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■日本国独立宣言!「日本国憲法」無効宣言、日本軍再構築宣言!

+ 月暦の雛節句・・・ 民主主義とは、政権交代ではなく、官僚社会主義との戦いである

2009年03月29日 13時50分31秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

 娘らの 祝いめでたき 節句かな   

 

     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 今日は、月暦の雛節句である。

 カレンダーをみて、ああ、そうかと気がついた。

 

 かくも忙しきものかという勢いで、三月が過ぎようとしている。

 今年はまだ、桃の花を見ていない。

 かくなる上は、桃の木を植えようか。

 そうしたら、花のころ、桃の節句を思い出すであろう。

 

 雛人形の代わりに、毎年出す歌は、やはり、家持の歌である。

 

 

 春の苑sono  紅kurenai にほふ  桃の花

 下照る道に  出で立つをとめ

 

 

 

  旧暦の桃の節句を最後に、雛人形は箱にしまわれるのであろう。

 

 女性の幸福こそは男の安心であり、子供の幸福である。

 だから、女性は、不幸感覚ではなく、幸福感を磨かなければなら

ない。

 

 女性は本来、気高く美しい魂である。

 子の魂を受け入れる神聖を与えられている。

 

 その女性の神聖を汚してはなるまい。

 女性自らが、その神聖を汚してはならない。

 そこに、女性の人生修行がある。

 

 

 

 

 

 

 

民主主義とは、政権交代ではなく、官僚社会主義との戦いである】 


 大戦が始まろうとしている。

 その流れは、止まらない。

 社会主義体制の下では、不況という停滞は終わらないし、シロアリ

のような公務員による国家蚕食は止まらないからである。

 公費に安住し、革新せず、価値を生み出さず、さまざまな形式や

規制によって国体に巣食っているのが、公務員だからである。

 

 所得税や相続税を撤廃すれば、税務署もいらず、税務職員も要ら

ない。

 何ゆえに複雑な公務を作るのか。

 それが、公務員の巣になっているのだ。

 

 租税制度は単純かつ明快でなければならない。

 キャッシュレスを徹底すれば、送金への課金システムによって、1%

程度でも税収ポイントを課すだけで、国家予算を賄えるのではないか。

 公平の観点からは、GDPの10%を国家予算として紙幣を印刷供給

すればよいのではないか。

 60兆円くらいで、十分に運営できるはずである。

 

 農林水産省関連もいらない。

 教育公務員制度もいらない。

 公務員汚職の温床となった厚生労働省もいらない。

 市役所や県庁の大半の職員がいらない。

 

 そのような、公務員社会主義からの革命ビジョンを明らかにして、

大義を世に示してほしいものである。

 その試算は、公務員ではなく、民間の経済研究団体に委託するこ

とだ。

 

 民主党は、小沢党首の政治資金不正までも弾圧だとして正当化し、

民主党への政権交代こそが民主主義の大義であると言うが、ずい

ぶんとおかしなことを言うものだ。

 

 政権は安定したほうがよいのだ。

 政権交代が民主主義のあるべき姿なのではない。

 

 社会主義的な民主党への政権交代ではなく、公務員社会主義と戦

うべきが、民主主義の革新である。

 官僚規制経済ではなく、自由市場主義経済を本則としなければなる

まい。

 

 資本主義が行き詰まったのではない。

 官僚社会主義が破綻しているのである。

 アメリカのモラルなき金融支配経済が破綻したのである。

 

 経済を生み出すのは、価値を創出する労働である。

 投資には、投資責任があり、融資には融資責任がある。

 そこに求められているのは、リスクとコンサルティングという教育

指導ではないのか。

 それでこそ、価値創出といえるであろうから。

 

                               梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ サントリーモルツはなかったけれど・・・ 夜桜と信仰  日本よ、信仰に目覚めよ!

2009年03月27日 07時47分07秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

 夜桜を 深く仰ぎて 呼吸せり 

 

     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 夜十時過ぎ、仕事を強制終了して帰路に着いた。

 職場の二十二時は、疲れ果てている。

 ところが、自由な空間に出ると、リラックスしてピアノを聴きながらPC

の前に座っている。

 

 帰り道、コンビニでビールを買って、駅前公園の夜桜を尋ねた。

 ビールはサントリーモルツが最高だ。

 ところが、立ち寄ったコンビニには置いていなかった。

 だから、スーパードライ一本にした。

 なんでモルツを置かないんだ!

 

 満開の桜を仰ぎ見ると、視界いっぱいに夜桜だった。

 一人、満開の夜桜を深呼吸して飲む酒の、なんと心安らぐことか。

 一人の時間の幸福はあれ、孤独とはおよそ無縁である。

 

 孤独とは、他人のために生きていない自分への不安というべきなの

だろうか。

 他人のために生きるときに、他人との対話が始まる。

 試練との対話が始まり、仏神との対話が始まる。

 

 他人のために生きるのは、人は一人では生きていないからである。

 生かされているからこそ、自分も他人のために生きるのが自然である。

 自然に反するから、「孤独」という鬱に悩まされるのではないか。

 

 人間、謙虚に生きなければ、他人の評価に翻弄されることもある。

 謙虚とは、仏神と向き合うことで知る畏れであろう。

 やはり、人間には信仰が必要なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

夜桜と信仰


 信仰とは、生き物を創造し、人を創造した創造主を、その根源なる

意思を、真実として信じることができる境地である。

 

 存在するものは創造されたものである。

 創造の原点には、創造の意思がある。

 創造の意思にこそ、存在の意義というべき価値がある。

 

 夜桜をみて、なぜ美しいと感動するのだろうか。

 美意識の根源にも、創造主の価値観がある。

 創造とは、美であり、創造主の意思の一端の働きというべきであろう。

 

 しかし、そのような根源的存在には親しみがたい。

 そこに、救世主という大霊の存在がある。

 いかなる救世主に親しむかは個性によるのだろう。

 キリストか、仏陀か、モーゼか、孔子か、マヌか、マニか、ゼウスか・・・

 

 いかに、偉大なる仏陀であろうとも、自分には直接ではない。

 自分は生来の仏弟子ではないのだろう。

 孫弟子か、ひ孫弟子程度である。

 わが、直接の救世主は、やはり、イエスキリストだと思う。

 

 かといって、いわゆるキリスト教信者ではない。

 牧師や神父には帰依しない。

 むしろ、軽蔑している。

 

 だから、無教会派に近いのかもしれない。

 偉大なる内村鑑三の信仰もまた、仏教に近かったかもしれない。

 至高神は仏陀にちがいない。

 

 なのに、キリストに親しむ心情は如何ともしがたい。

 キリスト教徒嫌いのキリストファンというべきか。

 日本やタイの寺院で一人瞑想することは、教会で祈るよりも落ち

着く。

 キリストと仏陀に親しむ信仰は東西の文明を結び、至福の人生観

をもたらす。

 

 信仰とは、弱い人間のよすがだ、などという軽口の及ぶ世界では

ない。

 信仰とは、人間の自覚のよすがであり、無限の世界観への探求で

あるといってもよい。

 信仰は、穢れやすい人生を神聖にする。

 

 神に祈るアスリートを見るにつけ、日本人アスリートがつまらなく思

える。 

 スポーツは、本来、神聖な文化である。

 それを見失ったとき、賭博になり、あるいは、芸能的になって、品格

を見失うのだ。 

 仏神なくして、道はなく、スポーツマンシップもなく、美の感動もまた

ありえないと思う。

 

 日本よ、信仰に目覚めよ!

                       

                                 梅士 Baishi                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 如月晦日の花・・・ 偽装・民主党の解党を望む

2009年03月26日 07時53分09秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

 如月の 晦日の花の 忙しく

   
      馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 年度末の多忙に、浮き足立ちながら、満開の桜の下をかけてゆく。

 満開の桜に、鳥のように人が集まって写真を撮ってゆくが、やはり

鳥のように忙しく飛んでゆく。

 

 花冷えの空気が、満開の花を引き締めて美しい。

 

 さて、花見の楽しみは、一仕事終えた、花吹雪のころとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

民主党の解党を望む


 小沢党首の政治資金規制法違反事件の対応は、開き直りであった。

 もし、自民党議員の問題であれば、当然、しつこく議員辞職を求める

のが民主党のやり方であろう。

 ところが、検察側の不正な民主党弾圧事件だという。

 政権交替こそは、大義であるというのである。

 

 何ゆえに、小沢民主党に政権交代しなければならないのか。

 何ゆえに、隠れ社会主義政党に交替することが民主主義なのか。

 国民を馬鹿にするにもほどがある。

 

 そうしたお粗末な政治意識で政権をという茶番劇は、日本の恥だと

いわざるを得ない。

 今こそ、一丸となって、政治の信頼をゆるぎないものとして国家の危

機を克服しなければならないときに、民主党という偽装を解体すること

こそが先決なのではないか。

 

 偽装・「民主党」の解党を望む。

 

                                 梅士 Baishi                        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 彼岸明け・・・ 官僚社会主義経済から、市場主義経済に一歩を踏み込め

2009年03月24日 07時57分55秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

   

 

 

 


 一服の 茶とうぐいすに 新しく


  
  馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 朝は、一服の茶と音楽で始まる。

 今朝の音楽は、機嫌のよい鶯の、歌の練習曲である。

 我が家の蜂蜜をなめ、少しづつ、遠ざかっていった。

 

 一服の茶と一呼吸で体がめざめる。

 鶯の一声で、心が目覚める。

 朝の幸せに、一日が始まる。

 実に、ありがたいことである。 

 

 

 

 

 


 彼岸明け 残る浮世の 桜かな


     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 彼岸が明けた。

 花見の霊たちが、一時帰国の浮世を離れ、あの世の生まれ在所

に還っていった。

 さて、満開の桜の下で、この世らしいドンちゃん騒ぎが始まる時

節である。

 

 

 

  

 

 

官僚社会主義経済から、市場主義経済に一歩を踏み込め


 不況克服の経済政策は、経済の自由化にある。

 すなわち、公務員の許認可によるさまざまな規制を撤廃し、大幅

な減税をし、公共事業については、公設・民営化を進めることである。

 節約も大切なので、無駄な公務員をリストラすることや、予算単年

制を革めて、余剰資金の繰越を認めることである。

 

 あらためて、国民に問うことではない。

 自明のことである。

 

 大切なことは、経済のモラルである。

 まさに、「道徳という土なくして、経済の花は咲かず」である。

 

 国民を信頼してこその市場主義経済である。

 信頼にたるだけの教育があってこその自由であるが、それは同時

に民主主義の前提でもある。

 民主国家というならば、国民に信頼する自由化を進めるべきであ

る。

 しからざれば、官僚社会主義の失敗を繰り返すことになる。

 

 みよ、日銀の金融政策こそは、今日の不況を招いたといえる。

 デフレに安心感を覚える体質に問題があるのだろう。

 

 日銀独裁の金融政策を見直し、銀行の自立・独立を進める必要が

ある。

 地域経済を繁栄させる銀行を育て、金融資本力と人材による信用

を高めて、金融政策を実施させることを考える必要がある。

 『「30兆円」の銀行紙幣の発行を』という、月刊Liberty4月号の見出

し記事があったが、一見突拍子もないことのようでありながら、良く考

えると、官僚社会主義からの脱却という自由主義経済の根本が提言

されているように思われる。

 

 こうしたことを、政治家は提言してゆくべきなのだ。

 政治家は智慧ある者に習って、その正義と勇気で発言し、実現し

てゆくべきである。

 

                              梅士 Baishi                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 春の彼岸花・・・ 不況下の経済政策とは

2009年03月23日 08時17分34秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 


  吹く風に  梳kusikeduri りつつ  水仙花

 

            馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 長崎の野母崎半島の岬には、水仙花の名所がある。

 水仙が咲くのは、岬の丘に冬の冷たい風が吹き付ける季節であ

る。

 博多の陽だまりに植えられた水仙の花をみても、びゅうびゅうと吹

く北風を感じる。

 びゅうびゅうと吹き付ける北風に、岬の丘にすわる人魚姫が黒髪

をなびかせているかのように、色こゆく香るのである。

 

 北風色の白い花びらに、黄色い花冠をつけている。

 美しく高貴な花だが、彼岸花科の毒草である。

 春の彼岸花とは、水仙のことであったのか。

 

 彼岸とはいえ、秋ほどにあの世のことを思うわけではない。

 

 

 

 

 

 


 彼岸とは 楽しかるべし 咲く花の 


 浮世を離れ たどる岸辺に



   白川 馬草   

 

 

 

 

 馬草は、女流歌人である。

 この世の者ではない。

 俳諧は独り言の感慨だが、短歌は二人の対話なのだと教えてくれた。

 呼びかけてこたえる。

 その馬草から、久しぶりに、彼岸の歌が降りてきた。

 

  もうすぐ桜が満開になる。 

 彼岸に咲く桜は、一段と美しいことであろう。

 訪れる人々も憂いなく、笑顔で花を楽しんでいる。

 

 浮世の花も美しいが、人の心は、花ほどに純粋ではない。

 波立ち、憎しみや、不安や、嫉妬で穢れてもいよう。

 浮世は、長居するところではない。

 

 早々に仕事を済ませ、彼岸に渡りたいものだ。

 ところが、浮世はままならない。

 なすべき仕事も遅々として進まない。

 

 所在無く浮かぶこの世なのではない。

 しかし、行方を忘れたら、行方不明の世の中になる。

 行くへとは、仏神の招く方向である。

 仏神を尊ぶ謙虚を忘れてはなるまい。

 

 

不況下の経済政策は


 不況対策を尋ねるという番組をやっていた。

 どれも、財政出動を伴うものばかりで、すぐに実行できるものはない

という酷評に終わった。

 

 不況とは、私利私欲の歪にほかなるまい。

 仏神を尊ぶ謙虚を回復すればよい。

 

 不況を招いたもうひとつの原因は、農業・漁業、金融、教育、建築

などさまざまな分野で経済活動の規制が多すぎるということである。

 自由化すればよいのだ。

 国民を信頼しなさいということだ。

 不都合がおこれば、その度に対処すればよい。

 余剰公務員はリストラし、新しい産業で生み出される雇用チャンス

に期待すればよい。

 

 財政出動については、日銀から特別融資を受ければよい。

 国が豊かになれば、借金棒引きという日銀のサービスもあるだろ

う。

 不況とは、金回りが悪いのだから、まずは、通貨を供給する産業

復興政策が有効である。

 

 実施できないというならば、政府にその覚悟がないということである。

 如何。

 

                                梅士 Baishi         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 旅立ちの花の下・・・ 失われた日本史  親ばか社会主義を反省せよ  

2009年03月22日 15時02分12秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

 


  旅立ちし 後の桜の 花の下

 

     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 桜の花が咲くころには、進学、就職の門出と別れの季節でもある。

 ちゃんと親離れ、子離れして、へその緒を切らなければならない。

 

 それにしても、今年の春は暖かい。

 田植えの季節でもあるかのような雨が、芽をふきだしたばかりの

葡萄の若芽に雫している。

 

 以前は、花の季節に雪が降ることもめずらしくはなかった。

 京都の雪、狭山湖の雪・・・ 花と雪との光景がよみがえる。

 

 願わくは 花の下にて 春死なむ 

 その如月の 望月のころ

 

 今月11日が、如月の望月であった。 

 西行法師の歌は、花が咲くたびに思い出す名句である。

  このような歌は、ひな祭りにお雛様を取り出して祝うように、毎年

引き出して祝う歌であることよ。

 

 そのように、夏といえば、持統天皇の歌である。

 

 春過ぎて 夏来るらし白妙の 

 衣干したり 天の香具山

 

 

 ちなみに梅のころといえば、王仁博士wanihakase 大鷦鷯

oosazakinomikoto 、奈良大和朝廷の第五代の天皇、後の仁徳天皇

の皇位継承を予言したとされる歌が思い出される。

 

 ちなみに、奈良大和朝廷の初代は、日本武尊の弟、成務天皇であ

り、二代目は、日本武尊の子、仲哀天皇、三代目は、三韓征伐で知

られる神功皇后、四代目は神功皇后が宇美八幡で産んだとされる、

宇美町生まれの応神天皇、そして、五代目が、名君と誉れ高い、仁

徳天皇である。

 

 http://www5e.biglobe.ne.jp/~tennou/ten-7.html

 

 

 

 ところが、こうした日本史の根っこにあたる英雄たちが、「日本史」

からは抹殺されている。

 韓国政府に遠慮してのことらしい。

 

 そのいきさつは、渡部昇一著『日本史の真髄・古代・貴族社会篇』

に詳しい。

 

 

 難波津に 咲くやこの花 冬こもり 

 今を春べと 咲くやこの花

 

 さて、このような花が、今の日本に咲いているのであろうか・・・。

 

 

 

  

 

 

 

親ばか社会主義を反省せよ


 精神的未熟児ないし、障害児というべき子供が増えているように

思う。

 その背景には、学校のいじめ犯罪か、家庭障害がある。

 ヒステリックな親、過保護な親、いいなりに金だけを出す親、家庭

崩壊の親・・・。

 国が戦争をしなければ、学校の中や家庭で戦争をするのだろうか。

 

 親は、自分たち以上に子供に期待すべきではない。

 子供は、親の身代わりではない。

 子供は子供の人生を生きてゆく。

 親は、子供に新しい未来を託して死ねるのだ。

 それだけでも幸せなことである。

 

 親の援助が、努力に関わりない社会主義的支給になってはなら

ない。

 親子平等主義で、「子供のやりたいように」というのでは、親として

のアドバイスにはならない。

 子供は迷ってしまうだろう。

 

 また、投資条件として、努力を求めなければ、成長は望めない。

 神と人との間にも契約があるように、親子の契約は大切である。

 経済が成り立たなければ、長続きはしないものである。

 

 親は、所定の年限、子供の教育のために出資をする。

 しかし、子供はその出資に対して卒業責任を負わなければなら

ない。

 親は、投資の収支が壊れないように、投資年限を切って、一定の

成果もまた求めるべきである。

 

 しかし、出資者が、うるさく指示をだしてもならない。

 自由がなければ、修行は進まないからである。

 

 

 

 

 

 

 

 子供にやる気がなくて、学校にも行かないというなら、放り出して

自立させるべきである。

 家を出てもらい、自活させるべきである。

 

 その結果、フリーター生活でも仕方がないではないか。

 その代わりに、子供に老後を見てもらうという期待も失われる。

 親は、その覚悟を持てばよいだけの話である。

 

 チャレンジしないことによる失敗からも学ぶ必要がある。

 チャレンジしないことが失敗かどうかは、節目節目に問わなければ

わからない。

 就職か進学かを問わなければならない。

 進学には、学ぼうという意欲と責任が必要である。

 それがなければ、義務として就労しなければならない。

 これがルールである。

 

 家庭に問題があって、子供の精神的健康が失われている場合は、

その原因から隔離することが療養となるであろう。

 そのためには、親がそのことを自覚しなければならない。

 家を出て、学校に行くなり、就職するなりできるよう、自立独立の

環境を整えるべきであろう。

 

 親とろくに話さず、暗く引きこもって、学校もサボるようであるなら

ば、やはり、そうした家庭環境から自立させるべきなのである。

 そうした事実を受け止めて、家庭から出すべきなのだ。

 

 ところが、それもできない「やさしい」親が共倒れの選択をし続けて

いる。

 20歳を過ぎたら、刑事責任も負う立場になる。

 そのときから、家を追い出すべきである。

 そうした者たちのために、工場労働、職人の下働きなどは有効であ

ろう。

 そうした者たちが、犯罪者とならないように、社会人教育を受けさ

せて自立させる就職支援学校が、最後のよりどころとなるのではな

いか。

 好きなことをやるための学校ではない。

 自立するための社会基礎力を訓練するための学校である。

 

 

 

 

 

 

 子供を守る時期には徹底して守ってほしい。

 無法地帯となっている学校から子供を守るのは、親であり、警察で

ある。

 警察もそのことを自覚するべきである。

 学校警察隊を編成してはいかがか。

 

 

 親は、子供に対する物資供給の義務があるのではない。

 子供は親に資金提供させる権利があるのではない。

 親は、愛情によって、子供を育てるのである。

 子供は、親のおかげで教育してもらい、自立を支援してもらってい

る。

 感謝しなければならない。

 

 教職員は、公務員の身分を剥奪されなければならない。

 それ以外に、学校教育の建て直しはできないだろう。

 公務員社会主義では、仕事ができなくても、悪い仕事をしても、解

雇されることがないからである。

 すなわち、イノベーションとは無縁である。

 

 教育は、教職免許でするものではない。

 教職免許という発想も、官僚社会主義の発想であろう。

 イノベーションがなく、時代遅れの官僚支配による規制に他ならな

いからである。

 ところが逆に規制を強化しようとしている。

 愚かなことである。

 

 自助努力して、いつでもリベンジできる開かれた競争社会にしてゆ

かなければならない。

 

 自助努力とは修行である。

 競争とは、向上する楽しみである。

 

                                 梅士 Baishi   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 初鶯・・・ 独立の気概  独立国家日本の使命 

2009年03月21日 08時29分26秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

 

  わが宿の 鶯鳴きぬ 風の先  


     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 春分の前の朝、鶯が鳴いた。

 びっくりである。

 わが宿の目と鼻の先で、メジロの後から柿や蜂蜜を食べに来たあの

鶯に違いなかった。

 

 朝の音楽を消して、しばし、奥山の秘蔵の歌を聴いた。

 わが宿を旅立つ歌であったかもしれない。

 いよいよ、本当の春になった。

 

 

 

 

 

 

独立の気概
 

 桜が咲き始め、鶯が鳴き始めた。

 さあ、この一年も戦うぞ、と思う。

 戦いとは、創造的挑戦のことである。

 

 人生は修行である。

 試練は粘土である。

 その粘土に試行錯誤して、新しい形を創造する。

 試行錯誤とは、創意工夫であり、失敗を重ねながら学ぶことである。

 失敗を恐れることはない。

 失望をこそ恐れるべきである。

 

 独立の気概なくしては戦いはない。

 それを平和とは言わない。

 

 独立の気概なくしては、修行もまたない。

 依存するものに、試練に立ち向かおうとする勇気も責任もない。

 

 独立とは、他の支配を許さない武の正義である。

 しかし、神からの独立ではなく、神への決意である。

 

 独立とは、経済自立の責任であり、与える側に立つ志である。

 独立とは、神の目から見て、けなげでいじらしい生き様である。

 与えられる権利を主張する者たちには、感謝をする謙虚さも、独立

者の栄光もなく、見苦しい。

 

 わが愛するメジロも、鶯も、ヒヨドリも、強く、美しく、けなげである。

 彼らは、そのような伝統に生きている。

 人もまた、独立の伝統に生きるべきである。

 

 そして、仏神の心を体現する者として、新時代の創造に自助努力す

るべき責任がある。

 果たして、日本国に、そのような気概があるのか。

 ないならば、中国の属国として日本は滅亡し、亡国の歴史が刻まれ

ることになるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

独立国家日本の使命


 第一に、日本は、自ら独立国家とならなければならない。

 独立国家としての気概と力を示すべきである。

 侵略国家の不正を許さない、毅然とした武力を持って、周辺国家の

独立を安堵すべき役割がある。

 しかし、核兵器は保有すべきではない。

 兵力のロボット化、核兵器無力化技術、宇宙軍事基地の開拓に展

開すべきである。

 

 国家がないことが平和なのではない。

 武力を持たないことが平和でもない。

 それなくしては、民族の独立も、個人の良心の独立も保たれないで

あろう。

 

 現代は、それぞれの隔絶された地域で育ってきた民族文化が、やっ

と、国際社会を意識し、独立に目覚めたばかりの時代である。

 民族が、その伝統と文化を、独立国家として集大成し、国家

として自立するべき課題に取り組んでいる段階である。

 

 現代国家とは、そうした揺籃期を過ぎて、国際社会を形作る青年期

の姿ともいえる。

 この段階で、国家を融合する社会主義思想は、侵略国家の思想に

ほかならない。

 この危険思想をもった侵略国家が、隣国に支配力を強めている。 

 だからこそ、独立国家としての、武の正義が必要であるのだ。

 

 アメリカは、独立に対する侵略を取り締まる国際警察の正義を国家

の大義としたナンバーワンの国家であった。

 これからは、このアジア太平洋にあって、日本がその役割の一部を

果たすべきである。

 

 

 

 

 

 

 第二のビジョンは、教育的影響力をもって、周辺諸国家の教師となる

べき使命である。

 多くの国が、与えられた経済で豊かになるが、貪りの無教養が自立

を妨げている。

 品格がないのである。

 宗教的教えがあるのに、実際の経済生活には反映していない。

 何よりも、品格の教育が必要である。

 その上で技術教育が定着する。

 ああ、しかし、日本の教育事情でもあるかのようではないか! 

 

 宗教的教育の核心は、「敬天愛人」「自助努力」という言葉に集約さ

れている。

 

 人を愛するということは、人の心に明るさと安らぎを与え、人を生かし、

大きな信頼を与えて見守るという「与える愛」に他ならない。

 それは、敬天の心による、仏神の愛の反映である。

 仏神を敬い習うことを、信仰というのである。

 それこそは、私利私欲からの革新であり、教育の本質である。

 

 やはり、教育の革新がなければ、国家は育たない。

 その役割を、日本が担わなければならない。

 それなくしては、本当の経済繁栄はないからである。

 

 

 

日本よ、理想国家の範となれ 】 


 

 日本は、理想国家としての模範とならなければならない。

 武門の美意識と、宗教的美意識を伝統に持つ、唯一の文明国家で

あるのだから。

 何ゆえに神々は、日本文明を育て守ってきたのかを考えなければな

らないのではないか。

 

 そうしたことを、教育家や政治家たる者は、熱く語る使命と責任があ

ることを自覚するべきである。


                                 梅士 Baishi   

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 桜咲く・・・  「百年一度の大不況」というマスコミ社会主義の影

2009年03月18日 08時06分33秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 



  残り梅  数える花の 花咲きぬ       


     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 暑さ寒さも彼岸までというが、春の彼岸に入った。

 再び箒のようになった梅の枝に、点々と残った花に安堵していたが、

ついに桜が咲いた。

 博多で一番早く咲く禅寺、乳峰寺の桜を見上げると、なんと、花が開

いているではないか。

 

 さくら咲く!

 もはや、一斉に桜の花が咲き始めた。

 いよいよ、人も、仕事も、2009年という年も、本格的に動きはじめる。

 

 

 

 

 

   

 

社会主義的雇用対策への疑問】 


 「ワーキングプア」「格差社会」「派遣切り」・・・。

 どれも、「百年に一度の大不況」というNHK型キャッチコピーで宣伝さ

れている、『社会主義の復権』キャンペーンである。

 

 マスコミの宣伝に乗るかのように、国民へのばら撒き政策が繰り出さ

れている。

 マスコミに、CM料が支払われているのではないだろうかと疑う。

 だから、「視聴者の受信料で賄われています」という放送局を認める

べきではないのだ。

 これを『電子政府』というのではないのか。

 

 同じように、自立できない子供のなんと多いことか。

 「子供がやりたいように・・・」と言いながら、アルバイト人生や引きこも

り人生と同居して、だらだらと許して続ける。

 

 しかし、社会主義とは、貧乏共倒れ主義である。

 国民を自立させない、子供を自立させないのは、政府や親の支配な

いし存在理由にするためであろう。

 それで、幸福になったためしがない。

 

 人が求め続けたのは自由ではなかったのか。

 憲法は自由人権の宣言ではなかったのか。

 自由とは、自助努力である。

 自由とは自己責任である。

 人生とは、修行だからである。

 

 

 

 

 

 

政府が果たすべきべき経済政策


 福祉の考え方を、社会主義から転換しなければならない。

 

 政府や官僚は、かしこぶって景気対策、雇用対策などと考えないほ

うがよい。

 考えるべきは、国民の活動しやすい環境を整備し、いざというときの

ために資金をためるという、社会資本整備に徹することだ。

 そのためにやるべきことは多い。

 交通革命である。

 エネルギー革命である。

 さまざまな研究開発投資である。

 さまざまな教育投資である。

 スポーツ環境整備である。

 

 基本は、公設民営化だ。

 資本主義の失敗なのではない。

 国民にモラルが欠けたからであり、政策に社会主義が忍び込んでい

るからに他ならない。

 

 今こそ、試練の自由責任主義、修行の自助努力主義を経済の基本

にすえるべきときなのではないか。

 

                                  梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 残り梅・・・ 就職難の真相  敵は己のうちにあり

2009年03月16日 08時22分50秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 


  残り梅  数えし枝の  風ぬるみ       


     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 三寒四温というが、その寒いという風も、すでにぬるんでいる。

 淡雪のように香った梅の花も、かろうじて、早春の名残の花を二つ

三つ残すばかりである。

 もうすぐ、西行法師の春がくる。

 

 

 

 

 


  水深き  桜色かな  冬牡丹 

 

      馬糞 Bafun

 

 

 

就職難の真相


 

 許された猶予期限が迫って、学生たちはおそるおそる就職活動に駆

け回っている。

 不況といわれ、就職難といわれ、戦々恐々として、それでも、あれが

いい、これはいやだと選んでいる。

 

 しかし、人生は修行であることを忘れてはならない。

 武士道を忘れてはならない。

 人生は、死に甲斐を求める旅でもあるのだ。

 

 敵は己のうちにあり。

 それこそが、就職難の本体であろう。

 この国を、滅ぼしてなるものか!

 

 

                               梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 台湾の花、蝶のように舞う・・・ 陸の国・海の国  リーダーの悩みと役割・使命と政策と愛

2009年03月15日 07時59分00秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 


  羊蹄花Youteika  二蝶舞いたり  東シナ  


     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 台湾を、中華民国と称していた時代があった。

 蒋介石亡命政府の名称が、国名として用いられたのである。

 台湾が蒋介石率いる国民党独裁亡命政府の植民地となり、何万人

もの台湾人が殺された。

 

 亡命政府の欲から、一国政府という矛盾を突かれ、独立国家とし

ての国際的地位も確立できない苦境にある。

 さらには、中国共産党政府の植民地支配の脅威にさらされ続けて

いるのである。

 

 李登輝総統を得て、やっと、長い、国民党一党独裁による植民地支

配が終わりを告げた。

 民主主義という市場経済による繁栄のシステムが機能して、近代国

家としての実力を備えてきたところであるが、今もなお、植民地支配の

危機と隣り合わせている。

 

 今は、国民党といえども、台湾という国に対する愛情が育っているで

あろう。

 中国は、あまりに欲を広げすぎた。

 侵略された周辺国家は、いずれ、宋のように、元のように、清のよう

に、中国をねじ伏せて支配しようとするであろう。

 中国というプライドをもつならば、中原に限って豊かな国を目指すべ

きであった。

 

 再び、五胡十国時代のように、春秋戦国時代のように、分裂と戦乱

を繰り返すのであろう。

 陸の国と、海の国は、住み分けたほうがよいのだ。

 日本は、海洋国家としての連合を組むとよい。

 

 その上で、大陸国家インドや、ロシアとの友好通商を進めてゆけば

よいのだ。

 日本と韓国がうまく行かないのも、半島とはいえ、大陸続きの国と、

海洋国家の生き方の違いが対立を生むのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

リーダーの悩みと役割について


 組織の舵取り、それがリーダーの責任である。

 さて、日本はいかにあるべきか。

 

 リーダーシップに行き詰まって悩んでいるリーダーは少なくないだ

ろう。

 人心掌握ができず、さまざまな利害対立が陰口となって職場の空

気を悪くしてくると、リーダーの責任が問われるようになる。

 ましてや、組織の存続がかかるイノベーションの時代では、一人

ひとりが、ストレスに直面している。

 

 企業も国家政治も、統治が難しい時代なのである。

 

 そこで、リーダーの役割とは何かという原点に返って考えてみる必

要がある。

 

 リーダーとは、組織の采配をふるって組織力を高め、豊かな社会

作りに貢献する立場にある。

 そのためには、人心の掌握と、舵取りの判断力、決断力が問われ

る。

 

 組織としての叡智を結集すれば、個人の叡智に不足があっても補う

ことができる。

 だから、もっとも大切なことは、ボスのために働くという求心力を持つ

ことである。

 ボスに私利私欲があっては成り立たない

 

 

 

 

 

 

 人心掌握とは、支配することではない。

 尊敬されることであり、信頼されることである。

 そのためには、私心がないということ、すなわち、使命感と愛をもって、

部下をサポートすることである。

 試練の中にあって、苦労を共にすることである。

 励ますことである。

 尽くすことである。

 幸福を願うことである。

 

 リーダーは、愛を与える立場にある。

 部下を生かす立場にある。

 そのために、信賞必罰、公平無私の秩序を保つ立場にある。

 そして、責任をとる立場にある。

 

 悩みの渦中にあるリーダーは、己の使命感を、仕事に対する情熱

を、部下に対する愛を、謙虚に問い直してみるとよい。

 

 使命感は、私事であってはならない。

 組織としての使命でなければ、人心は集まらない。

 使命、それが、Vishonである。

 

 組織として果たさなければならない使命、役割こそが、統治せしめ

る。

 仕事のやりがいであり、苦労のし甲斐である。

 日本の政治にもっとも欠けている部分である。

 だから、マスコミの罵りに耐えず、瓦解するのだ。

 

 この、使命があってこその、政策(Policy)である。

 政策論争をする前に、使命をいかに語るかをこそ考えるべきなの

だ。

 

 

 日本の使命とは何か、会社の使命とは何か。

 使命とは、なさねばならない理由である。

 そこに、恐怖や迷いは薄らいでゆく。

 これこそが、個人にも、組織にも、国家にも求められている気概に

他ならないであろう。


                                 梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 台湾の桜、羊蹄花・・・ 原始PC時代の技術革新課題と、通信の秘密の再考

2009年03月14日 17時17分31秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 台湾の  春栄えたり  羊蹄花Youteika

   馬糞 Bafun

 

 

  

 台湾を訪ねたのは二月中旬であった。 

 さすがに南の高雄は25℃前後の暖かさだったが、台

北は18℃ほどで、肌寒かった。

 

 台湾島は、長いこと、マラリアやデング熱などの風土

病に封鎖された未開の地であった。

 人々は、恐る恐る、海岸に巣食っていたに過ぎない。

 

 その台湾の山間部にも道路が通り、茶畑が開かれ、鉄

道が通った。

 それが、戦前の日本人の国づくりだった。

 そして今は、台湾新幹線が快適な高速で台湾の南北を

つないでいる。

 

 その建設は、日本の新幹線技術であったにかかわらず、

ヨーロッパの建設技術者も入れていたために、トラブル

続きで、かなり工事が遅れたらしい。

 それでも、開通してみると、当たり前のようにして走

っている。

 

 ただ、日本新幹線と決定的に違うのは、ホスピタリテ

ィーである。

 なにしろ、窓ガラスが汚れたままで、景色を楽しむに

は不快であった。

 乗務員のサービスも、誇らしくは見えたが、管理者の

ようであった。 

 やはり、日本人の美意識やサービス精神は格別に上質

である。

  

 台湾の春にも、桜の風景があった。

 しかし、桜色に咲き誇ってはいたが、桜ではなかった。

 羊蹄木という、羊の蹄の形に似た桜色の花の姿だった。

 そうえいば、バンコクにも、桜の花に似た花が咲き誇

っていた。

 しかし、桜吹雪の風の風景はない。

 

 春は、南からやってくるのだろうか。

 しかし、南には、日本の春はない。

 春は、冬からやってくる。

 春は、冬に咲く花のようである。 

 

 

  

 台湾に  和の春を見む  羊蹄花Youteika

   馬糞 Bafun

 

 

  

 今週は、難儀が度重なる一週間であった。

 まず、PCがダウンした。

 その復旧に、多大な時間と労力を費やした。

 たしかに、PCとは原始的で不便な道具である。

 

 PCメーカーは、OSを含めた機能を生産するべきであ

る。

 いつまで、ウィンドウズに依存しているのか。

 現代人は、PCによって仕事効率を大幅に落としている

のではないかとさえ疑われる。

 にもかかわらず、なぜ、PCに依存するのか。

 

 それは、通信機能を持った文書作成手段という新しい

メディアを求めているからであろう。

 それは、効率ではなく、新しい道具なのだ。

 電話のように、携帯電話のように、ある便利さをもた

らしつつある。

 しかし、それは、必ずしも、仕事を効率化するもので

はなく、かえって多忙にしている。

 関連して、仕事が増えているのである。

 

 その道具の改良が進まず、いかにも原始的で時間コス

トの浪費を強いているのである。

 その上、時間を費やしたPC上の文書が、一瞬にして消

えた。

 なぜ、自動的な保存機能を持たせないのか。

 

 日立よ、NECよ、東芝よ、SONYよ、再び、この原始

的な道具に、日本的な革命をもたらしてほしい。

 

 壊れやすいハードディスクとOSの呪縛からの解放を目

指してほしい。

  

 

 

  

匿名インターネット時代の通信の責任機能

  インターネット利用資格として、パスポート制度を導

入できないものか。

 そういう仕組みを作ってほしい。

 匿名の通信制度は、犯罪の温床となってきた。

 電話もそうである。

 

 通信の秘密が人権であるというのは、個人的な通信に

ついて、当事者以外には公開されない権利として、私生

活の平穏を守る趣旨である。

 通信相手に対してまで、匿名とする権利はない。

 同様に、不特定多数のものに対する匿名の権利は、通

信者の非公開の権利でこそあれ、絶対匿名とする権利で

はないはずである。

 

 パスポートのごとく、国家と国民の安全を、犯罪から

守るために、公権力に対して、捜査を受けるべき理由が

あるときは、その匿名の権利は失われる仕組みを作らな

ければなるまい。

 そうでなければ、犯罪を予防できないからである。

 無責任な言論が横行するからである。

 

 言論通信によって他人を著しく害する危険性がある

上、その責任追及の手段は、確保されなければなるまい。

 これもまた、通信、言論手段の責任機能として、仕組

まれなければなるまい。

 

 無責任で下品な罵りで政治を害し、不安を煽って経済

を混乱させるマスコミの言論責任についても、責任追及

手段が確保されなければならない。

 言論責任は言論の自由の内容であって、対立するもの

ではない。

 

 自由人権論は、責任人権論の観点から、根本的に見直

されなければならない。     

                   

                          梅士 Baishi

   

 

 

 

 

 

 

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+ 猫会議・・・ 大恐慌だというマスコミの不況責任と 企業の広告モラル

2009年03月09日 00時52分26秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 梅の花 散りましたねと 猫会議

   梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 夜八時、中洲出会い橋あたりにある派出所のような古

い建物の前に、そこいらの猫たちが狭い額をつき合わせ

て猫会議をしていた。

 猫というのは毎晩猫会議をするというが、ほんとうだ。

 「いやあ、梅もちってしまいましたねぇ。」

 「ほんとうですねぇ。」

 「桃の季節なんですかねぇ。」

 「桃尻とかいいますけど、猫尻ほどではないですもん

ニャ~」

 

 一人で散歩もできない犬がかわいそうだと思いながら、

八時の猫会議を通り過ぎた。

  

 

  

 

マスコミ不況と企業の広告モラル


 新聞もテレビも、100年一度の大不況なのだそうで

ある。

 すなわち、大恐慌だというのだ。

 おそらく、取り付け騒ぎも始まって、銀行の連鎖倒産

も始まるというのだろう。

 

 しかし、大恐慌だというような「報道」が犯罪にはな

らないのかは、おおいに疑問である。

 マスコミは企業の広告で食べているはずなのに、企業

を苦境に追い込むような不況風を巻き起こすばかりであ

る。

 

 そんなマスコミに大金をはたいて、CMを出し続ける企

業のモラルもいかがかと思う。

 CMを自粛するべきではないか。

 そうしたら、テレビもCMがなくて、落ち着ける。

 そのうち、番組も作れなくなり、倒産する。

 

 そしたら、新しい放送局を作ればよい。

 買収して、社員を丸抱えというのでは意味がない。

 不況風を吹かせているマスコミにかかわるべきではな

い。

 

 新聞やテレビに依存しない広告手法を考案すべきであ

る。

 多チャンネル化を推進するためにも、既存のテレビ局

ではない、デジタル放送チャンネルを活用すべきである。

 

 ドル紙幣、円紙幣は財政赤字分ほど印刷しても、十分

に支えることができるだけの産業力を持っているはずで

ある。

 日本やアメリカに、恐慌などはありえないことである。

 

 企業よ、既存の思い上がった不吉なマスコミに依存す

るな!

 これもまた、企業のモラルとして問われている課題で

ある。 


梅士 Baishi

  

 

 

 

 

 

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+ 梅の巫女・・・ 中高年の健康と生きがい  生きがいの本質 

2009年03月08日 10時18分18秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

 香りたる 梅の巫女らは 衣kinu  を脱ぎ


   梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 3月8日、日曜日。室内気温16℃。

 まだ、キーボードを打つ手が冷たい。

 

 さて、梅の花が散り納め、桜はつぼみの中で、まだ、手を温

めている。

 春三月の初旬は、梅と桜が入れ替わる間、花が途切れる幕

間である。

 今日の一句はちょっと妖艶であるが、花の巫女(精霊)たちが、

梅衣から、ドレスのようなさくらに着替える、お化粧直しというイ

メージである。

 袖をふってお別れをするよりは、お化粧直ししてまた会えるほ

うが楽しいではないか。

 

 花の精霊は、やはり女性なのである。

 女性はやっぱり華やかで美しい。

 現代の女性に、花の精霊が宿っているのかは、はなはだ疑

問ではあるが・・・。

 

 

 

 

 

老後の人生


 『中高年の健康と福祉』というテキストがあった。

 運動不足にならないように、体力と相談しながらする運動と、

バランスの良い食事と、何らかの社会参加による生きがいが

大切ですよ、という内容であった。

 もっともなことではあるが、最も知りたいことが抜けている。

 

 それは、老後の経済、生計をどう立てるかという問題である。

 健康と生きがいだけを問題にして生きられるのは、退役公務

員とごくわずかな元エリートサラリーマンないし資産家のみで

あろう。

 大半の民間人は、老後の生活不安を抱えている。

 清貧であっても食べて行ければ、生きがいと健康を考えるこ

ともできるだろうが、年金と医療保険という福祉制度に依存し

て解決できる問題ではなくなっている。

 

 結局は、地域や国に頼ることはできない。

 自力で解決しなければならない問題である。

 死ぬまでできる商売を準備しなければならない。

 それが準備できなければ、この世に無用の人生として終焉す

るのが自己責任というべきであろう。

 守られない高齢者とは、この世を退場すべき寿命と悟るほか

はない。

 

 しかし、老後の自己責任の環境として、年齢による社会差別

というべき就労規制、すなわち、定年制度は廃止すべきである。

 仕事における年齢の自由化、これこそが、社会福祉の仕事と

いうべきではないか。

 老後の生活保障あってこその定年制であって、人生80年時

代に60歳定年では、健康と生きがいどころではないのである

から。

 老後の生活保障があれば、若者たちも思いっきり、チャレンジ

して働くことができるのではないか。

 

 

 

 

生きがいの本質について


 もう一つ、生きがいについて肝心なことが触れられていなかっ

た。

 生きがいとは、生きる意味であり、目標であるから、これが見

失われたのでは、高齢者に限らず、生命の健康は自壊する。

 

 ごもっともなテキストには、生きがいをもってもらうために、地

域ぐるみのはたらきかけで社会参加を促進し、あるいは、スポー

ツの楽しみに参加してもらおうなどという、なんとも平和ボケな

生きがい政策が述べられていた。

 

 「生きがい」とは、世の中に必要とされるということでもある。

 ボランティア参加というのも生きがいであろう。

 しかし、何のボランティアなのか。

 暇つぶしのボランティアであれば、かえって迷惑な話である。

 

 生きがいにとってもっとも根本的なことは、使命感である。

 信仰である。

 信仰による無限の向上心(修行)と、神の心をわが心として

責任を果たすこと(使命)が、人間に不動、不退転の生きがい

を与える根源なのである。

 

 生きがいといいながら、信仰の問題に触れられないのが日本

という国であるならば、日本という社会は、なんと生きがいのな

い社会なのであろうか。

 

 必死の役割に生きてこそ、案ずることのない死を賜ることが

できるのではないか。 

 

 気概をもって老後を迎え、気概のうちに、この世を退場した

いものである。

 

 持たざる者への福音は、神は愛をもって、その者にふさわし

い死を下されると信じることである。

 

 『福祉』という奇麗事に、己の人生を汚されるべきではない。

 人生は自己責任として完結すべきである。

 

 人生は、潔く安らかな終焉を迎えられるような生き方をこそ求

めるべきである。

 

 仏神よ、老後に不安をもつ多くの仏の子、神の子たちに、慈

悲深い安らかな死の教えを賜りますように。

 死に甲斐を求めて生きる勇気を賜りますように!


 

                               梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 梅、春に隠れる・・・ 民主党の偽装性、危険性  自民党の虚弱性

2009年03月07日 07時45分08秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

  



 春隠れ 知らぬふりして 梅は散り


   馬糞 Bafun 

 

 

 

 

  まだ、春は熟していないが、啓蟄を過ぎると、もはや早春

ではなくなる。

 梅の花はすっかり花を散らし、早春の香りがひと時の夢でも

あったかのように静まっている。

 その沈黙の中で、さくらの花が、ゆっくりとふくらんでいる。

 ゆっくりと、春のドラマが始まっている。

 

 もうすぐ、卒業式である。

 もうすぐ別れてゆく者たちが荷物を詰めている。

 越冬のさなぎが、殻を割り始める。 

  

 

 

 

 

  

小沢民主党の危険性


 政権奪取のためには手段を選ばない小沢民主党が、違法な

裏金を得ていたことが暴露されてピンチに立たされつつある。

 ところが、西日本新聞などは、自民党幹部の不正疑惑に焦

点を当てて、民主党機関紙のような報道ぶりである。

 地方紙とはいえ、ずいぶんと頓珍漢なことである。

 

 小沢資金の源には、潤沢なロックフェラーの工作資金が流れ

ているという(副島隆彦、佐藤優共著『暴走する国家、恐慌化

する世界』)。

 手段を選ばないユダヤ資本との相性が良いのだろうか。

 

 小沢氏の過去世、伊達正宗のときもスペインとの関係が深く、

海外勢力の援助を得て天下をとることを画策していたことが知

られている。

 ユダヤ資本としては、日本こそは押さえたい要衝であろう。

 日本に、中国と対立してほしくもなかろう。

 日本が中国の自治州になれば、一挙両得がもくろめる。

 ユダヤ金融資本の中国市場攻略の手筋とも考えられる。

 

 しかし、ユダヤ資本にとって、日本に取り入るのは容易では

なかった。

 民族や宗教のちがいから、結局は日本人を使った工作に依

存せざるをえないからである。

 そのために、資金源を通して影響する政権ができれば、日本

攻略は大きく前進する。

 これが、小沢資金問題の背景に潜んでいるのではないか。

 

 そうしたところまでが暴かれるかどうかは別として、小沢氏は、

日本にとって危険な人物であることには変わりがない。

 また、多くの共産主義者、社会主義者を温存する民主党の

政権ができるとすれば、中国への服従色は一段と進み、日本

独立の危機は、内堀まで埋められた大阪城のように致命的と

なるであろう。

 これこそは国の命運にかかわる大事、公然と問いただされな

ければならない問題である。

 

 民主党は、旧社会党との連立ではなく、完全に一体化して社

会主義政党化しているにもかかわらず、アメリカの民主党ブラ

ンドを偽装して、社会主義の看板を隠しているところが悪質で

ある。

 社会主義を温存する背景には、中国の工作資金も潤沢に流

れているのではないかとさえ疑われる。

 社会主義政党の温床となっている民主党の偽装性と危険性

について、与党自民党は徹底的に問いただすべき責任がある。

 

 それができないところに、政党の馴れ合いと、自民党の弱体

化が露呈しているというべきではないか。

 命を懸けて、日本の独立を守るという気概があるのか。

 あるならば、そのことを宣言し、革命の勢いで働くべきである。

 

 日本滅亡まで、あと12年。

 日本を救う、『その時』は訪れるのだろうか。

 八百万の神々よ、いかがいたしましょうか・・・。


                         梅士 Baishi

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 土の花が咲く・・・ 農業の娯楽化、農業の工業化 

2009年03月06日 23時57分56秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

 春の土 地になじみたる 菜を咲かせ  

    

   馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 

  枯れていたたんぼ一面に雑草が草原を作り、白い小さな花

をさかせている。

 土が芽を出すかのような雑草を駆除すれば、土は死ぬ。

 農業には厄介な宿敵かもしれないが、土に住む雑草は土の

生命というべきかも知れない。

 

 雑草たちによって、季節は途切れることなく、人の踏み荒らし

た土に、自らの花を咲かせる。

 雑草の命は、土の生命であることよ!

 

 その命を借りて、人は農業を営んでいる。

 田の草こそは、田の命である。

 雑草と共に生きる農業の謙虚を取り戻して欲しい。

 

 

 

 

 

 

農業没落貴族からの農地開放・・・ 農業の娯楽化と工業化


 農業再生の提案である。

 その一つが、農業の娯楽化である。

 素人が職業として農業を営むのは容易ではなく、重労働でも

ある。

 しかし、自給自足的農業の楽しみに農地が開放されたら、農

薬や除草剤も使わず、農地の荒廃や停滞を防ぐことができる。

 楽しみからは革新が生まれるものである。

 農業の娯楽化を推進するためには、農地の国有化と賃貸制

度が必要であろう。

 

 もう一つは、農業の工業化である。

 土の命は、そこを住処として土の命となっている無数の土壌

菌と雑草である。

 土の命を引き出すための技術革新が求められる。

 

 新しい土の発明や植物成長促進光線の発見。

 そうした技術開発が、農業の小型高性能化につながる。

 楽しむ農業が農村の風景を残し、生産する農業が国の兵站

を支えるのである。

 

 

没落農業貴族から農地を取り戻せ


 農業は不公平な身分制の残滓というべき停滞にしがみつい

ている。

 何ゆえに、減反や助成金やという官僚農業がまかり通るの

か。

 

 公務員の市場主義革命とともに、農業の自由化革命は避け

ては通れない国家存亡の課題である。

 

 農業にあこがれる人が増えている。

 しかし、農業貴族制度が、農業の自由化を阻んでいる。

 自由化を阻む体質は進化が止まっているので没落するもの

である。

 没落農民貴族たちが、農地を荒廃させ、農業の役割をも危

機的状態に陥らせている。

 

 農業は、日本の生命線でもある。

 農業社会主義を延命してはならない。

 


                              梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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