明日を楽しく

釣り、カメラ、アマチュア無線、アウトドア、DIY、何でも思いっきり、明日の楽しさを求めて今日を生きる徒然日記

エルンスト ハース 写真展  1962年

2013-10-20 | カメラ・写真
先日、ロバートキャパの昔の写真展の事を書いたが、キャパが所属したマグナム写真家集団で報道写真家として活躍していた"ELNST HAAS"の写真展を思い出した。



この人は、カラー写真の分野に開眼し、1961年にマグナムを離れて独自の道を歩んだ人だ。

1962と言うと、日本では、まだカラー写真が珍しかった時代だ。
富士フイルムがネガカラーのフィルムを発売したのが1958年の秋だった。その時、テスト撮影のモニターに応募して何ヶ月かに亘って何本かの撮影に協力した記憶が有る。

世の中は、殆どがモノクローム・フィルムが当然の事として使われていたのだった。



エルンスト・ハースの写真展は、西武デパート8階のSSSホールで、モノクロームも含めて80枚の作品が展示された。





躍動感ある独特の表現のカラー写真は、目を見張る驚きであったと記憶している。

私自身、風景などをカラーで撮る様になったのは、この少し後の東京オリンピックの少し前だったと記憶して居る。
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ハムの集い 2013年10月13日

2013-10-16 | アマチュア無線


日本アマチュア無線連盟ー福島県支部主催のハムの集いが、福島市の土湯温泉近くの「土湯自然ふれあいセンター」で催さたのではるばる出掛けて、参加した。

同時に開催された「登録クラブ代表者会議」に出席が、主たる目的だったが、当然イベントに参加する楽しみもあった。



古い無線機を展示して、参加者のノスタルジアをくすぐる懐かしい無線機の「博物館」も参加者の目を引いていた。



「ハム」と言う言葉、実は、アマチュア無線家の事を言うのだ。 彼らの集う所に「ジャンク市」有り。



「ジャンク」と言う言葉が世の中に通用する語源が、昔のハム達が、無線機を作る為に必要な部品が手に入り難いため、古い部品を持ち寄って売買したり、交換したりしたことから生まれた言葉だと思う。



何しろ、普段は虫も殺さない様な紳士たちだが、この場に至ると目が血走って、人目もはばからず、塵同然の変な物に食い入る様に目を血走らせて右往左往するのだ。

笑って下さいますな!!!!!



コメント (5)
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ロバートキャパ展

2013-10-12 | コレクション
昨年、NHKが「二人のロバートキャパ」と言う形で取り上げた事を記憶している。

亦最近、東京のライカギャラリーで「ロバートキャパ生誕100年記念の写真展」が予定されているそうだ。

ロバートキャパと言えば、嘗ての第二次世界大戦の戦場の様子を報道した最先端の報道カメラマンとしてその名が知られた名カメラマンだ。



私の手元に、1961年に銀座「松屋」デパートでの「ロバートキャパ」写真展の記念誌が保存して有った。

終戦と共に、日本にも平和な日々が訪れた。
人々がカメラで日常を記録しアルバムを「我が家の想い出」てきな形で残そうと盛んに写真を撮る様な平和な日々が訪れた。

巷には、町工場が簡単に作れる 6x6版の二眼レフが溢れた。6x6版のルールフィルムは、六桜社(→さくらフィルム→コニカ。小西六兵衛さんが日本で最も古い写真の会社を作った。)
や、富士フイルムが、これまた簡単で作り易い6x6版のロールフィルムが出回った事も重なったのだろう。

勿論、ドイツ製のローライフレックス。更にエントリー用のローライコードなど、この当時のプロカメラマンの愛用したメインカメラだった。
そして、ニッコールレンズを付けた「アイレスフレックス」、ロッコールレンズの「ミノルタオートコード」等々、庶民が買えた安物には「ヤシカフレックス」「リコーフレックス」「xxフレックス」等々、数え切れない程の二眼レフが巷に出回っていた。

かの有名な写真家大竹省二さんもローライで稼いでいた。

そして、新聞報道カメラマンが、日々愛用した最前線は「スピグラ」だ。正式には「スピードグラフィックス」と言うのだが、大きなフラッシュライトを横に取り付けた、これまた大きな蛇腹式の一枚撮りカメラだった。カメラマンは、政治家の前で、「パッ」とフラッシュを一発焚く、その一発が勝負だから、タイミングを間違えれば、失敗写真に成る事必定だ。

今みたいに、連続で一秒間に8枚も10枚も撮れる便利な物では無かったのだから、その当時のカメラマンは、大変だったのだ。
「決定的瞬間」と言う言葉が流行った。単なる飾り文句では無く、事実決定的な瞬間が物を言った時代だった。

アメリカの有名な写真家達が、朝鮮戦争の取材の為に、その足がかり地として東京に来て、予備機のつもりで手にした日本製のニコンSを持って朝鮮に行ったのが、意外にも、その写りが良くて頑丈だったニコンを絶賛、彼らのメインカメラになった話は有名だ。

そして、ニコンS2、キャノンⅣsb が花形カメラにのし上がった。
当時、ニコンS2は8万3千円、キャノンは8万5千円だった。
大学卒業者の給料が千円~三千円位だったのだから、如何に高価だったか、正に「垂涎(スイゼン)の華」だったのだ。

話が脱線したが、ロバートキャパは、戦場で多くの写真を撮って、戦場の過酷さや非戦闘員の庶民の姿など、多くを伝えたカメラマンの一人として、その功績が戦後間も無い時代に於いても、人々の感動を呼んでいた。



昭和36年に開かれた、銀座松屋でのキャパの写真展には、158点の写真が展示された。









功績と感動を今の世に伝えている「ロバートキャパ」の名は、写真とカメラを愛する者として忘れる事は出来ない。
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クルミの実

2013-10-02 | その他
先日、人家の多いコースを散歩コースに選んで普段通らない路地を抜けて歩いた時のことだ。



笹や杉の木が何本か生えた土手の藪に薄ピンクの花が咲いていたのでシャッターを切ったのだが、正直何と言う花か分からなかった。
帰宅後にネットの野草図鑑なども見たのだが、分からず終いだった。



途中でクルミの木を見つけた。 可成り高い所に実が生っているのが見えたので写真を撮っておいた。 画像は、実の生って居てる部分を切り抜いたものだ。



実が生って居れば、当然だが足下に実が落ちている。 落ちた当初は緑の皮で覆われて居る。



日にちが経つに従って、だんだんに外皮の果肉が腐敗して行く。



やがて、中のクルミの実だけが残る。 昔なら、誰かが拾って行っただろうが、最近では誰も見向きもしないので、朽ちたまま、やがて土に帰るのだろう。



2個ほど、家に持ち帰って、金槌で割って見た。
都会で育った我が家の奥は、この様に実を見た事がないので、珍しそうに妻楊枝でほじって食べていた。勿論私も久しぶりに味わって見た。

少し若い実だった様で、味は薄かった。 何日か放置し、枯れてくると濃厚なクルミの味になるんだろう。
昔は、実家の近くにも木が有ったので、中学生の頃には何度か食べた記憶が有ったが、その後は手を出さなかった。 栗などとは違ってクルミは木の実を割るのが面倒な事、その割に中身が少ない事、更に食料としての存在感が無い(脂っこい事も原因)などで、早くから忘れられた存在となった様だ。 


コメント (2)
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