布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

蕪村も来た(?)駒木のおすわさま

2007-02-02 | 歴史
諏訪神社は、地元では「駒木のおすわさま」と呼ばれ、特に子育てのお諏訪様と親しまれ、初詣とともに七五三には、お参りする人があとを切らず、平成18年4月には1200年を迎えた由緒ある神社です。一万坪の敷地は、鬱蒼とした木立に囲まれ、昭和55年に流山市有形文化財に指定された文政8年(1825年)に建築された権現づくりの社殿(拝殿と本殿)をはじめ、各種の建物や造作物が多数あり、実ににぎにぎしさも兼ね備えた神社である。その中でも、奥州に向かう途中、馬の産地であった駒木で馬を集め戦勝を祈願したという史実に基いた「源義家(1039~1106)献馬の像」は、存在感がある。
諏訪神社の由来は、社伝によると、大同2年(807年)、天武天皇の皇子である高市皇子の後えいが大和より下向して、駒木を永住の地と定め、守護神として信州諏訪大社から分社されたのが始まりということです。祭神は建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)であるが、ほかに、恵比寿神社や雷神社など9つの神社も祀られている。
あと、私の関心を起こしたのは、蕪村の句碑である。流山市に良く往来した有名な俳人は、小林一茶であり、布施弁天にも来て守谷や我孫子の布佐にも行っているが、大阪生まれの与謝蕪村(1716~1783)は来ていない。蕪村は、関宿・境あたりを経て江戸と結城をゆききしたとする記述があり、実際、寛保2年(1742年)、蕪村20代半ばから約10年間結城・下館に住んでいたらしい。そんな関係でどうやら、駒木あたりを歩いていたかも知れませんね。「道問えば大根曳いて教えけり」と、蕪村がこの付近で詠んだといわれる句碑もあるのもうなずけます。だが、江戸時代、諏訪神社に参拝した後、成田山新勝寺に向かう旅人が多くいたという説もあるようだが、これは頂けない。諏訪街道は、布施街道とはぶつかるが、成田街道とは直接ぶつからないし、平将門が尊敬されていた江戸時代に反将門の成田山に行く江戸者はいないと思いたい。
なお、余談ではあるが、諏訪神社の境内地は、当初、十万坪を越えていたそうですが、江戸幕府の牧場に接収され三千坪までに減少したそうです。近年、それを買い増しし、一万坪になったとのことです。写真で見ると、こんな感じに写りますが、今年の正月に初詣に行った際に撮った本殿です。
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