標記歴史民俗資料館は、龍ケ崎の歴史と民俗を紹介するとともに、市民の教育・文化の向上に貢献することを目標として平成2年(1990年)に設置されました。1階の常設展示は、県指定無形民俗文化財の撞舞、原始古代から近代までの資料、昭和の暮らしの道具や民具などを展示、2階の多目的室と体験学習室では、様々な学習活動を行っています。
また、ここの屋外にも農家の納屋、たばこ屋、水車小屋が建ち並び、龍ケ崎線を走った蒸気機関車がランドマークになっています。
なお、茨城県の新型コロナウィルスの非常事態宣言は先般解除されましたが、感染拡大防止として実施している臨時休館は5月31日(日)まで延長されています。6月1日(月)は休館日のため、6月2日(火)より開館を予定しています。但し、この情報は現時点のものであり、今後の状況によって変更する場合には、同館のホームページで告知するそうです。
<龍ケ崎市歴史民俗資料館の概要>
所在地は、茨城県龍ケ崎市馴馬町2488で、電話番号は0297-64-6227です。開館時間は、9:00~17:00。休館日は、月曜日です。月曜日が祝日の場合は開館し、 翌日が休館日となります。又、年末年始(12月28日~1月4日)も休館です。なお、入館料は、無料です。
ここの見どころは、個人的には、平成1 1 年(1999年 )12月3日に国選択無形民俗文化財(=記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財)の採択を受けた龍ケ崎の伝統行事、撞舞(つくまい)を1/4の模型と映像で展示・紹介していることです。
撞舞の起源には諸説あり、古代中国の民間芸能(手品・軽業・滑稽な業)の一種、尋舞(つくまい)が日本に伝わり、五穀豊穣祈願や雨乞いなど祭の神事と結び付いたとする説もその一つです。「撞」は柱や竹竿を意味する「橦」の字が転化したものとされ、アクロバティックな舞の舞台である長い柱の先を意味しています。今年の撞舞は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、中止となっています。
なお、撞舞は、平成22年11月18日には、茨城県無形民俗文化財の指定を受けています。
アクセスとしては、龍ケ崎市役所から徒歩約8分(700m)
関東鉄道竜ケ崎線「竜ヶ崎駅」から徒歩約12分(1km)
車の場合は、龍ケ崎市役所駐車場をご利用ください。
最後に、同館のホームページから龍ヶ崎市の地名の由来とされている説を紹介します。
(1)竜巻が多い土地柄だったから
昭和34年(1959)に編纂された『龍ケ崎市史』(和歌森善郎著)によると、古代の龍ケ
崎は毛野川(鬼怒川)・蚕飼川(小貝川)・常陸川などの河川が合流した葦原で、気象条
件によっては竜巻が発生、猛威をふるうことがしばしばありました。川の水を巻き上
げて天に届く竜巻の様子が「龍の昇天」を思わせ、「龍が立つ崎」=龍ケ崎となっ
た、という説です。
(2)龍が降ってきた地の先にあるから
千葉県に、龍に関するこんな言い伝えがあります――干害で苦しむ農民の祈りに答
え、沼の主である龍が女に化けて現れ、雨を降らせる約束をした。女が立ち去ると大
雨が降り出し、人々は助かる。この七日後、巨大な龍の体が三つに裂け、天から降っ
てきた。頭部・胴体・尾それぞれが落ちた場所にその後「竜角寺」(千葉県印旛郡栄
町)、「竜腹寺」(同郡本埜村)、「竜尾寺」(千葉県八日市場市)が建てられ、手厚く葬
られた――その龍の体が落ちた場所のすぐ先にある場所だから「龍ケ崎」となった、
という説です。
(3)町の形が龍を思わせるから
江戸時代の学者・中山信名が記したとされる書物『新編常陸国誌』によると、故城の
地(現在は竜ケ崎一高が建つ台地。竜ケ崎二高が建つ場所との説も)が独立してそそり
立ち、北側の稲敷台地に続いているさまに由来していると書かれています。故城の台
地から稲敷台地に連なってそそり立つ形が龍を思わせるから「龍ケ崎」となった、
という説です。この記述により、江戸時代には「龍ケ崎」の地名が使われていたこと
が分かります。
(4)龍崎氏が治めていたから
龍崎氏(読みが“りゅうざき”なのか“りゅうがさき”なのかは不明)は、源頼朝の
信頼を得て常陸国南郡の地頭職を任された下河辺政義(しもこうべ・まさよし)の子孫
です。龍崎氏は在地領主としてこの地方を治めた一族で、応永二年(1395・室町中期)
の文献にその名前が記されています。鎌倉時代には「龍ケ崎」という郷は存在せず
、龍崎氏が居を構えたとされる台地(現在の竜ケ崎一高の建つ台地)周辺は、羽原郷に
属していました。龍崎氏は室町時代に鎌倉幕府奉公衆を命ぜられ活躍していたことが
文献から明らかになっています。この領主の名前から「龍ケ崎」になった、という説
です。
一方で、龍ケ崎を領したのでその地名によって「龍崎」と称したとの記述もあり、
地名と領主名の前後関係ははっきりしていません。