を大改革することである。

 

 

 

 

 

 

 

【無法地帯の公立小中学校問題】

 

 昨年は、いじめ犯罪の悪質化問題と担任教員・校長・教育委員会

グルとなったいじめ犯罪隠蔽工作問題、小中学生の自殺がクローズ

アップされた。

 しかし、いじめの実態はなかなか明らかにはされなかった。

 外部から分かる明らかな事実は自殺という事実だけだった。

 

 まさに、小学校・中学校が無法地帯となっており、無法者のいじめ

犯罪は想像以上にマフィア化され、悪質凶悪化していることが指摘さ

れる。学校では、加害者への指導も犯罪捜査も法的な処分もされな

い。

 事なかれ主義が貫かれているのだ。

 いじめ犯罪はないという前提である。

 防止教育も、防止対策もない。

 それが教育現場なのである。


 証拠がなければ、何もなかったことになるのが法治主義なのでは

ない。

 被害の訴えがあれば捜索をし、被害者を保護するのが本来の法

治主義である。

 しかし、教育現場には通用しない。

 派出所を設けてほしいという要望も無視される。

 倫理道徳以前の無法地帯となっているのだ。

 

 これが公務員による義務教育現場での証拠隠滅、暴力団顔負け

の闇の組織となった実態である。

 証拠以前に、犯罪予防のシステムがないこと自体が問題なのだ。

 善悪の観念と犯罪予防の意識のない教職員が就業していること

自体が問題なのだ。

 これも急がれるべき行政改革である。

 

 

 

【改革は市場化と人員の刷新にあり】

 改革とは、弊害の元となっている人員を処分し、解雇し、人員の刷

新をすることである。

 人が変わらなければ、改革はできない。

 会社の更生は、経営者が代わり、経営スタッフが代わり、意識が変

わらない社員を解雇しなければ再生はできない。


 大学改革といっても、教授が解雇されなければ変わらない。

 

 

 

【安部政権の旗印】

 これからが本当の改革なのだ。

 戦いである。


 明言すればよい

 『増税しないですむように、まず公務員を大幅に削減する。民営化

し、スリム化し、組織を刷新する。その重点目標は、教職員の民間

委託化を含む組織改革である』と。

 

 教育公務員の多数が敵対するであろう。

 しかし、その何倍もの国民は、安部政権を熱烈に支持するであろう。

 八方美人ではいけない。


 公務員を取るか、一般国民をとるのか。

 これを問いかけて改革政権であることを明示することである。

 

 もし、民主党が反対するなら、民主党は増税政策と公務員保護の

政党なのである。

 争点は明確だ。

 がんばれ、安部総理!

 

                              梅士 Baishi

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+  新年明けまして おめでとうございます。       馬糞 Bafun

2007年01月02日 17時11分28秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 


 純み雪を  
初日の富士に  天降らせ 

        
    馬糞 Bafun

 

 人清めつつ  国清めつつ

                    
    白川 馬草 Magusa

 

 

 

 

 新年明けまして おめでとうございます。

  
   平成十九年 元旦

 

 

 

 

 

 

 花鳥風月、草虫天星の皆様、旧年中は大変お世話になりました。

 本年もよろしくお付き合いをお願いいたします。

 『立憲女王国・神聖九州やまとの国』の基本精神は風流ということ

ではないかと思います。

 風流というのは実に健康で伸びやかであります。

 一人にても楽しく、二人にても楽しい。

 

 老いてゆくことも風流でありますし、馬糞一山、馬草一筋もまた風

流なのであります。

 風流の国は実に豊かです。

 何が何でも心楽しめる国、それが、「九州やまとの国」の基本精神

であると考えております。

 

 歌心というのは辞世の歌の伝統に見られますように、悲しいことで

あっても、歌によって美しい作品になります。

 歌心というのは、日本人の美意識の根幹にある伝統の文化ではな

いでしょうか。

 

 ちなみに、俳諧は写真のような一瞬の感慨を表現しています。

 短歌には対話あるいは、語らいというのがあります。

 

 5、7、5という韻律は、言霊に欠かせないリズムではないかと思い

ます。

 これを崩すことは基本的には散文詩ではあっても、俳句や短歌に

はあたらないと考えます。

 

 最近、汚い言葉が流行っていますが、言霊という考え方からすれ

ば、心がすさんでいるという風に感じられます。

 美学がない。

 言葉を正すことは大切です。

 家庭教育でもっとも大切な部分ではないでしょうか。

 日本はこれから、原点に戻って心を清々しくすること、清めることが

何より大切ではないかと思います。


 

 さて、目を閉じて、富士山の頂に座禅を試みています。

 心を清めたいと思います。

                        田奈 馬糞 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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