明日を楽しく

釣り、カメラ、アマチュア無線、アウトドア、DIY、何でも思いっきり、明日の楽しさを求めて今日を生きる徒然日記

エンジニア最強の武器

2021-08-21 | コレクション


押し入れの片付けをしていたら昔使って居た計算尺が出て来た。
HEMMI No.256 だ。

工学部の学生時代に購入した「ヘンミ計算尺」ブランド名は "SUN"だが通常「ヘンミ256」と通っていたのでSUNのブランドを意識したことは殆ど無かった。

会社勤めとなってからは、産業用の特殊な自動制御装置もこの計算尺で設計した。

いわゆる電卓が発売され、単純な計算しか出来ない電子卓上計算器を3十何万円だったか、買った記憶がある。
そして、やがて関数電卓が手に入る様になり、いつの間にか計算尺の役目は終わって、押し入れの段ボール箱へと追いやられてしまったのだった。



表面は通常計算用で、裏面がModel 256の独特な目盛りとなっている。



たしか、電機用はNo.255だったと記憶しているが、私の専攻が電子だったので256を選んだのだった。
役60年以上経った現在でも充分に使える物だが、さりとて実際に使う事は無いだろう。
捨てられない記念品の一つとして改めて手入れをしてもう一度押し入れに収まって貰う事にした。

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ビンテージ

2020-10-18 | コレクション


1930年前後のフランスのシャンパン "GORDON ROUGE" の銘がプリントされたお皿です。
金文字が擦れて読みにくくなっていますが、
"G.H.MUMM&Co."
"REIMS" FRANCE
"CHAMPAGNE TRES SEC"
などの文字が読み取れます。

片付けをしていたら奥の方から出てきた物ですが、多聞これは、灰皿では無いかと思うのですが良く分かりません。

私の父は、銀座のど真ん中に時計台の古い建物がありますが、数寄屋橋側に2~3軒隣で洋酒の卸商を営んでいたので、その頃の物です。
中学生の頃に持たされた金ペン万年質は、リプトン紅茶の景品だった記憶しています。



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A GERDEN  IN  ITALY   コンチネンタルタンゴ 「イタリーの庭」

2016-11-30 | コレクション



私が、小学校の高学年に成った頃だった。 或日、「そろそろ、おまえも洋楽を聴く歳になったから」と父が買ってきた。

実は、我が家では、妹が日本舞踊のお稽古に通っていたので、端唄、小唄、長唄など、父が買ってくるレコードは、何時もこの手の物だったので、多分息子にも何か買ってやらねばと気遣ったのだろう。

その頃、父の従兄弟で、大のクラッシック好きで、沢山レコードを持って居た人(戦死されてこの時既に故人)のを我が家で借りて居て、何十枚かのコレクションが置いて有った。

と言う訳で、私が何時もかけていたいたのはベートーベンやモーツアルト等々だった。
だから私は、聴く物が無かった訳では無かったのだが、当時は、全てモノーラルのSP盤だった。

なので一枚がとても短く、何枚も掛け替えないと一曲にならなかったで、一作品を通しで聴いた記憶は殆ど無かった様に思う。

自分のレコードが手に入った事で、嬉しかった事は良く覚えて居る。



どちらがA面か、B面か、分からないが、表題の "A GERDEN IN ITALY" Billy Cotton and His Band の軽快な曲に男性歌手の歌手が歌っていた。

Billy cotton楽団は、ダンスバンドの様で、この演奏も軽快で、歌も英語の歌詞なので、アメリカで録音された物なのかも知れない。

作曲は、あのシャンソンの名曲「枯れ葉」と同じ人だ。

今では、78rpmのSP盤をかけるプレィヤーが無いので、何十年も聴いた事が無かった。
たまたま、You Tube で見つけたので、此処にリンクしておくので、聞いてみて欲しい。

https://www.youtube.com/watch?v=0m5tXAR0wvA

表題には、コンチネンタルタンゴと書いたが、演奏はダンスミュージックって言う感じだ。
日本式に「軽音楽」と言う方がピッタリくるかな!



裏面の"DARDANELLA" は、多分ダーダネルス海峡の事だろうと思う。
トルコのアジアとヨーロッパの境界の細い海峡の南側をダーダネルス海峡と呼ぶのだが、この海峡の名が関係していると勝手に思い込んでいる。

この曲も良い曲だが、私は、「イタリーの庭」の方が好きだ。

その後、自分の小遣いで買ったSP盤も何枚か残って居るが、それを聞く術が無いのが実情だ。

何時か余裕が出来たら、SPのプレィヤーを手に入れたいと思って居るのだが、意外と高価なので、正直言ってなかなか買えない。

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ロバートキャパ展

2013-10-12 | コレクション
昨年、NHKが「二人のロバートキャパ」と言う形で取り上げた事を記憶している。

亦最近、東京のライカギャラリーで「ロバートキャパ生誕100年記念の写真展」が予定されているそうだ。

ロバートキャパと言えば、嘗ての第二次世界大戦の戦場の様子を報道した最先端の報道カメラマンとしてその名が知られた名カメラマンだ。



私の手元に、1961年に銀座「松屋」デパートでの「ロバートキャパ」写真展の記念誌が保存して有った。

終戦と共に、日本にも平和な日々が訪れた。
人々がカメラで日常を記録しアルバムを「我が家の想い出」てきな形で残そうと盛んに写真を撮る様な平和な日々が訪れた。

巷には、町工場が簡単に作れる 6x6版の二眼レフが溢れた。6x6版のルールフィルムは、六桜社(→さくらフィルム→コニカ。小西六兵衛さんが日本で最も古い写真の会社を作った。)
や、富士フイルムが、これまた簡単で作り易い6x6版のロールフィルムが出回った事も重なったのだろう。

勿論、ドイツ製のローライフレックス。更にエントリー用のローライコードなど、この当時のプロカメラマンの愛用したメインカメラだった。
そして、ニッコールレンズを付けた「アイレスフレックス」、ロッコールレンズの「ミノルタオートコード」等々、庶民が買えた安物には「ヤシカフレックス」「リコーフレックス」「xxフレックス」等々、数え切れない程の二眼レフが巷に出回っていた。

かの有名な写真家大竹省二さんもローライで稼いでいた。

そして、新聞報道カメラマンが、日々愛用した最前線は「スピグラ」だ。正式には「スピードグラフィックス」と言うのだが、大きなフラッシュライトを横に取り付けた、これまた大きな蛇腹式の一枚撮りカメラだった。カメラマンは、政治家の前で、「パッ」とフラッシュを一発焚く、その一発が勝負だから、タイミングを間違えれば、失敗写真に成る事必定だ。

今みたいに、連続で一秒間に8枚も10枚も撮れる便利な物では無かったのだから、その当時のカメラマンは、大変だったのだ。
「決定的瞬間」と言う言葉が流行った。単なる飾り文句では無く、事実決定的な瞬間が物を言った時代だった。

アメリカの有名な写真家達が、朝鮮戦争の取材の為に、その足がかり地として東京に来て、予備機のつもりで手にした日本製のニコンSを持って朝鮮に行ったのが、意外にも、その写りが良くて頑丈だったニコンを絶賛、彼らのメインカメラになった話は有名だ。

そして、ニコンS2、キャノンⅣsb が花形カメラにのし上がった。
当時、ニコンS2は8万3千円、キャノンは8万5千円だった。
大学卒業者の給料が千円~三千円位だったのだから、如何に高価だったか、正に「垂涎(スイゼン)の華」だったのだ。

話が脱線したが、ロバートキャパは、戦場で多くの写真を撮って、戦場の過酷さや非戦闘員の庶民の姿など、多くを伝えたカメラマンの一人として、その功績が戦後間も無い時代に於いても、人々の感動を呼んでいた。



昭和36年に開かれた、銀座松屋でのキャパの写真展には、158点の写真が展示された。









功績と感動を今の世に伝えている「ロバートキャパ」の名は、写真とカメラを愛する者として忘れる事は出来ない。
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ビンテージ カクテルブック   1931年

2011-07-31 | コレクション



古いカクテルブックが出てきたのでお披露目しよう。
表紙は革張りだが、紙ベースから剥がれそうになってボロボロだ。
手荒く扱えば忽ち剥がれてベースの紙だけになりそうだ。

前半には各種カクテルのレシピが記載されていて、残り半分くらいはベネディクティン(Benedictine)博物館の紹介などの読み物が記載されている。













 

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ビンテージ色鉛筆  A.W.FABER  (-2)

2011-06-03 | コレクション

この色鉛筆に就いて、ファーバー・カステル社の日本の取り扱い商社 DKSHジャパン(株)に問い合わせた所、カスタマー・サービス部門の担当者から回答があった。

 

以下は、回答文の要旨

「ドイツに問い合わせ確認したところ、1927年のカタログの表紙に掲載されていることから判断して1930年頃の流通品でしょう」との回答が得られました。」

凡そこの様な丁寧な回答を頂いた。

近頃のネットでコンタクトする商社の文面だけ馬鹿丁寧で、内容はぶっきらぼうで投げやりな回答からすると想像外の親切・丁寧さが嬉しくなったので、敢えて追加掲載と致した。

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ビンテージ色鉛筆  A.W.FABER

2011-05-22 | コレクション

私の引き出しに、ずぅーとお邪魔虫している鉛筆が有った。
何者かは判らなかったのだが、何か変わったメーカーなので珍しい物かも知れない程度で、凡そ50年間経ってしまった。勿論、父親の持ち物だったのだが、我が家では、親父の物は俺の物と全てが適当に所有権が自然に移ってしまったのだ。

今では父に由緒を聞くことも出来ずに居たのだが、何年か前に、インターネットで調べて凡そのことが分かった。



この鉛筆は、第2次世界大戦の始まる1941年よりも、ずっと前に父の持ち物になったのだが、鉛筆自体の製造時期は想像出来ない。
"MADE IN BARBARI" の印しに、その古さを感じる。

A.W.FABERは、1761年創立の現存する鉛筆メーカーだった。
http://www.faber-castell.jp/23590/default.aspx
この会社は、世界で始めて鉛筆の横腹にメーカー名を印字したことで知られている有名ブランドらしい。

"BAVARIA"は、ドイツバイエルン地方の事らしい。

芯は自分では一度も削って無い初期状態のままだが、引き出しの中で雑に扱われたので傷着いてしまったのは残念だ。
そう言いながら、今も引き出しの中のトレーに入ったままで、特別待遇はしていない。

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ビンテージ灰皿-2 "BLACK&WHITE"

2011-04-06 | コレクション
"Black&White"もスコッチ・ウイスキーの有名ブランドだ。



この灰皿も1930年代の物で、我が家には同じ形の物が二個有ったのだが、一個は戦時疎開の時にひびが入ってしまった為に何時の間にか捨てられてしまったらしく、今は所在が分からない。




何処にも"Scotch"とか、"Whisky"などの文字が無い。"Black&White"と言えばスコッチ・ウイスキーに決まってると言う自負が敢えてこの様な表現に成っているんだろう!



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ビンテージ灰皿-1 "McNish"

2011-04-02 | コレクション

久しぶりにコレクションをご披露させて頂く事にした。
禁煙盛んなりしこの時期に、今更灰皿?
私自身、禁煙して既に40年、灰皿を今頃持ち出す気は無かったのだが、この度の震災で少し片付けをしていたら思わぬ所から出て来たので灰皿のコレクションを思い出したのだ。

自分で集めた物では無いのだが、今は私のコレクションに成っている。
父親が戦前、銀座のど真ん中で洋酒の輸入販売に関わっていた時のものだ。



多分1930年代の物だと思う。何故なら1940年代に入ると太平洋戦争に突入して行く訳だから贅沢品の洋酒は輸入できなくなった筈だからだ。
日本では知られていないが、McNishは、スコッチの老舗ブランドで、今も社名は現存している様だ。

http://www.whiskymerchants.co.uk/#/grand-macnish/4535083395

この灰皿もスコッチの拡販用の提供品だったと思われる。瀬戸物としての出来は大変良く無い。




文字に滲みが有ったり、日本の陶器と比べると稚拙さえ感じるがブランドの珍しさで楽しんで居る。



裏面にブランド表示が有るが、スコッチなのにEnglandとなっている。多分海外輸出の扱い商社らしいネームがあるのでこの会社がイングランドだったのだろう

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フェンウイック”fc38” 初期モデル

2007-10-02 | コレクション
"Fenwick Model fc38" 5ft 9in 1 3/8oz




かつて、1970年代ヨーロッパやアメリカからルアーが本格的に入り始めた頃のルアーロッド、アメリカ製の「フェンウィック」は銀座の一流デパートの釣り具売り場でしか見る事が出来なかったし、数も少なく高価だった。何とか買える値段の物と言えば精々輸入品の"ABU"くらいで、国産品は全く使い物にならない時代だった。
この頃(1973,4年頃)に大枚叩いて買ったのがこのフェンウイック"fc38"だった。
フェンウイック・フェラライトと称したバスロッドと、フライロッドを購入したがフライロッドは手放してしまって手元には無い。唯一大事に仕舞って置いたのが"fc38"だ。10年くらい前に幕張メッセの釣り具ショウで輸入元の商社マンと話した時に「プレミアムが付いて・・」と購入時の5倍くらいの値段が付いている話を聞いたがバスブームが若干下火の今は可成り値が下がっているのかも知れない。何れにせよ私の宝物だ。


このモデルの後、同じ"fc38"ながらリール取り付け台の部分が変更された物が大量に輸入される様になった。姿が変わったモデルをカタログや雑誌の記事で見たが全く興味が湧かなかった事を今でも鮮明に覚えている。




ロッドの型名表記は手書きだったし、表面樹脂、布内張のケースが付いていた。

その頃ブラックバスは、芦ノ湖と津久井湖にしか居なかった。このfc38にABU 5000cを付けて、津久井湖や芦ノ湖に通ったのも遠い昔の想い出となった。
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