布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

NPOと野菜販売所

2006-11-30 | その他
富勢地域に事務所を置く,非営利特別活動法人(NPO団体)には,花野井地区から移転してきた笑実里(えみり)と三愛あけぼの(理事長成島三郎氏)がある。笑実里は認知症のお年寄りのディーサービスを主に行っている。三愛あけぼのは,介護サービスをメーインサービスにかかげ,昨年の10月に法人化した。その他のサービスとして,庭木の剪定,駐車場の草刈り,野菜の販売をも行い,地域福祉の向上をめざしている。自分として関心のあるは,約15坪のハウスで行っている野菜等の販売である。これは,火・木・土・日,午前10時から開店し(閉店5時),地元の農家から仕入れた新鮮な野菜を廉価な価格で販売しているようです。富勢西小学校の入り口の反対側にあり,のぼりがあるので場所はわかりやすいが,専用の駐車場がないことが難点である。関係者に聞いてみると,苦労するのは,その日のお店に並べる品物を電話で注文するが,その都度きちんとそろえることができるかということらしい。また,売れ残った品物を引き取ってもらうのが,心苦しいとのことでした。がんばれ三愛あけぼのさん。
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トマトハウス(野菜直売所)についての一考

2006-11-29 | その他
布施弁天の隣に富勢地区ふるさと農園営農組合(組合長成島俊夫氏)が運営する野菜の直売所であるトマトハウスがある。地元の組合員の畑から直送する取立て野菜の直売は、新鮮で人気があるが、今年は夏は長雨でなす、きゅうり、トマト等がさんざん、冬は冬で暖冬ーーーと経営は厳しいようである。富勢地域の特産は、長年ねぎだったが、近年は「かぶ」に力を入れている。
しかし、後発組の「かしわで」みたく、広がりをみせないのはなぜだろか?
同組合は、市民に農園を貸したり、体験農園の運営、そしてあけぼの山農業公園のチューリップ植え等を請け負ったりして、力を分散してしまっているため??
そこで、遅ればせながら、トマトハウスも昨年、市民農園用の資材置き場を縮小して、売り場面積を拡大したが、目に見える売り上げの拡大には繋がっていないようだ。道の駅しょうなんや「かしわで」と比較され、訪れる市民の方からは、品そろえが十分ではなく、また、品質もいまいちという声も上がっている。これは、トマトハウスに専任の店長を置いていないことも大いに関係しているようですが、それよりも営農組合員たちの商売けの少なさによることの方が多いようです。うーん、この意識改革は容易ではないですね。ご健闘をお祈りします。
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ウォーカーズ(TVドラマ)に魅せられて

2006-11-28 | 歴史
NHKテレビドラマ、「ウォーカーズ」~迷子の大人たち~(4回シリーズ)が12月2日(土)最終回を迎えます。岐路に立たされた大人たちが、四国88ケ所巡りを通して、過去・現在・今後の生き方を見直すドラマだと思いますが、自分もなんとなく3回見てしまっております。この中で、巡礼の作法等も勉強にさせてもらうと共にこれに魅せられて、地元の88ケ所めぐりについてちょっぴり調べてみる気になりました。そしたら、これまで書き込んできた北相馬、南相馬(送り大師)の88ケ所巡りのほかにも、酒井根の88ケ所札所と利根運河88ケ所霊場があることがわかりました。
酒井根は、1862年に酒井根薬師堂の堂守の河瀬某が四国より持ち帰った霊場の土の上に88ケ所の石碑を建立したとのこと。(これは1ケ所に88がまとまっているから、便利かな。)
一方、利根運河霊場は利根運河に沿い、大正3年に札所が置かれ、お堂には弘空大師の像を安置し、戦前まで結構にぎわっていたとのこと。運河の改修により、運河沿いから昔の村内に移されているものもあるようです。
写真は、布施弁天内にある68番札所のお堂(宝物殿の脇)です。いずれにせよ、昔の郷土の先達たちは、信心深かったのですね。自分も迷子になったら、お遍路に挑戦せねばと思ったりしてしまいました。
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あけぼの山周辺の紅葉

2006-11-27 | 花情報
26日(日)の午前中にあけぼの山農業公園内で行われているフーリーマーケットに行ってみたら、実にお店も、人もまばらなので、こんなものかと、がっくり。水色のフーリーマーケットの旗もさびしそう。(午後はわからないのですが。)
そこで、周辺の散策を開始。あけぼの山公園というのは、宝暦11年(1761年)ころ、東海寺の住職秀調が参詣者の休憩場所として整備したことがはじめのようであり、現在は柏市の公園となっている。さて、行ってみると、人が一杯。モミジ狩りの風流人がこんなにいるものかと思ったら、地元の富勢地域ふるさと協議会主催のグランドゴルフ大会が行われていました。あけぼの山の紅葉は(一部ですが)写真のように真っ赤で実にきれいでした。
さらに弁天様まで足をのばしてみると、手洗場のもみじも美しかった。しかし、黄色くなった弁天様のケヤキの葉が道路一面に落ちていて、風情があるというか、清掃するのが大変だろうなという気が最初に頭をかすめてしまいました。今日のこの雨ではさらに道路は足の踏み場もないほどの落ち葉になっていると思う。いずれにしても、今日と明日の雨でこの近辺の紅葉もおしまいかな。
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送り大師って?---その1

2006-11-26 | 歴史
発願札所から、四国霊山寺寄贈の「送り大師」の像を1人の人が背負い、そのあとを巡礼たちがついていき、88の札所を5日間かけ巡拝し、結願札所に行くことから、北相馬郡などの札所がある88ケ所を巡る(出向く)のとは違うようです。また、発願札所と結願札所が同じ札所であることも違っていますね。
でも、すごく、違うと感じるのは、巡礼というと、普通は同行2人を胸に一人というイメージで、なにかうら寂しさをかもし出しそうですが、この送り大師はにぎやからしい。なんと1000人もの巡礼にもなるらしい。この送り大師が結願札所に迎える儀式は担当する講や地区の檀家の子どもから老人まで、念仏太鼓の囃子で迎え、最後は般若心経の合奏で終わるようです。写真は昭和初期の送り大師の1コマです。(柏市歴史アルバムより)当時は3800人の人がこの講にはいっていたみたいです。
なお、千葉県内には弘法大師の88ケ所巡りは、なんと40もあったみたい。
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今でも続く逆井・藤心地区の南相馬大師送り

2006-11-25 | 歴史
柏市の逆井・藤心地区は,昔は南相馬郡であり,布施や田中等の地区は昔は北相馬郡の中に入っていました。新四国88ケ所巡礼は,北相馬郡(茨城県取手市が中心地区)では1773年から,南相馬郡(柏市の沼南地区が中心)では1823年から行われました。北相馬郡の柏地区,まあ布施地区の大師講はほとんど戦前で終わってしまったが,(もちろん,茨城県側では,今でも盛んに続いている。)南相馬郡では,今でも盛大に続いている。送り大師は,今では東葛・印旛大師組合が取り仕切り,送り大師というように,各自が大師の札所へ出向くのではなく,大師が各地区の札所へ来てくれるという考え方で行っているとのこと。札所は沼南が51箇所,柏が15箇所と続いている。東葛,印旛というように,柏市,白井市,鎌ヶ谷市,松戸市の四市に配置された写し札所の85キロを5月1日~5月5日の間に毎年,廻るのです。結願所は32箇所あり,30年に1回は結願区となるそうですが,まだ,この仕組みが自分には十分理解できていない。私の家の菩提寺である柏の長全寺(写真)も1番と60番札所になっているのに。今日は,ここまで。
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ビオラが植えられています!

2006-11-24 | 花情報
サッカー場のフェンス沿いに置かれていたビオラ7万株が、植え方の設計が終わった畑に今、営農組合の人たちによって、徐々に植えられています。今度の土日に見に行っても、見ごたえはあると思います。水路を挟んだ反対側にも、菜の花の種もまき終わったようです。寒風吹きすさぶ中で、皇帝ダリアとビオラを見るのも一興ではーー。また。第一日曜日は、花と野菜市、第4日曜日にはフリーマーケットがそれぞれあけぼの山農業公園の売店のまわりで行われているので、特に第一と第四の日曜日はお勧めですね。でも、骨董が好きな人には、第一土曜日、弁天様の階段下の広場で骨董市も開かれているので、この日もいいよ!でもね、せめて、この骨董市、茨城県の一言神社の骨董市ぐらいになって欲しいですね。
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諏訪道と須賀神社

2006-11-24 | 歴史
布施弁天に行く江戸時代の街道は、脇往還道としての布施街道のほかには、主に布施河岸から物資を運送する道として諏訪街道があった。布施から今の流山市役所がある加村までの道である。この街道での富勢地域で有名な寺院としては、古谷の善照寺、神社は古谷の香取神社、八坂神社、宿連寺地区には須賀神社がある。
この須賀神社は、創立年月日は不明で、祭神は須佐之男尊、稲田姫命で、境内には、富士塚もあり、敷地約280坪。祭日は7月7日で、昔は富勢村の村杜。ですから、戦前は、富勢小の子どもたちは、紀元節・天長節になると、この村杜に行き、「天にそびえる高千穂のーーー」の歌を大声で歌ったものだと古老たちはなつかしそうにいいます。村杜とは、神社の格式からいえば、官幣、国幣、府幣、県社、藩社、郷社につぐもので、その下には無各社しかないのですがーーー。
柏市内の神社で宮司がいる神社は、広幡八幡神社、香取神社(花野井)、柏神社、諏訪神社(柏5丁目)しかなく、この須賀神社を含め、富勢地域の香取神社、八坂神社、日枝神社等の宮司は、我孫子にある柴崎神社の湯下さんで、地区の夏祭り等の祭りに際しては、お札を柴崎神社から頂いているとのことでした。なお、富士塚とは、富士山までいけない人のために設けられたものとのこと。

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布施の盛衰ーーー渡し場と街道

2006-11-23 | 歴史
利根川にかかる大利根有料道路橋の柏より河原に大きな「すずかけ」の大木と水神様と石塔と市のその案内板があります。この碑は、1719年、この七里ケ渡を船で渡ろうとしていた33人中20人が船の転覆で亡くなったので、それを痛む碑なのです。そして、その先に渡し場があったと思われます。しかし、渡し場があったという位置の碑は、柏市側にも戸頭側にもありません。ここが江戸幕府の定船所となったのは1616年。利根川の東遷以前で、い沼の渡しがはじめのようです。
また、ここの渡し場が、近国や遠国ものの物資を取り扱う河岸場ともなっていたのです。これが、布施の繁栄の一助となった訳です。この河岸の詳しいことは後日。この渡し場を通る道が、筑波街道とか言われている布施街道なのです。水戸街道の根戸の交差点を野田方面に行く道から布施街道が始まります。常夜灯がある布施入り口ーー弁天様脇ーー七里ケ渡ーー戸頭ーー板橋不動尊ーーー谷田部ーーー土浦中高津で再び水戸街道にぶつかります。これが布施街道といわれ、1730年代には水戸街道の脇街道・裏街道の街道としての地位を確立するのです。いつの時代もその時代を代表する交通手段を擁した交通の要所というのが、繁栄のキーポイントとなるようですね。しかし、現在の布施の位置を考えるとーーーーー。
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布施雑学6ーーー蟠龍石について

2006-11-22 | 歴史
蟠龍石はなんと読むでしょうか?ばんりゅうせき、どうなんでしょう?岩波の辞書によるとはんりょうせきで、「はんりょう」とは龍がわだかまって天に飛び立てない状態という。それをあらわしている石とは、どういうものでしょうか?東海寺の寺宝というが、それがどういうものかを現した資料に目ぐりあえない。本当にあるかもなぞである。(自分がこの石のことについて、関心を持っている人が最近でもいると知ったのは、成田市環境部環境計画課のHPの印旛沼を楽しもう!の竜の項からです。)本来来年行われる予定だった1200年祭にご宝物殿のご開帳があるかも知れないと、少し期待していたのですが。2008年には1200年祭を行うようなので、その時に確かめられれば良いと思います。
三寸のご本尊、ご神木の存在、龍穴、白蛇等々、ご信仰に関わることには、不思議が多い。千葉県有形文化財に指定された三つの建物については、基本的に史実・事実を判定することに事欠かない。しかし、ご信仰、ご信心に関わることはなぞが多い。といっても、布施弁天様の価値が下がるわけでなく、逆に神秘性が増し、興味がそそられるから不思議である。
どなたか、東海寺の寺宝といわれる蟠龍石について情報をお持ちの方、是非お教え下さい。
<追記>念のため、1858年に赤松宗旦が発表した「利根川図誌」という本の中に「寺宝に蟠龍石あり」と書かれているのが一番古いかも知れないが、それ以上のことは何も書かれていない。
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寺子屋と筆子塚

2006-11-21 | 歴史
江戸時代、布施村は七里ケ渡・布施河岸と布施弁天により経済的に大変繁栄したことを受け、子どもたちへの教育も熱心でした。ご存知のように、江戸時代の庶民の子どもが読み、書き、ソロバンの教育を習う場所は大体がお寺で、師匠は住職が主でした。それで寺の子が習うので寺子屋といわれたようです。この布施村の新屋敷には寺子を20人擁する藤兵衛塾、古谷には40人を擁する観音塾がありました。月謝は、米1升または金1銭といわれています。そして、教わった師匠(大体が寺の住職)が死ぬと生徒たちが、先生の徳をたたえる塚を作りました。それが筆子塚です。善照寺やこの写真の南龍寺の境内にその筆子塚がみられ、市内に約30前後あるうちの8基がこの富勢地域にあり、この地域が昔の柏における教育先進地であったということを示しています。
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北相馬大師巡礼26番札所ーー南龍寺

2006-11-20 | 歴史
元和元年(1615年)竹林山文殊院南龍寺は寂蓮社尊誉霊哲上人によって開山されたといわれる浄土宗のお寺。ご本尊は阿弥陀如来三尊。一説によると1647年開山で,1669年に現在の布施荒屋敷に移転してきたともいわれる。境内には、本堂、客殿、観音堂、表薬医門、厩舎があり、写真の山門は、薬医門と言われ、桃山時代の建築様式だそうです。また、観音堂が26番札所とのこと。
さて、この寺院で興味をそそられるのは、2つあります。一つ目は、寺子屋と筆子塚。もう一つは、板碑です。寺子屋については、後日。今回は応安年中(1368~1375)の銘がある板碑(土谷津本願寺跡)について。土谷津の奥の方に、大字で今も残る本願寺という地名があります。富勢村誌によるとこの小高い山に本願寺という浄土宗のお寺があり、その隣りには本願寺沼があったという。今は、寺跡も沼跡も確認しようがないが、地元の人の話によるとその山からは昔、屋根の瓦などがでたという。いつ、出来て、いつなくなったか、なぜ、いつ移転したかは定かではないが、この寺は、対岸の取手市の井野青柳村に移転したとのこと。そして、この寺は、取手市に今もあり、本多作左衛門の寺として有名なようです。この詳しい話も後日。
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布施弁天様の功徳を讃える歌と踊りーー布施弁天記

2006-11-19 | 歴史
先月(10月)柏市の文化祭にて発表された布施弁天記が、その後、地元の行事(写真)や富勢地区の文化祭でも次々に披露され、地元に静かなブームを起こしている。宝物殿を整理していたら出てきた長い詞に、星謡会の星英充氏(民謡家)が曲を付け、舞踊家の杉森夏子氏が振り付し、3年かかりで、今年やっと完成したらしい。現在、布施弁天記はCDで1000円で発売されているらしいので、欲しい方は布施弁天に問い合わせてみたら、いかがでしょうか。
これより先に和太鼓の方では、呼魂太鼓の人たちが作った、紅の龍が風を起こして天に舞い上がる姿を現した「紅龍昇天」(吉田明弘作曲)なるものがあり、更には、弁天太鼓という名の和太鼓グループも近年出来、布施弁天記と一緒になって、布施弁天様の功徳を全国に広める新たなツールになるかもしれない。
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時宗(阿弥陀仏を信仰する宗派)の善照寺

2006-11-18 | 歴史
昔の布施村の古谷四本榎に香取神社があるが、その隣にあるのが善照寺。1302年に時宗開祖の一偏上人(1239~1289)の弟子、真教上人によって開かれたといわれるが、一説によると1290年代ではないかともいう。いずれにしても開山以来700年の歴史がある。写真のような看板が道路だけでなく、境内にもある。
阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の善光寺式阿弥陀如来三尊は、柏市指定文化財。14世紀初頭前後の作といわれる。
このとなりには、例の807年開山されたという東海寺があったという場所があるが、多くの布施の村人の菩提寺は、今も昔もこの善照寺である。そして、増えた後の村人たちは、現在の弁天様に近い荒屋敷にある、1600年代に出来た、この一遍上人が学んだ浄土宗の南龍寺を菩提寺にしている。
昔の布施村の人々は、阿弥陀仏を信仰していたということですかねー。今も??
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小林一茶と布施弁天

2006-11-18 | 歴史
布施弁天は俳人と縁がある。まず、その代表格の小林一茶(1763年~1828年)について。なぜなら明日11月19日は一茶の命日なので。彼は15歳から50歳まで江戸で暮らしたが、その間房総を頻繁に旅し、多くの句を残している。その理由は、旅をする時の路銀(きんす)を用立ててくれるスポンサーが東葛地方には多くいたからといわれる。馬橋の油屋の大川立砂、とゆう親子(漢字わからず)、流山には酒造家の秋元双樹、布施の対岸の守谷には西林寺の住職鶴老、利根川沿いの布川には古田月船、そして、布施にもろうそく屋彦兵衛なるものもいたそうである。
写真はあけぼの山にある一茶の「米撒くも罪ぞよ鶏が蹴合ふぞよ」の句碑である。文化9年(1812年)に布施弁天を訪れた際の句である。この年の10月スポンサーの一人の秋元双樹が58歳でなくなっている。その時読んだ句は「鳴く烏こんな時雨のあらん迚(とて)」で、その翌年一茶はふるさとの信濃の柏原宿(長野県)へ帰っていった。それから16年後の1828年11月19日この世を去った。なお、誕生日は5月5日とのこと。
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