すぶんろこ!のジャパニーズドリーム

■『すぶんろこ』とは、コロンブスの逆転の発想

■日本国独立宣言!「日本国憲法」無効宣言、日本軍再構築宣言!

+ 祝めでたの大銀杏・・・ 来年もよき年でありますように

2007年12月31日 08時02分39秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 


 黄金の 祝めでたの 銀杏咲き


    馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

  来年もよき年でありますように!

 決意して、よいファイトができますように!

 神よ、われらの志と努力を指導したまえ!

 

 

 

 

 雨が降っても、雪が降っても、風が吹いていも、

 これに備えて、人は大いに働くことができる。

 努力しても、すぐに実るとは限らないが、

 努力をすれば、必ず実るものである。

 

 努力なくして得をすることがあれば、

 それは借金をして買ったようなものだ。

 人を陥れて得をしたならば、それは罪として裁かれることになる。

 

 だから、占いに頼ることは何もない。

 自助努力することが、良いことを起こす運命の力である。

 

                                       

                              J.D.Subunroco.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+  蓑生が浦の年の瀬の波・・・  すす払いの日記

2007年12月30日 16時57分31秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 


 年の瀬の 波打つ浜に 一陽入り


      馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

(すす払い日記)

 貧乏暇なし。

 この一年、恵まれた貧者であった。

 感謝。

 

 名もなく、資産もなく、安心もないが、

 ここに貧者の一灯あり。

 貧者とは、天国に入る者のことである。

 この一灯、健在なり。

 

 心のすす払いに出かけた。

 泳ぎ納めが一番だ。

 今年は、13回しか泳がなかった。

 合計1200m泳いだところで、両足がつった・・・。

 痛い!ぶくれそう!

 

 津屋崎の海岸を歩いた。

 強風だった。

 黄砂か?ずいぶん霞んで埃っぽい。

 高速ウィンドサーフィンが滑走していた。

 

 

 

 

 

 

 そのまま宮地嶽神社の長い参道を歩いて、参り納めをした。

 初詣の準備が進んでいた。

 門松が新鮮だった。

 来てよかった。

 

 ああ、おなかすいた・・・。

 希望は餃子を食べること。

 神社からJR福間駅までの途中に、餃子の店がある。

 想いは叶うものだ。

 

 焼きたての餃子をぶら下げて駅へ。

 バスが三台も通り過ぎていった。

 駅に着いた!

 

 「八幡黒崎間の人身事故で列車が大幅に遅れています・・・」

 委細かまわず、ホームで餃子にかぶりつく!

 うまい!

 

 50分待って、あったかい各駅停車に乗り込んだ。

 その間、報道陣に追い掛け回されることもなかった。

 平凡でよかった!

 

 「人生万事塞翁が馬」。

 あせらず、たゆまず、

 「ネアカ伸び伸び、へこたれず」。

 修行の人生は、ドラマチックで楽しいものである。

 

 

 

 


 

 ささ波の   蓑生の浦の   年の瀬に

 

  風吹き重ね 波重ねつつ

 

    白川馬草 Magusa

 

 

 

 

 

 

 

   
               2007年12月29日の津屋崎の浜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 水仙、冬の一花・・・ 新時代への提言 

2007年12月30日 14時46分03秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 


 

 水仙花   北風を待ち   雪を待ち

 
   
馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 なぜ、真冬に咲く花があるのだろうか。

 子犬のように走るわけでもない植物が、冬に花を咲かせるなん

て・・・。

 水仙の花は、雪化粧の庭にもよく似合う。

 北風に吹かれて香り立つ。

 水仙は真冬の花である。

 

 そういえば、山茶花も椿も、雪を待ちかねて花のつぼみを膨ら

ませている。

 風の妖精が花の蜜を吸いに来る。

 

 さあ、この冬に、一花咲かせようではないか!

 

 

 

 

 

 

 

 【さらさらと流れる

 2007年に亡くなった著名人というのが番組で流れる。

 来年も、2008年に亡くなった著名人というのが流れるだろう。

 そのように、いかなる重鎮であっても死んでは困るということは

ない。

 だから、活躍の場というのは、与えられているものである。

 場を与えられている者は、後進を育てる責任がある。

 後進を育てなかったら、その志は別のものに取って代わられる。

 さらさらと、気持ちよく生きてゆきたいものである。

 

 

企業倫理総括

 

1. 企業活動の目的は、利潤の獲得ではない。

 企業活動の目的は、社会貢献としての事業である。

 その志を世に問うことが肝心なことである。

 利潤は、人々の支持を得られているかという指標であり、事業

継続の危機管理指標である。

 

 

2. 安売り競争は消費者の首をも絞める狂気である。

 いろんなものが安く手に入るようになった。

 一見ありがたいことのように思えるが、経済は不安定になり、

収入は下がり、物を大切にしなくなった。

 本物が市民生活から見失われてきた。

 安ければ売れるということで、安いものを供給しようとする。

 粗悪なチャイナ製品が世界を席巻し、本物の技術や物作りが害

された。

 消費のモラルが欠けているのだ。

 消費の質を上げなければ、日本経済の発展はないであろう。

 使い捨ての消費では、豊かな社会を作ることができない。

 

 

3. 低賃金雇用の不道徳

 安ければよいという発想は冷淡な低賃金雇用に走らせた。

 冷淡な雇用は、冷淡な企業社会を作り出す。

 冷淡な心の企業が生み出す商品は、冷たい心を持った商品で

ある。

 消費者の心をも冷やす結果となる。

 

 働く人を大切にしない企業は、即ち、顧客を大切にしない。


 消費者はそうした会社を支持するだろうか。

 企業を評価する基準として、その会社の雇用政策を公表し、

実質的な商品価値の評価ができるようにするべきである。

 本来、企業情報提供をするメディアの職責である。

 

 

4. 株式上場の意義

 株式市場も、拝金主義の泥沼になっている。

 新しい株式市場を作るべき時期に来ているのではないか。

 所有と経営の分離の趣旨を徹底して、議決株は譲渡制限株と

し、無議決株を原則とするべきである。

 企業買収を投機の手段とすることを許すべきではない。

 上場で最も大切なIR情報とは、その企業の目的ないし志であり、

かつ、経営者の考え方を世に問うということでなければならない。

 これに共鳴して出資する民間人は、ともに企業を発展させよう

とする仲間であり、そのように扱うべきである。

 

 株式市場を単なるマネーゲーム市場としてはならない。

 たとえば、福岡のQボードを新しい発想によって変革すると良い

のだ。

 これが、中小企業を市民企業として楽しく育てる母体となるに違

いない。

 

 

 

 

 

 

5. 日本経済革命であらたな発展の希望を

 世界の投資マネーにとって、日本企業は投資のうまみが少ない

マーケットだという。

 拝金主義のファンドから支持される必要はない。

 しかし、あらたな発展の期待が弱いということは問題である。

 

 今こそ、国家政策としての未来産業振興戦略を打ち出し、政府

系ファンドの投資目的とするべきである。

 投資の目的は、産業を育てることになければならない。

 民間資金の参加もOKである。


① 建設ロボット開発&ロボットオペレーター養成プロジェクト

② 小型航空機開発&パイロット養成プロジェクト

③ 小型衛星&ロケット開発プロジェクト

④ 人工臓器開発プロジェクト

⑤ 農業光線開発プロジェクト

⑥ 新エネルギー開発プロジェクト

⑦ インターネット健全化システム開発プロジェクト

 

いずれも、次世代経済発展の芽となるであろう。


                           J.D.Subunroco.

  

 

 

 

 

 

 

 

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+  年末の葉書・・・ 引きこもりのポストに

2007年12月29日 08時52分45秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 


 

 

 年末の   葉書の筆を   右に持ち


   
馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 2割の仕事で8割を制して、仕事を納めた。

 次の課題は読書、泳ぎ納め、すす払い、年賀・・・。

 こうして、2007年が暮れてゆこうとしている。

 

 いろいろと大変なことが立ち現れるものだが、それは、時代も自

分も前に進んでいるからである。

 それは、ありがたいことである。

 人生は一冊の問題集。

 

 人生は、愛と智慧、悟りと発展の修行である。

 『愛とは、相手の仏性を拝みだすこと、悟りとは自分の仏性を発

見すること』だという。

 

 自己嫌悪、自虐の心理とは一体なんだろうか。

 不遜なのであろう。

 失敗し、敵前逃亡し、友を裏切り、嘘をつき・・・。

 それは、未熟ということだ。

 弱いということだ。

 

 それが許せなくて、自己否定し、あらゆる問題から逃げ、事なか

れの引きこもりになる。

 自分の本来未熟ということを認めないほどに不遜なのである。

 

 何回でもトライすればよいのだ。

 人間は未熟だが、練習すればうまくなるものだ。

 自分の未熟を認めることも悟りである。

 引きこもりをやめることは周りの人への愛である。

 

 人生はこれ修行なり。

                          J.D.Subunroco.

 

 

 

 2005年リバイバル(潮騒の五線譜・・・ 人口55億時代の孤独)

⇒   http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/995f1fa87a14bfb088969466efb14a3f

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 陽だまりの紅葉・・・ 年末は心のすす払いを 

2007年12月28日 08時25分51秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 陽だまりに 枯葉干したり 冬木立


   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 しばらく、小春日和が続いて穏やかだった。

 11月の寒さは紅葉のためだったか、紅葉は鮮やかであった。

 そのもみじ葉も、あらかた葉を落として冬木立になった。

 陽だまりに残した枯葉がいっそう穏やかである。

 

 晦日の頃は、雪が降るという。

 今日中には仕事を片付けて、元旦の冬将軍を左団扇で迎えた

いものである。

 

 それにしても、読み残しの本が50冊を超えている。

 それに加えて、カントやヘーゲル、西田幾太郎にも再挑戦したい。

 

 定年退職後は暇だなんて、ありえない話である。

 死ぬまでに、古今東西の名著をどれほど読めるだろうか。

 英語もやり直したい。

 教養語というべきラテン語を紐解いてみたい。

 タイ語で本が書けるくらいになりたい。

 ああ、無限の時間が必要なのだ。

 

 

希望の天国、暗闇の地獄

 あの世では、貯金通帳もEDYも使えないそうである。

 天の蔵に富を積むというが、間違いなく使える富は、心に蓄え

た知識、思想、信仰、感動、感謝、人助けの愛と智慧である。

 

 

 逆に、地獄の蔵に罪を積み上げる現代人が多いという。

 その罪とは、嘘、うらみ、ねたみ、悪口、人騙し、自己中心、排他、

犯罪、不信仰、失望、無気力、自虐、加害・・・暗い心だ。

 こうした心の闇は、除夜の鐘に晒して、執着を断ちたいもの

である。

 

 さあ、年末へのカウントダウン、心のすす払いをしよう!

 

                          J.D.Subunroco.

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

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+ 千手のもみじ・・・ 修行としての人生選択に幸福あり

2007年12月26日 08時12分31秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 幸くあれと   千手を合わせ   もみじ咲き


   
馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 今はもう空を掃く冬木立になってしまったが、ついこの間には、

神々しくもみじが燃えていたことである。

 もみじ葉をみていると千手観音の沢山の手のようにも見える。

 京都に千手観音を見たのはもう三十年以上も昔、学生の頃だった。

 千手なんて、げじげじより大変ではないかと思ったものだが、

仏の救済の手が沢山差し伸べられているという意味の仏像だった。

 たしかに沢山の手が生えているのに、妖怪のようではなかった。

 祈りの姿というのは美しいものである。

 

 

 祈りとは、努力の姿である。

 努力なき祈りはない。

 

 努力なくして、良いことを願うなど身勝手であろう。

 祈りというべき努力は、修行にほかならない。

 人生はまさに修行である。

 修行とは魂を磨いて、魂の底にある輝きを解き放とうとする努力

である。

 

 

 適職とは何かとか、結婚できるだろうかとか、仕事はうまく行く

だろうかとか、知りたいと思うものであろう。

 だから、占いがはやるし、霊能者番組もはやる。

 

 しかし、適職という言葉自体が自己中心である。

 そのような発想からは、満足感も幸福感も得られないであろう。

 

 人生は修行である。

 

 修行としての仕事、修行としての結婚、修行としての日々の営

みの努力、そこに幸福に至る誠実な道がある。

 幸福は自分の手で直接自分の口に入れることのできない性質

を持っている。

 与えることによってのみ得られるものであると、教え伝えられて

きたことである。

 

 与えることの幸福、これを愛という。

 

 千手のもみじに、幸福の手紙が書きしたためられていたのでは

ないか

 

                         J.D.Subunroco.

 

 

 

 

 

 ちはやぶる   神の千手の   もみじかな 


   
馬糞 Bafun

 

 

 

2005年リバイバル(木星探査)

⇒  http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/2816d51b4ef644e221c41651a672a06c

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ クリスマスイヴ・・・  浮ついた恋愛の日にするな

2007年12月24日 18時28分38秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 


 

 イヴの夜も   いつものごとく   飯を食い

 

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 キリスト教会に通っていた頃は、クリスマスは忙しく楽しい期間

だった。

 ところが、教会を離脱してからは、世間並みのクリスマスが実に

うっとうしくやりきれなかった。

 イヴの日は、恋人でもいなければ居場所がないかのような強迫

観念もいやだった。

 

 しかし、悟ってみると簡単なことだ。

 世間がどんなに浮ついていようと、イヴの夜は、一人ですごすも

のなのである。

 それが理性というものであり、平常心というものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だから、寂しいと思っている若者よ、初恋は成就しないものであ

り、イヴはいつもの通り、一人で飯を食うべき一日なのである。

 そこに、餃子とビールなどがあると最高ではないか。

 

 余は、山上憶良を思いつつ、粕湯酒などをとりすずろいて過ご

したい。

 肴は・・・なんか、干物があったろう。

 

 

 

 そもそも、男女の恋心というのは仕組まれた妄想である。

 若いということは、その仕組まれた妄想に気を惑わされやすい

のだが、理性を見失わないことだ。

 

 自由と平等などという、にやついたフランス製のキャッチコピー

をありがたがることがそもそもおかしい。

 自由といい、平等というのは、堕落への誘惑に使われるもので

ある。

 

 その結果、自分が何者か、何を選んで生きてゆけばよいかさえ

わからなくなっている。

 

 自由とは本来、神への自由である。

 神はモラルの塊である。

 

 平等とは本来、神の子としての公平である。

 人間には努力とつりあいというものがあるのである。


 

 努力した結果として「いい男」なのか、

 努力した結果「いい女」なのか。

 

 努力もしないで、幸せの妄想を抱いてはならない。

 それは恥ずかしいことである。


 

 イブの日は、キリストの生誕を祝うキリスト教信者の祝日である。

 

 男と女の浮ついた一日にしてはなるまい。

                                                         

                           J.D.Subunroco.

 

 

 

 

 

 

 

 

 2005年リバイバル(枯葉祭りの狸山)

⇒  http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/09e20d1245f4fb8c121971c7f70a04a1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ やまとの国の聖夜・天皇誕生日・・・ 2007年とは「潜」の年である 

2007年12月23日 18時55分05秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 秋津島 やまとの国の 聖夜かな 

 
  
 馬糞 Bafun

 

 

  

  天皇陛下のご生誕を心よりお喜び申し上げます。

 

             平成19年12月23日 日本国民 那苑馬糞

 

 

 

 

聖夜に振り返る2007年

 本日は、やまとの国の伝統的権威であり、日本国民統合の象徴

である天皇陛下のご生誕祝賀の日である。

 まさに、平成やまとの国の聖夜として、そのご健康をお慶びもう

しあげたい。

 この一年を振り返る意味でも、天皇陛下の誕生日は意義深い。

 

 一年を象徴する漢字として、「偽」があげられた。

 私としては、「潜」という字を宛てたい。

 見えないところで種が仕込まれ、告発され、準備された一年だっ

たと思うからである。

 

 

 

官僚社会主義解体から行政民営化へ

 安部内閣の贈りものとして「国民投票法」が成立した。

 憲法改正が正式に準備されたことの意義は画期的である。

 その安部政権は、官僚の潜在的なリーク攻撃にさらされ、「政治

と金の汚い関係」をことさらに仕組まれたのである。
 

 保険庁のダニ体質は官僚の腐敗であったろうに、それさえもが、

自民党政治の責任に置き換えられて参院選の惨敗に至ったのだ

ら、一体どうなっているのだろうかと思う。

 

 なぜ、厳罰を持って保険庁公務員を断罪し処断しなかったのか。

 断罪の上、始末を民間企業に委託するという方法をとれば、

むしろ内閣支持率は磐石となったであろう。

 この点において、多くの国民は納得できなかった。

 

 

内閣の人事権限を強化せよ

 確かに内閣は行政府の責任機関であるが、責任の前提にある

べき人事権限がなきに等しいことに問題がある。

 公務員が、公務員法で制度的に擁護されているからである。

 もう一つは国会答弁に見るように、情報と政策作りを官僚に依

存しているからである。

 この構造を変えない限り、行政官僚への民主的統制機関であ

はずの内閣は機能しない。


 そのためには、まず、公務員法を改正して、解雇の人事権限を

内閣が掌握することである。

 もう一つは、情報・政策ブレーンを官僚ではなく、アメリカのよう

に、内閣と命運をともにする非官僚組織とすることである。

 

 

【ねじれ国会の意味するもの】 

 こうした構造改革の遅れが、ねじれ国会という厄介な問題に展

開した。

 「ねじれ国会」は憲法の想定内の事態であり、問題はないはず

だが、実際の国会運営では政治の著しい停滞を招いてしまう。
 

 十分に審議を尽くすことは大切だが、限度がある。

 政治効率を無視した審議は許されない。

 国会の審議手続きと議決の効率化を制度的に工夫しなければ

ならない。

 

 二院制に代わる一院二選挙制を憲法改正案として準備すべき

であるが、当面は国会運営法の改正で早急に対処すべき課題で

ある。

 しからざれば、強行に衆議院で効率よく案件を処理する必要が

ある。

 ねじれてはいるが、衆議院は与党が三分の二の議席を持って

いるのだ。

 その強みは最大限に発揮すべきことである。

 

 

企業は経営モラルを反省せよ】 

 「偽」という字をもたらした一連の食品偽装問題が意味するもの

は、社員を大事にしない企業が内部告発で消費者よりも利益を

優先する体質を暴露されたことにある。

 食品企業は、あまりに安いパート労働を強制してきた。

 その罪は、今後さらに問われることになるだろう。

 生活の成り立たない雇用形態は、許されるべきではない。
 

 もう一つ見落とせない問題は、食品を無駄にして捨てることの罪

である。

 消費期限切れということで、食品を廃棄することは、今後見直さ

れなければなるまい。

 命を粗末にすることであり、食料自給率40%という日本がする

べきことでもないからである。

 

 2007年の問題提起を見逃してはならない。

                          J.D.Subunroco.

 

 

 

 

 2007年の出来事

⇒ http://www.maitown.com/soft/nannohi/cam2007.html#february

 

天皇誕生日(天皇陛下談話)

⇒ http://www.kunaicho.go.jp/kisyakaiken/kisyakaiken-h19.html

 

2005年リバイバル(九州やまとの国建設運動)

⇒  http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/4b8de1ec87e2a773ca0e200a2dd4d6fe

 

 

 

 

 

 

 

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+ 冬至の袋・・・ キリスト教とは何か 「信仰とは愛である」 

2007年12月22日 16時50分49秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 収まらぬ 仕事袋の 冬至かな


   
馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 12月22日Sat 冬至である。

 冬至といえば、北欧ではサンタクロースが袋を抱えて煙突掃除

をしてくれるという子供には楽しみな長い夜である。

 サンタクロースの袋は与える愛でいっぱいなのだ。

 

 その袋から取り出されるプレゼントを心待ちにして、大喜びして

くれる子供たちがいる。

 自分にもそういう時代があったなあ・・・。 

 

 そんな風に、子供を育てているのだろうか。

 無邪気で元気よく、素直で勤勉な子供に育てているか。

 そのためには、シンプルでなければならない。

 子供は清貧でよいのだ。

 そうでなければ、サンタクロースは来てくれない。

 

 

 

 

 

  御光が  地に満ちますように  クリスマス


     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

キリスト教とは何か

 サンタクロースの頃がクリスマスである。

 クリスマスはいつも楽しみだった。

 

 夕方、教会に集まってロウソクなんかを準備して、クリスマスキャ

ロルに出かけるのである。

 信者の家を回って、賛美歌を歌い、お菓子をもらう。

 クリスマスの賛美歌は名曲揃いだ。

 

 イエス様の権威は愛にある。

 愛において純粋である。

 キリストの色は神々しい純白である。

 

 愛とは何であるか。

 キリスト教の信仰は、イエス様のごとく生き、イエス様のごとく死

ぬことにある。

 

 イエス様はあこがれである。

 天才的な知性にあふれ、

 この世の計算の及ばない奇跡と情熱にあふれ、

 限りないやさしさにあふれている。

 

 愛とは、若いときには勉学に励み、

 恋の苦悩や嫉妬や貧困にも耐えて修行し、

 努力して止まないものである。

 

 世に出たならば、知性を尽くし、想いを尽くし、命を尽くして、

 人々の心に灯をともすことが愛である。

 世の塩となり、光となることを純粋に願って行動し、

 主を慕ってやまないことが信仰である。

 

 愛は信仰であり、信仰は命をささげる愛である。

 

 その愛を、この世の競争者たちは傷つけてきた。

 競争の目的は愛であるのに・・・。

 愛なき競争は悪であるのに・・・。

 

 私たちは、神への誠実と純粋を、忘れてはならないと思う。

 

                         J.D.Subunroco.

 

 

 

 

  

  

 

  

2005年リバイバル(黄金竜・・・パンセ考)

⇒  http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/5e79035d628659008038a4c6b7aaf7e4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 凍土の風・・・ 21世紀文明考~ アメリカとは何か 

2007年12月21日 08時10分45秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 


 

 シベリアの 凍土の風は 漂流し

 

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 

 切れた電線が風に揺られて時々スパークするように咳が出る。

 ネット通販の家電店から、定価の半額以下の1万円でシャープ

のハイブリット加湿器を購入、枕元にセットして、にんまりとして寝た。

 ああ、何と言う快適!

 両生類の鼻粘膜が久しぶりにすやすやと眠った。

 

 

 

 What the 20th-21th.  What the America?

 

 夏は原爆、冬はシベリア抑留・・・ 

 原爆二世とシベリア二世を兼ねているのだなあと思う。

 

 20世紀は、戦争の世紀であった。

 民族の戦争、交通戦争・・・

 どれも、この時代ならではの悲劇だった。

 

 わずか、2000年ほどの「民族の伝統と誇り」を引っさげて、雌雄

を決しようとした。

 

 建国2000年と200年、黄色人種と白色人種、アジア人と欧米人、

 中小企業国家と大企業国家・・・。

 その主将戦が太平洋戦争だった。

 

 それにしても、日本が戦ったアメリカというのは、一体何なのか。

 民族を離れて国が成り立つのか。

 

 

 

 

 

 

 アメリカは「新天地」として始まった。

 信仰の自由を求めてきたピューリタンに始まったが、

 黒人奴隷と大土地を支配する荒くれの支配階級が生まれた。

 さらには、ヨーロッパから、アジアから、貧困からの脱出と開拓

の夢にひかれてさまざまな人種が移民してきた。

 

 移民による国づくりという実験場、それがアメリカなのか。

 これを指導する神はミカエル。

 

 ルターを介して宗教革命を指導した神でもある。

 清教徒が建てた国アメリカには責任がある。

 そして、新天地に夢を描く、「自由」と「解放」の神というべきか。

 古いことながら、高度の科学文明を引っさげて地球に移民して

きたマゼラン族の長でもある。

 イスラエルという国もまた、パレスチナを乗っ取った移民の国で

あり、ミカエルとの縁も深い。

 

 アメリカは、あれよあれよという間に、産業革命の成果と軍事科

学技術を発展させて世界の覇権を確立した。

 黒人奴隷を含む移民と科学技術と資本を集めたアメリカの文明

実験を経て、21世紀が始まった。 

 

 

 新天地における民族の実験場から何を学ぶべきなのか。

 

 多民族を一つにまとめてきたのは、「移民」というアイデンティティ

ではなかったか。

 しかし、移民の有効期限はそれほど長くは続かないだろう。

 アメリカの覇権は続くが、新文明の標準とはならないであろう。

 

 力の論理は長くは続かない。

 信仰なくしては、国家は長続きしないものである。

 しかし、民族神同士は、力の論理によってその覇権を競ってきた。

 

 21世紀は、戦争という力の論理によらない国際統治が求められ

ている。

 即ち、さまざまな民族神を統合する地球神が求められているの

である。

 その鍵が、この日本にある。

 その鍵を探すべきである。

 

                           J.D.Subunroco.

 

 

  

 

 

 

 

 2005年リバイバル(教育者・教育機関適格)

⇒ http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/a2863bd6f76dd78ffc99cef3e46600d5

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 笑う門に落ち葉舞い・・・  華麗なる老い方について

2007年12月18日 08時12分37秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 


 

 

 老いたれば 笑う門にて 舞散らむ

 

  馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 不覚にも出端の風邪をフルコースで吸い込んでしまった馬糞で

あったが、やっと、デザートまでたどり着いた。

 砂糖代わりの粉薬をまぶして、早々と咳を断ちたいものだ。

 

 日ごろの動きが、いかに元気であったかと、つくづく思う。

 まさに、人は気の塊なのだ。

 

 

 

 もみじ葉は、役割を終えて美しく、愛でられて散る。

 人もまた、そのように老いることができるはずである。

 めでたい老後は、人々の希望になるであろう。

 

 資産形成はままならない競争の結果だが、心境は己が形成す

るものである。

 

 大企業の社員は、さぞいい給料でよかろうと思うものだが、

 その内実は、熾烈な戦国であるらしい。

 個人戦であると同時に、大将が倒れると、主従ともども左遷さ

れるという。

 

 どの会社もというわけでもあるまいが、大手家電メーカーN社の

話だった。

 左遷の終着駅は、購買部と能力開発部だとか。

 そういえば、失意のうちにN社を退職した知人は、購買部であっ

た・・・。

 

 

 『組織、企業には、人の耐震構造というべき適正規模があるの

ではないでしょうかねぇ。

 

 そのバランス運動としての出世競争なんでしょうけど、戦国の世

は沢山の偶然・不公平・不条理を含んでいる。

 企業の常態であってはならないだろうと思うんですよ。

 

 確かに戦の中にも悟りがある。

 どんなに優秀だと思っていても、自分の代わりはいくらでもいる

ということを思い知らされるからです。

 変数Nとして生き残ることに意義があるのではないと。

 

 

 人生いたるところ青山あり、人生の価値観は、ぐっとアングルを

引いてダイナミックに構想したものである。

 

                          J.D.Subunroco.

 

 

 

 

 

 

2005年リバイバル(歌姫・・・天命)

⇒ http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/75372103195038ef1ebe19284d08d21f

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 緋は燃えて・・・ イリュージョン 

2007年12月15日 08時27分38秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 一筋に 立ちし古木の 緋は燃えて

 

  馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 わが胸中は、免疫軍とばい菌軍の戦場と化した。

 抗生物質などに頼るものか。

 30年ぶりに、39度を超える高熱だった。

 そしてまだ、勝敗は決していない。

 

 その苦しい戦の合間を縫って、『動物と人間の世界認識』

(日高敏隆著・ちくま文芸文庫¥840)を読んだ。

 キーワードは「イリュージョン」。

 幻想とか幻影とか言う意味らしいが、

 主観的世界観というほうがわかりやすい。

 

 たとえば、ダニは動物に取り付いて生き血を吸い、卵を産み付

けるために生きている。

 その世界観の要素は、動物の発する酪酸のにおいで動物に落

下し、体温と皮膚感覚をたよりに吸血する。

 

 猫、モンシロチョウ、ミナミアゲハなどの例が挙げられている。

 結局、科学的、客観的といったところで、「イリュージョン」の一形

態に他ならないというのだ。

 科学万能主義に対するアンチテーゼとして、人は謙虚であるべ

きだといっているのではないか。

 

 神の眼から見たら、人間の世界観もダニに近いかもしれない。

 すなわち、神から見た人間の世界は、粗末なイリュージョンだと

いうことにもなる。

 科学を盾に、信仰のイリュージョンをあざ笑うことは不遜である。

 

 そういう文脈をわがイリュージョンとして痛快であった。

 

 唯物論、科学万能主義こそは、精神文明を崩壊する禍に他なら

ない。

 過去、幾多の文明が滅亡し、一からやり直すことを繰り返してき

たが、科学の発達が心の荒廃をもたらしたからである。

 

 科学などという、人間の五感と手探りの論理で確認したことが客

観的事実だ、真理だと思い込むのは不遜であり、ましてや、魔女

狩りのように、オカルト世界を裁くなどという愚行は、ダニ以下で

あろう。

 現代にそうした人間が過半数に達しているところに、終末の世

界観が出てきたことでもある。

  

 科学者の世界観から、霊感や直感を取り去ったならば、科学は

その開発力を失うであろうことも忘れてはなるまい。 

 

 心の眼を見失ってはならない。

 

                           J.D.Subunroco.

 

 

 

  

 

2005年リバイバル (博多港の秋波・・・海洋文明を再興せよ)

⇒ http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/9a22e06d1ebb8f63fa4643dd57f5a219

 

 

2005年リバイバル (チェンマイの春)

⇒  http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/16d84be38386ad3bb262cae87d9dac61

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 深々と暮れ・・・ 引きこもりという独裁者について

2007年12月11日 17時47分07秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

  鐘の音を 深々と研ぎ 暮れてゆき


 
  馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

  深々と冷え込みながら、年の瀬もあわただしく深まってきた。

 寒いというのと、冷え込むというのはずいぶんと違う温度差である。

 冷えるだけではない。

 あまりの乾燥に耐えかねて、干からびた蛙のように鼻の奥の粘

膜が突っ張って風邪を引いた。

 

 この乾燥に耐える方法はないものか。

 蛙は水辺に住むこことにした。

 仕方がない、アトランティスの理性に帰って加湿器を買うことに

しよう。

 ああ、鼻の奥に両生類が住んでいたとは・・・。

 

  

 

 

 

 年の瀬は 寺の石にも しぶきして 


   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 石灯籠がずれている。

 それは静寂の趣であったろうが、

 心せかれる年の瀬の流れにぶつかって、

 残り少ないけじめの時間にしぶきしているように見える。

 さて、この年を、何としたものか・・・

 

 さてさて、大晦日までがけじめの時間である。

 ああ、世間胸算用・・・。

 

 

引きこもりという独裁者

 引きこもりの青年は、穴から出てくるだけで、親を落胆から救う

とができるというのに。

 そんなことには目もくれないのである。

 そんなそぶりで、いたわってほしいのか。

 自分はだめな人間だと、暗い心の闇で、周りを暗くする。

 失敗しても失敗しても、また立ち上がろうとする青年をこっけい

だというのか。

 何回やってもうまく行かなくても、また立ち向かおうとする青年を

いとおしいとは思わないのか。

 

 やればできるという信仰が、青年を立ち上がらせるのだ。

 周利槃特(しゅりはんどく)のように。


 

   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%88%A9%E6%A7%83%E7%89%B9

 

 

 

 素直でないということが、すべての敗因である。

 素直でなければ、どうして人間関係の海に浮かぶことができる

だろうか。

 自我力で抗っても、他人を幸福にすることはない。

 

 自助努力と自我力とは違うものである。

 

 自助努力とは素直に習って努力するのであり、

 自我力とは、他人を排して意固地になることである。

 

 意固地な心から、どうして他人の喜びが生み出せるだろうか。

 他人の幸福を生み出さずして、どうして心が晴れるだろうか。

 

 引きこもりの青年たちは、周りの愛すべき人々を不幸にしてい

る独裁者である。

 手出しのできない弱いものをいじめている悪人に他ならない。

 

 反省し、改心し、人のために生きてみよ。

 それが、人の生まれたことのけじめである。

 この暮れの静かなところに行って、手を合わせて反省してみよ。

 その心のけじめが、良い正月を迎えることであろう。

 

                           J.D.Subunroco.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 万葉の瓦・・・ 俳諧の楽しみ

2007年12月09日 08時00分52秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国
 

 

 

 

    万葉の 甍も紅き 落ち葉かな

 
 
     馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

  美しかった紅葉も落ち葉を重ね、 冬木立が箒のように細い掃

き目を引いてゆく。

 今年の冬は寒そうだ。

 

 「大雪」の日、空気の乾燥に耐えられず、ついに馬糞も風邪を

引いてしまった。

 38度の高熱は、もう何年かぶりのことである。

 行きつけの医院に一年ぶりのいつもの治療をしてもらって、

一日中沈没した。

 ああ、健康第一主義!

 

 俳諧の心得

 こうして俳句ブログを書き始めて2年半になるが、俳句というの

は無限に出てくるものである。

 それは、写真を撮るのに似ている。

 同じ風景を撮影しても、撮影者の思いが表れるものである。

 そこにこだわりがもてるようになると、写真が語り始める。

 

 俳諧といのも、5・7・5という短い韻律の中で、一枚の情景を写

し取る。

 写真と違うのは、言葉に写した心象風景だということである。

 花鳥風月の美しさにパシャリと俳諧のシャッターを押すのだが、

そこに心象風景としての画像処理が働く。心に感じる連想である。

 

 私のテーマは、花鳥風月の中に神と歴史を感じ取るものである。

 さらに、国づくり、企業作りの提言をすることを特色とする。

 いつか、立憲女王国・神聖・九州やまとの国を建国したい。

 国は神聖でなければならない。

 神が統べる国でなければならない。

 そうでなければ、人の支配に堕するからである。

 

 言葉には魂がある。

 確信を持った言葉は、実現する力がある。

 良い言葉には、良いことが起こる。

 悪い言葉には、悪いことが起こる。

 

 俳諧は良い言葉の芸術である。

 ブログをはじめると、写真を撮るのが楽しみになる。

 心を楽しむライフワークとして、俳諧写真エッセーをはじめては

いかがだろうか。

 

                           J.D.Subunroco. 

 

  

 

 

 

 2005年リバイバル(地震の玄界島から)

⇒ http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/9acd21b807d741a231d4820ae67edc11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 那国の秋・・・ 国際都市博多への戦略

2007年12月06日 22時30分29秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

  豪商の  那国の秋を  寺に置き


     
 馬糞 Bafun

 

 

 

 

 博多への愛着は、那国が大陸交易の国際都市として太っ腹に生き

ていた時代のイメージにある。

 支店経済でもなければ、ちまちまとした小市民的な経済でもなかっ

た。

 大陸から日本という国を見る気宇壮大の観察眼とビジョンを持ってい

たことであろう。

 朝鮮は、虎穴のようなところであったかもしれない。

 

 そうした太っ腹の魅力があったればこそ、大陸から文人や名僧も渡っ

てきたのではなかったのか。

 文化文明とは、憧れなくしては近づいてはこないものである。

 

 今の博多には、国際都市の賑わいもビジョンもない。

 「アジアの玄関口」というが、アジア風の小さな玄関がありますよとい

うほどのものである。

 アジアの人々が賑わう理由が見当たらない。

 アジアの人々が憧れる文化文明もない。 

  博多の古寺に、異文化のような那国の夢が、禅寺の大銀杏を黄金

色に染めているばかりである。

 

 

国際都市博多への戦略】 

 
 繁栄とは多種多様な人間の賑わいである。

 そこに文化・文明という魂があれば、経済の血が流れ始める。

 人を惹きつける核がなければならない。

 その代表が、都である。

 都とは政治的カリスマの所在である。

 

 博多は都ではない。

 かつては、大和朝廷の本家としての名残があったであろう。

 さらには、国際交易のカリスマというべき豪商がいたであろう。

 今はカリスマの所在がない。

 アジアの人々も憧れるカリスマが必要なのだ。

 

 そこで、県庁のある東公園に堀をめぐらし、皇居を作ればよい。

 皇室から、秋篠宮を迎い入れてはいかがか。

 皇女でもよい。

 これによって博多に、都の灯がともるであろう。

 

 次の戦略は、国際貿易特区として、関税を減免することである。

 税金は、人の集合を妨げる壁である。

 まずは、人の賑わいを作ることから始めなかればならない。

 

 その次には、福岡県と佐賀県を合併することだ。

 ここが、九州の核となる。

 南の名門、薩摩との縦軸は、新幹線がつなぐ。

 その他の地域は、鉄道の複線化と都市部小型航空網を作って便利

にすると良い。

 

              立憲女王国・神聖九州やまとの国

              梅士 Baishi      

 

            

 

 

  

 

 2005年リバイバル(スポーツ立国論)

 http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/912fca3df84dd14550545006a4c6a4f7

 

 

  

 

 

 

 

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