布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

水戸天狗党と軍資金徴収の嵐

2007-02-09 | 歴史
大鳥圭介や土方歳三が数千もの軍勢を引き連れ会津で再起を図るために、布施村を訪れるわずか数年前から、幕末の嵐は、布施村にも吹き荒れていた。彼らのために宿を提供した元橋本屋旅館の七代目にあたる今年80歳を迎えた当主が語るところによると「元治元年(1864年)3月水戸天狗党72名宿泊す」の石塔が、天狗の面とともに、元旅館の中庭にあるという。
水戸天狗党は、水戸藩の純粋な尊王攘夷派で構成され、元治元年筑波山で決起する。そして、軍資金と兵糧を調達するため、常陸はもとより下総・武蔵・下野などに食指を伸ばし、本物、かたりが入り乱れて、乱暴狼藉(?)を始めている。当然、当時繁栄していた北相馬郡内の花野井村、布施村、高柳村等にもその嵐は及んでくる。
事実、花野井村の松丸家では1500両をむしんされたが400両にまけてもらい、吉田甚左衛門家では300両を支払っている。布施村では後藤七郎左衛門が多額の軍用金を提供している。また、高柳村の名主酒巻孫右衛門家には、天狗党を名乗る3人の武士が来て、12俵の兵糧を布施村の後藤山(明確な場所は不明)に運ぶように命じ、翌朝そこへ言われたとおり兵糧を届けたところ、そこには誰もいなかったという話も伝わっている。
こうした事態に対し、6月幕府は水戸天狗党追討令を出し、領主であった本多田中藩は兵を布施弁天東海寺へ交代にて出役させ、更には徳川親藩の関宿藩は渡船警護として、七里ケ渡や取手の渡にも出兵し、この近辺は実に物騒な状況を迎えていたのである。幸い、この近辺では大きな騒動は起きていないが、布施弁天の宿場に住む宿の人たちにとっては、気が休まらない幕末であったろう。
そして、こうした事態に、敏感な若者が必ずいることは、いつの時代も変わらない。平穏な生活を送っていたはずと思われる本多田中藩の重臣である松ヶ崎の吉野金陵の子、新一郎も天狗党に加わり、投獄されている。その後の水戸天狗党は、徳川慶喜に尊王攘夷の直訴をするために京都に向かう途中、加賀藩の兵によって降伏させられ、1865年2月首謀者の武田耕雲斎や藤田小四郎ら353人が処刑されるという悲惨な結末を迎えてしまうのである。今は盛りとばかり咲き誇る、春を待つ布施弁天東海寺の愛らしい梅の花をみていると、140年前の悲惨な出来事に哀れをさそわれてしまうのである。
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