布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

幸福駅の再来なるか干支縁起キップ

2007-12-31 | その他
来年の干支はネズミですよね。今年の乱のいのししよりおだやかな年になるのではないかと言われています。この干支にちなんだ縁起キップを発売するというニュースが2007年の12月28日(金)の日本経済新聞の朝刊35面にのっておりました。
どこのことかと思ったら、自分が良く行く茨城県の鹿島灘近辺の話しなので、紹介してみます。
水戸から鹿島神宮まで、鹿島臨海鉄道なるものが走っておりますが、この路線については、何回は、当ブロクで取り上げております。単線ですが、途中に鹿島アントラーズのホームタウンのスタジアム前に鹿島スタジアム駅があるので有名です。また、無人駅が圧倒的に多いので有名でもあります。
さて、基点の水戸駅から鹿島神宮に向かって二つ目の駅に常澄(つねずみ)駅があります。
そして、この常澄駅から4つ目には徳宿(とくしゅく)駅があります。
さて、これが、どう、干支にちなんだ縁起キップとなるのでしょうか?
この常澄駅を来年の干支の「ネズミ」にひっかけると共に「つね」と読ませる。そして、徳宿駅の徳を活用する。そう、ネズミ年に常(つね)に徳(とく)が来るという意味を込めたキップを発売するらしい。
日経新聞によると、同路線を経営する鹿島臨海鉄道(茨城県大洗町、金田好生社長)が、常澄駅から徳宿駅行き片道普通乗車券で、大人・小児用一組720円の縁起キップを2008年1月19日に発売するという。
現在、同社では、鹿島神宮への初詣のための往復割引キップを12月20日(目)から1月13日(日)まで発売するそうです。割引率は20パーセントで、利用出来る期間は、12月31日(月)から1月14日(月)までだそうです。
しかし、かって、北海道で発売され、爆発的人気を呼んだ「幸福駅」の再来となるでしょうかね。
最後に、同路線を運行している鹿島臨海鉄道(株)について少し紹介します。設立は、昭和44年4月1日で、資本金が12億2,600万円、社員数は約135名です。
本社は、茨城県東茨城郡大洗町桜道301にあり、"Kashima Rinkai Tetsudo"の頭文字を取ってKRTとも略される。シンボルマークは大洗鹿島線(Oarai-Kashima Line)の頭文字を取った「OKL」である。
この路線は電車ではないのです。電気ではないのです。貼り付けた写真は、鹿島灘駅であるが、見ておわかりのように電気架線がないことがわかると思います。2003年4月現在、気動車21両、ディーゼル機関車3両、計24両を保有し、内訳は6000形(6001~6019、19両)、7000形(7001~7002、2両)、KRD形(KRD3~5、3両)となっています。なお、同社への問い合せは、電話は029-267-5200です。
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新連載「布施・弁天ノート」の紹介

2007-12-30 | 歴史
私のブロクのブックマークの中に、富勢地域ふるさと協議会のホームページをリンクしていますが、昨日、たまたま開いたところ、NEW布施・弁天ノートなるものが掲載されておりました。何かと思い早速開いてみたら、新たに来年1月から新連載で布施地域と布施弁天の情報を提供していくとのことでした。地元の富勢地域の人たちが、なぜ、この布施・弁天ノートを立ち上げるにいたったかの経緯については、同HPの広報紙「ふるさと富勢」の20年1月1日号には下記のように掲載されていましたので、引用(『 』内)してみます。
『布施・弁天ノート
当協議会ホームページに新連載
「紅龍山 布施弁天 東海寺開山1200年記念企画」
布施の弁天様で親しまれている、紅龍山・布施弁天・東海寺が1200年を迎えます。また、平成18 年3 月には県文化財に指定されました。当協議会では、これを契機にして、布施・弁天ノートと題した特集企画を、ホームページ上で、新連載致します。
今、古き時代の事を後世に伝える方々が少なくなってきています。弁天様の生い立ち、東海寺と一緒になった理由、あけぼの山との関係や地元の変遷について、もっと知りたいという声があります。当協議会では、その声に応えるために、現存する写真、関連資料、地元の方々の声を反映して、布施や弁天様の資料を集めて編纂、紹介します。ぜひご期待下さい。これをきっかけに富勢全域のノートづくりが出来れば幸いです。ご協力、ご支援をお願いします。【総務部】』
ということで、布施・弁天ノートなるものを当面毎月1回計6回、毎月1日に掲載していくようです。その後の継続は書かれていませんが、継続は読者の反応次第のように読み取れますがーー。
さて、この富勢地域ふるさと協議会とは、富勢地域にある22の町会・自治会で構成される任意団体で、布施弁天がある寺山町会も加入しております。そこの協議会の総務部が本ノートを連載して行くとのこと、これは、門外漢の、地元ではない自分があれこれ情報を提供するより、信頼性もあり、さまざまな豊富な情報も提供して頂けるものと、すごく、期待しております。
地元の人たちが、自分たちの地域の文化遺産情報を継続的に公開していくことは、実に頼もしく、関東三弁天の一つといわれていた布施弁天の往時の復活の手がかりになるかもしれませんね。
第1回目の今回は、紅龍山 布施弁天 東海寺の由来について紹介されていました。その中味については読んでのお楽しみ、紹介はしません。このノートは、柏市役所や地元の人たち、そして布施弁天の了解を得て沢山の写真や資料等を提供していることが第一の特徴だと思います。そして、第二の特徴としては、旅人的発想での一過性のHPでの紹介でなく、居住者の発想で、生活者の観点から普段の生活の中で接している布施と布施弁天を見詰め、見守っていくというHPで、従来の布施や布施弁天の紹介のHPにはない観点だと思います。第三の特徴として、先にもちょいと述べましたが、個人としてのHPではなく、準公共的機関が紹介するHPと言うことで、その情報に客観性や信頼性が増すということです。
私も、これで、自分が紹介してきた「布施弁天界隈の自然と歴史情報」から、少し力が取れる気がします。今後は、自分はきままに肩肘はらずに、遠くから、旅人的観点から「布施弁天界隈の自然と歴史情報」というブログを書いていこうと思います。よろしくお願いします。
そして、この新連載の布施・弁天ノートが多くの人の目にとまり、いろいろな情報が同協議会に集まり、同協議会が布施や弁天を愛する人たちに、さまざまな情報を提供してくれることを心から期待・祈願したいと思います。
そして、この記事が、たぶん、私の今年最後の布施弁天を紹介する記事になると思いますが、最後にこの新連載を紹介でき、大変うれしいです。協議会の皆さんHP開設おめでとうございます。今後も頑張って多くの方から愛される布施・弁天ノートにして下さい。
なお、一昨日、布施弁天の文化財を守る会より「本年度予算の補正について」の手紙を受け取りました。内容は、楼門の屋根の補修費用に関するもので、「昨年度の積立金からある金額を取り崩す補正予算を組み、本年度事業として助成することを常任理事会で決定した」ということでした。
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新春のボサノバ & クラシック コンサート

2007-12-29 | その他
新春の一時をボサノバとクラッシク音楽を聴いて心豊かに過ごしてみませんか。ボサノバギタリスト木村純とサックス奏者三四朗の結成したのが、ボサノバデュオ「サパトス」。このサパトスが来年の1月柏に来る。サパトスとはスペイン語で靴という意味で、2人でひとつということらしいが、このサパトスも 2008年2月には5周年を迎えようとしています。
ここで、少しお二人について紹介します。
木村純は、高校時代からボサノバ専門のコンボを結成、ライブ活動を始め、それ以降、多くのブラジル人ミュージシャンとの交流がある。レコーディング、ブラジリアンレストランでの専属ギタリスト、さまざまなコンサートライブなどを経験する。現在は、ボサノバギタリストとしてだけではなく、ポップスやジャズなど、その活動範囲は多岐にわたっている。
一方、三四朗は、本名、藤本 三四朗で、1959年9月24日に東京都目黒区生れ。バークリー音楽院にて作曲編曲を主軸に、エレクトリックミュージック、シンセシス、フィルムスコアリング等を学び、卒業後ニューヨークを拠点にボストン、パリ、ロンドン、等でストリートパフォーマンスを披露。「三四朗」(CBS/SONY)でアルバムをリリースして以来、8枚のアルバムをリリースし、ライブ活動を中心にテレビ、ラジオ番組や、クラブ等の音楽プロデュースと多方面に渡り精力的に活動している。
では、以下にそのコンサートの概要を紹介します。
開催日時      2008年1月19日(土)開場 18:30  開演 19:00
開催場所      アミュゼ柏 クリスタルホール
            所在地: 柏市柏6丁目2-22(柏駅東口徒歩7分
出   演      「サパトス」
            木村 純 ギターボーカル    加藤紀子   ピアノ
                                星野由香利 ソプラノ
            三 四 郎 フルート・サックス  大関孝平  ピアノ
                   ボーカル
演奏曲目      ♪イパネマの娘
            ♪ウェーブ
            ♪ニューヨーク・シティ・セレナーデ 他
            ♪リスト:ため息
            ♪ショパン:軍隊ポロネーズ
            ♪プッチーニ:オペラ「蝶々夫人」より ある晴れた日に 他
対    象     どなたでも可
費    用     前売り1500円 当日2000円 学生500円
主催者       サパトス
チケット申込先   加藤 TEL:04-7175-6804
問い合せ      加藤  TEL: 04-7175-6804
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福を呼ぶ流山の七福神巡り

2007-12-28 | 歴史
正月に枕の下に七福神の乗った宝船の絵を入れると良い初夢が見られるといいますね。
七福神は室町時代の末期頃、農民や漁民の民間信仰として成立したようです。七福は「仁王経」の七難七福という言葉が語源とされ、七つの福徳をそれぞれの神に配しています。大黒天、毘沙門天、弁才天は仏教から、寿老人、福禄寿、布袋は中国道教、恵比寿神が神道から来ております。
江戸時代に、上野寛永寺開祖の天海僧正が、徳川家康に対し、福の大黒天、人望の恵比寿天、威光の毘沙門天、愛嬌の弁才天、長寿の寿老人、清廉潔白(心が綺麗なこと)の布袋、大量(度量が大きいこと)福禄寿の7つの福が人生にとって大切であると説き、家康が七福神信仰を奨励したことで、江戸中期頃には、盛んに七福神を祀る神社仏閣が建てられるようになったそうです。
そして、七福神信仰は江戸時代末期には更に盛んとなり、七福神詣、宝船に乗った七福神の絵を枕の下に敷いたり、床の間に飾ったり、商売繁盛の縁起物としても喜ばれるようになったようですね。
この近辺にも、取手や松戸や白井の七福神巡りは有名ですね。でも、ここで紹介するのは、流山の七福神巡りです。では、以下で流山の七福神のお寺を紹介します。
1.大黒天(商売繁盛)    流山寺    流山市流山7-589     04-7158-0415
  江戸時代創建の曹洞宗寺院。座禅会(毎月15日)
2.恵比須(福寿無量)    長流寺    流山市流山6-677     04(7158)0355
  江戸時代創建の浄土宗寺院。
3.布袋尊(福徳円満)    春山寺    流山市野々下1-398   04-7158-2810
  戦国時代の創建時には天台宗、江戸時代初期に曹洞宗に改宗。
  座禅会(毎月第1日曜日)
4.福禄寿(招福安泰)    西栄寺    流山市桐ケ谷230     04-7158-0846
  江戸時代の御朱印寺。旧西円寺から続く真言宗宗豊派寺院。
  節分会(2月)
5.毘沙門天(七難即滅)   福性寺    流山市平方169      04-7158-0846 
  江戸時代中興の真言宗宗豊派寺院。
6.弁財天(知恵倍増)    成顕寺    流山市駒木224      04-7152-3714
  平成時代、真言宗の寺院として創建したが、鎌倉時代に日蓮宗に改宗。
  おすわさまのご神体を安置する。
  大祭(8月22日~23日) 人形供養会(10月)
7.寿老人(無病長寿)   清瀧院    流山市名都借1024     04-7144-7904
  戦国時代には53ヶ所の末寺を有した真言宗 宗豊派寺院。しだれ桜が有名。
ということで、七福神とは七つの災いを除き、七つの幸せを与える福神ですので、是非宝船の枕の下に入れ、良い初夢を見てはいかがでしょうか。
写真は、12月中旬に訪ねた駒木にある成顕寺の弁才天です。ここは、江戸川大学のそばにあり、かつ、同じ駒木にある御諏訪様のご神体を安置しているといわれています。
この流山の七福神は全寺で通年拝観できるが、殆どが屋外に置かれた石像で、各寺には、無料の七福神スタンプも置かれていていますので、このお正月に行かれてみてはいかがでしょうか。

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流山の義賊金市と閻魔堂

2007-12-27 | 歴史
1月16日は、7月16日と並んで、閻魔大王の地獄の釜の蓋をあける日だといいます。つまり、年2回の休息日ということらしいのです。だからと言って、悪業をして良いわけではありませんが、この日に閻魔参りすると良いことがあるのでしょうかね。昔から、これらの日に、特に参詣者が多かったといわれています。
そして、この閻魔堂が流山にあるのをご存知でしょうか。
総武流山電鉄流山駅から徒歩6分のところに写真のような看板が出ている閻魔堂があります。この看板は、見る者に自らの普段の行状を見返えさせる強いインパクトを与えます。狭い道路沿いにお墓と一緒にお堂があり、そのお堂の中に強面の座像の閻魔大王が安置されておりました。ここの閻魔様は、江戸時代のもので、200年以上経ているそうです。閻魔大王は地獄にあって死人の生前の罪状をあばき、様々な責苦にあわせる大王といわれ、子供の頃は、大人たちに嘘を付くと舌を抜かれるぞと良く脅かされものです。
この閻魔堂と向かい合って金子市之丞なるものの墓が碑とともにあります。私は、この人がどういう人か知りませんでしたので、ちょいとどんな人か調べてみました。
そしたら、義賊と言われた盗人の墓らしい。明和6年(1769)流山の酒造家金子屋の一人息子として生まれたのが金子市之丞だそうです。この人は、幼くして父親を亡し、母との貧しい生活に耐えられず、盗賊にまで身を落としたそうです。ところが、盗みに入るのは金持ちの屋敷ばかりで、しかも盗んだ金を貧しい家にばらまいて歩き、天明の大飢饉にはその金で飢えた人々を救ったともいわれています。
そんな市之丞を、地元の人々はいつしか、「ビン小僧の金市」と呼ぶようになったとか。そう義賊ねずみ小僧の流山版ですかね。
しかし、悪事はいつまで続かず、やがて金市は捕らえられ、処刑されてしまいます。そこで、金市を慕う人々は、その亡骸をこっそり引き取り、彼の義行を偲んでふるさと流山のこの墓地に手厚く葬ったということらしいのです。
しかも尾ひれがついて、市之蒸の隣にある墓は、市之蒸と恋仲だったといわれる遊女三千歳の墓といわれ、「離れていてはさびしかろう」と明治に入ってから地元の人々によって建てられたものといわれています。一方で、いやそうではなく、三千歳は腹違いの妹だという人もいるが、いずれも定かではありません。そして、この金子市之蒸が、天保六花撰で義賊と言われる金子市之丞なのですが、先に述べたように本当に義賊であったかは疑わしいですね。それにしても、住宅街のど真ん中に「閻魔堂」の看板には、どきもを抜かされ、悪行をせぬよう戒めを胸にきちんとたたみ込みました。念のため、このお墓の駅よりの方面に、近藤勇が本陣をおいたという長岡屋があります。距離は100メートルくらいでしょうかね。鬼の近藤と強面の閻魔様、2つ並んで、結構、マッチしている感じですね?
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2つの新春の凧揚げ会について

2007-12-26 | その他
昔は、「お正月には、凧揚げて、こまを回して遊びましょ」という歌詞の通り、凧揚げとこま回しは正月には、どこでも見られる普通の風景だった。しかし、残念ながら,今は,それを見ることが少なくなっている。そうした中で、連綿と、今年で22回も続けられている凧揚げ大会をまずは紹介しよう。この新春凧揚げ大会は田中地域の20町会を中心として田中地域ふるさと協議会が主催しており、会場の堤防上では、各町会ごとにテント、テーブル、椅子等をならべ、食べたり飲んだりしながら、凧あげを楽しんでいる。また、会場の中央では、ふるさと協議会のボランティアたちが大鍋で作った豚汁や甘酒を来場者に無料で配ったほか、ヤキソバ、焼き芋、ソーセージ、綿菓子等を作って販売もしているので、見にいくだけでも、楽しい大会です。この大会の正式名は、「第22回 新春凧揚げ大会」で、概要は以下の通りです。
開催日時      平成20年1月27日(日)午前10時~午後2時
開催場所      水堰橋隣 利根運河堤防
            ※ 雨天の場合は田中近隣センターの体育館
対    象     市内在住、在勤、在学の方
内    容     使用凧自由
賞    品     参加賞、審査(凧自体及び上がり具合)により賞あり
主    催     田中地域ふるさと協議会
共    催     田中地区社会福祉協議会
問い合せ      田中近隣センター (電)7133-1000

続いて、最近出来た凧揚げ会の紹介です。正式名は、「のこしたいね、この林。たこあげ会」で、概要は以下の通りです。この凧揚げ会は、自然環境の保護を考えさせられるユニークな会といえます。
開催日時    2008年1月19日(土)11:00~12:00
開催場所    中原ふれあい防災公園(柏市中原1丁目)
内   容    1.凧作り講習会 11:00~12:00
           定 員:100人(先着順)
           材料費:300円
          2.凧あげ    12:00~14:00
          3.おしるこ販売 12:00~14:00
            おしるこ:250円 
            ※おわん・おはし・ゴミ袋をご持参ください。
対    象    どなたでも可
費    用    無料
主催者       牧場跡地の緑と環境を考える会
共    催    中原ふれあい防災公園隣接林保全基金
問い合せ     脇田 (電) 7173-0543
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なぜ、新撰組の近藤勇は流山の長岡屋に本陣をおいたか?

2007-12-25 | 歴史
新撰組の近藤勇が、本陣にしたという流山の長岡屋の土蔵を先日みてきましたが、率直な感想は、なぜ、こんな住宅街のど真ん中に、しかも狭い酒蔵の2階に本陣をおいたのか?疑問を持ちました。
戦闘集団として、軍隊として、官軍と一戦を交えようとする気力を持っている指揮官なら、こんな、敵を見通せない、迎え打てない所に、戦闘集団の本陣をおかないだろう。ここから、さほど遠くない仲間が分宿した光明院・赤城神社に本陣を置くべきだった。ここは、約15メートルの小高い丘の上にあるので、新撰組が江戸川を渡って来た丹後の渡し跡を見渡せるし、後ろにも逃げられる街道がある。実際には、官軍は、粕壁から随分北の羽口の渡しを渡って、長岡屋本陣を取り囲んだらしいが。しかし、長岡屋で近藤勇が投降したのを聞いて、光明院・赤城神社に分宿していた一部の者たちは、銚子まで逃げ延び、会津に向かっている。なお、この蔵は、元々は今駐車場になっているところにあり、それを現在地に移転したらしい。よく分からないが蔵は解体され、2階にあがるはしごは流山市立博物館に展示されている。となると、写真の碑の後ろに写っている蔵はなんなのか。本陣の蔵がなく、元あった場所が、ここでないなら、元あったところに、碑をたてればよいと思うが?この辺事情を、分かる人がおりましたら、是非お教え下さい。
要は、甲陽鎮撫隊の隊長として、大名格の取り立てを受け、故郷に錦を飾り、しかも官軍と本格的な戦いをしないで、敗走した時点で、多分近藤勇の警察組織としての「組」の役割の終焉を悟ったのであろう(大義の問題は別として)。警察組織の思考では、官軍の軍隊とは戦えない、相手にならないことを悟ったのであろう。その後再起を図るため、足立の五兵衛新田で人を集めているが、そこでは、江戸城周辺から離れた時点で、もう近藤勇の心は死んでおり、最終的に流山の長岡屋に本陣をおいたのも当然の結果と思われる。うつろな心の状態の中で、以前の新撰組の感覚でなした業がここに本陣をおかせたのであろう。だからこそ、4月2日に流山に来て、4月3日に官軍に包囲されたら、なにもしないで投降しているのだ。もう、戦いたくなかったようですね。
ということで、この流山駐留については、近藤勇にとっては、会津入りを果すための中継地点ではなかったような気がします。元々、流山市役所近くの流山市立博物館のある場所は、譜代大名である駿河本多田中藩の陣屋が置かれていたところです。そこから、程遠くないところにいながら、戦わなかったというのは、ーー。田中藩は一説によると、官軍に向け、発砲したという話しも残っているのに。もちろん、逆に官軍に寝返っていたという話しもありますがね。
4月1日まで足立の五兵衛新田で追徴した兵士(主流は武士とは言えなかったようです)とともに、4月2日未明に、総勢200余名で流山へ移動する。本隊が酒造家長岡屋へ、分隊は光明院、流山寺等に宿をとったとみられている。翌3日、流山に賊徒(新撰組とは知らず)が屯集しているとの情報を得た官軍の先峰隊(香川敬三隊)がやって来て、簡単に包囲され、あっさりと投降に至り、3週間後の4月25日、近藤勇は武士ではなく農民として35歳の若さで板橋で打ち首にされている。官軍は約800名で、分宿していた幕軍は200名ともいわれ、田中藩の藩士と力をあわせれば、そこそこ戦えるのだが。
もし、本陣を先に紹介した赤城神社にしておけば、羽口からやって来る官軍を良く見渡せ、いかようにも、戦えたと思うにーーー。
なぜ、長岡屋だったかというと、一説には、長岡屋が桑名藩御用商人であったためとも言われているが、定かではない。
いっぽう土方歳三は、近藤連行直後に江戸へ潜入し、勝海舟邸などを訪れ近藤の助命嘆願をしたともいわれているが、それも定かではない。土方は、4月11日には市川で幕軍と合流、北へと旅立つことに。そして、我が街に、内藤隼人の変名で、大鳥圭介たち総勢1千人以上の幕軍とともに布施にやって来るのです。そう、会津に行くために。このことは、2006年の11月2日の私のブログに簡単に書いてありますが、後日、もう少し詳しく調べてみるつもりです。滞在期間は柏の布施の方が長い気がします。
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初詣を待つ流山の赤城神社

2007-12-24 | 歴史
赤城神社と言っても各地にいろいろあるが、ここでいう赤城神社は柏の赤城神社でも、群馬の赤城神社でもない。流山6丁目で光明院と並んである赤城神社のことである。この赤城神社は、言い伝えでは、「そのむかし大洪水によって上州赤城山の崩れた土塊が流れついたのが赤城神社奥の赤城山であり、山が流れてきたから流山という地名がついた」とかいわれています。さらに、別説では、赤城山のお札が流れ着いたからともいい、実に流山の地名発祥の起源をひもとく面白い伝説と舞台となっております。
祭神は、大己貴命(オオナムナノミコト)。大己貴命(おおなむちのみこと)は大国主命(おおくにぬしのみこと)のことであるが、創建は不詳。一説には、鎌倉時代創建の伝説がある神社(旧郷祉)であるとも言われるが、元和6年(1620)再建。境内には船王神社(慶長11年・1606建立)など  多数の神社が祀られております。急な石段を登った正面に拝殿があり、その奥に覆屋がかけられ、屋根だけを覗かせた本殿があります。
さて、この神社の秋の祭礼に先立ち準備をする日を「宮なぎ」といい、この日、鳥居に飾る大しめ縄づくりがおこなわれます。氏子たちが持ち寄ったわらと竹で大きなしめ縄をつくり、出来上がった大しめ縄を鳥居の前に下げ、祭りの終わった翌日に下ろしましたが、近年は、一年中下げておくようになりました。この宮なぎの日は昔は10月15日(近年は10日)で、本祭り10月19、20日(近年は土・日曜日)、つまり、10月の第三・土日らしい。現在飾られている大しめ縄は、写真の通りであるが、長さ約10m、太さ約1.5m、重量約300kgといわれています。
さて、赤城山は標高約15メートルあり、先ほど書いた急な石階段を登って行くと、石段の右に小林一茶の「越後節蔵にきこえて秋の雨」という句碑があるのです。
これは、文化元年(1804年)8月27日、小林一茶は雨の中を流山にやって来き、翌28日に詠まれた句です。それを一茶の『文化句帖』(文化元年8月)によれば、
廿七日 村雨 流山ニ入
秋の夜や隣を始しらぬ人
廿八日 雨
越後節蔵に聞へて秋の雨
と記されている。
一茶が流山に来た時に良く立寄った秋元家本家の屋敷は、今は、一茶双樹記念館となっていますが、それは目と鼻の先にあります。この神社から500メートルも離れおらず、肉眼で場所が確認できるのです。ですから、この隣の光明院と赤城神社に一茶の句があっても不思議ではありません。この神社は、もう、初詣の準備も万端らしく、あちこちの神社の初詣案内看板が立てられておりましたが、この赤城神社もこの辺の人たちの初詣でそれなりに賑わうそうです。でも、柏からでは、遠すぎますね。
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流山の一茶双樹記念館を訪れて

2007-12-23 | 歴史
先般、流山市役所近くに用事があったので、それを済ませた後、長年一回は行って見たいと思っていた、小林一茶寄寓の地、一茶双樹記念館を訪ねてみた。冷たい小雨のためか、それとも師走の時期のためか、見学者は私一人であったので、じっくりと見させて頂いきました。一方通行の道を赤城神社方面に向かうちょっと手前に、それはあるが、駐車場は十台もおけない。駐車料金は無料だが、入場料は、大人100円取られた。この建物は、平成2年12月4日流山市の指定記念物となっている流山市の建物だが、この運営管理は、指定管理者である、ある株式会社が行っていていました。こういうのが、今、公共施設では流行何ですからね~。
さて、小林一茶(1763年~1827年)は、流山のみりん醸造元、五代目秋元三左衛門(1757年~1812年)と親交が厚く、流山をしばしば訪れていたことはご承知の方も多いと存じます。三左衛門は、双樹という俳号を持ち、一茶と共に俳句を詠むと共に、経済的な支援を惜しまなかったことは、有名な話しですね。
一茶は、信州柏原に生まて、1777年、15歳の時に江戸に出、一説によると1782年19歳の時に下総馬橋の大川立砂(油屋)に奉公していたという伝承もあるが、定かではない。流山を含む、房総方面の行脚がしきりとなるのは、1803年、41歳ころからであり、この時「享和句帖」を記す。翌年の1804年には「文化句」を記している。
一茶は、蕉門葛飾派と呼ばれる一派の三代目宗匠溝口素丸に師事している。当時、この一派の傍流、いや別格宗匠として、茨城県利根町には森田元夢がおり、この元夢が小金や馬橋などの一帯に、葛飾派を広めていたのです。
これが縁で、一茶は、双樹が死んだ1812年ころまで、よく双樹邸を訪れ句を詠み、ここを出城として、馬橋の大川立砂、斗ゆう親子の家、布川の古田月船、田川の岩橋一白、守谷の鶴老などと親交を暖めていったようです。
双樹の死後、一茶は、1814年、52歳の時に生まれ故郷に帰り、結婚し、1819年、57歳の時に句日記「おらが春」がなりました。それから8年後の1827年に一茶もなくなりました。
この記念館は、一方通行の道路に面しており、昔の秋元本家の建物で、木造造りの2階建てで事務室もあります。しかし、そんなに古そうな建物ではないような気がしましたし、そんなに広いとは思いませんでした。その奥に、一茶庵と双樹亭がありますが、どうでしょう、私には、感慨が湧くような古さを感じさせませんでしたね。でも、天晴という立派な掛け軸と整備された庭には感動しました。また、庭に行く道筋に、故郷の柏原方面に向いた一茶の句碑(夕月や流残りのきりぎりす)が建っており、これには、一茶の望郷の念を胸にじんと感じざるを得ませんでした。やはり、故郷へ帰えりたかったんですね。帰ったら、二度江戸には来ませんでしたからね。
この一茶双樹記念館の鑑賞時間は、午前9時から午後4時50分までで、休館日は、月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始だそうです。なお、一茶庵と双樹亭は、有料で会議等に貸してくれるそうです。問い合せ電話番号は、7150-5750です。住所は流山市流山6-670-1です。
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正月を前にした「正月準備と正月風景」の企画展

2007-12-22 | 歴史
本当に、もう幾つか寝るとお正月ですね。学校も昨日で終了し、子供たちにとっては、クリスマス、お正月と楽しい冬休みの始まりですね。このお正月の行事の風景を中心に、準備が行われる師走から小正月、季節を分ける節分までをテーマに取り上げ、企画展を行っている歴史民俗資料館が竜ヶ崎市にあるのでご紹介します。
企画展のタイトルは、「願いを込めて」――正月準備と正月風景――で、平成19年12月1日から平成20年2月3日まで開催されています。
それでは、今日の12月22日以降の主なイベントを紹介します。
展示解説会    平成20年1月5日(土)、20日(日)
            午前10:30~、午後1:30~(各30分)
たこ揚げ(六角たこ)名人の技をみよう
           平成20年1月6日(日)午後1:30~
ならせ餅を作ろう・雑煮を食べよう
           平成20年1月13日(日)午前10:00~
鳥追いに参加しよう
           平成20年1月14日(月)午後5:30~
そして、記念講演会
           日時  平成20年1月14日(月)午後1:30~3:00
           演題  「小正月の祈り」
           講師  石本敏也(聖徳大学人文学部日本文化学科講師)
           募集  人数先着60名
上記のような展示や関連事業を通して、先人たちが残してきた習わしや正月行事に込めた願いに思いをはせ、これらの行事を今も伝承している地域の人たちを暖かく見守っていこうということが、どうやら趣旨のようですね、今回の企画展の。
では、この竜ヶ崎市歴史民俗資料館とは、どういうものでしょうか。紹介します。常設展として、八坂神社祇園祭礼の最終日に行われる国選択無形民俗文化財「撞舞(つくまい)」の4分の1模型をはじめ、原始古代から近現代までの土器や道具、古文書などが展示されている。特に興味が深いのは、竜ヶ崎は江戸時代、水戸藩を通り越してなんと伊達藩(伊達政宗)の領地だったことがあり、その関係資料がも展示されていることである。実際自分の目で確認して頂ければ。
また、屋外展示としては、関東鉄道竜ヶ崎線で活躍した蒸気機関車や、商家の店先や農家の納屋等を再現した建物がある。
更に、れきみんシアターでは「まんが日本史」が無料で土曜日に上映されている。
そして、企画展があり、今回の企画展が上記の正月関係のものというわけです。
ここは、関東鉄道龍ヶ崎駅から、徒歩20分の龍ケ崎市馴馬町2488番地にあり、入場は無料です。開館時間は9:00~16:30で、原則、休館日は月曜日・毎月の末日・年末年始(※ 上記が休日の場合は開館し、翌日が休み)です。また、資料の閲覧・撮影・模写などの相談に応じているようです。問い合わせ先の電話番号は、0297-64-6227となっております。
是非、お正月にお出かけになり、先人たちが込めた正月の意味を吟味してみてはいかがでしょうか?

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手賀沼を見下ろす旧村川別荘

2007-12-21 | 歴史
先般、来年の干支のネズミ関係の神社について調べるために、我孫子市の寿町にある子の神大黒天(延寿院)に行った時に、初めて知ったものがありました。風光明媚な手賀沼を見下ろす丘の上には、東京からも近かったせいか、大正の頃から文人墨客の別荘が数多く設けられていたのは知っていました。そして、その多くが時代の流れとともに消え去ってしまっていますね。
ところが、そのうちの僅かに残った一つの別荘が、子の神大黒天の駐車場の脇に、写真のようにひっそりと佇んでいるではないか。手賀沼を見下ろせるこの地に、大正10(1921)年から東京帝国大学で西洋古代史の教授だった村川堅固が建てた別荘があったのです。今月になって、2回目の訪問の際に、恥ずかしながら、それを発見したのです。(おおげさで、ご勘弁を)
旧村川別荘は、江戸期の我孫子宿の本陣跡を使った母屋と関東大震災後に建てた鉄筋コンクリート、銅板ぶき屋根の和洋折衷の新館との2棟からなっており、竹林やもみじ、けやきの木々に囲まれた中に、時を忘れさせる空間を醸し出していたのです。
故村川教授は、この別荘で同市内に別荘を持っていた講道館創設者で教育家の嘉納治五郎らと交流し、釣りを楽しみ、そして学生の指導の場にも使ったという。
戦後、息子で歴史教科書の編者でも知られる東京大教授の村川堅太郎が所有したが、1991年の死去に伴い、国に物納されていたのである。こうした事態に対して、遺族や市民から、保存の陳情が出され、我孫子市が2001年、土地建物を2億1900万円で購入し、市民の「癒し館」として、市民講座やお茶会に使っているようです。
そして、2006年から、市民ボランティアの「旧村川別荘市民ガイド」の歴史ガイドも常勤し、本格的な公開をはじめている。
奇しくも2007年は、村川堅固が別荘を建てて90周年、堅太郎の生誕100年に当り、それを記念して、今年の4月、アビスタ 1階ホールで、展示「旧村川別荘の90年」と伊藤貞夫東大名誉教授(日本学士院会員)、村川堅太郎のお嬢さんである村川夏子さんによる講演等が行われました。いつもながら、我孫子市は市民と行政が一体となって、保存に動くのですから、素晴らしいとしかいいようがありませんね。その成果が、2007年5月30日に、この別荘が我孫子市指定文化財第9号に指定されたのでしょう。
この別荘の開放日は、水曜日から日曜日で、開放時間は午前9時から午後4時までです。ですから、月曜日・火曜日はお休みです。また、年末年始も休みです。ありがたいことに、見学は時間内は自由だし、利用料金は無料です。
しかも、さきに紹介した市民ボランティアによるガイドもありますので、是非説明を、今度行く際には聞かないと、と思っております。この前、行った時は4時を過ぎていたので、中には入れませんでしたので。なお、会議などに部屋が利用できるようなので、その場合は、事前に教育委員会文化課に予約が必要とのことでした。電話番号は、04-7185-1583です。
この辺には、子の神古墳群や作家、志賀直哉の旧宅跡や白樺文学館が並び我孫子の散策コースの一つになっていますので、是非、お出かけしてみてはいかがでしょうか。
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布施弁天への初詣の案内

2007-12-20 | 歴史
暮れからお正月にかけての布施弁天の行事について紹介します。
今年も、毎日のように弁才天と観世音菩薩にお参りしていたせいか、全ての面で大過なく安穏にすごせました。これは、素直に感謝しなくちゃ。来年も同様に、いや今年以上に良い年でありますように、初詣に行かなくてはなりませんね。
若くない自分は、除夜の鐘つき(正式には31日が107回で、1日に1回つくらしい)は、無理があるので、3が日内にはお参りしたいと思っております。
以下に、布施弁天の暮れからお正月にかけての行事を中心に、書いて見ます。
鐘つき       12月31日    午後11時45分~ 
元朝祈祷     深夜0時~
           深夜1時~   
           深夜2時~
祈  祷      1月1日~6日  午前9時~午後4時(1時間毎)
獅子舞      1月1日      午前9時30分~
奉納呼魂太鼓  1月2日      午後12時20分~
                      午後1時30分~
                      午後2時30分~
獅子舞      1月3日      午前9時30分~
厄除け祈祷   1月6日(初巳)
お焚火上げ   1月14日(古札)
月例祈祷    1月15日     午前11時~
七福神豆まき  2月3日      午後1時30分~
                     午後3時30分~
これは、これとして、今、トマトハウス前の布施弁天の駐車場に土が写真のように山と積まれている。私が最初に見たのは日曜日だ。あけぼの山農業公園脇にある市民菜園に行った時に知りました。でも、一体、なにをするのでしょうかね?今では、畑の近くの土の高さは2メートルを越えている。すごい、土の壁です。
この土は、旧紀長伸銅所(柏市)と東実体育館(我孫子市)の間にあった山が削られているが、どうやら、その土がこの駐車場に何台かのトラックによって積まれているらしい。削っているところは、ひな壇のように整地されているので、宅地ではないでしょうか。
この工事は、大部前からやっていたのに、急にこの日曜日から布施弁天様の駐車場に運ばれているのでしょうかね。こんなに土を積んで、本当に大丈夫なんですかね。それと、お正月を前にこれから、ここへ車で来る人が多くなるのにねー。まあ、駐車場はほかにもあるからーーー。
また、話しは変わるが、今年の2月に只見町の雪まつりに布施弁天の大雪像が造られ、飾られたことは、以前書きましたが、今度は来年の雪まつりの大ポスターに、その時の写真が大々的に掲載されています。ライトを浴びて暗闇の中に浮かび上がる大雪像の布施弁天が、実に幻想的に写っています。来年の大雪像は何になるかは知れませんが、今年みたく雪不足に、悩まされることはないでしょうから、多分、立派な大雪像ができるでしょうね。
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プロに学ぶストレッチとウォーキング

2007-12-19 | その他
今回は、柏市内で2つしかない公民館の健康に関する教室を紹介します。公民館は、沼南l公民館と本教室を行う中央公民館しかない。しかも、この教室の企画・運営を担当している「ふそう会」は、社会教育、公民館が全盛時代に中央公民館で行っていた2年制の婦人大学のOGたちが結成した会で、もう20年はすぎたろうか。
しかし、時代は変わった。この講義と実技の参加者を募集しているのが、女性セミナーであるにもかかわらず、参加者は女性だけでなく男性でもOKなのだ。昔は、女性セミナーといったら、参加する対象者は女性だけだったのにね。
男女を同時に募集するなら、なにもタイトルに女性をつけなくともよいと思うだがーー。今は、こういう講座、男女とも募集する場合、市民講座とか市民セミナーというのが普通のような気がするのにね。
さて、本題に戻ると、この参加者を募集している教室は、心と体をリフレッシュするのに最適なのは、ストレッチとウォーキングではないかとして、その講義と実技を行う健康志向の教室といえます。健康に関心のある方は、是非とも参加してみてはいかがでしょうか。以下にその教室の概要を紹介します。
開催日時    平成20年1月16日(水)
          平成20年1月30日(水)
          計2回の連続講座でいずれも午前10時~正午
開催場所    柏市中央公民館 5階 音楽室
内   容    講義「五感を磨き豊かな暮らしをしましょう」
          実技「ストレッチとウォーキング」
講   師    佐野 裕子 氏
          (東京YMCA社会体育・保育専門学校講師)
対   象    成人男女
定   員    30人(応募者多数の場合は抽選)
参加費     無料
申し込み    往復はがきに「女性セミナー受講希望」と明記し、住所・氏名・年齢・
          電話番号と返信の宛先を書いて、〒277-0005柏市柏5丁目8-
          12柏市中央公民館へご郵送下さい。
締切り日    1月8日(月)※必着
問い合せ    柏市中央公民館   (電)7164-1811
主   催    柏市中央公民館
企画・運営   ふそう会
写真は、柏市役所第二庁舎(新しい建物)の脇にある教育福祉会館の正面玄関である。この5階建ての赤いレンガ色の1~2階は福祉部門、3~5階部分が中央公民館である。この図書館本館とも向かい合っている5階の音楽室で、この教室が行われるようです。
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青少年とメディア

2007-12-18 | その他
今は、小学生でも携帯電話を持つ時代。インターネットの有害情報から子供たちを守ろうという動きは、小・中・高の学校現場にインターネットが導入された際に、フィリタリング等の対策が取られ、学校においてそれなりの対応をしてきている。しかし、携帯電話は個人だし、家庭でのインターネットの有害情報へのアクセス等に関しては、学校現場より、かなり対策が遅れている。それは、家庭における保護者の意識にかかわっているからである。実際に子供たちに被害が出てきており、家庭での取り組みが大切となってきている。
そう、青少年に無防備で携帯電話やインターネットを使わせてはいけない。
先般、11月3日、柏市土南部小学校で、今シンポジウムのコーデネーターを担当する土南部小学校の西田先生が「親子携帯電話教室」にて、講演している。これは、文部科学省委託事業の「有害情報モデル事業」として開催され、大人20人、子供10人が参加した。例えば「出会い系サイト」に関係した事件のうち8割は、子供になっているので、特に保護者は子供と携帯電話やインターネットの使い方等のルールを決めることが必要とのこと。子供のいいなりや「うちの子に限って」というのが一番危険ということらしい。最近は、被害者になるという観点だけでなく、いじめ等の加害者にならないようと注視することも、肝要らしい。
残念ながら、子供の自立性が大切でも子供だけでは守れない部分があるので、保護者が責任をもって対処していくという意識を持たなければならない時代になってしまっている。
こうした観点から、下記のシンポジウムが行われるようであるが、場所が浦安市の市民文化会館と遠いところが難である。では、概要を紹介します。
開催日時    平成20年1月26日(土)
          13時30分~16時30分(13時開場)
開催場所    浦安市文化会館 小ホール
内   容    <基調講演>
           「青少年とインターネット、携帯電話をめぐる現状と課題」
            講師 千葉大学教育学部准教授 藤川 大祐 氏
         <パネルデスカッション>
          ・ コーディネーター
           柏市立土南部小学校教諭    西田 光昭 氏
          ・ パネリスト
           千葉大学教育学部准教授    藤川 大祐 氏
           浦安市青少年健全育成連絡会  塩谷 祐司 氏
           おやじ日本 携帯電話・インターネット問題
            担当副会長        永井 正直 氏
           東京情報大学3年       坂本 和人 氏
定  員    400人(先着順)
入場料     無料
申し込み    郵便番号、住所、氏名、電話番号、参加希望人数を書いて、電話、はがき、フアックス等で申し込み
申し込み先    財団法人 千葉県青少年協会(協議会事務局)
          〒263-0016 千葉市稲毛区天台6-5-2
          電 話  043―287―1711
          FAX  043―251―0849
問い合せ先   同上、電話番号へ
主  催    千葉県青少年を取り巻く有害環境対策推進協議会(ちば地域コンソーシム)
後  援    八都県市(埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、横浜市、川崎市、千葉市、さいたま市)、浦安市、浦安市教育委員会
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布施弁天の庇護者田中藩本多家のルーツ

2007-12-17 | 歴史
今回の岡崎城を訪ねる旅行は、標記の件を調べるためです。三河武士のすみか、岡崎は、旗本・大名のルーツと言われています。布施弁天の庇護者であった藤枝にあった駿州田中藩4万石の本多家のルーツは、ここ岡崎とどう関係あるかと思い訪ねてみたのでした。また、知りたかったもう一つのことは、地元の藤枝でどのように仏閣を保護し、信心していたかを知りたかったのです。つまり、柏にある布施弁天をなぜ、本多家が信仰し、庇護したかを知りたかったからです。その手がかりが、ひょっとしたら、岡崎にあるかも知れないと思ったのです。
三河出身の親藩・譜代大名は279藩のうち123藩、直参旗本では879家のうち295家を数えています。その中でも本多家の大名は十三家、旗本は四十五家あり他に例をみない。しかし、有名なところは大名は6系統らしいし、本多家の有名どころは、一筆啓上馬肥ゆる秋―――で有名な本多重次(作左衛門)、徳川四天王の本多忠勝、家康の参謀本多忠勝であろう。
私は、この岡崎城の城主は、徳川家の一族のものが代々引き継いでいたかと思ったら、ころころと変わってビックリしました。現在の岡崎城の位置に初めて城を築いたのは西郷頼嗣で、年代は1452年から1455年頃といわれている。文明年間に西郷家は松平信光の攻撃を受けて、敗北し、信光の子を養子に迎える。ここに岡崎松平家が成立。
徳川家康は、松平八代・広忠の長男として、1542年12月26日、ここ岡崎城内で生まれるが、広忠が1549年に死ぬと今川の領地なり、今川の武将が岡崎城の城代となる。その今川が1560年桶狭間で織田信長に敗北死すると、家康は岡崎城の経営に乗り出す。
1563年に松平元康は松平家康と改名、さらに1566年松平姓から徳川姓に改姓し、ここに徳川家康が誕生する。
1570年に家康は、本拠地を浜松に移し、子供の信康等には岡崎城を任せるが、前本多と言われる本多康重が城主となったのは、1601年であるが、これは、4代で終わっている。その後、岡崎城主には、水野家、松平家が引き継ぎ、後本多家が城主となったのは、1769年からであり、明治維新後の1871年まで続いた。
では、この前本多と後本多と藤枝の田中藩本多家との関係かいかに。どうやら、前本多とは因縁浅からぬらしいことがわかった。
本多宗家は、忠勝の家系とか正信の家系ともいられている。が、先にのでた忠勝の家系、重次の家系は、お家は絶えているらしい。
本多正信の祖先は藤原氏北家兼通ともいわれるが定かではなく、実際の本多家は松平氏に仕えた三河国の譜代の家臣である。だから、江戸時代を通して、徳川宗家と分家以外に使用できなかった「葵紋」を唯一許されていたらしい。
助定の時代から三河に土着し、その子助政には、定通と定正とがおり、この2人から本多2系統6家に別れていったらしい。
忠勝、重次、康俊は定通系統。定正系統には、康重、正信、正重の家系がある。ということは前本多と同じ流れを組むのか正重は。また、正信、正重は、俊正の子で兄弟である。
さて、この正重こそが、駿河田中藩の祖といえるのである。正重は1616年、下総相馬藩1万石の領主となり、布施弁天のある布施村も領地となるのである。この布施村は飛び地であるが、明治維新までは基本的に本多家の領地であった。一時期違ってはいるが。正重の子正貫、孫の正直は8千石の旗本となる。が、正直の子であり、布施弁天に鳥居と絵馬を寄贈した本多正永の時代となると、1688年~1703年まで下総舟戸藩(1万石信仰心なる。子、正武は沼田藩であったが、孫の代、本多正矩の時代に、1730年に駿河田中藩に移封される。そして、明治維新までこの本多家は田中藩の藩主であったが、明治維新後、正訥が千葉長尾藩にこれまた移封され、廃藩置県により最後の藩主となった。
以上の調べたことは、自分にとって、このブログを開設していた時からの懸案事項であったが、この度、岡崎城の三河武士のやかた家康館を訪ね、大雑把であるが、布施弁天の庇護者本多家のルーツがわかった。行ってよかったです。
しかし、もうひとつの懸案事項、正重以降の信仰心、特に鳥居や絵馬を布施弁天に寄贈した正永以降の本多家の信仰心、「なぜ、布施弁天をあがめたか」については、これからの課題として残っているままである。確かに、岡崎は寺院が多い。例の三河一揆にみられるように信仰心もあつい。が、ここは「欣求浄土」というように浄土宗の信仰があついのである。それが、なぜ、弁才天となったのか?これは、沼田藩と田中藩の跡地めぐりに行かずはなるまい。布施弁天が祀られたのは、史実によると1674年となっております。いずれにしても、この点を調べるには、まだ、時間が掛かりそうですね。わかったら報告します。なお、写真は、岡崎城内にある徳川家康の銅像です。
最後に、上記記載のうち、誤記等がありますれば、ご指摘賜りますれば幸甚です。よろしくお願いいたします。
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