敬天の 心無き世を 台風し
馬糞 Bafun
日田駅の待合室に、
廣瀬淡窓の『敬天』の教えが掲げられている。
日田には温泉があるが、文化がなければ、観光地ではない。
観光とは、光を観ると書く。
日田の文化を象徴するものとして、待合室ではなく、
駅前にもっと高く掲げられてよいものだと思う。
現代日本人は、「敬天の心」を取り戻さなければならない。
その光がさえぎられるとき、
獅子身中の虫が徘徊するようになる。
「人間の本質は脳である」という、心無い者たちである。
彼らは神も仏もありえない人々であるから、敬天など「妄想」
「迷信」の類というのが信条である。
なんと罰当たりな…。
後生恐るべし!
そういう「常識人」「教養人」「科学的思考者」のどこがすばらし
いと言うのか。
彼らが信じられる「事実」とは、
心無き人々のおぞましい世の中である。
「人は他人を殺してはならない、なぜなら、自分が他人に殺され
たくないから」というのが、彼らの倫理である。
が、そこのどこに徳があるのか。
そこにあるのは、欲得であり、ギブアンドテイクという駆け引き
の論理でしかない。
科学至上主義、人間至上主義の論理的帰結は、
「倫理道徳とは、共存共栄のための取引であり、
力関係によって守られるべきルールである」
ということになる。
見つからなければ、ルール違反をしてもよいのである。
すなわち、時間的、金銭的損得勘定が、善悪を分ける損益分岐
点と言うことになる。
人の理による善悪とは、損得計算に基づく社会ルールに他なら
ない。そうであれば、もはや、「倫理道徳」という言葉はふさわし
くないであろう。
これが、現代日本を殺伐としている「法」の意識である。
「日本国憲法」の精神である。
日本から神、仏を排除し、倫理道徳の根拠を見失わせて堕落さ
せた巧妙な企みというべきであろう。
その番人が、官僚と共産党、社民党と民主党に他ならない。
その結果、現代教育では、「敬天」などという所在のないことは
教えてはならないことになっている。
「非科学的」だからである。
彼らにとって、科学とは、現象的に実験確認できたことのみが
真理であり、存在するという思想である。
宗教なるもは、個人の趣味としてならともかく、公教育として行う
と、差別と、洗脳と、戦争を招く危険なものだというのである。
仏陀も、キリストも、危険思想の権化である。
よく言っても、非科学的時代の善良な変人である。
このように、政教分離の憲法規定は、宗教を危険な趣味の世界
に陥れ、政治と教育の世界から神仏を追放した。
まさに、「心なき人間の勝利宣言」に他ならないのである。
公務員だけではなく、心無き現代人もまた地球規模の構造改革
によって半減されなければならないのではないか。
しかし、地球規模のリストラは、政治やマスコミの権限にはない。
天の意思による。
故に、天を畏れよ。
神を畏れよ、仏を畏れよ。
あの世の実在は死によって完全に体験される。
心無き科学者よ、その死をもって死後の「無」を実験してみるべ
きではないのか。
何もなかったと、その仲間らに化けて出るがよい。
大嘘つきの唯物論者たちよ。
悪霊たちよ。
だから、後生恐るべしというのである。
J.D.Subunroco.
日田の下駄 鳴らし説きたる 敬天の
教え日本Yamato の 道標なり
馬糞 Bafun