布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

初詣の用意万端の布施弁天

2006-12-31 | その他
今日31日、お昼頃、弁天様に行ってみたら、写真のように景勝閣は、飾られ、手前の駐車場は初詣客用に白線がひかれ整備されていました。そして、何組かの露天商たちはバス停あたりを中心に設営にいそしんでいました。また、隣の弁天屋もふかしまんじゅうを売るためのセットを造っているところでした。ちょっと、変わっていたのは、正面の階段脇の階段(一般参拝客は使わない階段)に木戸が出来、上がっていけないようになっていたことでした。トマトハウスも休みなので、時間つぶしもできないので、そうそうに引上げました。明日は初詣に行ってみるつもりです。
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正月の買い出しに那珂湊港と旭村農協

2006-12-31 | その他
正月くらい、たまには、蟹やウニやアワビを腹一杯食いたいと女房どのが毎年いうので、当方の安月給が原因しているので、買い出しに毎年ご随行。30日朝6時に柏ICに乗って、茨城県の那珂湊港めざしまっしぐら。降りたところまではスムーズだったが、港までの直線道路に入ったとたん、にっちもさっちも行かず。これは、毎年のことながら、うんざり。運が良い年は、市場に一番近い正面駐車場に入れるが、今年はアウト。しかたなく、ヤマサ新館前の駐車場にいったが、そこもアウトなので、すし館の隣の駐車場へ。
女房どのの目当ての、ヤマサ本館と森田水産までは一番遠い距離。当方は、腹が減っては買い出し出来ぬと2階のレストランへ。今日は朝5時からやっているとのことで、店内は結構はいっておりました。まあ、連れがいたので、買い出しは女房どのたちに任せ、2人はお酒をちびりちびり。女房どのは、ここは、街場(まちば)より値段が2割から3割安いと意気込み、大量に刺身や蟹やあわび等をゲット。当然、重いので駐車場までの荷物運びは自分たちが。毎年のことながら、ほろ酔い加減もすっ飛んでしまう。
すっ飛んでも酒酔いへの厳しいご時勢。帰りの運転は女房どのに。そして、帰りの定番は昔の旭村農協(写真)へ。鉾田市と合併してから、今は、なんというのかな?ここは、メロン・さつまいも・すいかで有名であるが、今は暮れ、そんなものはないが、こちらでは買い出しにお供しました。うわさの出来すぎ白菜、大玉で1ケ90円、これじゃトラックターで踏みつぶしたくなる訳だ。でも、のし餅を買ってみたら、そんなに街場と比べても安くなかったよ。1.8キロ1700円だって。その後、昼食をと、鹿島神宮前のそばやへ入り、ビールを飲んだことまでは、覚えているが、気が付いたら家でした。あー、今日は本当に良い一日でした。
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風車の脇の木にイルミネーションが!?

2006-12-30 | その他
あけぼの山農業公園の風車のライトアップが今年も始まったと先般書き込みましたが、その後12月13日より1月8日まで、その際紹介した便所の周りの木3本と便所屋根の半分位にイルミネーションがついたそうです。早速、29日夜7時頃観にいったら、確かにイルミネーショインがついており、きらきらと点滅していました。結構高い木もあったので、苦労したと思います。この日も、12月8日に行ったときと同じように人も車も全くなかった、昨日はまた、風が強かったからかなー。
これから大晦日と正月、ひょっとして、物好きな人が布施弁天の初詣のついでに観てくれることを期待しているのかな。でも、念のため、イルミネーションの点灯は、午後5時から午後9時までのようです。写真は携帯モードで取っていますので、きれいさが伝わらないので、是非、一度、ご覧になってください。また、その帰りに寄った街頭に照らされた夜の布施弁天の最勝閣や本堂もおつでした。
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所得倍増時代に散った布施の醤油醸造!

2006-12-29 | 歴史
布施で,大企業に太刀打ちできず醤油の醸造をやめたのは昭和37年(1962年)頃といわれます。田畑の一部を処分して醤油業を起こしたのは布施の成島一郎氏で明治34年(1901年)頃とのことで,約60年というはかない運命だったようです。
明治34年に約148石を仕込み,大正8年頃には125石を製造しているが,醸造桶は厚さ2寸の板で作られ,四石入りの樽で仕込んでいたようです。先日記した吉田家の醤油の販売経路が主として東京や地方都市であったことに対し,成島家では限られた小麦・大豆からできるだけ安く醤油を製造するために,塩分を多めに加えたらしことも販路に関係したようで,23石が販路に乗ったとの記録もあるが,主として近在の農村地帯であった。
成島家の醤油商標には,写真のようにA,B(AとCとのブレンド),Cがあり,左のA(生揚醤油)が一番良く,右のCが一番塩分が多く,成島家の主流はC(番醤油)であったといわれる。
最後の醸造主であった成島平治氏によると,大豆をにる大釜や桶,醤油を絞る「ろくろ」など,醸造に関するものは,ほとんど手放し,何も残っていないとのこと。そして,蔵跡は立派な庭になっているそうです。柏近辺の地場産業は,醤油にしても,酒にしても,なぜ育たないのでしょうかね?
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利根運河霊場は再建されていた!

2006-12-28 | 歴史
利根運河大師ガイドブックという本が今、手元にあります。以前、私が11月28日に「ウォーカーズに魅せられて」で書き込んだ文の中にある利根運河霊場について、詳しく書かれている本なのです。平成15年3月に「利根運河大師護持会」が編集・発行したもので、制作・発売は崙書房出版です。私は、昭和16年の利根運河の大洪水で堤防が決壊して、大部分が消滅し、更に堤防の拡幅かさ上げ工事で立ち退かされ、村内に移転され、霊場は終焉したと思っていたのです。そこへ先日、京都在住の旅人さんから、戦後(昭和22年頃)の様子を小説化(?)した記事のコメントをいただきましたので、あれこれ調べてみていたら、上記の本に行き当たったのです。
運河大師八十八ケ所再建記念碑(平成八年四月)によると、昭和61年、柏・野田・流山の有志により、利根運河霊場再建発起人会が結成され、まず、行方不明になっていた札所の探索をはじめられ、そして、市野谷の円東寺に移されていた17体の大師像を再び運河畔に移す大師堂を建立して、創建当初に近い形に復元されたようです。この再建碑は、東武線運河駅を降りて江戸川方面に歩いていくと、運河に架かる歩道橋の奥の方に上記の17体を納めた運河大師堂があり、更にその先の方に碑はありました。良くこの運河、特に割烹新川屋近くの堤には、毎年のように春、桜を見に来ていたのに、全く気づかなかったとは!思い込みとは恐ろしいものですね。なお、この本もひとつの参考とした冊子と見られるのが、建設省江戸川工事事務所流水調整課が刊行した「利根運河」です。そこには旅人さんが、記載しておられた中村屋(本店)、石井屋の位置が図ー15に記載されておりましたが、三本松はみつかりませんでした。しかし、このコメントの文章は、だれのなんの本なんでしょうかね?教えて!?
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布施弁天様の庫裏と消化訓練

2006-12-27 | 歴史
弁天様の本堂に向かって左側には、庫裏や客殿や住職の生活空間があるが、立ち入り禁止の立て札があり、普段は寺院関係者しかはいれない。先般、たまたまこの庫裏を拝観する機会を得たのです。(生活空間はもちろんだめです。)
どんな風になっているか、一度は拝見したいなと思っておりましたので、興味津々でした。客殿の玄関を入って右側の部屋だけをみさせていただきました。2間あり、60畳くらいあるのかな、そして手前に渡り廊下もある。天井も高く、仏像とか額も置いてあり、さすがに寺院の客殿の荘厳さが漂っておりました。しかし、普段、寺院関係者しか使わないのでは、もったいない気がしました。例えば、花野井の大洞院では、本堂でコンサート等の文化活動をして、寺に関係ない一般の人に開放している。布施弁天も寺の行事以外に一般の人に開放するプログラムを検討していただけたら、いいなーと感じてしまいました。
また、12月4日には文化財を守るため、地元の寺山町会(町会長=後藤良平氏)の人たちと寺院関係者が共同して、はじめて、大型消火器や可搬ポンプを使っての自主消化訓練を行ったとのこと。文化財に指定されるといろいろ大変なこともでてくるのですね。
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電池式電動ロクロを買ってはみたが?

2006-12-26 | その他
昭和60年代からはじめた陶芸。いっこうに上達はしないが、それでも時たまやっています。手びねりのロクロはありますが、電動ロクロを持っていませんでした。最近、教室まで行くのが、億劫となったので、約9、000円で電池で動く電動ロクロ(?)、いわゆるろくろ倶楽部というのを買ってみました。粘土は、普通の信楽の白や黒でなく、電子オーブンでもやけるやつです。だから、普通の電気窯みたく1200℃では焼きません。高くて250℃ですからね。でもね、釉薬まであるのですよ。自分でも調合できるんですよ。
やってみましたが、やはり、しょせんママごと。やはり、金と時間はかかるが、教室へ行くのが一番。本当は自宅に本物の釜や電動ロクロを持つのが一番でしょうが、それは夢ですからね。
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硫黄島からの手紙(映画)を観て

2006-12-25 | その他
イブの夜、柏の葉のMOVIXシアター2で午後6時30分から「硫黄島からの手紙」(渡辺謙主演)をみましたが、映画館もそうですが、店内も、若いカップルや若い家族づれがやけに目立つ夜でした。
この映画は、本当にあのマカロニウエスタンのクリント・イーストウッドが制作したものなんでしょうかね。バッタバッタと非情に人を撃ち殺すスタイルは変わらないが、底辺にしみじみと流れている暖かい人間に対する愛、そして信頼。これは本当に、同じ人がかかわったものかとにわかに信じられませんでした。
TVドラマで放映された「硫黄島からの手紙」は、海軍(7千人)の市丸少将の話で、映画は、小笠原兵団長の陸軍(1万4千人)の栗林中将の話でしたが、2人とも海外赴任の経験がある当時の開明派だったんですね。
そんなお二人なのに、ほとんど、硫黄島を守る軍としての統一、相互連絡はなかんたんですね。いや、連携なんかなかったどころか、陸軍と海軍の反発、陸軍内部での開明派と守旧派の対立等だけが目立ち、観ているだけで悲しくなります。それに全島硫黄だらけで、飲み水は雨水しかないという過酷の条件でだったらしい。
クリント監督のこの映画は、国家の都合で個人の意志が踏みにじられていく現実を丁寧に描きながら、個人の意志が尊重される社会の到来を望んでいるようにみえました。まさに、非戦を訴えている映画のようにみえました。不戦ではありませんよ。先日、テレビで太田総理が言っていたやつですよ。「軍備すること自体を否定するのが非戦で、軍備があっても戦わないのが不戦だと。理想は非戦だと。」確かにそのようになれば、本当にいいのですがね。メリークリスマス!
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八兵衛、布施で初めての酒造業を営む

2006-12-24 | 歴史
繁栄している村には必ず人がよってきますので、酒は必需品となります。江戸時代、布施村で、始めて徳川幕府から許可をもらって酒造業を営んだのが,寛保元年(1741年)で名前は八兵衛なるものです。ところがその人の正式氏名、場所がわかりません。でも、この許可の件は、柏市の公式資料によって確認されています。場所と名前が判明している酒造家は布施区域に2軒あり、1件は土谷津、もう1軒は布施です。
話はとんで、明治6年には酒造家も増え,布施村では112石(1石は1升ビン100本)が造られ,移出されるようにもなっています。国税収入の38.8パーセントを占めるようになった明治32年以降は、重税に耐えかねて酒造家は徐々に減り,明治中期以降は布施区域では布施の田中氏だけとなってしまいます。銘柄は「富国泉」といい,60パーセントは村内で消費されていたらしい。戦前までは続きましたが,その後はやめてしまったようです。今も田中家はありますが、酒造蔵等の酒造に関係するものは跡形もなくなっております。蔵跡はゲートボール場になっていますので、写真は、季節にちなんで、わが家の柚の木の写真をのせます。20年以上たっていますが、毎年たわわになり、冬至の日には必ず風呂に入れ楽しんでいます。
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43代も続く吉田家の紹介

2006-12-23 | 歴史
旧吉田邸は、2004年の秋に、故吉田富士子さんの長男の宗弘氏より柏市が遺贈を受けていたが、2006年6月、全国で約5800件ある国の登録有形文化財の一つに柏市で初めて加えられた。敷地面積約2・2ヘクタールで、登録されたのは、1853年建築のかやぶき屋根の平屋と1862年建築の書院。写真は道路から眺めた長屋門であり、この奥に主屋と書院とがある。
吉田家は、平安時代の当地域の領主であった相馬氏の一族ではないかともいわれている名門。当代当主は43代目に当たるそうで、また、かってのテニスプレーヤーの沢松和子氏の旦那様でもあります。吉田家は、文化2年(1805年)に醤油醸造業を興したが、大正11年(1922年)には野田醤油株式会社(現キッコーマン)と合併してしまい、醤油製造をやめてしまっている。同じ醤油製造をしていた、わが布施の古谷の成島氏は、規模がちいさかったせいか、戦後まもなくまで行っていましたがね、この話は後日。
なお、一般公開は、平成20年春に予定されているが、2005年11月に市民に特別公開した最終日にここで行政が反省会の宴会をしたことが、この12月に新聞の紙面で話題になったようである。
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志賀直哉と布施弁天

2006-12-22 | 歴史
昨日の只見の雪まつりで思い出しました。志賀直哉も布施弁天に来ているのですよ。それも雪の降った日に。
直哉は、大正4年9月から大正12年3月まで、我孫子市に住んでいた白樺派の文人ですが、この期間に「城の崎にて」、「和解」「暗夜行路」等の代表作を書き上げています。その後残念ですが、京都に移ってしまうのです。
さて、志賀直哉が、布施弁天に行ったことを書いた「雪の遠足」は、昭和4年(1929年)で、我孫子にいたときに刊行したのではないようですね。
一節を紹介すると、「沼べりの田圃路を行くと雪はもう解けかけ、靴の下でびちゃびちゃ音をたてた。刈田の切株に丸く残っていた。」と我孫子から布施弁天に行く道筋から始まります。あとは、ご自身でお読み下さい。
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只見の雪祭りの大雪像に布施弁天が決定!

2006-12-21 | 歴史
「第35回只見ふるさとの雪まつり」は、平成19年2月9日(前夜祭)、10日~11日(メインイベント)に開催されます。場所は、福島県JR只見駅前広場です。
そして、今年の大雪像に、なんと、只見町とふるさと交流がある柏市の中から選ばれたのは、わが布施地域にある東海寺こと布施弁天なのです。今月のはじめ、柏市より東海寺に打診があり、東海寺は、弁天様(本堂)の大ポスターを送ったそうです。これを見本に、札幌と同じように自衛隊等の皆さんが布施弁天の大雪像を作るみたいです。是非、見に行かねばーーー。
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布施のひとは和算がお好き!

2006-12-21 | 歴史
布施地域は筆子塚の多さから寺子屋が非常に盛んだったことを紹介しましたが、それは子どもたちの世界だけでなく、富裕層の大人たちも、他の地域からやってくる文人たちとの交流に積極的に努めた。
算師(和算家)の鍬形紹甫(1833~1903)もその文人の1人といえる。通称を金次郎といい、津山藩士であり、祖父は北尾派の有名な絵師で津山藩のお抱え絵師でもあった。ところが、紹甫は絵を好まず、漢文や和算等を学ぶ。壮年の頃から、これらを教えながら諸国を遊歴し、手賀沼の地に至ったようである。では、どういう和算かというと、米が一升いくらで三石買ったらいくらかというような実に生活に密着したものだったので、布施河岸と弁天様で繁栄している当時の旧家の人々に受け入れられたようである。1903年6月に亡くなり、布施寺山の東海寺の墓地脇に葬られる。それを悲しみ、また、その功績を讃えるため、富勢村、湖北村、風早村、田中村等の約37人の弟子が建てたのが、写真の記念碑である。2メートルをこえる立派な碑であり、どれだけ布施地域の人たちに受け入れられていたか、手に取るようにわかります。
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デーダラボッチの失恋伝説

2006-12-20 | 歴史
デーダラボッチ(大男)の伝説は、全国各地にあり、柏市でも南部地域と北部地域にそれぞれ言い伝えられています。南部は、酒井根と逆井に足跡の格好をした池があり、それぞれに弁財天が祭られています。
北部地域は布施の弁天様の下の現在庭園(左足跡)となっているところ(現在なくなっている)と宿連寺の湧水池(右足跡)のところです。この宿連寺の湧水の近くには先般記した山王様ともいわれる須賀神社がありますので、どうも柏市地域では、データラボッチ伝説は弁財天と山王様に関係するようですね。この足跡は東から西に向けてデーダラボッチが歩いたといわれています。さらに、尾ひれがついて、布施の弁天様に恋をしたデータラボッチが打ち明けたところ、弁天様に振られスゴスゴと引き上げた時の足跡だともいわれています。大体一歩の長さが一里(3.6キロ)くらいの大男だったそうですよ。写真は、その足跡に水がたまったといわれている宿連寺の湧水池です。蛇足だが、デーダラボッチ(大太法師)は、ダイダラボッチ、ダイダイボッチ、ダイダボウ、ダイダホウシ等の名で呼ばれており、布施とは違い富士山を一夜で造ったとか、榛名山に腰掛けて利根川で足を洗ったとか、大変スケールの大きい話も伝わっているようですね。
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江戸時代うなぎはまるごと食べた?(うなぎ道)

2006-12-19 | 歴史
江戸時代、うなぎは生きたままでないと商品価値はなかったそうで、利根川でとれたものでも手賀沼でとれたものでも、どう生かして運ぶかの工夫が必要とされました。うなぎは大体1時間おきに水に浸さないと死んでしまうそうです。運び先は、江戸川沿いの加村(現在の流山市役所の周辺)の「やっからの渡し」で、そこまで馬で運びますが、約14キロあったそうで、所要時間は3時間。そこで、2カ所のうなぎを浸す場所が必要となり、柏の高田と流山の野々下に浸す場所を設けたそうです。念のため、その運ぶルートは、手賀沼産は呼塚河岸~篠籠田~高田~駒木~野々下~加村まで、利根川産は布施河岸~宿連寺~松ヶ崎~高田であとは同じです。
さて、布施河岸でうなぎの運送をはじめたのは、1757年(宝暦7年)で、この年の9月からの3ケ月間に、20の船がうなぎを陸揚げしたそうです。布施河岸の最盛期の寛政年間(1789~1800)には、1年に約8百の船からうなぎが陸揚げされたといいます。
なお、なぜ、水切り場というと、うなぎを生き返らせるために水に浸し、そして、すくい上げ、水を切って運ぶ場所なので、「水切り場」といわれたそうです。
写真は高田の水切り場(高田近隣センターの裏の方)ですが、今はその面影もなく、唯、見晴らし台というかデッキというか、そこにポツンとうなぎ道の看板(写真の左の白っぽいもの)があるだけです。なぜ道路の近くではなく、大堀川沿いにはあるか変なんですよ。近くに新鮮な清水等の水源はありませんし、また、水替え宿らしき人家もありませんでした。教育委員会の看板があるところとは、実際の場所はちがうのかな?なお、この水替え宿は、ただではなく、馬1駄2文だったそうです。
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