取手に向かって船取線から右折して、小高い丘の坂道を登り切ると我孫子市役所の正面玄関に出るが、そのロータリーの右側に「名月や江戸のやつらが何知つて」という句碑(写真)がある。この句は、田舎者または敗者の意地が感じさせられ、個人的には好きな句(川柳?)です。でも句碑は、元々ここになく、手賀沼を望む白山の別荘地にあったそうですが、それを市庁舎完成後にここに移転したそうである。もちろん、この作者が、小林一茶でないことはいうまでもありませんが、一茶だという人もいます。しかし、作者がだれかはわかりません。一茶は我孫子には滞在した逗留した形跡はありません。一茶は、流山、馬橋、そして布川(現茨城県利根町)にしばしば往来しています。
特に流山には54回来て、逗留数は154泊前後になるようです。この流山にどこからやってきたかというと、主なところは江戸からが20回、馬橋から14回、布川から9回だそうです。この布川への行きか帰りかでしょうか、布施弁天に参拝して、例の「米蒔くも罪ぞよ鶏が蹴合ふぞよ」の句を文化9年(1812年)に残しているわけです。
しかし、一番古く布川へ行ったのは、これよりも約20年前で、寛政3年(1791年)3月29日馬橋から布川に向かい、馬泉家に泊ったという記録が残されています。この馬泉というのは、葛飾派の俳人で、明和期から素丸門にあって活躍し、寛政の初め布川に移っていたのです。布川で特に一茶が多く宿泊したのは、回船問屋を営む古田月船の家です。利根町史第6巻の一茶漂泊の地名別宿泊数一覧表によれば、布川の月船家へは49回行き、合計289泊にも及んだとされています。宿泊数では流山さえも抜いています。月船とは森田元夢の門下同志として親交を結んでいたのが、そのほかに、もうひとつの理由があると言われております。それは、月船の娘に会いに行っていたといわれています。娘とはつきあいがそれなりにあったようですが、夫婦にはなれなかったといわれているが、これも話であろう。一方、伊藤晃氏の「一茶双紙」によると、流山の秋元双樹のところに、一茶の世話をする小女がいて、仮に名前をお梅とするが、その小女と恋仲になったのではと、論を展開している。その根拠として、流山になると必ず、梅や猫の語彙が句の中に多く現れ、10月になっても梅が歌われているとことから推論できるとしている。いずれにしても、一茶は3人の妻を迎えているが、それとは別の下総の国のこれらの一茶の恋といわれているものが、我孫子の句碑と同じようなことでないことを祈るしかない。
特に流山には54回来て、逗留数は154泊前後になるようです。この流山にどこからやってきたかというと、主なところは江戸からが20回、馬橋から14回、布川から9回だそうです。この布川への行きか帰りかでしょうか、布施弁天に参拝して、例の「米蒔くも罪ぞよ鶏が蹴合ふぞよ」の句を文化9年(1812年)に残しているわけです。
しかし、一番古く布川へ行ったのは、これよりも約20年前で、寛政3年(1791年)3月29日馬橋から布川に向かい、馬泉家に泊ったという記録が残されています。この馬泉というのは、葛飾派の俳人で、明和期から素丸門にあって活躍し、寛政の初め布川に移っていたのです。布川で特に一茶が多く宿泊したのは、回船問屋を営む古田月船の家です。利根町史第6巻の一茶漂泊の地名別宿泊数一覧表によれば、布川の月船家へは49回行き、合計289泊にも及んだとされています。宿泊数では流山さえも抜いています。月船とは森田元夢の門下同志として親交を結んでいたのが、そのほかに、もうひとつの理由があると言われております。それは、月船の娘に会いに行っていたといわれています。娘とはつきあいがそれなりにあったようですが、夫婦にはなれなかったといわれているが、これも話であろう。一方、伊藤晃氏の「一茶双紙」によると、流山の秋元双樹のところに、一茶の世話をする小女がいて、仮に名前をお梅とするが、その小女と恋仲になったのではと、論を展開している。その根拠として、流山になると必ず、梅や猫の語彙が句の中に多く現れ、10月になっても梅が歌われているとことから推論できるとしている。いずれにしても、一茶は3人の妻を迎えているが、それとは別の下総の国のこれらの一茶の恋といわれているものが、我孫子の句碑と同じようなことでないことを祈るしかない。