布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

相島芸術文化村の新しい試み

2007-02-13 | その他
ちば観光プロモーション協議会主催の「ちばデスティーションキャンペーン」(略してDC)というのをご存知でしょうか?
2007年2月1日から4月30日まで、「ちば・たびマイスターをめざせ!体験20イベント」と題して、千葉県全域を対象に新しい千葉の魅力を発見する、体験型イベントで、全県で20の体験プログラムを用意してあるそうです。各プログラムを体験するたびに「ちば・たびマイスター認定証」が発行され、パスポートにスタンプが押されます。スタンプ8個」がたまると「ちば・たびゴールドマイスター」に認定され、認定証と千葉県の名産品等がプレゼントされるそうです。
その20のプログラムの一つに相島芸術文化村が選ばれたのです。「江戸時代の豪農の館・相島芸術文化村で日本文化の達人になる」と称して、「貝絵の絵付け体験」と昔の貴族が好んで遊んだと言われる「貝合わせ体験」を行うのです。昼食として、懐石弁当と抹茶のサービスがつくそうですが、これは、JR東日本と相島芸術文化村が提携する企業活動として行うものですから、当然有料で5,000円かかるそうです。それぞれのプログラムごとに指定された日時にいかなければなりませんことも申し添えます。詳しいことは、ちば・たびマイスター事務局(電話043-202-7172)へお問い合わせ下さい。
なぜ、相島芸術文化村が選ばれたかというと、貝絵の全国協会の事務局は、全国でここだけしかないのですから、ある意味で貝絵を選択すれば、ここ相島しかないでしょう。しかし、すごいと思ったのは、日本文化の達人になるとして、貝絵の絵付けと貝合わせ体験を選んだ人たちのセンスです。私自身、何回お伺いして見させて頂いていますが、まだ、その良さがいまいちピンと来ていないのですが、私が行った2月12日(月)には、女性2名が絵付けの体験中でした。担当者に聞きましたら、結構、とぎれなく体験申込者が来ているとのことでした。12日は、このイベントに関係なく訪れる方も多くいました。
念のため、そのほかのプログラムを紹介しますと1.ハーブの達人、2.ガラス工芸の達人、3.まゆ工芸の達人、4.植木銘木の達人、5.房州うちわの達人、6.像使いの達人、7.野鳥観察の達人8.古来の漁法の達人等々があり、それぞれ魅力のあるプログラムとなっていました。こうした、新しいイベントに積極的に個人として取り組む相島芸術文化村の主催者の井上さん(女性)に敬意を表します。前回、書いたように我孫子という地域の人たちは行政にべったりと依存しないことがすばらしい。江戸時代から続く豪農の館を自らの手で守り抜くという精神、これは、見習わなければならないですね。写真は、体験会場に展示された貝絵です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェスタで意布郷、姿を現す!

2007-02-12 | 歴史
平成19年3月3日(土)~4日(日)、我孫子市の生涯学習センター=アビスタ(手賀沼湖畔)で「市民活動フェアinあびこ2007」が開催されますが、そこで、我孫子市史研究センターが、「古代相馬郡の中心・湖北」の展示を2階で行うとのことです。
意布郷は、オフ、オブ、オオなどと発音され、意部郷、於賦駅などとも書かれ、いずれも同じものとされています。郷とは50戸、官道は約16キロに駅を置き、馬を配置してあったのです。古代東海道の下総国府市川市を経ての終着駅は常陸国府石岡市です。
さて、柏市発行の『ふるさとかしわ文化財マップ』NO4.東部地区(旧富勢村)というパンフレットにおいて、奈良時代の戸籍(正倉院文書)に記録された地名と人々として、養老5年(721年)に現在の布施付近と推定される「意布(おふ)郷」に住んでいた家族を紹介しています。私は、これが事実と思っていた時期が一時期あったのです。
しかし、この「意布郷」は、本当に柏市の布施付近なのでしょうか。そして、官道に配置された病人等の看護する機能を備えたお布施屋から布施村という名前をつけたというが、本当に古代東海道が布施を通り、そこに布施屋があったのでしょうか。この長年の胸のつかえも、この3月には解決されそうです。我孫子市史研究センターというのは、昭和50年11月に市民・研究者の団体として設立され、我孫子市の歴史について調査、研究を行い、我孫子市の市史編纂も手伝っている市民団体です。その実績は、先般紹介した「ろうそく屋彦兵衛」を特定し「いほりのちり」を刊行したことをみてもわかると思います。
彼らのフエスタにかける思いを、彼らの言葉で、以下のとおり紹介します。
我孫子市の湖北地区には「相馬郡衙」(ぐんが、正倉)跡、古代東海道の駅家である「於賦駅」を示す「意布郷」の文字の書かれた墨書土器が発掘されています。また、そこに記された「久須波良部」は正倉院文書として知られる「下総国倉麻郡意布郷 養老五年戸籍」に登場する藤原部が改称されたものとされています。今回我孫子市教育委員会の御協力を得て、この墨書土器と正倉院文書の精巧なレプリカを展示する予定です。
(以上)
上記から、湖北地区(正確には日秀西地区)には、間違いなく、相馬郡衙があり、国道356号線の一部が古代東海道の一部と重なっているという考えが見えてきます。この辺の詳しいことは、同センター会報第2号(平成14年3月17日号)を見ると、更に詳しく書かれています。布施界隈を愛する者としては、厳しい事実ですが、受け入れるためにもフエスタには行って、この目で確認するつもりです。
なお、郡とは、律令政治においては、税金の徴収、戸籍の編さんなどをする際の単位で、郡家・郡衙はその中心となる役所のことで、写真はその想像図を撮らせて頂きました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柏市に関係ある勤王の志士

2007-02-11 | 歴史
先般,水戸天狗党に参加した田中藩の芳野新一郎という青年のことを簡単に触れたが,今回はもう少し詳しく書いてみます。父金陵については,柏市の偉人とも言うべき人なので,多くの方がふれているので,省略しますが、勤王の志士といえるのは息子新一郎でしょう。
新一郎は,金陵43才の時の子で,弘化元年(1844年)第6子として日本橋茅場町で生まれ,父や安井息軒や塩谷宕陰等について学問を学ぶのである。祖父南山は,下総国相馬郡松ヶ崎(現柏市松ヶ崎、その子孫も柏市で開業している)で医者をしており,金陵もここで生まれたが,金陵は江戸に遊学して勉学に励み,1847年駿河国田中藩本多候の儒官となり,文久2年(1862年)には昌平黌(東京大の前身)の儒官までなっている。息子新一郎も秀才だったのか、文久3年(1863年)には,昌平黌の助教となるが,新一郎はこうした生き方に満足出来ず、号を桜陰と名乗る勤皇の志が厚い行動派青年として成長していたのである。時は元治元年(1864年),新一郎20歳の血気盛んの時,筑波山にて尊皇攘夷の旗を水戸天狗党がたかだかとかかげたのだから,新一郎,馳せ参じないはずがない。筑波山決起を助けた宍戸候の手勢とともに鹿島に布陣し,天狗党集義隊長として大船津で戦うが破れ,水戸の獄に約半年間繋がれるのである。幕府の探索の手から逃れるため,千葉県の鋸山山麓にも身を隠し,明治維新後東京に戻るのである。明治政府で弾正迭察使まで進んだが,健康上の理由で辞職したが,明治5年29歳の若さで夭折した。彼のエピソードとして伝わる話として,彼の江戸時代の亡友,御陵衛士頭取の伊東甲子太郎(1867年12月新撰組により謀殺される)の1周忌に呼んだ七言絶句が甲子太郎の弟の三樹三郎宅に伝わっている。いずれにしても,新一郎は柏に関係ある数少ない勤皇の志士の一人と言っても良いと思う。墓は父とともに谷中にある。父金陵は,新一郎夭折後6年経った明治11年(1878年)に78歳でこの世を去っている。写真は父金陵の谷中にある墓。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

布施弁天の庇護者本多家の維新後

2007-02-10 | 歴史
柏市内の旧村14、他に28か村を飛び地として領有し、ながらく布施弁天の庇護者であった駿河国田中藩本多家は、明治政府により明治元年(1868年)領地替えを命ぜられ、安房国長尾4万石(現在の千葉県南房総市、旧の安房郡七尾村)に移封される。田中藩本多家の7代藩主本多正訥(1827年~1885年)は、田中藩最後の藩主であり、かつ長尾藩初代藩主となった。そして、駿河国等には、徳川宗家16代当主の徳川家達(1863年~1940年)が70万石で移封されたのである。
本多正訥(本多家としては12代当主)は、1869年6月版籍奉還により、長尾藩知事となったが、甥の正憲(1849年~1937年)を養嗣子として迎え、隠居し、1870年12月に藩知事を正憲に譲ったのである。しかし、正憲も1871年7月の廃藩置県で免官され、同年9月東京に移ってしまう。正憲は、後に貴族院議員となり、89歳で生涯を閉じている。
問題は、ここからである。明治以降の本多家の動きを追うと正憲まではわかるが、それ以降がわからない。どなたか、正憲以降の本多家の系図について、ご存知の方おりましたら是非お教え下さい。また、本多家の菩提寺もお教え下さい。田中城があった現在の藤枝市田中あたりのお寺なのでしょうかね。
長尾藩へ移封後、本多家の祈願所であった布施弁天との関係をわかる資料を探してみたが、見つることが出来なかった。本多家は、布施弁天のことを忘れたいのかな。これまた、わかる方、どうかお教え下さい。そのうち、藤枝市の郷土博物館に行かなくてはだめかな~。
なお、この本多家は、7代138年の治政により柏市内の領民から慕われていたらしく、国替えが決まると、布施村名主成島善兵衛ら総代10人が、500両の運動資金を調達し、国替え反対運動を明治政府に働きかけたようです。成島家文書によると、この働きかけが不届きとされ、一同入牢となり、1ケ月後に放免された記録が残っています。だが、この国替え反対の件で肝心の本多家が動いたかどうかの記録は何も残っていない。その後も、明治22年(1889年)の町村制施行時に、旧田中藩領の花野井村、船戸村、大室村、大青田村、小青田村、正連寺村、山高野村等が合併する際の新しい村のネーミングとして本多家の田中藩の田中をもらって田中村をつけたというほどです。写真は田中藩最後の藩主正訥と言われています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸天狗党と軍資金徴収の嵐

2007-02-09 | 歴史
大鳥圭介や土方歳三が数千もの軍勢を引き連れ会津で再起を図るために、布施村を訪れるわずか数年前から、幕末の嵐は、布施村にも吹き荒れていた。彼らのために宿を提供した元橋本屋旅館の七代目にあたる今年80歳を迎えた当主が語るところによると「元治元年(1864年)3月水戸天狗党72名宿泊す」の石塔が、天狗の面とともに、元旅館の中庭にあるという。
水戸天狗党は、水戸藩の純粋な尊王攘夷派で構成され、元治元年筑波山で決起する。そして、軍資金と兵糧を調達するため、常陸はもとより下総・武蔵・下野などに食指を伸ばし、本物、かたりが入り乱れて、乱暴狼藉(?)を始めている。当然、当時繁栄していた北相馬郡内の花野井村、布施村、高柳村等にもその嵐は及んでくる。
事実、花野井村の松丸家では1500両をむしんされたが400両にまけてもらい、吉田甚左衛門家では300両を支払っている。布施村では後藤七郎左衛門が多額の軍用金を提供している。また、高柳村の名主酒巻孫右衛門家には、天狗党を名乗る3人の武士が来て、12俵の兵糧を布施村の後藤山(明確な場所は不明)に運ぶように命じ、翌朝そこへ言われたとおり兵糧を届けたところ、そこには誰もいなかったという話も伝わっている。
こうした事態に対し、6月幕府は水戸天狗党追討令を出し、領主であった本多田中藩は兵を布施弁天東海寺へ交代にて出役させ、更には徳川親藩の関宿藩は渡船警護として、七里ケ渡や取手の渡にも出兵し、この近辺は実に物騒な状況を迎えていたのである。幸い、この近辺では大きな騒動は起きていないが、布施弁天の宿場に住む宿の人たちにとっては、気が休まらない幕末であったろう。
そして、こうした事態に、敏感な若者が必ずいることは、いつの時代も変わらない。平穏な生活を送っていたはずと思われる本多田中藩の重臣である松ヶ崎の吉野金陵の子、新一郎も天狗党に加わり、投獄されている。その後の水戸天狗党は、徳川慶喜に尊王攘夷の直訴をするために京都に向かう途中、加賀藩の兵によって降伏させられ、1865年2月首謀者の武田耕雲斎や藤田小四郎ら353人が処刑されるという悲惨な結末を迎えてしまうのである。今は盛りとばかり咲き誇る、春を待つ布施弁天東海寺の愛らしい梅の花をみていると、140年前の悲惨な出来事に哀れをさそわれてしまうのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手賀の高台に明治時代の教会!

2007-02-08 | 歴史
柏市内の旧沼南地区の手賀沼を望む手賀の高台に、東方正教会に属する日本ハリストス教会の旧木造教会堂があり、これが首都圏に残るキリスト教に関する最古の木造教会堂と言われている。カソリックでもプロテスタントでもない東方正教会というのにひっかかり、調べて見る気になりました。ロシアのニコライ神父(1836年~1912年)が函館に来日し、東方正教会の教えをはじめたのが、文久元年(1861年)であり、明治5年(1872年)には、函館ハリストス正教会が日本最初のハリストス教会となる。
そして、明治6年(1873年)信教の自由が公布されるや、ニコライ氏は、東京のいわゆるニコライ堂を基点に日本各地に布教を進めて行くのである。千葉県では,明治8年に船橋法典に,明治10年に印西大森に教会が設立されていますが、この印西大森教会の設立が、手賀や布瀬等の人々の心を動かせたようである。明治12年(1879年)、手賀村の名主を務めた湯浅家等の地区の有力者が、新しい知識を求め入信したらしいが、一方、この地区は度々洪水にみまわれ、疲弊していたことも入信の要因の一つと見る向きもある。当時、事実人口500人の手賀村にもかかわらず、100人を越える人々が入信したとことを考えるとうなずけないこともない。
この旧手賀教会は、明治15年(1882年)に、55円で出来合いの小さな茅葺の民家を買い、95坪のこの土地に移したと言われている。写真でもわかると思うが、傍目にはなんの変哲もない古びた民家にしか過ぎない。脇に柏市教育委員会の文化財の立看板がなければ、誰が教会と思うであろうか。これが旧教会跡でなければ、訪れる人もないだろう。道路沿いに背丈の低い垣根はあるが、破れた間から中に入り、見学していた一行がいたので、私もこれがそうかなと、あたりをつけ、車を止めたら、旧手賀教会でした。しかし、駐車場もなく、道路も狭いので、車での見学はお薦めではありません。
礼拝堂部分は明治30年に増築したそうですが、明治37年の日露戦争あたりから、急激に信徒は減り、平成の今日では10軒あるかないかとのこと。確かに、明治25年10月に3日間だけ、この手賀教会にニコライ氏がきて、布教に力を入れていたにもかかわらず、こうした結果になるのは、信仰に関することだけではない日本人のある特有気質が働いていると見てもうがった見方ではないでしょう。
昭和49年、この老朽化した家屋(今管理しているのは隣の岩立さん?)を捨て、近くの土地に新しく教会堂を建てそこに移転したらしい。その建物を探してみたが、私には見つからなかった。ここには、明治の女流洋画家山下りんにより描かれたイコン(聖画)三点、「主全能者」、「至聖生神女」、「機密の晩餐」が保存されているが、非公開とのこと。柏市の文化財のホームページで、その三点のイコンの写しを見ることができます。
最後にイエス・キリストのことを日本ハリストス正教会では、ギリシャ語・ロシア語由来の読み方でイイスス・ハリストスと読むそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週末に迫った只見雪祭り

2007-02-07 | その他
2月9日(金)から11日(日)まで開催される福島県只見町の雪祭りは、雪不足との戦いであったが、1月25日積雪50センチしかなかったものが、2月3日には1メートル30センチにもなり、絶好の雪祭りを迎えようとしている。
1月30日、柏市役所と布施弁天を只見町の助役さん一行が表敬訪問。その際に布施弁天にて護摩を焚き、雪祭りの成功を祈願したそうなので、水の神様の弁天様が雪の神を連れてきてくれたのかな。さすが、現世御利益の弁天様、面目躍如というものですね。その時に持参した写真を借用し、撮ったのが、この布施弁天の大雪像の制作シーンです。(いささか古いが、ご勘弁を。)ところで、布施弁天の名入りの雪祭りの大ポスターも置いて行ったそうですが、どうも関係者の目がとまるところにしか置いてないようですね。また、ホームページの第35回のパンフレットをクリックして開いても、弁天様の大雪像の文字が一目瞭然、目立つところに記載されておりません。残念。持参した大ポスターは、全国版ではなく柏市内のみの配布用かな。
さて、今年は、2月6日から開催されている「さっぽろ雪まつり」でも、国の重要文化財である彦根城が制作され、なんとなく、歴史的文化財がもてはやされそうな風潮で、いい雰囲気ですね。札幌でも雪不足のため、2時間以上かけて山間部から5トントラック8千台分の雪を確保したそうですから、自衛隊さんも大変。只見でも、郡山の自衛隊が協力してくれたそうです。
まー、今度は、造れば造ったで、維持にはそれなりの苦労があるようで、只見でも、暖冬で造った雪像が解けないように、屋根等に水をまいて凍らせて維持しているそうです。文化財の保護には、雪像等に関係なく苦労が絶えないもんですね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逃げ腰布施弁天豆まき参戦記

2007-02-06 | その他
4日(日)の2回目の豆まき開始前に、弁天様門前にある弁天茶やの後藤さん(東海寺総代)が、布施弁天の歴史や概要の説明後、文化財の現状について、例を楼閣(景勝閣)にとり、屋根を修理するには約2000万がかかると報告し、来ていた参拝者に誰でも入れる「布施弁天の文化財を守る会」への加入を促しておりました。これは、資金に余裕がないことを素直に認め、参拝者の協力を求めたわけですが、守る会の会員は、現在のところ100名前後といいますから、会費1人5,000円ですから500,000円位しか会費は集まっていないということですね。厳しいですね、現実は。
にもかかわらず、豆まきの景品は、やぐらの両脇に張り出されたように、多数の企業・個人(左右に書かれた奉納札は計102枚)からの奉納があり、どうも文化財の現状がぴんときません。舞台に上がった七福神の中には、大黒様に扮していた現職の国会議員もおりましたので、文化財の保護に良い影響があるように期待するのはいけないことでしょうかね。
昨年も歌った三沢さん(?)のカラオケ時は、パラパラだった参拝客も3時30分過ぎには500人以上の黒山となり、スリ注意の張り紙と富勢の駐在所さんが目を光らせる中で、鐘の音を合図に豆まきが開始されたのです。自分はといえば、その人の波から少し距離をおいたところで、はす目で見させていただきました。総代よりサンダル履きの人はいないかと思いますが、という注意がありましたが、自分はそのサンダル履きの1人だったのです。まあ、なんとか、福豆だけは2つゲットしましたが、景品めがけての取り合いには、参加しませんでした。参加された皆さんは、いかがでしたか、ケガは大丈夫でしたか。良い年になりそうですか。
なお、昨年暗躍したスリ団は、現在刑務所だそうで、今年は、被害はなかったそうです。私も知らなかったのですが、駐在所さんのほかに、柏警察より5~6人の私服の刑事さんが目を光らせていたとのことでした。
聞くところによると、第一回目のほうが、参拝客が多く、立錐の余地がなく千人近くいたみたいです。ただ、景品は午後のほうが良い品物がでたとのことで、洗濯機があたった女性は、弁天様の近くの人で、知り合いを頼み早速持って帰ったそうです。景品を出した人も近くの人で、偶然とはいえ、出した本人は喜んでいました。
この様子は2月10日の千葉テレビで正午(?)から放送されるという話でしたので、見てみようかと思いますが、確かに今年は、今までになく、ミニコミ誌等の取材陣も多く、布施弁天がブレイクする年になりそうな予感を得ました。帰り、日曜日(昔は毎月第1土曜日だけだった)まで開催されるようになった弁天骨董市に立ち寄り、またも目だけ楽しませてもらいました。写真は紹介を受ける下村住職(山主)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早すぎた水戸偕楽園の観梅

2007-02-05 | その他
2月4日(日)午前8時頃、偕楽園下駐車場に到着したが、駐車場は開いておらず、適当に車を置き、長い階段を登り、常磐神社に向う。身を刺す冷気の中、二礼二拍一礼で、簡単に参拝をすませ、早速、観梅に赴いたが、まだ、時間が早いためか、売店は開いておらず、売店通りは静寂そのものであった。まさか、梅園は開いていないのか、という嫌な予感が走ったが、偕楽園の入り口の門は、ありがたくも開いていた。(9/16~3/31の期間は午前7時から開園。その他は午前6時)その中へ、ジョキングの人や散歩の地元の人たちが三々五々、吸い込まれていく。しかし、観梅客なる者は、私たち2人だけ。ということは、そうです。 梅は、殆ど咲いていませんでした。好文亭前の芝生広場に面する日だまりの梅の木は、赤い花を写真のようにそれなりに咲かせておりましたが、他の梅の木は堅くつぼみを閉じていました。それでもめげずに、園内を一回りしようと言うことになり、園内散策を開始したが、行けども行けども見えるのは堅く閉ざされたつぼみ。この日はあいにく風も強かったので、心も身も震えがくるほど寒くなり、20分ほどにて観梅ならぬ観梅を早々に切り上げました。世の中、暖冬で雪がないとか、菜の花が咲いたとか、東北では桜が狂い咲きしたということを聞いていたのに、と大変ショックを受けましたが、なぜか不思議に安堵もしました。
偕楽園は、天保13年(1842年)、水戸第9代藩主の徳川斉昭が造り、園内には100種3,000本もの梅の木を植えたそうです。近くにいた地元の人に聞いたら、梅祭りは2月20日から3月31日ということで、社団法人水戸観光協会のホームページを見て、咲き具合を確認してくればよいのにというアドバイスも頂いてしまった。
そこで、しかたないから、千波湖に行ったら、こちらはロードレースがあると言うことで、親子ずれや若い人で人も車も一杯。先ほどと違い、熱気に満ちあふれておりました。周囲3.1キロの湖畔を何周するのですかね。皆さんが走る姿を見ながら散策をし、近くのレストランで早い昼飯を食べ、午後3時半からの2回目の布施弁天の豆まきに間に合うように帰宅。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相馬一族の北斗信仰と北星神社

2007-02-04 | 歴史
我孫子市台田にある北星神社も我孫子の柴崎神社の宮司(湯下一族)が管理し、妙見信仰をもったこの地方の中世の支配者の相馬氏とゆかりのある神社とされる。富勢村と合併する(明治22年)前は、根戸村の村社であり、敷地は約500坪あったが、昭和29年に、我孫子市と合併し、この敷地は今、我孫子市になっている。
北星神社は、柴崎神社と同じように狛犬が亀になっているが、この亀像(手前の一対ではなく奥の壊れている亀)は、大変古そうですが、制作年月日は不詳です。確かに、神社に狛犬などが祀られるのは、江戸時代になってからですよね。
妙見菩薩というのは、北斗七星や北極星という自然が神の姿になったもので、亀に乗って空を飛びまわり、 平良文の子孫の相馬一族が、守護神として妙見菩薩を祀ったといわれる。妙見菩薩の乗り物が亀であったため、北星神社は狛犬だけではなく亀も一緒に神社を守るようです。つまり、境内の石彫の亀は、高松塚古墳壁画に見られた北斗を示す玄武(蛇と亀を表す)の亀と同じといえます。
明治9年までは、妙見宮だったが、あの廃仏毀釈で、祭神は天御中主命となり、明治41年には、吾妻・天神・稲荷など数社が合祀され、北星神社と改められてしまうのである。ただ、元ご本尊であった妙見菩薩はどうなったか、ーーー。
この妙見宮についても2説の流れがある。ひとつは、相馬一族に関わる城(この付近の例では、根戸城、若しくは布施城)には、必ず妙見菩薩を祀る宮があったから、その流れといわれる説。もう一つは、当神社の駐車場に建てられている案内看板には、近くの田から妙見菩薩像が出土し、それが現在地に祀られたと、書かれている。しかし、それも言い伝えで、創立年月日は不詳である。記録として古いものは、文政7年(1824年)に、祭礼や奉謝を行なった記録がある。現在の社殿は、昭和58年(1984年)に再建されたものです。
 その他の施設として、廃仏毀釈の色をこく残しているものが多数あり、この地域の伝統なものの扱いは、少なからず、素直な形では継承されていないのは、寂しいといか言いようがない。なお、ここの桜は、結構きれいで、開花が待ち遠しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日に迫った布施弁天の豆まき

2007-02-03 | その他
節分は春夏秋冬の年4回あるが,どういう訳か,春の節分(大晦日に該当か)だけが残り,この日,2月3日に追儺(ついな)のため,「福は内,鬼は外」と言いながら豆をうつ。柏市内の神社でも豆まきが行われますが,大体がこの日に集中し,柏駅東口にある柏神社でもご多分に漏れず,午後3時から相撲の北陣親方も参加して4回ほどの豆まきを行います。
隣の流山市では,昨日紹介した東武線の豊四季駅地近くの駒木の諏訪神社の豆まきも3日に開催され,豆まきは午後2時半からですが,イベントは午後2時から行うようです。流山でお得な豆まきは,流山1丁目にある浅間神社の豆まきで,2月3日(土)午後4時半と5時半の2回行うそうです。お得というのは,豆まきの際に会員より提供された各種の品物をまくと同時に豆まき間に餅つきを行い,無料のとん汁やおでんが配るそうです。
さて,わが布施弁天の豆まきは上記の神社から1日に遅れた2月4日(日)午後1時半と3時半の2回行われますが,浅間神社よりさらにお得な豆まきであることは先般紹介したとおりです。今年はどんな景品がまかれるか,楽しみですね。2月1日には,宝物殿の前にやぐらが建てられ,周囲を紅白の模様の幕で被っており,万全の準備ができていました。(写真は2日に撮ったものです。)
そこで,布施弁天に豆ひろいに行く人いるなら、そして,景品ねらいをしたい人は,それなりの準備をしなければならない。その心得については,先般記載しましたので,今回は書きませんが,残された課題としては,場所とりですね。1回目は午後1時半ですが,その時刻に行ったのでは,良いポジションはとれないのは言うまでもありません。何時いったらよいか,どこが良い場所かは個々人の判断で違いますから,各自の判断に委ねますが,ここがポイントであるので,あえて申し添えておきます。キャッチする最中は、人の波に身を任せ、逆らわないことが肝心でもあります。
私には、節分と豆まきがどうして結びついたかわかりませんが、豆まきは、宇多天皇の昔、京の都に乱入しようとした鬼に対し、三石三斗の豆を煎って、鬼の目をつぶして災いを逃れたということが始まりのようですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蕪村も来た(?)駒木のおすわさま

2007-02-02 | 歴史
諏訪神社は、地元では「駒木のおすわさま」と呼ばれ、特に子育てのお諏訪様と親しまれ、初詣とともに七五三には、お参りする人があとを切らず、平成18年4月には1200年を迎えた由緒ある神社です。一万坪の敷地は、鬱蒼とした木立に囲まれ、昭和55年に流山市有形文化財に指定された文政8年(1825年)に建築された権現づくりの社殿(拝殿と本殿)をはじめ、各種の建物や造作物が多数あり、実ににぎにぎしさも兼ね備えた神社である。その中でも、奥州に向かう途中、馬の産地であった駒木で馬を集め戦勝を祈願したという史実に基いた「源義家(1039~1106)献馬の像」は、存在感がある。
諏訪神社の由来は、社伝によると、大同2年(807年)、天武天皇の皇子である高市皇子の後えいが大和より下向して、駒木を永住の地と定め、守護神として信州諏訪大社から分社されたのが始まりということです。祭神は建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)であるが、ほかに、恵比寿神社や雷神社など9つの神社も祀られている。
あと、私の関心を起こしたのは、蕪村の句碑である。流山市に良く往来した有名な俳人は、小林一茶であり、布施弁天にも来て守谷や我孫子の布佐にも行っているが、大阪生まれの与謝蕪村(1716~1783)は来ていない。蕪村は、関宿・境あたりを経て江戸と結城をゆききしたとする記述があり、実際、寛保2年(1742年)、蕪村20代半ばから約10年間結城・下館に住んでいたらしい。そんな関係でどうやら、駒木あたりを歩いていたかも知れませんね。「道問えば大根曳いて教えけり」と、蕪村がこの付近で詠んだといわれる句碑もあるのもうなずけます。だが、江戸時代、諏訪神社に参拝した後、成田山新勝寺に向かう旅人が多くいたという説もあるようだが、これは頂けない。諏訪街道は、布施街道とはぶつかるが、成田街道とは直接ぶつからないし、平将門が尊敬されていた江戸時代に反将門の成田山に行く江戸者はいないと思いたい。
なお、余談ではあるが、諏訪神社の境内地は、当初、十万坪を越えていたそうですが、江戸幕府の牧場に接収され三千坪までに減少したそうです。近年、それを買い増しし、一万坪になったとのことです。写真で見ると、こんな感じに写りますが、今年の正月に初詣に行った際に撮った本殿です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

布施弁天の次回開帳は2025年!

2007-02-01 | 歴史
布施弁天の開帳時に、ご本尊である三寸の弁天像を一般の人々に公開しますが、この開帳を行われるのは、弁天様の化身といわれる巳の年毎に行われ、参拝客すべてに御利益があるとのことです。前回は2001年11月でしたので、今度は2013年秋の予定だそうです。この開帳は、江戸時代中期から受け継がれており、三種類の開帳があります。まず、山内開帳で、これは地元の人の弁天信仰の定着を計るもので、次に、巡行開帳は信仰圏の拡大を計るものだそうだ。そして、江戸開帳は巡行開帳の延長線上にあると言って良いものです。いずれの開帳も、信仰の拡大に効果をあげてきたが、江戸開帳を初めとした巡行開帳は、明治になってからは行われていない。(写真は御前立ちの弁天様です。)
ちょっと、歴史を振り返ってみると、最初に、布施弁天の山内開帳が行われたのは、宝永3年(1706年)である。そして、宝永6年(1709年)3月15日から60日間、初めて江戸深川の永代寺で江戸開帳を行なった。巡行開帳を初めて行ったのは、正徳4年(1714年)で、常陸、下総、武蔵を巡行開帳した。
こうした開帳を通して、布施弁財天は、商売繁盛、家内安全等の現世御利益の神としての地位を築き上げ、信仰されていったのである。特に、開帳された時に、布施弁天像の右手から延びた五色の絹糸に触れると「福徳」「財宝」「知恵」などの功徳があるとのことです。
自分として、山内開帳で興味ある最近の事例としては、大正6年(1917年)4月15日から28日まで行われた山内開帳で、千葉県東葛飾郡誌によれば、参詣講数72、人数4,300人、一般参詣者約4万人と実に盛大だったらしい。
つまり、講が開帳を支えていた。しかし、現在、この講が崩壊しているらしい。前にも記したが、寺の檀家は20数軒、布施弁天の祈願檀家(彼らは檀家とは言わず信徒という)は約200軒であるが、この信徒の地元講も外部の講も現在は組織されていないようである。余談だが、この200軒前後と言われている祈願檀家の人たちの菩提寺(寺檀家)は、古谷にある時宗の善照寺なのである。同じ古谷に1705年まで東海寺があったのに。さて、布施弁天の寺檀家には3人と祈願檀家には6人の総代がいるようです。でも、これらが組織的に日常的に機能していないように思えます。この人たちが中心に現代に地元やかってあった各地に講を蘇らせればーーー。その意味では、2月の只見町での布施弁天大雪像の展示は、巡行開帳に匹敵し、こうした状況を打破するなんらかの刺激剤となればいいですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする