Abtilon(アオイ科アブロチン属)
夕暮れや 提灯花の 薄明り
梅士 Baishi
良い天気である。
歩き疲れた南蔵院の夕暮れに、アブチロンの提灯花が
石垣に群生していた。
アブロチンともアブチロンとも表記される。
学名に照らせばアブチロンの方がよさそうだが、和風
に提灯花が良いと思う。
もっとも、浮釣木という和名もあるらしいが、俳諧に
は提灯花が使いやすい。
小さな花だが、目立つ花である。
ムシトリナデシコ?
この花はムシトリナデシコだろうか。
花茎に粘液があり、虫の侵入を防ぐものらしい。
外来種の植物だが、今は日本の花になっている。
川には荒地花笠が小さな紫色の花をつけている。
生物の多様性は神の創造の豊かさであり、恵みである。
映画、メン・イン・ブラックは宇宙人の多様性をコミ
カルに描いているが、地上に多様な宇宙人が観光や研究
目的でも良いが、共存共栄できる時代が実現するとよい
と思う。
スポーツの本質について考えている。
スポーツ倫理が問われる不祥事がマスコミ的に多発し
ていることでスポーツの品位を貶めていることや、体育
教育の著しい形骸化が子供たちの健全な成長と学校教育
の崩壊を招いていると考えられるからである。
スポーツとは、狭義には勝敗を決する身体運動競技で
あり、広義には心身を鍛錬する運動である。
広義のスポーツがアスリートスポーツを支える密接な
関係がある。
また、文化としてのスポーツには、スポーツ観戦を楽
しむことも含めて、運動コミュニケーションを楽しむ、
あるいは、競争と鍛錬を楽しむ運動文化という性格があ
る。
スポーツは人類の起源と共に始まったというべきだろ
う。
運動は、運動体として作られている肉体には欠かせな
い要素であり、かつ、社会性を持つ活動であるところに、
スポーツの多様性と文化性がある。
戦争や軍事教練と違うのは、運動表現を楽しむ文化か
否かというところにある。
表現文化であるから、主体的で自由な精神が尊重され
る。
また、表現の価値は美しさ、強さ、神聖さを求められ
る。
友好のコミュニケーション、つまり、遊ぶ楽しみにス
ポーツの文化的性質があるのである。
この観点から考えると、目的において、戦争や軍事教
練とは区別されるべきである。
すなわち、体罰や勝利至上主義は忌避されるべきで
ある。
高校野球などには、スポーツの自由性、主体性が著し
く欠けているし、体罰体質が染みついているのも、文化
としてのスポーツ理解が欠けているからであろう。
競争なくして進歩はないが、進歩をもたらす競争とは、
礼節と友情、鍛錬・試練を楽しむ向上心や美意識をもっ
た競争哲学が欠かせない。
こうした競争の美学や自由の精神、そして、ノブレッ
サブリージュという高貴なる精神がスポーツ文化として
教育され、訓練されるべきなのである。
プラトンもまた、スポーツを人間に欠かせない教養と
して大学教育の柱にしていたという。
この点、古代オリンピックにおいてさえも、勝利主義
の野望剥き出しのスポーツだったという誤解があるが、
そうではあるまい。
スポーツには勝利に対する称賛と名誉が与えられる
が、鍛錬を重ね、正々堂々と勝つからこその称賛であり
名誉である。
アスリートの語源に、賞品を意味するアスロンがある。
表彰の意義には二つある。
一つは、勝利者への賞賛である。
もう一つは、大会に参加し、最善を尽くして戦ったこ
とへの賞賛であり、敗者にも与えられるものである。
オリンピックは参加することにありという言葉は有名
だが、その意義は古代ギリシャのアスロンにあったと
いうべきだろう。
そうしたスポーツ倫理は、今も昔も文化と欲望のせめ
ぎ合いとしてあったであろうが、スポーツの本質を、私
利私欲の欲望に求めるべきではないのである。
スポーツは競争教育と遊びのコミュニケーション、そ
して、心身の健康に欠かせない運動文化であるところに
重要性がある。
教育としても、知育・徳育・体育を総合した教育がス
ポーツ教育であると理解するべきである。
教育者は、スポーツを理解し、指導できる者でなけれ
ばならない。
少なくとも、小学校教諭採用試験には、競技力テスト
と体育学テストが加えられるべきである。
以上が、スポーツの定義と文化性から導き出される考
察である。
教育・スポーツの在り方に対して問題提起しておきた
い。
日本独立宣言・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・中村梅士党