麦畑にうつぶせに伏せながら、頭を上げて振り向く様に空を見た。
もの凄い轟音が空を覆っていた。
大きな爆撃機が何十機も空を埋め尽くして、皆同じように南の方に向かっていた。
その日、授業が終わって、教室のお掃除をして、学校を出て間もなくのことだった。
福島県、石川郡小塩江村江持小学校 1年生の数名は、学校の少し先の通学路の両側には麦畑が広がっていた。
飛行機が来たら「親指で耳たぶを耳穴の上にかぶせて塞ぐ様にして、残った4本の指で目を覆って、その姿勢で地面に伏せなさい」と
先生に教わったとおりにして、皆で麦畑に伏せていた。
どの位の時間が掛かったのだろうか、やがてB29が通り過ぎて爆音が聞こえなくなって皆はホッとして道路に戻り家路を急いだ。
この日が何月何日だったか、ハッキリとは覚えて居ないのだが、多分、B29は東京に向かって行ったのだろう。
間違い無くその日は東京大空襲があった日だったと思っている。
私は、東京都荏原区で生まれて、その家に住んでいた。
昭和19年の春に旗台国民校の1年生になったが、3年生以上は、学童疎開で田舎の方に行ったので、学校には1年生と2年生しか居なかった。
その年の秋のことだった。
突然頭の上を1機の爆撃機が手が届きそうな超低空で東の方に向かって通った。
もの凄く恐ろしかった。
あとで伝え聞いた話で「戸越銀座あたりで空襲があったらしい」、誰から聞いたかも覚えて居ないのだが、兎も角現実にB29が頭の上を通ったことを経験したのだった。
間もなく父が招集されて家には母と妹と3人になってしまったので、母は子供2人を父の実家に預ける事になり、正月明けの3学期から江持小学校に転校したばかりだった。
戦争の記憶は、これだけでは無い、 歳が大きく違う従兄弟の1人が見習い海軍士官として沖縄で戦死した。
この人は、商船学校在学中だったが、彼は無線通信を専攻していた。
私が中学2年生のときにアマチュア無線に興味を持ち、国家試験に挑戦しようと決めたのには少なからず従兄弟の影響があった様に思う。
この年は、ロスアンジェルス講和条約によって日本が独立した年であった。
戦後80年を迎えて、戦争の記憶を知る人が少なくなってしまった。
ましてや、実際にB29をこの目で見た記憶のある人は限られるだろうと思ったので、自分の記憶を書いてみたのだ。