布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

柏市に関係ある勤王の志士

2007-02-11 | 歴史
先般,水戸天狗党に参加した田中藩の芳野新一郎という青年のことを簡単に触れたが,今回はもう少し詳しく書いてみます。父金陵については,柏市の偉人とも言うべき人なので,多くの方がふれているので,省略しますが、勤王の志士といえるのは息子新一郎でしょう。
新一郎は,金陵43才の時の子で,弘化元年(1844年)第6子として日本橋茅場町で生まれ,父や安井息軒や塩谷宕陰等について学問を学ぶのである。祖父南山は,下総国相馬郡松ヶ崎(現柏市松ヶ崎、その子孫も柏市で開業している)で医者をしており,金陵もここで生まれたが,金陵は江戸に遊学して勉学に励み,1847年駿河国田中藩本多候の儒官となり,文久2年(1862年)には昌平黌(東京大の前身)の儒官までなっている。息子新一郎も秀才だったのか、文久3年(1863年)には,昌平黌の助教となるが,新一郎はこうした生き方に満足出来ず、号を桜陰と名乗る勤皇の志が厚い行動派青年として成長していたのである。時は元治元年(1864年),新一郎20歳の血気盛んの時,筑波山にて尊皇攘夷の旗を水戸天狗党がたかだかとかかげたのだから,新一郎,馳せ参じないはずがない。筑波山決起を助けた宍戸候の手勢とともに鹿島に布陣し,天狗党集義隊長として大船津で戦うが破れ,水戸の獄に約半年間繋がれるのである。幕府の探索の手から逃れるため,千葉県の鋸山山麓にも身を隠し,明治維新後東京に戻るのである。明治政府で弾正迭察使まで進んだが,健康上の理由で辞職したが,明治5年29歳の若さで夭折した。彼のエピソードとして伝わる話として,彼の江戸時代の亡友,御陵衛士頭取の伊東甲子太郎(1867年12月新撰組により謀殺される)の1周忌に呼んだ七言絶句が甲子太郎の弟の三樹三郎宅に伝わっている。いずれにしても,新一郎は柏に関係ある数少ない勤皇の志士の一人と言っても良いと思う。墓は父とともに谷中にある。父金陵は,新一郎夭折後6年経った明治11年(1878年)に78歳でこの世を去っている。写真は父金陵の谷中にある墓。
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