布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

ウォーキングと湧水めぐり

2007-01-31 | その他
3月11日(日)に雨天の場合は中止であるが、申し込み不要の富勢ふれあいウォークが開催されます。今までは、富勢地域の歴史的遺産めぐりが中心でしたが、今年は、富勢地区を離れ、柏地区の湧水めぐりをするとのことです。自然環境と健康に関心のある方、是非、参加してみませんか。集合場所は、北柏駅南口。集合時間は午前9時45分。主催者は富勢地域ふるさと協議会です。
次に歩くコースを簡単に紹介します。北柏駅→呼塚の常夜灯→駒込湧水→寺谷ツ湧水→戸張湧水→ふるさと大橋→北柏ふるさと公園で解散です。完歩賞も用意されています。
湧水といえば、富勢地区並びに隣接地区には、以前に紹介したデーダラボッチの足跡の宿連寺湧水や松ヶ崎城趾にある松ヶ崎湧水(写真)は有名ですが、柏地区の湧水に、なじみがない方が多いのではないでしょうか。駒込湧水は、柏字駒込にあり、竹林内の池に注ぎ込む。寺谷ツ湧水は、柏字寺谷ツにあり、山林斜面ふもとから湧出しているし、戸張湧水は、戸張字弁天前にあり、竹林斜面ふもとから湧出しております。先にお断りしますが、期待している湧水と実際のものとは、大部かけ離れていることを、事前に覚悟しておく必要があるように思えます。
自分も宿連寺湧水と言われた池を見た時、唯の泥の池ではないかと思ったし、松ヶ崎湧水を見て、屋根がついて整備されているが全然流れていないので、これで湧水とはと思ったりしました。でも、これが、柏市の湧水の現状なのです。市内には湧水といわれるのは、12カ所(柏市の湧水のパンフレットより)あったんですが、こんこんと、きれいな水が常時湧き出ているのは、本当にいくつあるのでしょうか。最近小橋戸湧水もなくなったと聞いています。
30年前、40年前と時代を遡れば遡る程、きれいさと湧出度が増していくのに、なぜ現状のようになったかを、しみじみと考えながら、春の陽を浴びて、歩く、ウォークキングするのも一興かもしれませんね。先導者は市内のウォーキングの専門家らしいです。
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布施弁天の新パンフレット

2007-01-30 | 歴史
昨日(29日)、布施弁天東海寺が新たに発行したパンフレットを手に入れました。以前のは、装丁も良く、重厚感があったのですが、ネックは有料だったということでした。今回のは、前回と同じ三つ折りではあるが、重厚感にはいささか欠けるような気がします。だが、無料です。本堂に置いてあるので、だれでも手に入れられようです。三つ折りの真ん中には、ご本尊の身代わりの御前立(おまえだち)の八臂中老弁天像が大写しになっています。余談ですが、板橋のお不動さんのパンフットと構成が良く似ていますが、新住職の知ってもらって、来てもらいたいという心意気を感じ取ることがでるパンフレットです。
季節は、蝋梅や水仙が咲き、また、梅も咲きはじめ、春が近づきつつあるのに、千葉県の文化財に指定された3つの建物の良好な保存については、まだ、厳冬の状態といえましょう。行った方はわかるかと存じますが、石段を登った中段にある景勝閣の両側には、「上からの落下物に注意」の看板があります。登り切って景勝閣の屋根(写真)を見上げると、瓦が割れていたり、あぶない状態になっているのがわかります。これらの文化財の補修は、緊急の課題ではないでしょうか。
布施弁天東海寺は,祈願檀家は約200軒、お寺の檀家としては20軒前後と言われています。そんな中で管理寺だった松ヶ崎の覚王寺が牛田前住職時代に抜け専従住職がおかれ,今度は,下村住職になってから土谷津の円性寺が昨年抜けてしまった。そして、円性寺は3年間も戻ってこれない。檀家が少ない布施弁天東海寺にとって,痛手でないわけはない。寺山にある寺山ふるさと会館脇の墓地を売り出しているが,それとても完売には至っていないのだから,察してあまりある。かかりはかかるが、実入りがどうもというのが実情か。しかし、待ってくれないのは、年々老朽化していく文化財の維持補修。
1月25日には、布施弁天の文化財を守る会の幹事さん達が集まって、相談したらしいのですが、幹事さんが3人増えたぐらいの話しか、聞こえてこない。隣りの茨城県で、県の文化財に指定されているある寺では,その文化財の修理費用については、県より6割,市より3割の補助を引き出し、自腹を1割で済ませている凄腕の寺院もあるようだ。
布施弁天様も上記の「恐い看板」を早急に撤去出来るように、布施弁天を愛する多くの人たちにもわかるような、なんらかの新しいアクションを起こして頂けますれば、すごくいいのですがね。
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布施村八兵衛の酒造り

2007-01-29 | 歴史
以前に、江戸幕府から許可をもらって、寛保元年(1741年)、八兵衛なる名前で布施村で初めて酒づくりをしたことを紹介しましたが、今回はその後わかったことを書きます。
柏市布施の土谷津に中尾富久造さんというお宅(目印は円性寺)があるが、この家の祖先が八兵衛さんで、布施村で初めて酒造りをした家だったのです。昔は酒蔵もあったようですが、今は酒造り関係の施設はないそうです。中尾家の反対側に中尾嘯花の家(下記参照)があったそうですが、今はそれもありません。写真は、中尾家の表門です。
八兵衛は、貞享元年(1684年)現在の神戸市北区山田町の生まれで、宝暦2年(1752年)に69歳で亡くなっているので、1741年というと五十代で起業したのでしょうか。しかし、なぜ、布施くんだりまで来たかは不明です。そして、忽然とこの八兵衛の名前が消えてしまうが、それは、富勢村誌によれば、八兵衛と同じ名前の代官がいたので、畏れ多いので八兵衛を改名して平左衛門と名乗るようになったと言われている。その時期は1752年前後と言われ、以降中尾家は平左衛門と代々名乗るようになる。そして、三代目平左衛門(1745年~1809年)の時に、酒の銘柄「谷風」が、相撲関係者からのクレームにより、売れ行きが影響し、享和3年(1803年)に、酒造米高百石分の酒造株を現我孫子市中里の中野家に譲渡して、酒造りをやめている。
この件を調べていくうちに、おもしろいことを二つ発見した。一つ目は2代目中尾平左衛門家に飯田家から養子に入り、酒造りの経理等の仕事をしていた平弥が実は分家して彦兵衛を名乗ったのです。そうです、小林一茶と交流があった俳人ろうそく屋彦兵衛だったのです。のちに隠居して、中尾嘯花と名乗ったその人が酒造りを手伝っていたということです。(中尾嘯花の詳しい話は後日)二つ目は、この3代目の平左衛門が、実は布施弁天を初めて亀甲山に祀った布施村名主の後藤善右衛門家から養子に来ていたことです。
この二つを見つけた時、久しぶりに、調べてみて良かった思うと同時には江戸時代というのは、交流範囲は狭まかったという感慨が強烈にわき起こりました。
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布施弁天の雪像、ピンチか?

2007-01-28 | その他
布施弁天東海寺の大雪像についての最近のニュースです。1月26日のニュースでもやっていたが、今年は暖冬で、北海道・東北地方の雪祭りは、ピンチのようである。既に、中止を決めたところもあり、規模の縮小を検討しているところもあるようです。これは、言わずと知れた雪不足。
布施弁天東海寺の大雪像を創ろうとしている柏市と姉妹都市を提携している福島県只見町の雪まつり(2月9日~11日)にも、同じことが言えそうだ。1月26日、只見町にある季の郷「湯ら里」の支配人さんに聞いたところ、雪は50センチくらいしかないので、現在、雪をかき集めているそうである。
今の所、中止はしないようである。町内の宿の方は満杯。なにせ、雪祭りが終わったと同時に来年の宿を予約している人が多数いるそうである。だから、今から見学しようとしても、只見町以外のところしかないようですね。
さて、肝心の布施弁天の大雪像であるが、ブックマークの「只見のふるさと雪まつり」をご覧いただきますれば、どのようなものができあがるかはイメージできると思います。今は、批評をやめ、出来てから、見てからですね。出来上がり具合を期待しています。創っている過程は、只見町観光まちづくり協会が撮影しているビデオをみれば一目瞭然です。アクセスは、上記のブックマークから同協会を探せばいけます。
柏市からは、布施弁天関係者や交流を持っている各種団体や行政関係者等が大挙(?)して押しかけるようです。只見町は柏市の約7倍以上の広さがあるのに、住んでいる人は約5000人で柏市の80分の1しかいない。7割から8割が山なので、合併のメリットもない。もちろん、ダムがあるので、財政的には困らないことにもよるだろうが。だからといって、人口が増えないのは問題に変わりがないので、山村留学等々の都会からの人口の流入をはかる施策を行っているようです。同姓が多いので、町役場の人たちも、下の名前で呼び合っている状況だそうです。ですから、この雪祭りにかける只見町の人たちの意気込みは、並ではないことは確かですね。
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浜名湖・舘山・舘山寺

2007-01-27 | 歴史
浜名湖舞阪当たりに浮かぶ美しい赤鳥居(1708年建立の弁天神社には鳥居はなく,正式には観光タワーらしい。)を横目に,宿がある舘山寺温泉に向かうが,正月旅行の目当ての一つは,高さ50メートルの舘山の中腹にある曹洞宗の禅寺である舘山寺探訪である。舘山寺は弘仁元年(810年)に弘法大師により開かれた真言宗の中嶺山舘山寺であったが,鎌倉時代,戦火により焼失。その後,源頼朝が自らの祈願寺として再建したが,今度は,明治の廃仏毀釈で廃され,明治中期になって再び興されたという数奇な運命をたどった寺院なのである。なお,右側の舘山寺入り口の石塔とは別に,左側には奈良時代の727年創立されたといわれている愛宕神社がありました。
お寺の入り口の階段を登っていくと,本堂の脇で,若い女性たちのグループがなにやら必死に手を合わせている。行ってみると,それは「縁結地蔵堂」であったので,得心した。そのグループが,今度は,売店の脇にあるコンクリートのビルの中に姿を消したので,本堂のお祈りもそこそこにその後をついて行く事にした。(ご心配なく,家内も一緒です。)
そしたら,「ご~ん」というすざましい音が頭の上から落ちてき,一瞬たじろぎ,佇んでしまったが,なんのことはない。この建物の屋上では,1回100円で大鐘をつかせていたのである。もちろん,私も家内も家内安全をこめ,力いっぱいついたことは言うまでもない。鐘の音は,多分,浜名湖中に響いたと思います。彼女たちは目的を達したのか,山から降りていったが,私たちはそれから,本堂を少し登ったところにある,眼病よけの穴大師を尋ねることにした。穴大師は自然の一畳ほどの岩穴を利用し,そこには弘法大師が作ったとされる石仏を祀ったと言うが,どれがそれかは,あまり暗すぎてか不明であった。更に,山頂を目指し登って見ると,まず,眼に飛び込んできたのは高さ16メートルの「聖観世音菩薩像」(昭和12年建立)である。浜名湖を睥睨し,万民の幸福を祈っているかのようであったので,乏しい懐より賽銭をあげ,今度は旅の安全を祈った。
この山頂からの見晴らしは絶景で,浜名湖が一望できましたが,私が行ったときは風が強く,寒くて長くはいられなかったので,恋人岬の看板を下におりて行くとこの島を1週出来る遊歩道があったそうですが,それは断念しました。時間がある方は是非めぐってみてはいかがでしょうか。このほか,晴れた日には富士山が見えるという「富士見岩」や,約1億年以上前の「チャート岩」(赤褐色のチャート海岸にある),「とさか岩」(鶏冠岩または赤岩ともいう)とかもあり,周囲200メートルもない山にしては大変見ごたえがあり,はるばる来る甲斐があるようです。
布施弁天は,標高25メートルもなく,周囲も舘山寺よりもかなり少ないが,バックに利根川を抱え,行き止まりであり,環境的には,舘山寺と大して変わりはない。ただ,決定的に違うのは,舘山寺が舘山寺温泉の由来となっているようにレジャー施設の存在の有無である。旅に出て,布施弁天の将来を考えると,いろいろな模索を検討しなければならない時期にさしかかている気がします。
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昔,修験堂だった花野井長泉寺

2007-01-26 | 歴史
ぼけ封じ関東三十三観音霊場のひとつである花野井の長泉寺については、1月7日に紹介したが、その際、長泉寺の創建等の歴史について書き漏らしたので、今回少しわかったことを補足してみます。
長泉寺は、元修験者の道場、いわゆる山伏堂で、天和6年(1681年)に修験者の慶範が初めてここに住んだそうです。そして、宝暦11年(1761年)に僧快秀という人が、流山の鰭ヶ崎村東福寺より報恩院系の法流を伝えて、ここの住職となり、開祖となったと「田中村誌」は伝えている。このころの花野井村には133軒633人が住んでおり、布施村には188軒946人がいたそうである。余談ながら、1796年の布施弁天東海寺の檀家数は10軒、祈願檀家175軒であったそうだが、現在とそう変わっていない。
長泉寺はその後1788年に鐘を鋳り、1805年に庫裡を再建、1825年に表門を建立、そして1834年本堂を再建して、ほぼ現在と同じような規模となったようである。写真は昨年12月に山門より本堂を撮ったものである。
それ以降で長泉寺として特筆すべきは、1874年(明治7年)花野井学校を長泉寺に仮設開校(教場38坪、教員1人、生徒61人)したことぐらいであろうか。
現在は、隣に花野井公会堂や花野井香取神社、そして裏手には、かの有名な花野井の吉田邸とこじんまりとはしているが、大変落ち着いた雰囲気を持つ寺院である。
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布施弁天豆まき参加への心得!?

2007-01-25 | その他
2月4日(日)午後1時半からと3時30分からの計2回,布施弁天境内で,恒例の七福神豆まきが行われます。毎年多数の老若男女が参加していますが,豆をまく人が七福神等の仮装をするようになって今年で6回目(?)で,年々,盛り上がってきています。また,今年は新しい下村住職になっての初めての豆まき。新しい趣向(最後に書きました。)があるようです。
さて,住職や七福神たちがまく福豆をとることは難しくない。数多くまくので,大抵の人は受け取ることが出来る。
しかし,ただで,福をもらおうとする景品拾いの争奪戦に参加するには,それなりの心得・覚悟が必要である。ちょっと,大げさと思うかも知れないが,経験したことを参考のため,書いて見ます。この景品番号が入っているグッツ(タオル,スリッパ,携帯カイロ等)を拾うのは、昨年度から,子どもについては,縄をはり,本殿前で子どものみで行っているから問題はもうない。
問題は,大人の景品拾いである。広くはない境内に1回毎に500人をはるかに超す人たちが,虎視耽耽と獲物を狙っているのだ。殺気立っていると言っても良い。なにせ,ただで自転車,冷蔵庫,トースター等々の品物(昨年度)をもらえるのであるから。福豆拾いの時の柔和の顔から急変し,弱肉強食の世界と化すのである。
そこで,その心得。
①メガネをかけた人は,必ずはずして,誰かに預けること。まき終わった後には必ず,靴やメガネが必ず落ちている。
②金目のものは,身に着けて行かない。スリが出没し,毎年被害がでる。
③汚れてもよい,ズボンと靴を着用すること。靴を踏まれたり,転ぶものが必ずでる。投げるグッツめがけ,津波のように人がなだれ込むことを忘れるな。
④自分より頑丈で,背の高い人の周りにはいかぬこと。前後左右をよくチェックしておくこと。もちろん,怪しげな人のそばにも。
⑤下に落ちた景品は拾わないこと。拾うおうとすると,ろくなことがないから。
以上を心得て参加するなら,拾えなくても,必ずや,楽しい豆まきへの参加となるのではないでしょうか。なお,今年からさらに安全対策がとられ,鐘楼からの豆まきはやめ,宝物殿の前にやぐらを建て,そこからまくようです。これは,投げたものが風の影響で流れないようにするためでもあるらしい。また,本殿前からまくのはやめ,本殿脇を子ども用にするそうです。また,投げるものにも工夫をこらすという話も聞きました。今年の豆まきは,布施弁天にとっても新しい一歩となり,進化する布施弁天をみる気がします。
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相馬一族ゆかりの根戸城

2007-01-24 | 歴史
根戸城は,鎌倉時代,相馬胤村の三男胤光が根戸に城を構え,根戸城とし,根戸姓を名乗ったといわれている。根戸三郎胤光と。城跡がある場所は,江戸時代には根戸村といわれ,明治22年には合併して富勢村になり,昭和29年には我孫子市と合併して、我孫子市根戸字荒追となっており,国道6号線の我孫子市台田の交差点を手賀沼方面に下って行く(根戸・手賀線),常磐線のガードを越えた,ちょっと先の右側にある小高い山がそれにあたる。道路上にコンクリートのひさしが突き出ているところに,根戸城跡・金塚古墳の看板があり,それと知ることが出来る。その規模は,縦,横120mと言われたり,大きく見る人は縦横約700mとも言っている。遺構としては,曲輪,虎口,土塁,空堀,落とし穴等がある防御城ではないかと思われ,戦闘集団が居を構えていた様子はない。いずれにしても確定的なことは、城跡と思われる遺構があり、道路にせせり出ているひさし部分の上には遺構の一部が乗っているということだけです。写真は、そのひさし部分と写真で黒く四角に写っているのが、城跡・古墳をしるす我孫子市の看板です。
相馬氏は,その後奥州に移り,戦国時代は,この地が高田に城があった匝瑳氏の支配下で,匝瑳氏は大田道灌の影響下にあったとも言われるし,このことから,近くに道灌堀という地名があることから大田道灌が築城したのではないかともいわれている。更に言えば,小田原北条家の家臣であり,手賀沼一体を領有していた高城氏の城ではないかとも言う人もいます。とにかく、松ヶ崎城,布施城と並んで根戸城もただ遺構があるだけで、歴史的に定かでないことが多い城跡といえる。しかし、自分として関心があるのは、こうした不確かなことより、この土地は現在、誰のもので,誰が維持管理しているのかと言うことなのですが、わかっていることは、個人の私有地で、手賀沼トラストという市民団体が維持補修のお手伝いをしていることだけです。詳しくわかれば、後日報告します。
なお,金塚古墳は,5世紀前半につくられたようで,墳丘に並べられた埴輪や,短甲や石枕といった副葬品が昭和38年の発掘調査で見つけられています。
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松ヶ崎城跡に異変?

2007-01-23 | 歴史
北柏のアサヒビールの裏側(北柏駅から松葉町を経由して総合市場へ向かう道の左側)にある中世の松ヶ崎城の跡がある小高い雑木林の動きがここのところ変である。今日(21日)もブルトーザーが唸りをあげ、木々の隙間が段々大きくなって、鬱蒼たる雰囲気が消えつつあります。ここには、確かに柏市指定の文化財である松ヶ崎城跡があるはずなのに、どうしたのだろう。
聞くところによると、周りに新築の家が次々とできたので、古木が倒れて壊さないように古木を伐採し、また、崖崩れがないように間知石で擁壁を築いているとのことでした。
確か、昨年、松ヶ崎城見学会があった10月に、台風の影響で、10メートルの杉の木が倒れたりして、困ったという話を聞いたことがある。また、道路らしきものを造ろうとしている形跡もみえる。
開発すれば儲かるが、開発せず保護すると金は入らず、出て行く一方。この悪循環の中で、全国の重要な歴史的遺産が消えて行くんですね。この小高い雑木林の持ち主は増田さんという個人の方だそうです。個人での文化財の維持・管理するのは大変なご苦労があるんですね。花野井の吉田邸みたく、市に寄付をするとか、我孫子のあいじま芸術村みたくあくまで個人で行きか、持ち主とすれば、どちらにしても苦渋の判断となるでしょう。一番良いのが、市が買い取るとか、借り上げることでしょうが、それには、今度は市の事情がーーー。
平成8年には、この山にあった歴史的に価値があった三郡境いのお不動さんを火事で失い、今回、また、城跡自体の保存に、良いとは思えぬ状況が迫りつつあり、文化財の保護というのは、難しいとしか言いようがないですね。なんだか、雑木林に掲げられている緑色の松ヶ崎城を守る会と書かれた手作りの看板が悲しげに見えたのは私だけでしょうか。
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白樺文学館は個人の持ち物!

2007-01-22 | その他
我孫子市緑にある白樺文学館は、日本オラクルの社長だった佐野力さんが、2000年に旧志賀直哉邸の斜向かいに個人的に建てられたものだということを、副館長の渡辺さんから聞かされ、なんとも、かえす言葉がありませんでした。趣味が高じて、ここまでやるの。館長はもちろん佐野さんです。
3階建てで、3千点という志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦等の白樺派ゆかりの原稿や書簡、書籍を公開、展示しており、閲覧、読書ができるし、おまけに、地下の音楽室(オーデオルーム)では、柳宗悦の奥さんの声楽家兼子さんのCDも聞くことができるのです。私は、彼女が84歳の時に、リサイタルで歌った早春賦を聞かせて頂きましたが、とても80代とは思えない張りがある若い声でした。民芸という言葉を普及させた柳宗悦が志賀直哉を呼び、直哉が学習院仲間の武者小路実篤を招き、この3人が文芸同人誌「白樺」で活躍し、滝井孝作、中勘助も住んでいた、と聞かされ、無学な私はただただ恐縮する以外ありませんでした。このほかに、時間3000円で使用できるコミュニティールーム(26畳33人収容)や大口径反射望遠鏡付き天文台もあるという大変ユニークな文学館です。
直哉の我孫子時代はわずか7年半ですが、この間に「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」「暗夜行路」(後編三まで)等の名作を次々と発表しますが、よほどこの地がよかったのでしょうかね。赤城山から来て、去っていった先は京都です。
本館は、入館料200円で、月曜日が基本的に休館で、午前10時から午後5時まで開館しているそうです。同館の斜向かいの地は、弁天山といい、ここに志賀直哉が使用したという離れの書斎(写真)がありますが、母屋はありませんでした。部屋の中を見れるのは日曜日と木曜日で、しかも時間を区切っているようです。
なお、2007年2月9日(金)午後6時30分より、同館において、島村輝女子美術大教授による「小林多喜二・マンガ『蟹工船』」の講演会があるそうです。会費は500円。問い合せ先は、04-7169-8468で、余談ですが、志賀直哉は小林多喜二を大変かわいがっていたそうです。だからその手紙も残って展示されていました。
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名物「おいなりさん」は美味

2007-01-21 | その他
実は、豊川稲荷(妙厳寺)には、参拝する順路というのがあるらしいので、その案内図に従って本堂以降を散策してみました。本殿を参拝した後、宝霊殿――万燈堂――弘法堂――大黒殿――そして霊狐塚。この霊狐塚へ行くには参拝者が祈願して奉納した千本ものの幟(のぼり)の間を通っていくのですが、塚に近づくほどに神妙な心持ちにさせられて行くから不思議。そして、写真のように目の前に一気に1000体以上の狐の像が現れた時は、自分が狐になったんではと、錯覚してしまうほどです。よく目を凝らすと、多くの狐の頭の上にどういう訳か1円玉が乗っているのです。付和雷同型の自分は、すぐさま、1円玉が乗っていない狐を探し、乗せてきましたが、これは、何の意味があるのでしょうかね。普通、狐様には油あげと相場がきまっているのに、その油あげが、どうも見当たらないのです。これもどうしてかなー。この霊狐塚から、「内殿」「真殿門」「拝殿」の三殿から成る奥の院へ。内殿・拝殿は、旧本殿のもので、文化11年(1814年)の建立で、真殿門は、安政5年(1858年)の建立だそうです。次に、幟を注文する納付所をみみっちい自分は無視して(幟は2千円するので)、景雲閣をくぐり、三重の塔を横目に、そさくさとご本尊があるという法堂へ。法堂は文化10年(1813年)春改築後、天保年間に再建されたそうですが、ここへくると、社務所もあり、さすが、寺院臭さを伺えます。これで、総門前の僧侶の存在理由がわかりました。これで大体一廻りしたので、案内図による散策はここまでと、早速、山門――総門から外へ。お目当ては、お土産探し。豊川名物はちくわ(竹の和さん)や宝珠まんじゅう(喜楽製菓さん)もあるが、なんと言っても「おいなりさん」の発祥の地。そこで、まずは、門前そば山彦で元祖いなほ稲荷寿司を購入。五目稲荷で、ひじき、人参、椎茸、クルミ、竹の子がはいっており、大変、美味(甘い)で、お値段も8ケ入りでお手頃の630円。並んで買うだけの価値はありました。別にのり巻きが4ケ入っているのは、680円で売っていましたが、人気はやはりお稲荷さんだけの方でしたね。ついでに、ものすごく活気のあるこの門前町からは、お土産として、元気ももらって帰ることにしました。
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水仙とロウバイの花情報

2007-01-20 | 花情報
あけぼの山農業公園内の傾斜地にある梅林の梅は、まだ、開花していませんが、歩道にそって植えられている水仙はほぼ満開状態です。そして、梅の木の下には、赤色の花(なんですかねー?)がとてもきれいに咲き乱れており、これは暖冬のせいでしょうかね。水仙は、バーベキューガーデンハウス脇の傾斜地の方が、まとまって咲いておりました。水仙を見るのなら、こちらがお薦めです。水仙は、ヒガンバナ科スイセン(ナルシッサス)属で、俳句では冬の季語だそうです。水仙には毒があり、家畜などが間違って食べると死ぬこともあるそうですね。怖いですね。水仙全体の花言葉はうぬぼれ、自己愛等々で、花の可憐さからは思いもよらないものでしたが、ただ、ラッパ水仙の花言葉が尊敬等々で、唯一イメージ通りかな。
また、熱帯植物園の温室前には、若いロウバイの木が2本あり、それも写真のように満開とはいえませんが、咲いておりましたね。もちろん、この他にも園内には若いロウバイの木があり、いずれも花をつけておりましたが、匂いはさほど感じ取れませんでした。ロウバイの花言葉は、ゆかしさ・慈しみだそうです。この土・日がもし天気が良ければ、花見客が多く出るのではないでしょうか。見るべき花が少ないこの時期、水仙、ロウバイ、梅は、春を予感させ、心を和ませてくれます。
なお、風の当たらない布施弁天下の太師堂の梅の木の早いものは、いくつかの花を咲かせており、例年にない早さを感じさせます。八朔相撲が行われる梅林は、全く咲いていませんでした。念のため、梅の花言葉は、高潔な心、澄んだ心だそうで、確かに見ているとそんな気になります。
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布施地区名物の「あわんとり」って。

2007-01-19 | その他
豊川稲荷から自宅に帰らずに、そのまま柏インターから真っ直ぐに、布施土谷津地区(サッカー場のより先の我孫子方面)の利根川の外堤防と山の間で行われた布施地区伝統行事「あわんとり」を見に行きました。本来なら1月14日の午後1時30分より開始する予定だったが、柏市の出初め式(市立松葉中学校で開催)とかち合い、ここの消防団の到着が遅れたため、午後3時過ぎからはじめたそうです。私が到着したのは、3時45分頃だったので、大体燃え尽きてしまったあとでしたので、写真は以前のものです。
この「あわんとり」とはなんなのか。いつ頃からはじまったのかはわかりませんが、これは、平たく言えば、子供版の「オビシャ」なのです。オビジャというのは、農業の神様に豊年満作を願う行事です。「あわんとり」は、マテドシ(1月14日のこと)に片づける注連縄飾りを子どもたちが、家々をまわって集め、孟宗竹を芯にして積み上げ、「アワントリホーイ、ホイ」とはやしたて、火を放つものなのです。昔は坪ごとに行い、これが済むまで外で火を焚いてはいけないとされていましたが、今は寺山や土谷津地区等の少ない子どもたちの共通の行事となり、消防団の手を借りなければできなくなっているのです。
なぜ、注連縄飾りだけでなく、孟宗竹を燃やすかいうと、田畑を荒らす害鳥を追い払うもので、竹がはじける音で害鳥を追い払うことからきたそうです。こんなことをやっているのは、市内では、他には、あるのでしょうかね。また、この日、午後から布施弁天境内でも、参拝者より持ち込まれ、本堂の脇に積まれていた昨年のお札等を燃やす行事(お焚火上げ)を行ったそうです。このことは、関係者からあとで聞きましたが、持ち込んではならないダイオキシンのでる人形等もあり、閉口したそうです。なお、寺山地区の春オビシャは、昔は1月22日に行ったそうです。余談ですが、布施弁天の今年の豆まきは2月4日だそうです。
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一茶の友人ろうそく屋彦兵衛

2007-01-18 | 歴史
柏のむかし(柏市史編さん委員会編集、柏市発行)という本の中に「一茶と布施弁天」の項があり、そこに下記の記述があります。
(以下引用文)
一茶と交友のあった俳人として、「布施村ろうそく屋彦兵衛」という名前が見えますが、どういう人なのかは明らかではありません。『柏市史資料編・布施村関係文書』の中に「彦兵衛」という人物を探してみますと、数カ所にその名前があります。その中で、天保十四年(1843)の「あめ菓子、水菓子、白米商い彦兵衛」が、あるいは「ろうそく屋彦兵衛」の子ぐらいに当たるような気がします。以下省略(館野晃)
(以上)
というように、彦兵衛がどのような人物なのかを定かにすることはできませんでした。ところが、平成18年11月に我孫子市史研究センター(昭和50年11月設立の市民団体)が、『いほりのちり─江戸後期下総国布施村中尾嘯花句集』を刊行し、その中で彼がどのような人物かを明らかにしたのです。本当に実在していたので、自分はびっくりし、同センターの調査力に感服しました。同センターのホームページより、以下に引用します。
(以下引用文)
雪月庵嘯花(せつげつあん しょうか)といい、宝暦11年、下総国相馬郡布施村土谷坪(現我孫子市布施)の飯田勘平家の次男として生まれ、同坪の2代目中尾平左衛門(酒造家)の養子となり、分家して彦兵衛を名乗った。俳句を常陸国河内郡若柴宿、風篁庵野口乱竿に習ったが、師の死後、松暁庵麦秋邑より俳諧秘伝を享保3年に授けられた。同年、小林一茶の『享保句帖』11月13日条に、「嘯花、布施ろうそく屋彦兵衛」と記載されている。柏・我孫子市域に名の残された数少ない俳人の一人である。
(以上)
という具合に、ろうそく屋だけでなく、酒造家の中尾氏まで紹介し、更には、私がわからなかった布施弁天境内に句碑のある麦秋まで調べ、麦秋が実在したことも証明している。市井にもすばらしい研究家がいるものだと感心させられるとともに良い勉強になりました。念のため、上記の本(写真)は、書店では販売していないとのこと。


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豊川稲荷はお寺院だ!(2)

2007-01-17 | 歴史
そう、本殿に祀ってあったのは、いわゆるお稲荷さんでしたが、本堂のほかに法堂があって、そこにご本尊があるのをあとで知るのです。そして、この本尊が仏様でした。つまり、豊川稲荷は、室町時代(1441年)に東海義易によって創建された正式名称を円福山豊川閣妙厳寺と正真正銘の曹洞宗のお寺であり、神社ではなかったのです。妙厳寺は「千手観世音菩薩」をご本尊とし、その守護神として「 枳尼眞天(ダキニシンテン)」を祀っているのです。先般記載した大鳥居の奥の本堂には、この 枳尼眞天(ダキニシンテン)が祀られ、ご本尊の「千手観世音菩薩」は、総門の奥の山門をくぐった法堂にあるのです。「豊川稲荷」と呼ばれているのは、本堂にあるこの 枳尼眞天(ダキニシンテン)のことです。この「 枳尼眞天」は、なぜお稲荷さんなのかということですが、鎌倉時代、東海義易の師の寒厳義尹が、宋からの帰朝の折り、海上に妙相端麗、稲穂を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨る姿の霊神が現れたので、帰朝後、その姿を手ずから刻み守護神として祭られたのが、豊川稲荷のゆえんとなりました。ひらたくいえば、真言密教でいうダキーニという神通力の神と民間の狐神信仰が結びついたといわれています。それを裏付けるように、境内住んでいた平八狐を祀ったという俗説もあるほどです。
でも、私が興味があるのは、明治元年の神仏分離令をどう、妙厳寺はどう切り抜けたかと言うことです。つまり、「 枳尼眞天」という神を別に祀る神社をつくれという明治政府に対し、妙厳寺側は、本尊の千手観世音菩薩を守る仏法守護の善神で一体だということを全面的に主張し、切り離せないということを認めさせたのです。この主張を寺院側が通さなかったら、今の豊川稲荷はなかったのでは。江戸時代には、有名人である大岡忠相や渡辺崋山からの信仰を受けるとともに商売繁盛の神として庶民からも信仰されるようになります。京都の伏見稲荷大社は稲荷神社の総本山であるが、豊川稲荷は神社ではなく、上記のように寺院であり、信仰対象としての豊川稲荷は、ある意味で別格本山ではないでしょうか。写真は 枳尼眞天(ダキニシンテン)を祀ってある本殿です。次回は、1000体以上の狐の像を祀ってある霊狐塚を紹介します。
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