ジャンル 映画
観覧日 2024年8月22日
なぜこの映画をみたいと思ったか、それはこの映画の主人公である村本大輔のことが気になったからではない。名前はいろいろ見ていたが、彼らがやっているヘイトものや原発ものや沖縄を扱ったネタは一度も見たことはなかった。映画のタイトルが気になって見たのだ。このところ澤田さんの「私説コメディアン史」や小林信彦の「日本の喜劇人」などを何度も読むことになり、喜劇人という言葉にかなり敏感になっていたときに、このタイトルを見てみたいと思った。漫才からバラエティに進出してきた人たちは、自分たちのことを芸人、あるいはお笑い芸人とは言ってもコメディアンとは言わないのではないだろうか。伊東四朗のことを最後のコメディアンという書いてあったのを見たことがある。この絶滅危惧種とでも言った方がいいコメディアンと自ら名乗っている芸人がいる、それがこの映画をみるきっかけになった。
テレビから干され、相方と分かれ、ニューヨークでスタンダップコメディアンになろうとするも、コロナでその出鼻をくじかれ、今度はコロナ禍の中でどう生き延びるのかという切実な問題に向き合う村本の姿をじっくりと追っている。その意味ではしっかりとしたドキュメンタリーに仕上がっていた。彼はどんな状況のなかにあっても、辛い状況のなかでも、そこで笑わせること、笑うこと、そこに自分の生きる道を選んだと思っている。間違いなくコメディアンの道を歩いている。その意味で父が亡くなった翌日のライブでその臨終での話をネタにして笑わせようとしている場面は迫ってくるものがあった。その前に父との飲みながら、かみ合わない話を見せられているだけにこの時の村本の演技、そしてその前に舞台にあがるときの「アイアムコメディアン」というつぶやきが、自然なだけに胸に響いた。
このコメディアン、独演会で渋谷公会堂を満杯にするだけの力は確かにあるようだ。それはネタの力なのか、彼自身の銃弾のようなしゃべくりの力にあるのか、まだ判断はできない。この後どんな道を歩いていくのか、めざしたものの頓挫したアメリカでスタンダップコメディアンの道を歩くのか、見ていきたい。
吉本所属のウーマンラシュアワーという漫才のコンビはまだあるようだが、相方は、ちょっとしか見なかったが、絶妙の受けをするなあとちょっと感心した。特にラストの村本の独演会で、あと何分やと袖にいる相方に聞くと、ちょこちょこ出て言って、それをつげる相方のあの間、あれはクラウンの間であった。この映画の中で一番印象に残る場面であった。
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