布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

布施弁天の庇護者本多家の維新後

2007-02-10 | 歴史
柏市内の旧村14、他に28か村を飛び地として領有し、ながらく布施弁天の庇護者であった駿河国田中藩本多家は、明治政府により明治元年(1868年)領地替えを命ぜられ、安房国長尾4万石(現在の千葉県南房総市、旧の安房郡七尾村)に移封される。田中藩本多家の7代藩主本多正訥(1827年~1885年)は、田中藩最後の藩主であり、かつ長尾藩初代藩主となった。そして、駿河国等には、徳川宗家16代当主の徳川家達(1863年~1940年)が70万石で移封されたのである。
本多正訥(本多家としては12代当主)は、1869年6月版籍奉還により、長尾藩知事となったが、甥の正憲(1849年~1937年)を養嗣子として迎え、隠居し、1870年12月に藩知事を正憲に譲ったのである。しかし、正憲も1871年7月の廃藩置県で免官され、同年9月東京に移ってしまう。正憲は、後に貴族院議員となり、89歳で生涯を閉じている。
問題は、ここからである。明治以降の本多家の動きを追うと正憲まではわかるが、それ以降がわからない。どなたか、正憲以降の本多家の系図について、ご存知の方おりましたら是非お教え下さい。また、本多家の菩提寺もお教え下さい。田中城があった現在の藤枝市田中あたりのお寺なのでしょうかね。
長尾藩へ移封後、本多家の祈願所であった布施弁天との関係をわかる資料を探してみたが、見つることが出来なかった。本多家は、布施弁天のことを忘れたいのかな。これまた、わかる方、どうかお教え下さい。そのうち、藤枝市の郷土博物館に行かなくてはだめかな~。
なお、この本多家は、7代138年の治政により柏市内の領民から慕われていたらしく、国替えが決まると、布施村名主成島善兵衛ら総代10人が、500両の運動資金を調達し、国替え反対運動を明治政府に働きかけたようです。成島家文書によると、この働きかけが不届きとされ、一同入牢となり、1ケ月後に放免された記録が残っています。だが、この国替え反対の件で肝心の本多家が動いたかどうかの記録は何も残っていない。その後も、明治22年(1889年)の町村制施行時に、旧田中藩領の花野井村、船戸村、大室村、大青田村、小青田村、正連寺村、山高野村等が合併する際の新しい村のネーミングとして本多家の田中藩の田中をもらって田中村をつけたというほどです。写真は田中藩最後の藩主正訥と言われています。
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