布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

手賀の高台に明治時代の教会!

2007-02-08 | 歴史
柏市内の旧沼南地区の手賀沼を望む手賀の高台に、東方正教会に属する日本ハリストス教会の旧木造教会堂があり、これが首都圏に残るキリスト教に関する最古の木造教会堂と言われている。カソリックでもプロテスタントでもない東方正教会というのにひっかかり、調べて見る気になりました。ロシアのニコライ神父(1836年~1912年)が函館に来日し、東方正教会の教えをはじめたのが、文久元年(1861年)であり、明治5年(1872年)には、函館ハリストス正教会が日本最初のハリストス教会となる。
そして、明治6年(1873年)信教の自由が公布されるや、ニコライ氏は、東京のいわゆるニコライ堂を基点に日本各地に布教を進めて行くのである。千葉県では,明治8年に船橋法典に,明治10年に印西大森に教会が設立されていますが、この印西大森教会の設立が、手賀や布瀬等の人々の心を動かせたようである。明治12年(1879年)、手賀村の名主を務めた湯浅家等の地区の有力者が、新しい知識を求め入信したらしいが、一方、この地区は度々洪水にみまわれ、疲弊していたことも入信の要因の一つと見る向きもある。当時、事実人口500人の手賀村にもかかわらず、100人を越える人々が入信したとことを考えるとうなずけないこともない。
この旧手賀教会は、明治15年(1882年)に、55円で出来合いの小さな茅葺の民家を買い、95坪のこの土地に移したと言われている。写真でもわかると思うが、傍目にはなんの変哲もない古びた民家にしか過ぎない。脇に柏市教育委員会の文化財の立看板がなければ、誰が教会と思うであろうか。これが旧教会跡でなければ、訪れる人もないだろう。道路沿いに背丈の低い垣根はあるが、破れた間から中に入り、見学していた一行がいたので、私もこれがそうかなと、あたりをつけ、車を止めたら、旧手賀教会でした。しかし、駐車場もなく、道路も狭いので、車での見学はお薦めではありません。
礼拝堂部分は明治30年に増築したそうですが、明治37年の日露戦争あたりから、急激に信徒は減り、平成の今日では10軒あるかないかとのこと。確かに、明治25年10月に3日間だけ、この手賀教会にニコライ氏がきて、布教に力を入れていたにもかかわらず、こうした結果になるのは、信仰に関することだけではない日本人のある特有気質が働いていると見てもうがった見方ではないでしょう。
昭和49年、この老朽化した家屋(今管理しているのは隣の岩立さん?)を捨て、近くの土地に新しく教会堂を建てそこに移転したらしい。その建物を探してみたが、私には見つからなかった。ここには、明治の女流洋画家山下りんにより描かれたイコン(聖画)三点、「主全能者」、「至聖生神女」、「機密の晩餐」が保存されているが、非公開とのこと。柏市の文化財のホームページで、その三点のイコンの写しを見ることができます。
最後にイエス・キリストのことを日本ハリストス正教会では、ギリシャ語・ロシア語由来の読み方でイイスス・ハリストスと読むそうです。
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