布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

布施弁天に飾られている絵馬の紹介

2007-02-28 | 歴史
布施弁天の本堂の外陣(ガラスで仕切られた外側。内陣とは弁天像が置いてある所)の四方の壁にびっしりと絵馬が飾られていることは多くの方はご存じだと思いますが、今回はその絵馬を文字で順不同に紹介させて頂きます。まず、写真で紹介したのは、「児島高徳桜樹に志を標すの図」の絵馬です。他の絵馬は、是非本堂でご覧頂きますれば幸いです。なお、文字コードは最大で見ないと読みづらいです。
<馬関係の絵馬>
・馬の図―――元禄11年(1698年)                   本多正永の奉納。作者は狩野派の絵師。目つぶしの馬(静)。
・馬の図―――宝永2年(1705年)                    本多正永の奉納。作者は狩野派の絵師。目つぶしの馬(動)。
・牽き馬の図―――享保10年(1725年)                 本多正珍の奉納。狩衣をまとった2人の神人が飾りつけた神馬を牽いている図。
<祈願・成就関係の絵馬>
・高砂の図―――安政4年(1857年)東扇亭政次画。
<歴史・絵馬・武者関係の図>
・児島高徳桜樹に志を標すの図―――享保5年(1720年)
 児島高徳が隠岐ノ島へ流された後醍醐天皇を救出しようとして失敗。この時、桜 の樹を削り「耐えて下さい」という歌を掘った。
・北条氏と弁天の図――――年代不明。
 これが有名な絵馬で、一説に、平将門が布施弁天に必勝祈願をしている図と言う 人もいる。しかし、この絵馬には後北条氏の紋である「三鱗」をつけた武将が描 かれているので、残念ながら、将門ではない。一虎斎芳萬画。
<寺社参拝関係の絵馬>
・伊勢神宮参拝の図―――明治33年(1900年)向榮画。
・伊勢神宮参拝の図―――大正4年(1915年)
・伊勢神宮参拝の図―――昭和11年(1936年)
<芸能関係の絵馬>
・太々神楽の図―――明治29年(1896年)
<生業関係の絵馬>
・鳥猟の図―――明治35年(1902年)先般書いた和田沼の鴨猟の様子の図。
・酒造りの図―――宝暦13年(1763年)酒造りの工程の図。藤原朝信画。
<その他の絵馬>
・般若心経額―――安政5年(1858年)
・桜に琴袋――――大正7年(1918年)蕉馨画。
 桜の枝に琴を包む袋がかかっている図。
・鬼面の図――――大正5年(1916年)
・繁盛祈願の額――――昭和17年(1942年)
・御手長酒造講――――明治3年(1870年)
・二業組合・芸妓組合―――年代不明
・東京繁盛講―――――昭和4年)(1929年)
等々、これだけの絵馬が飾られているが、この記述にあたっては、昭和60年に柏市教育委員会が発行した「柏の絵馬」から多くを引用させて頂きましたことをお断り致します。
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桜祭りは4月7日~8日!

2007-02-27 | 花情報
暮れから正月、そして豆まきと喧騒の中で1月は過ぎて、2月は去ろうとしているこの時期,ひとときの静寂が紅龍山布施弁天を被っている。これから始まろうとして菜の花開花、桜祭り、チューリップ祭りへという怒涛の季節を前に、布施弁天は、本来の敬虔さを取り戻している。江戸時代には、来月から始まる北相馬郡の88ケ所大師霊場めぐりの準備にこの界隈の村人たちがいそしんでいた時であり、それぞれが大願を抱いた敬虔な時期でもあったはず。
ところが、今年は例年と変わらない人間の営みに自然が合わせず、自然は先へ先へと駆け足で行こうとしている。本堂前の樹齢120年を超える白木蓮の蕾も大きく膨らみ,あけぼの山農業公園内のチューリップ畑に面した緋寒桜の濃いピンク色の蕾も日ごとに大きくなってきているし、先般紹介したように富勢富士見坂通りの桜も何本か咲いてしまっている。人間界は、例年のように「あけぼの山桜祭り」を4月7日から8日までと設定した。しかし、この進み過ぎた自然の歩みは、満開になるのを待ってくれるのだろうか?これまた、先般紹介した我孫子の菜の花祭りは、満開になった菜の花に対応しきれず、1ケ月もイベントを前倒し、2月24日と25日に開催したのである。
だが、柏市の観光協会等の判断は待ってくれると判断したようだ。待ってくれることを祈りますが、なぜ、千葉県議会議員選挙がある日にぶつけたのかはわかりません。これは、同じ人間の営み。ぶつけない方法も考えられたと思うが、これはぶつけたことに意味がないことを祈るしかない。しかしながら、そんなことに関係なく、3月6日の啓蟄を前に、季節は完全に春モードへ。こんなに早く、春が一気にやってきてよいものでしょうかね。

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布施下の和田沼の鴨猟

2007-02-26 | 歴史
布施弁天は亀甲山の甲の部分=胴の部分に立っているが、道路により分断された頭の部分にはいくつかの石碑がある。私が確認したところ3つあり、その一つに(一番手前)、鳥獣供養塔がある。これは、猟友会により昭和30年代に建てられたものと思われ、その奉納者の中に元柏市長で故浜島千代丸氏の名前もあった。しかし、なぜこの供養塔がここに建てられたかはわからないが、布施弁天の後ろに広がっていた和田沼が関係するのでは。
布施弁天下で旅館を営んでいた元橋本旅館のご主人の話によると、弁天様の裏側一体には、今はないが、和田沼という鴨猟で有名な沼があり、昔は、鴨猟は大変盛んだったとのこと(昭和10年前後)。それは、布施弁天の堂内にある明治35年1月に鳥猟組合が奉納した絵馬「鳥猟の図」にも描かれていることからも知れよう。
和田沼は、ヨシとマコモが茂り、面積約60ヘクタールで、冬になると、ガン、鴨、ツグミ等が越冬しに北国からやってくる。それをカスミ網の馬鹿でかい網(長さが約500㍍、高さ1㍍50㌢程度)を張っておいて、それに引っかかかってくるのを捕まえていたそうです。鴨等が群になって、西の空からねぐらである和田沼めがけて着水してくる姿は、それは雄大だったそうです。そして、網にかかると鈴がなるのだが、取りに行っても良いという合図があってから音の方向に一斉に田舟を出して捕まえに行ったそうです。多い日は1日に7百から8百羽近く捕獲したそうです。もちろん、布施村の共同狩猟地なので、許可を得ている5~6件の家が網を張っていたそうです。真鴨、俗に言う首から上が青いアオクビが中心で、12月から正月にかけては贈答用として、集荷しておいた檻から少しずつ出しては、この近辺のバッタ屋(仲買人)に売らずに東京に出荷していたそうです。これが、結構な銭になり、羽振りの良い生活が出来たとのこと。ただし、これも渡り鳥がいる冬場(11月~3月)が中心だったそうですが、網でなく2連銃の鉄砲でも取る輩がいて、危なくていかたなかったとも話してくれました。
昔の布施村土谷津の俳人、ろうそくや彦兵衛こと中尾嘯花の鴨にまつわる句を一句披露します。
鴨の背に 朝日かかりぬ さくら川
(この句は残念ですが、和田沼ではなく、嘯花の妻の実家の桜川の鴨を詠んでいる。)
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寺コンで有名になった大洞院

2007-02-25 | 歴史
花野井の曹洞宗大洞院は、古くは平将門が建てたという言い伝えがあるが、曹洞宗なら全く時代が合わないから話にならない。しかし、最初の場所が今の場所ではなく、花野井の弁天山というところに大洞院があったといわれる。だが、その場所を特定できないし、宗派がなんであったかもわからない。大洞院が、歴史上はっきりと現れたのは、慶長元年(1596年)に鷹山舜嶽悦大和尚が開山(万松寺文書)した時である。もちろん、曹洞宗のお寺としてです。
しかし、その後目立った動きはなく、宝永年間に薬師不動の支配をめぐり争うとか、宝暦元年(1751年)堂宇が再建されたぐらいで、それ以降は全く歴史に現れず、近年まで見向きもされなかった寺です。
この寺がクローズアップされたのは、昭和59年、木村誠治・瞳夫妻が住職として赴任されてからです。それまでは、無住職の寺であり、檀家も72軒に過ぎなかった。木村住職夫妻は、寺の宗教活動以外の寺コン活動(本堂で行なう各種のコンサート・文化活動)や「ハンカチの木」(カンボジアに学校を送る会)活動等々、地域に開かれた寺を目指して努力した結果、檀家数も現在450軒となっている。木村住職は昨年の9月に退任されたが、これらの多くは、これまた、若い桜井新住職が引き継いでいる。今後の動向が注目されている市内でもユニークな寺ですが、残念ながらまだホームページが更新されていませんので、本当のところはどうなのか、わかりません。
また、この寺にも銀杏の大木(写真)がある。幹周りが5㍍以上で高さが20㍍を越えている立派な木であるが、樹齢は不詳である。市内では、法林寺の銀杏についで、2番目に大きく、法林寺と同じく雌の木なのだそうです。なお、イチョウは、公孫樹、鴨脚樹とも書き、銀杏と書かれるようになったのは足利時代からだそうです。
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市内小学校が鮭の稚魚を放流

2007-02-24 | その他
2月中旬、柏市内各小学校では昨年の11月より育てていた、鮭の稚魚を利根川に放流した。鮭の自然への適応力を考えると、この時期(2月)に放流しないと自力で生きていけなくなるそうです。かわいそうだと思って、6月ころまで飼育を続けると、眼が飛び出し死んでしまうとのこと。
この放流する鮭の卵は、柏市の小学校等の場合は、福島県木戸川の漁協から購入しているが、これは、専門家によると、木戸川の鮭は、あくまで木戸川の鮭で、利根川に返しても利根川の鮭にはならず、自然の破壊になると指摘しています。
でも、子ども達にとっては、生きた飼育学習と環境学習となるので、目くじらを立てる必要があるのか、どうかは、私にはわかりません。本来鮭がいなかった大堀川に鮭が登ってきたときも同じような議論がされましたね。
さて、それはそれとして、現場の小学校では、実践が第1。富勢東小学校では、例年より1週間から2週間早く孵化した鮭の稚魚を2月13日に2年生が利根川に放流しました。また、富勢西小学校では、11月24日、2年生と4年生の教室の前に水槽を用意し、500個の卵を入れ、飼育を開始し、12月上旬に、ここも例年より早く孵化したそうです。そして2月中旬に同じく利根川に放流しました。しかし、鮭は上流の冷たい水で育ちますので、今年の暖冬は、人口飼育の鮭にとって好ましい環境でなく、この暖かさによって、例年より多くの稚魚が死んでしまったそうです。
いずれにしても、こうした各地でのたゆまぬ飼育・放流の努力(毎年20万から30万匹)によって、行田市にある利根大堰まで戻ってきた鮭は、昨年は3,215匹で、記録を取り始めてから最高だったそうです。なぜ、数えられるかというと、この利根大堰には写真のような魚道が3つ造られていて、遡上した鮭の数を数えられるようになっているのです。とはいっても、30万匹の3000匹。今後も努力し続けないと、約4年後に戻ってくる鮭は、増えませんよね。でも、稚魚の放流だけでは、鮭の遡上は増えないと思うが、さて、どうすべきなのでしょうか?
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あけぼの山のチューリップ祭り

2007-02-23 | 花情報
昨日も書いたが、あけぼの山農業公園のお花畑のビオラの下から、写真のように、かわいいチューリップの芽が顔を出している。普通は2センチくらいだが、元気なのは5センチにもなっているので、ひょつとすると祭りの前に満開かな。今年のチューリップまつりの目玉は、市民が植えたチューリップのコンテストですが、どんな風に咲くのか今から楽しみですね。正式には、チューリップフェスティバルというそうですが、概要は下記の通り。
と   き   平成19年4月14日(土)~15日(日)
              午前9時30分~午後3時30分
場   所   あけぼの山農業公園広場、郷土資料館
催 し 物   農業団体、商業団体による特産品等の販売
         市立柏高校ブラスバンドの演奏(15日)
なお、言うまでもなくお花畑のオランダ産のチューリップ(約14万5千本)の見学には、時間制限はないですが、駐車場は午後5時には閉まってしまうので、注意が必要でしょう。
今年は4月8日には千葉県議会議員の選挙もあるので、あけぼの山の桜まつりはいつやるのでしょうかね?昔の高射砲連隊跡地(現市営住宅)通りの通称富勢富士見坂通りの何本かの桜はもう4分咲き位になっております。桜祭りは3月31日~4月1日位に、早めにしないと散ってしまうのかな~。そして、出きれば、桜とチューリップ祭りまで、隣のお花畑の菜の花も咲いてくれてればいいですね。
これからが、あけぼの山農業公園が一層華やかになる季節ですが、多くの方がマイカーでこなくれも良い交通方法等を真剣に検討しないと、又、大渋滞で近隣にすむ方に迷惑をかけてしまいそうですね。特に花見客の飲酒運転はきつく取り締まることが必要だと思います。
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農業公園でのボランティア募集中

2007-02-22 | その他
あけぼの山農業公園は、春近しです。4.3haの梅園には100本以上の梅の木がありますが、公園内では、写真のようにもう6分咲きで、梅園はピンクや白に染まっています。また、お花畑のビオラの下から、もうチューリップの芽が1センチ以上顔を出しています。
そんなあけぼの山農業公園では、下記要領で今、ボランティアを募集しています。昨年までのボランティア25人は継続するようですが、新しい人も求めているようです。従来の人は、大体1ケ月に1回ぐらい来ていたようです。
<募集要領>
対  象------16歳以上の人
内  容------公園の除草・補植・草花・潅(かん)水等の管理、イベントの手伝い、体験型講座,子供向けレクリエーションなど
申し込み------はがきに「あけぼの山農業公園ボランティア参加希望」と明記。活動分野と住所・氏名・年齢・電話番号を書いて,〒277-0825布施2005-2 あけぼの山公園へ2月28日まで郵送で(必着)
そして、12月、1月、2月と休止していたフリーマーケットと青空市も毎月第1日曜日午前9時30分から午後3時まで農業公園内で3月より開始されます。第1回目は3月4日(日)に開催されますが、その申し込みは2月16日(金)よりとなっています。
<青空市>
参加者------営農者団体か一般営農者、20区画
費 用------5平方メートル=1,000円、10平方メートル=2,000円
<フリーマーケット>
参加者------市内在住のかた、50区画
費 用------5平方メートル=1,500円、(弁当・飲み物付き)
※両方とも問合わせ先は、あけぼの山農業公園事務所へ電話・FAX又は、直接事務所へ。電話は04-7133―8877、FAXは04-7132-5195
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蓑・バンドリ企画展が開催中!

2007-02-21 | その他
民具のコレクターとして有名なのは「民芸運動」(実用品の中に美を追究する)を我孫子で提唱した柳宋悦で、彼は多くの蓑・ケラ等も蒐集し紹介している。柳との接点があるかどうかわからないが、型染め人間国宝の芹沢圭介も芹沢作品のコレクターである砂川美術工芸館の創始者の砂川七郎もその造詣の美しさに惹かれ、同じようにこれらをコレクションしていたのです。その蓑・ケラ、バンドリの企画展が平成19年1月21日(日)から6月17日(日)まで、呼塚交差点の近くにある柏市立砂川美術工芸館で開催されています。
この美術館のオープンは昭和56年(1981年)ですが、諸般の事情で、平成8年(1996年)から柏市立砂川美術工芸館となり、寄贈された芹沢型染め作品の常設展示と企画展の2本立てで運営されており、今回、企画展として「蓑・バンドリ 民意の意匠」が開催されている訳です。
日差しや風雨等を防ぐ蓑は、知らない者はいないと思いますが、それが荷物を背負う際の肩当て等に利用され、その蓑を青森県や岩手県等ではケラと呼ぶとのこと。しかも、これらの蓑やケラが芸術作品のように美的に緻密に仕上げられていたことを知るのは東北地方の人々で、温暖な地方の人には馴染みが薄く、生活に馴染みがないため取つきにくい。それが、山形県の庄内地方に行くと、この荷物を背負う時に使う背中当てを「バンドリ」という。単なる生活の実用品を芸術の領域まで昇華させる民衆の心と技量によって作り出された蓑・ケラ、バンドリが今回の展示の主役である。だが、生活に使うものを、そこまで手をかけるものか、こんなに美的に仕上げたら生活に使えないだろう、と思いつつそれらの作品を心ゆき迄、鑑賞させてもらいました。まあ、粘土で出来た実用品の茶碗や湯飲み等が観賞用になれば芸術品、なんとも不思議ですが、それがこの蓑・ケラ、バンドリにも通用するか、自分の目で確認する価値はあると思います。
さて、2月20日はここの創立記念日と言うことで普通、大人310円取られる入館料が無料だったためか(?)、やけにこの芸術性を見んと訪れる人が、多い。平日にもかかわらず、夫婦づれ、女友達づれ、男のカメラ連れ(?)等、実に熱心に見学しています。人数がまとまると、美術館の学芸員のような方が企画展のことから芹沢型染めについて、丁寧に説明してくれるし、そうでない場合でも20分もののビデオが補ってくれるとのこと。しかし、2階の芹沢作品は、わかる方には大変貴重なものでしょうが、私は、それを理解する能力に欠けていたらしく、釘付けにはなりませんでした。
月曜日が原則休みで、開館時間は午前9時30分から午後5時まで。この次の無料入館日は6月15日の千葉県民の日です。写真は、許可を取って撮ったものです。
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3月4日の歴史散策のご案内

2007-02-20 | 歴史
旧沼南地区は、柏地区より、歴史も由緒もある地域が多く存在します。この鷲野谷地域には鷲野谷城跡があり、その城跡内に星神社がありますが、この神社は、手賀原氏所縁の妙見社であったと推測され、祭神は、大已貴神・北斗妙見大明神・伊波比主です。この城跡の妙見曲輪を中心に作られた村が鷲野谷地区です。散策は、この曲輪跡から始まり高城氏の関係文書を蔵する旧家の染谷家や江戸時代の見事な彫刻の見られる香取神社、そして市指定の文化財の1458年春慶作の薬師如来座像がある浄土宗の東光山医王寺安楽院(写真。この座像は12年毎の寅年に開帳)などを中心に行なわれます。歴史散策を主催するのは、手賀沼と松ケ崎城の歴史を考える会です。下記に案内要領を記載しますが、会員以外の方も参加できるそうです。問合わせは同会のホームページへ。
日 時     3月4日(日)9時40分~15時(予定)
参加費     300円(資料代込み)
昼 食・飲み物 各自持参
集 合     旧沼南町阪東バス停留所「手賀の杜プラザ」
*交通アクセス 我孫子駅南口発の阪東バス「手賀の杜プラザ行」に乗車し、終点 で下車。
参加申込み   予約は不要で現地集合・現地解散
その他     駐車場の準備ができませんので、バスでのご参加を。
※なお、雨天中止とのこと。
<散策ルート>
バス停「手賀の杜プラザ」―鷲野谷青年館―北の内古墳と「古墳之址碑」―妙見曲輪(鷲野谷村の中の土塁)―昼食(鷲野谷青年館)―染谷勝彦邸(長屋門、曲り家)―鷲野谷香取神社―医王寺―岩井貝塚―天神山古墳(希望者)―バス停「手賀の杜プラザ」
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河津桜は満開だった!

2007-02-19 | 花情報
昭和38年、西田佐知子(現在は関口宏の奥さん)が歌った「エリカの花散るとき」を口ずさみながら、18日の日曜日、小雨の降りしきる国道135号線を南下する。灰色の海は地平線を見せない。河津に近づくにつれ道路脇が明るく色づく。濃いピンク色の桜が出迎える。
2月10日から3月10日まで開催される河津桜祭りを訪れるのは、ここ5年間の自分の行事の一つになっている。本土で一番最初に咲く桜を、春まだ遠い2月中旬に訪れるのは、実に初恋に似ていて、心を浮き浮きさせる。目当ての河津桜は、緋寒桜と早咲きの大島桜の自然高配種で、花びらは大きく濃いピンク色なのが特徴である。そして、不思議なことに、その歴史は浅いのである。静岡県河津町の木の指定されたのは、昭和50年であり、その1年前ぐらいから河津川沿いに植えられて行くのである。又、河津桜祭りと言っても、七滝周辺から今井浜の方までと結構広範囲で、メインが河津川沿いということなのです。夜には館橋から浜橋までの桜並木がライトアップされ、笹原公園内の足湯隣には同町の観光協会(写真)を初めとした様々な露天・売店が出され、1ヶ月で同町民約8,000人の100倍以上の100万人が訪れる一大イベントとなっているのです。
到着したときは、雨は傘をかぶらないでも良いくらいまでに上がり、徐々に人出も増え、お店の呼び声にも活気が出、行き交う人々の話声も弾む。菜の花の黄色と桜のピンク色も、人の心を晴れやかにさす。自然とサイフのひももゆるみ、私もお土産を多めに買ってしまい、現在反省中です。
自分は来宮橋から荒倉橋までの桜並木を散策しただけで、今回は、河津桜の原木は見ませんでしたが、観光協会の人の話しによれば、満開だそうです。確かに、川沿いの桜も、若葉が結構出でおり、6分くらい7分咲きと行っても良いと思う。ここ数年で見ても、やはり咲き具合は例年より早いので、出来れば2月中に行った方が良いと思います。だから金・土に出た五大新聞のうち2紙が報じた河津桜開花情報は疑問。なお、駐車料金は1日500円でした。帰りは山沿いの国道414号を北上し河津七滝を見たが、ループ橋下の桜も7分咲きとなっていた。見たいものはみたと言う満足感に浸りながら、一路箱根芦ノ湖を目指し、口びるからこぼれる歌は
『青い海を 見つめて 伊豆の山かげに エリカの花は 咲くという 別れたひとの ふるさとを たずねて ひとり 旅をゆく エリカ エリカの花の咲く村にーーー。』
エリカにも何種類かありますが,よく見かけるのがジャノメエリカ(蛇の目エリカ)で、小さな釣り鐘型のピンクの色でとてもきれいですね。でも、花言葉は、博愛、孤独、裏切り等と決して明るくはなかったのです。知らないというのは恐いですね。
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一茶の恋の噂?

2007-02-18 | 歴史
取手に向かって船取線から右折して、小高い丘の坂道を登り切ると我孫子市役所の正面玄関に出るが、そのロータリーの右側に「名月や江戸のやつらが何知つて」という句碑(写真)がある。この句は、田舎者または敗者の意地が感じさせられ、個人的には好きな句(川柳?)です。でも句碑は、元々ここになく、手賀沼を望む白山の別荘地にあったそうですが、それを市庁舎完成後にここに移転したそうである。もちろん、この作者が、小林一茶でないことはいうまでもありませんが、一茶だという人もいます。しかし、作者がだれかはわかりません。一茶は我孫子には滞在した逗留した形跡はありません。一茶は、流山、馬橋、そして布川(現茨城県利根町)にしばしば往来しています。
特に流山には54回来て、逗留数は154泊前後になるようです。この流山にどこからやってきたかというと、主なところは江戸からが20回、馬橋から14回、布川から9回だそうです。この布川への行きか帰りかでしょうか、布施弁天に参拝して、例の「米蒔くも罪ぞよ鶏が蹴合ふぞよ」の句を文化9年(1812年)に残しているわけです。
しかし、一番古く布川へ行ったのは、これよりも約20年前で、寛政3年(1791年)3月29日馬橋から布川に向かい、馬泉家に泊ったという記録が残されています。この馬泉というのは、葛飾派の俳人で、明和期から素丸門にあって活躍し、寛政の初め布川に移っていたのです。布川で特に一茶が多く宿泊したのは、回船問屋を営む古田月船の家です。利根町史第6巻の一茶漂泊の地名別宿泊数一覧表によれば、布川の月船家へは49回行き、合計289泊にも及んだとされています。宿泊数では流山さえも抜いています。月船とは森田元夢の門下同志として親交を結んでいたのが、そのほかに、もうひとつの理由があると言われております。それは、月船の娘に会いに行っていたといわれています。娘とはつきあいがそれなりにあったようですが、夫婦にはなれなかったといわれているが、これも話であろう。一方、伊藤晃氏の「一茶双紙」によると、流山の秋元双樹のところに、一茶の世話をする小女がいて、仮に名前をお梅とするが、その小女と恋仲になったのではと、論を展開している。その根拠として、流山になると必ず、梅や猫の語彙が句の中に多く現れ、10月になっても梅が歌われているとことから推論できるとしている。いずれにしても、一茶は3人の妻を迎えているが、それとは別の下総の国のこれらの一茶の恋といわれているものが、我孫子の句碑と同じようなことでないことを祈るしかない。
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夫婦銀杏がある古刹の弘誓院

2007-02-17 | 歴史
銀杏の木と言えば、名戸ケ谷の法林寺の幹周り約5㍍の大銀杏が有名だが、合併した旧沼南町地域にも有名な銀杏の木がある。柳戸の観音様で地元の人にはなじみ深い蓬莱山福満寺弘誓院(ぐぜいん)に、それはある。雄の木は幹周り4.2㍍、雌の木は幹周り4.4㍍もある一対の夫婦銀杏の大木のことである。そして、写真でわかりづらいかも知れませんが、雌の木には、幹から女性の乳房のような乳柱がいくつも垂れ下がっているのです。言い伝えによると、母乳の少ない女性がこれを削り、煎じて飲むと母乳に恵まれるといわれています。そういえば、本土寺の銀杏の木にも、似たようないわれがありましたよね。長い歴史を寄り添うようにそそり立つ夫婦の銀杏の木をみていたら、自然と笑みがこぼれてきました。
一方、本堂の中には、暗い感じをさせる絵馬があります。そう、昔、貧しさ故に横行していた子どもの間引きの現状に対し、手賀村などの村人が弘化4年(1847年)に奉納した「間引きの絵馬」のことです。これは逆説で、間引きをなくしたいという村人の願いを込めた絵馬だと解釈されておりますがーー。この夫婦銀杏があって、この「間引き絵馬」、なにか因縁を感じます。
さて、弘誓院の歴史について少しふれてみますが、弘誓院は、木造の聖観世音菩薩像(伝・行基菩薩作)をご本尊とした真言宗豊山派のお寺で、最初に書いたように下総新四国観音霊場三十三番の第三十三番札所にもなっています。開山は9世紀ごろで、行基が開いたといわれています。不思議なのは、民家や寺のお墓や鐘楼等などは高いところにあるのに、お寺が低いところにあるのはどうしてでしょう。
高く長い階段を登ったところにつるされてある鐘は、染谷一族等により大正期に鋳造されたものだそうですが、昭和45年には、それより古い鐘が、東京の工事現場から発見されたそうです。それが今、どこにあるか、私にはわかりませんが、その鐘には、平胤弘の名と下総国南相馬郡泉郷柳渡福満寺の名と文正二年(1467年)の年号が彫られていたそうです。
それから、境内を歩いてみてたら、平成になってからたてられた弁才天がありましたが、この弁天様のきらびやさは、古刹のこの寺とはミスマッチかなー。なお、弘誓院には、千葉県の指定を受けた文化財として、妙法蓮華経板木と上記に書いた木造聖観世音菩薩坐像の二つもあることもご紹介しておきます。盆地の底にわざとあるようなこのお寺を眺めていると、これまで、自分が訪れた寺院では、感じ得なかった、何か独特のものを感じるのですが、言葉ではうまく表現できません。普通のお寺というのは、高いところや一等地にあるのにね。
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新手賀教会の実像とは

2007-02-16 | 歴史
旧手賀教会跡から更に1キロ位奥に入った崖の上、字右理(みぎり)に、昭和49年に新築された手賀教会はひっそりと佇んでいました。地図を頼りに何度訪ねてもわからなかったので、今回は地元の人に道を聞き聞き訪ねて行ったところ、やっと場所が判明。それは、何回も通った崖の上にあった。そう、上がりきった道路の左を見ればわかったのです。確かに手書きのハリストス教会という小さな案内標識がありましたが、それを初めての人が見つけるのは至難の業です。
ということは、そうです。その建物が一目見て教会の礼拝堂とわかる格好にはなっていなかったのです。ステンドガラスに屋根の上の大きな十字架と、定番の教会イメージを想定していた自分が未熟でした。先般書きましたが、昔、100名以上の信者がおり、それが現在では10名前後ということは事前に調べてわかっていたのですが、こじんまりとはしていても、それなりの風格を期待していたのです。なにせ、明治中期の創設の首都圏最古の木造教会堂をもった程の教会ですからね。旧手賀教会跡地を捨て、新しい地に新しい建物を、それも昭和49年に建設したというのは、単なる建物の老朽化だけではあるまいのに。建物は大きいとは言えない平屋の建物で2棟あり、渡り廊下で繋がれておりました。写真の柏市教育委員会の看板がなかったとしたら、教会とは思えないでしょう。
立て看板によると、礼拝も信者だけに限られ、しかも月1回。私が行った日も、2つの建物の扉は、堅く閉ざされており、訪れる人も誰一人もおりませんでした。昭和5年頃から常駐している神父はいなくなっているが、信者がこまめに世話に来ている形跡がないのはどうしたことでしょう。管理はUさんという方がしているようですが、布教活動とは直接関係ないようだし、隣にも住んでもいないようです。
お墓も旧教会のはす向かいの仏教式の墓地の中に、「キ」の文字の墓があったが、近くにあるパブテスト教会の霊園(鷲野谷)のようにまとまった専用の墓地もない。教会の近くの畑にいた地元の人と少し話した際にも、彼等の対応から、信者でないことは手にとるようにわかるのです。近所の人にも認知されない新手賀教会の存在の意味とは!合併時に作成された柏市文化財マップに大々的にのっている三点のイコン画(非公開)もどんなにか悲しんでいることか、と嘆いても、それは他人の余計なお世話ですよね。
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我孫子の菜の花祭り、急遽2月に

2007-02-15 | 花情報
我孫子の根戸施新田(手賀沼湖畔通り)の約5,000㎡の菜の花はもう既に満開(写真)である。例年、3月の春休みに入って、我孫子市のあゆみの郷公社が、「菜の花まつり」を開催していたが、今年は、こんなに早く咲いてしまってどうするのかと思っていたら、急遽、2月24日(土)と25日(日)にすることになったらしい。例年より1ケ月早い「菜の花まつり」、PRは間に合うのでしょうかね。
本来なら、同公社は、昨年の11月26日から今年の3月16日まで閉店中で、3月の17日から営業する予定だったらしいのです。
菜の花まつりは、菜の花摘みや食用ナバナの摘み取り、野菜の直売、ミニSLの運行、餅つき等々盛りだくさんのイベントが用意され、湖畔の桜通りの桜の開花と重なると、結構、人が出、車が渋滞する程の人気があります。でも、今年は、単独での開催、人出はどうなるか。あまりの暖かさに、早く咲き出してしまった菜の花には罪はないでしょうが、暖冬とは罪づくりなものですね。
では、わがあけぼの山農業公園の菜の花畑はどうなっているのだろうか。公園内では、ろうばいや水仙、そして赤色の芝桜も咲き終わろうとしている。だが、ビオラ畑と梅林の間に挟まれた菜の花畑の菜の花は、まだ、縮こまったままであり、あれでは、だれも菜の花とは気づかないでしょう。梅林の梅の花も一部は咲き始めているというのに。関係者の話だと、植えるのが遅かった為と言うことですが、ねらいは、どうも、こちらはチューリップと菜の花のコーラボレーションをねらっているみたい。
なお、我孫子でも2月だけでなく、桜の咲き出す3月にも湖畔通りで、何かイベントを計画しているみたいです。詳しいことは我孫子市役所に聞いてみて下さい。
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みこしも熱かった只見の雪祭り

2007-02-14 | その他
柏近辺では10日は夜半から天気がくずれ,雨,そして,なかんずく雷が轟きわたったのはいまだに恐怖(雷嫌いなんです。)とともに記憶に残っている。この日福島県の只見町では,9日から降り始めた雨が,10日の夜半まで降り続け,時々強い雨も交ざって横殴りに雪像たちに降り注いでいたとのこと。そんな思わぬ悪環境の中で,第35回只見ふるさと雪まつりが開催されたのでした。積雪1メートル30センチ,といっても例年より約3メートル雪が少ないそうで,この雨には勝てず,布施弁天東海寺の大雪像前の屋根の先端の一部が崩れ落ちたり,横殴りの雨で雪像のあちこちに穴があき,混ざっていた土がところどころ黒ずんで噴出してしまったらしい。こんな悪環境にもかかわらず,傘をさし,雨にも負けない大勢の観光客がつめかけた。10日の夜,大雪像の前の舞台では,裸の男たちが,威勢良くみこし(1トン)を担ぎ,雪祭りを盛り上げた。彼らは,この瞬間のために,わざわざ水戸からやってきたせいか,ヒートアップしすぎ,一髪で触発寸前のシーンもみかけら,みている方は,肝をつぶしたそうである。(写真)
只見町は柏市との間で姉妹都市を提携している関係から,柏市の助役さんをはじめ,柏市国際交流協会(約40人),永楽台地域ふるさと協議会(約30人),そして布施弁天の地元,富勢地域ふるさと協議会(5人)等々が只見町を訪問し,熱烈歓迎されたとのこと。もちろん,この他にも個人的に多くの人が訪れていると思われますが。
大雪像が布施弁天に,なぜ決まったか,雪祭り実行委員会に尋ねたところ,どうも只見の関係者も確かなことはわからないらしい。ただ,関東三弁天ということが決め手らしいとのことでした。そして,なによりも布施弁天の地元の人たちを感激させたのは,布施弁天正面の4本の柱に,天皇の勅願所の明かしてとしての菊の御紋もくっきりと彫られていたことだったそうです。
以上は,実際に只見町へ行って帰ってきた関係者からの聞きかじりですが,自分は,10日の8時からの花火大会はパソコンでLIVEで見させていただきました。布施弁天の大雪像の後ろから,次々に夜空に打ちあがる花火は,只見町の人たちの願い(家内安全,子宝祈願等)を込めたおめでた祈願花火大会といわれているそうです。一寸玉3,500円からスターマイン100,000円までかかるそうで,1月末には締め切ったそうです。しかけ花火もあるよと聞いていたので,目を開いて見ていたつもりですが,見逃してしまったのかな。感動しているうちにあっという間に,8時45分ごろには終わってしまいました。まだ,雪祭りなるものを一回も見ていない自分としては,いつかは行かないかと家内に誘いをかけたが,実現するかどうかは今のところ不明。なお,皮肉なことには,次の日(11日)は只見はすごい大雪だったそうです。
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