世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

そうだ病院へ行こう!

2019年07月04日 | 
普段はほとんど病院へは行かない。

薬も飲まない。

その分、時間やお金が節約できる。


ベトナムにスゴイ日本人がいると聞いた。

「ベトナムの赤ひげ眼科医」と呼ばれる服部匡志(ただし)氏。

ベトナムで無償の医療活動を続けて10年。

ベトナム人から絶大なる信頼を受けている。


彼はベトナムのみならず、

広く東南アジア、キューバ、さらには熊本の眼科にも携わっていたことがある。


その先生の眼科医院が近くにあったので見に行った。



(かなりのベトナム人の患者さんが来ていた)


せっかくだから、

ついでに診察も受けることにした。


普段パソコンやスマホばかり見ているので

目が疲れ気味。

(普段は「アトミのルテイン」を服用している)


一応、目がかゆいという症状で検診を受けた。




ハノイの埃による軽度の結膜炎でしょうということで

目薬を処方してもらった。



(左は、ロシア製の人口涙液で
右は、アイルランド製の抗アレルギーの点眼液)


白内障は大丈夫らしい。



海外で病院に行くのは

社会見学を兼ねて。


時間があるとき。

それに保険(海外旅行保険)があるからキャッシュレスだし。


海外に長期滞在する時は、

病院も慣れておかないとね。


International Hospitalだが、

結構ベトナムの医療水準は高いようだ。


いろんな局面からその国を知るのは重要なことだ。



「暮らすように旅をし、

旅しているように暮らす」 -Asay-



【補足】


服部匡志(ただし)氏の経歴


 1993年に京都府立大学医学部を卒業後、大阪・京都・熊本・福岡・静岡など日本各地の病院にて、その経験と眼科医としても研鑽を積み上げていき、網膜硝子体手術分野では日本のトップレベルの技術を持つと言われている。

 氏がベトナムに渡航するきっかけは、2001年10月、母校・京都府立医科大学で開催された「臨床眼科学会」でベトナム人医師と出会ったことである。そのベトナム人医師は、眼科医師として高い評価が認められる氏に対し「ベトナムでは、多くの患者が治療を受けられずに失明している。あなたのその技術でどうか救ってほしい」と懇願され、氏は「長い人生には、そんな時代があってもいいか」と気楽な気持ちで勤務していた病院を辞め、当初3ヶ月間のボランティアの予定で単身ベトナムに渡ったという。

 しかし、最初のベトナムでの経験は、けっして順調ではなかったという。現地の医療状況は想像以上にひどく、医療器材も不足、日本でなら助かるのが助けることができない。多くの患者が助けを求めているのにどうしようもできない自分の無力さを痛感したという。更に、個人的な活動として、公的支援が得られず、自らの貯金約500万円をつぎ込み眼内内視鏡やレーザーなどの最新の医療機器を日本からベトナムに持ち込み本格的な眼科治療を開始した。また、同氏の患者重視の考え方はなかなか受け入れられず、当時のベトナム国立眼科病院は、急患の有無に関わらず手術は午前中のみであった。しかし、同氏は、一台しかない手術台を午後も使えるように申請し、更に他の新しいことも教育・指導を施し、その改革に3ヶ月もの努力を要したと言われる。「患者を自分の家族と思い、患者の立場にたった医療を」という同氏の誠実な言葉は、家族を最も大切にするベトナム人の心を捕らえ、徐々に受け入れられていったという。

 爾来、ベトナムでのボランティア治療は6年近くも経過したが、この間、毎年、増殖性硝子体網膜症や白内障などの手術を1000件近く実施、これまでに失明から救われた人たちの数は6000人以上に上るという。国立眼科病院は、手術1件につき1ドルの手当を支払っていたが、氏は、患者のあまりの貧しさにこの手当を治療費が払えない人たちの治療代にあてている。それでも支払えない人たちには、出会いの運命を胸に、失明の放置はできないとして自ら治療費を肩代わりすることもしばしばあるという。
また、現地での活動を通して、貧困者は眼が悪くなっても病院に来ることさえ難しい状況にあることを知り、自ら医療機器や眼内レンズなどを持って地方を回り、無償で白内障手術を実施している。こうした巡回治療を受け救われた患者数は、2000人以上に上るといわれる。
 
 さらに一人で孤軍奮闘しても治療できる患者の数には限界があるため、自分と同じように手術が出来る医師の養成にも取り組みこれまで30人以上の医師を育てている。また、金銭を受け取らずどんな相手でも心血を注いで治療を続ける同氏の姿に、以前は時間が来ればどんなに緊急の患者がいても診療をやめてしまうのが普通だった現地スタッフの間にも何とか患者を救おうという意識が芽生えて来たという。

 しかし、同氏の活動は、JICAなどの日本政府による公的な技術援助活動ではないため公的な支援を受けるのが難しいのが実情である。
2003年8月、読売新聞アジア版が氏の活動を紹介。この記事を読んだ服部則夫・在ベトナム大使の尽力で、同国への医療器材の支援が実施され、1年に1地域ずつ、これまでに3地域で実施されている。しかし、氏自身はベトナムでは収入がなく、現在は定期的に帰国してスポット勤務医師として資金を工面、ベトナムと日本の二重生活で奮闘しているという。

 2004年5月には、町村外務大臣より、ベトナムの医療技術の向上のみならず、日本とベトナムの草の根レベルでの相互理解と、友好関係の促進とその功績が讃えられ、感謝状が贈呈されている。また、ベトナム政府・保健省・各地の省からも氏の献身的な医療技術の教育・指導と、貧困地域における無償の白内障手術の付与は高く評価・感謝され、多くの賞や感謝状が授与されている。また、関係医療機器提供会社も氏の献身的活動を評価し、氏の活動を通じて提供された医療機材・器具は非常に多く多岐にわたっているという。このように、同氏の物心ともにもたらしたベトナムへの眼科医療の貢献は、広く深くわが国とベトナムとの友好増進に寄与しているといえる。
また、同氏の活動は、貧困地域への無償白内障手術の供与や眼科医療技術の教育・指導など、その活動暦にも明らかなように周辺国であるタイ・ライス・インドネシアにまで及び、東南アジア諸国の人々への献身的な草の根医療分野の「目に見える貢献」という国際交流活動として高く評価されている。

 「いい年をして、ベトナムでボランティアなんて」と揶揄されることもあったといわれるが、氏は「眼科医として、これからもひとりでも多くの人の眼に光が差し、生きる喜びを取り戻せるように活動を続けたい」と話している。

 そして、今後、さらにこうした日本とベトナムとの関係を発展させるため、あらゆる枠を越えた眼科センターをベトナムにつくりたいと抱負を抱いていると言われる。そこには、ベトナム以外のラオス、カンボジア、ミャンマーなどからも研修医師を受け入れ、そこで学んだ医師たちが自国に帰り困っている人々のために力を尽くす。そんなシステムを作りたいとの夢を持っているという。