道端に たんぽぽ咲きぬ 花地蔵
中村 梅士 Baishi
今日の格言は「罪を憎んで人を憎まず」というものだ
った。
しかし、ああそうですか、とは納得できない言葉であ
る。
悪人にも五分の利、学ぶべきところがあるというのだ
ろうが、なにも悪人から学びたいとは思わないし、関わ
りたくもない。
確かに、裁き心は不幸である。
憎しみも不幸である。
しかし、犯罪を憎んでも犯罪者を憎むなというのは論
理の飛躍である。
犯罪者を離れて犯罪があるわけではないからである。
行為は人を離れてはありえない。
人の本性が行為となって表れるものである。
刑法理論でも、違法性は行為の属性であるが、責任は
人の属性というのが分りやすい分析的視点である。
犯罪者は、行為について人格責任を問われなければな
らない。
問題は、被害者の心の在り様である。
加害者に対して、加害者からも学ぶべきであって憎ん
ではならないというのは随分と論理の飛躍がある。
行いによって裁かれるべきである。
しかし、反省すれば地獄から卒業することもできる。
それを承知で、地獄に堕ちろと言いたい。
それが許しの愛というならわかる。
裁かれることのない悪行がはびこる現代にあって、地
獄の存在は救いである。
この世で裁かれない悪人でも、すでに心は地獄にある。
さらに、死を境にして地獄に堕ちることになる。
憎悪は、悪行による被害である。
地獄に堕ちろというのが愛であろう。
犯罪の最大の実質的違法性は、被害者側に恐怖と憎し
みをもたらすことにある。
それを緩和するために、刑罰権の国家的独占と道義的
責任論の理由がある。
悪行の原因関係にある人こそが裁かれるべきである。
最悪、地獄で反省ができるように死刑執行されるべき
である。
いつまで松本智津夫を生かしておくべきではない。
死刑執行されるべきである。
地獄の炎に焼かれながら反省させるべきである。
それが、正義であろう。
この世での生存が許されない悪行もあるものである。
チャイナや北朝鮮も国家的死罪の裁きを受けるべきで
あろう。
日本独立宣言・神聖九州やまとの国
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