『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第72回
ベンチコートに身を包んだ紫揺が暗闇の家から出て暗闇の外で数刻を過ごした。
結果、狼は来なかった。 最後の日だからと頑張ったが徒労に終わった。
もう少しすれば夜が明けるだろう。 体感で時刻を確認することが出来るようになってきた。 スゴスゴと家の中に戻る。
ドン、バン、ドテと、音を立てながら布団があるであろう場所に足を運んだ。
「狼、コナカッタ」
一人カタコトを残すと冷えた身体をそのまま布団に預けた。
「アナタ! いい加減になさい! 起きなさい!」
どこかで何かが聞こえる。 うん、この声音はアマフウ。 アマフウは何を怒っているのだろうか?
え?
『いい加減になさい! 起きなさい!』
聞いたことがある台詞。
微睡(まどろ)んでいる頭の中が台詞を追った後、過去を思い出し真っ白になり、その声音の真髄が頭に響いた。
「ワッ!」
今回は誰に邪魔されず跳び起きることが出来た。
離れた所にアマフウが鬼の面(おもて)をして座していた。 前回は頬にパンチを食らった。 過去からの学びである自己防衛だろう。
外に出ると陽が煌々と射している。
今までに見たことがない程、嫌味のように清々しく紫揺の頭上で燦燦としている。
これは昼に近いということ。
アマフウの後について外に出た紫揺の首がガクンと落ちる。
「絶対、今日中に帰れない・・・」
自分は一日くらい遅れてもいい。 でも、イコール、アマフウも帰れない。 またしてもトウオウとの時間を割いてしまう。 もしかして紫揺に付き合うかもしれないムロイと残りの4色も。
これ以上なく肩を落とす紫揺。 アマフウに続いて馬車に乗ろうとした時
「必ず着かせます」
低頭していた御者の口から聞こえた。
「え?」
「厳しいかもわかりませんが、それでもよろしいですか?」
「アナタ、何をしているの! さっさと乗りなさい!」
馬車に乗るに、二の足を踏んでいた紫揺にアマフウの声が聞こえた。
「あ、はい!」
答えながら声の主である御者を見る。
「行けますか?」
「休憩を挟まずに行きます。 厳しくなりますが宜しいですか?」
「・・・お願いします」
肝を据えた。
肝を据えたのは己自信の身体の事情もあったが、多分、御者が厳しいと言ったのはもちろん紫揺に対してだろうが、真の心の中は馬の事だろうと思った。 馬を休みなく走らせるのだろう。
それに合わせて紫揺が休みを取らなくてもいいのなら、馬車に揺られている、それだけでいいのなら。 そう考えているのだろう。
だが、馬は際限なく足を動かさなくてはいけない。 重い馬車を引いて。
御者が馬のことを意の一番に思った後に、次に紫揺のことを想うことを知っていて 『お願いします』 と言った。
ワガママこの上ない。 分かっている。 休憩に入った馬が桶から水をがぶ飲みしている姿を何度も見た。 その馬に無理を強いる。 一日くらい遅れても何も変わらないことは分かっている。 それなのにワガママを通してしまう自分が居る。
『絶対、今日中に帰れない・・・』 そう言った自分の声に応えてくれた。
誰も自分に応えてくれなかったのに応えてくれた。
甘えたい。
御者が声を掛けてくれたそれに甘えたかった。
誰かに甘えたかったのかもしれない。 ヒトリが悲しくなってきたのかもしれない。 そんな弱い自分じゃなかったのに。 ましてや誰かに迷惑をかける我儘なんて。 あれだけ喉を乾かしている馬。 疲れている馬に鞭を振るう。 イタイ。 でも、馬の全てを分かっているだろう御者の言葉に甘えたかった。
(悪い。 頑張ってくれ)
御者が到着地を目指して鞭を入れる。
馬が疲れた足を動かす。
ガタゴトと地道に馬車が揺れる。
どれだけ頑張ろうが昼休憩は入れなくてはならない。
馬車が着いた時には、既に五色達はその場を発っていた。 ただ、ムロイは別だった。
朝、発つとき
「お前たちだけで見回れるか?」
「へっ?」
トウオウが間の抜けた声を出した。
「どういう意味ですの?」
セッカが横に目を流す。
「ちょっと・・・な。 どうだ? 見回れるか?」
「造作もないでしょう」
「キノラ、トウオウ、セイハどうだ?」
「さっさと掃除をして屋敷に帰るだけよ」
「出来るだろ。 子供じゃないんだし」
「疲れるけどね」
「では、それでやっていってくれ。 私は引き返す」
「引き返す?」
セッカが訊き返した。
「ああ・・・いやな予感がする」
「だからと言って、ムロイが引き返したところで何の力もないでしょうに」
「そういう問題じゃない。 ・・・とにかく、後は頼んだ」
セッカに合鍵を渡した。
大急ぎで昼飯を食べた紫揺。 だが、アマフウはゆっくりと食している。
「は!? どういうことだ?」
茶の狼から黄金の狼であるシグロが報告を受けた。
「・・・ですからして・・・」
睨みをきかされて次の言葉が出ない。
「ハッキリと言え!」
茶の狼が言いたいことは分かっている、今聞いたのだから。 でも、信じるに程遠い。 訊き返さずにいられない。
「あ、あの・・・あの、その、リツソ様が気にかけておられた・・・」
「シユラだろう! シユラがどうしたのだと訊いているんだ!」
リツソがシユラと言っていた。
「あ、の。 ヒ・・・ヒトウカが言うに・・・」
最初の報告はこうであった。
『ヒトウカが言うに、娘が領主の家から出たらしいです。 ですが、歳浅い仔ヒトウカが言ったそうなので―――』
と、ここでシグロに声を被せられたのだった。
「なんだって!?」
「その、仔ヒトウカが見たそうです」
「何をだ!」
「娘が領主の家をでて、南に向かって行ったと」
「どうしてだ!?」
「仔ヒトウカが会いに行こうとして、母ヒトウカに止められたそうです」
「馬鹿か! そんなことは訊いていない! どうしてあの娘が南へ向かったのかを訊いているんだ!」
「そ、それは・・・」
「それは?!」
「・・・分かりません」
「分からない・・・?」
シグロが怒りにも似た息を鼻から吐いた。
「お前たち、そんなことでこの領土を守っているつもりか。 ヒトウカからの情報頼りばかりで、お前たち自身が足を使っておらん証拠じゃないのか!?」
シグロの目の前にいる茶の狼が足の間に尻尾をまき、遠目に見ていた他の茶の狼が数歩後ろに下がった。
「お前たちに探すことが出来なければ、仔に頼れ」
これ以上なく皮肉を籠めて言う。
「ヒトウカの移動を留めよ・・・そしてその仔ヒトウカを走らせその後に続け。 あの娘がどこに行くか報告せよ」
「ですが、ヒトウカの群れを留めるには・・・」
群れを留めておくには至難の業がいる。
チッと牙の隙間から音の出る空気を出した。
「親ヒトウカを留め、仔ヒトウカを自由にさせよ」
ヒトウカの群れは一匹でも足並みが揃わなくては移動はしない。
「仔ヒトウカを信じるという事ですか?」
「お前がそう報告したのではないのか?」
「微塵の報告です」
聞いて、見て、それを報告するのが役目。
「お前の報告に誰が微塵と唱えた?」
「そ、それは」
「お前の報告は嘘か?」
「み、微塵ではありますが、嘘ではありません!」
「では、アタシの言ったように動け。 分かったな!」
茶の狼が顎を引くと踵を返した。 その後を三頭の茶の狼が追った。
茶の狼が走り去るのを見てシグロが残っていた茶の狼たちに、お前たちも己の動きを考えろ、 と言葉を残した。
リツソのお気に入りの娘が領主の家から居なくなったという事を告げねばならない。 それはあくまで短期間かもしれないが、最近のリツソと紫揺の在り方を知らないシグロは、現状をハクロと共にリツソにではなく、マツリに知らせねばならない。
「何を考えているだか・・・」
紫揺のことである。
取り敢えずは次の報告を待ってから動こうと、残っていた狼たちに睨みを利かせた。
茶の狼たちが互いに目を合わせる。 どうしたものか、と。
茶の狼がヒトウカの群れに入った。 ヒトウカの群れている所は足元に氷が張っている。 それに呼応するように、下葉や木々にも氷が張り巡り、とてもじゃないが人が気軽に入ることのできる様相では無い。
「娘のことを言ったヒトウカ、どこに居る?」
母ヒトウカが長い首を捻じり振り返った。 他の母ヒトウカは狼が来たというのに、警戒する気配さえ見せない。
この群れには雄はいない。 雄と雌は分かれて過ごしている。 ここに居るのは雌ヒトウカと、二年までの雄の仔ヒトウカだけだ。 二年を過ぎた雄の仔であったヒトウカは此処を出て雄の群れに入る。
「お前か」
後を追ってきた三頭の狼がその場に止まる。
茶の狼がノソリとそちらに向かう。 振り返った親ヒトウカの足元に仔ヒトウカが居る。 親ヒトウカが仔ヒトウカを守る様に身体の下に入れた。
ゆっくりと群れの中を歩いてきた茶の狼が、親ヒトウカの身体の下に居る仔ヒトウカを見て言う。
「娘の後を追えるか?」
それを聞いた途端、抱きしめてもらった人間に会いに行ける。 仔ヒトウカの目が輝いた。 親ヒトウカの下から足を一歩出すと、親ヒトウカがそれを遮るように足を動かした。
「邪魔をするな」
茶の狼が親ヒトウカを睨み据えるが、そんなことに怯む母ではない。 狼に噛み千切られようと、我が身から仔を離したくない。
この数日、元気なこの仔は群れから離れて遊びに出ていた。 そしてとうとう、一昨日は帰って来なかった。 母ヒトウカは半狂乱になり、仔ヒトウカの名を呼び山の中を駆け巡った。 仔のない雌も一緒に探し回った。 心が千切れるほど狂いそうになるほど仔ヒトウカを探し回った。 そして夕べ見つけた。 あんなことは二度としたくない。 仔どもを我が身から離すことなど絶対にしたくない。
見つけられた時に詳細を訊かれた。 また人間の所に行ったのかと厳しく母に怒られ、今度は首長にまで怒られた。 そしてその話が狼に伝わったという事だった。
茶の狼がヒトウカの凍らした氷の上に立ち続ける。 力が充満する。 北の領土ではこの氷が身を震わすほどに身体に力をみなぎらせる。
『ヒオオカミの好物がヒトウカ』 などとは人間の勘違いも甚だしい。
ヒトウカが居なくてはヒオオカミはまともに生きていけない。 だが力を失ったヒトウカには確かに牙を立てる。
氷を作れない、狼たちのエネルギー源を作れないヒトウカは狼たちの牙に落ちる。 それはヒトウカが年老いたからではない。 邪心を持ったヒトウカにはヒオオカミのエネルギー元となる氷は作れないからだ。 この地に災いを持たす者を生かすことは出来ない。 それはヒオオカミたちから排除の選別を受ける。
『ヒオオカミがヒトウカに牙を立てる』 それはヒオオカミに排除の選別を受けたヒトウカだけだ。
だが人間はそのことを知らない。 ヒオオカミがヒトウカに牙を立てたところを見て、ヒオオカミはヒトウカに牙を立てると考えた。 その昔、邪心を持った人の影響をヒトウカが受け、その邪心がヒトウカの間に幾重にも広がり、ヒオオカミが何頭ものヒトウカの喉元に牙を立てた。 それを見た人間が勝手にヒオオカミの好物はヒトウカだと思い込んだ、玩具にしているとも。 何も知らない人間が勝手に決めただけだった。
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ベンチコートに身を包んだ紫揺が暗闇の家から出て暗闇の外で数刻を過ごした。
結果、狼は来なかった。 最後の日だからと頑張ったが徒労に終わった。
もう少しすれば夜が明けるだろう。 体感で時刻を確認することが出来るようになってきた。 スゴスゴと家の中に戻る。
ドン、バン、ドテと、音を立てながら布団があるであろう場所に足を運んだ。
「狼、コナカッタ」
一人カタコトを残すと冷えた身体をそのまま布団に預けた。
「アナタ! いい加減になさい! 起きなさい!」
どこかで何かが聞こえる。 うん、この声音はアマフウ。 アマフウは何を怒っているのだろうか?
え?
『いい加減になさい! 起きなさい!』
聞いたことがある台詞。
微睡(まどろ)んでいる頭の中が台詞を追った後、過去を思い出し真っ白になり、その声音の真髄が頭に響いた。
「ワッ!」
今回は誰に邪魔されず跳び起きることが出来た。
離れた所にアマフウが鬼の面(おもて)をして座していた。 前回は頬にパンチを食らった。 過去からの学びである自己防衛だろう。
外に出ると陽が煌々と射している。
今までに見たことがない程、嫌味のように清々しく紫揺の頭上で燦燦としている。
これは昼に近いということ。
アマフウの後について外に出た紫揺の首がガクンと落ちる。
「絶対、今日中に帰れない・・・」
自分は一日くらい遅れてもいい。 でも、イコール、アマフウも帰れない。 またしてもトウオウとの時間を割いてしまう。 もしかして紫揺に付き合うかもしれないムロイと残りの4色も。
これ以上なく肩を落とす紫揺。 アマフウに続いて馬車に乗ろうとした時
「必ず着かせます」
低頭していた御者の口から聞こえた。
「え?」
「厳しいかもわかりませんが、それでもよろしいですか?」
「アナタ、何をしているの! さっさと乗りなさい!」
馬車に乗るに、二の足を踏んでいた紫揺にアマフウの声が聞こえた。
「あ、はい!」
答えながら声の主である御者を見る。
「行けますか?」
「休憩を挟まずに行きます。 厳しくなりますが宜しいですか?」
「・・・お願いします」
肝を据えた。
肝を据えたのは己自信の身体の事情もあったが、多分、御者が厳しいと言ったのはもちろん紫揺に対してだろうが、真の心の中は馬の事だろうと思った。 馬を休みなく走らせるのだろう。
それに合わせて紫揺が休みを取らなくてもいいのなら、馬車に揺られている、それだけでいいのなら。 そう考えているのだろう。
だが、馬は際限なく足を動かさなくてはいけない。 重い馬車を引いて。
御者が馬のことを意の一番に思った後に、次に紫揺のことを想うことを知っていて 『お願いします』 と言った。
ワガママこの上ない。 分かっている。 休憩に入った馬が桶から水をがぶ飲みしている姿を何度も見た。 その馬に無理を強いる。 一日くらい遅れても何も変わらないことは分かっている。 それなのにワガママを通してしまう自分が居る。
『絶対、今日中に帰れない・・・』 そう言った自分の声に応えてくれた。
誰も自分に応えてくれなかったのに応えてくれた。
甘えたい。
御者が声を掛けてくれたそれに甘えたかった。
誰かに甘えたかったのかもしれない。 ヒトリが悲しくなってきたのかもしれない。 そんな弱い自分じゃなかったのに。 ましてや誰かに迷惑をかける我儘なんて。 あれだけ喉を乾かしている馬。 疲れている馬に鞭を振るう。 イタイ。 でも、馬の全てを分かっているだろう御者の言葉に甘えたかった。
(悪い。 頑張ってくれ)
御者が到着地を目指して鞭を入れる。
馬が疲れた足を動かす。
ガタゴトと地道に馬車が揺れる。
どれだけ頑張ろうが昼休憩は入れなくてはならない。
馬車が着いた時には、既に五色達はその場を発っていた。 ただ、ムロイは別だった。
朝、発つとき
「お前たちだけで見回れるか?」
「へっ?」
トウオウが間の抜けた声を出した。
「どういう意味ですの?」
セッカが横に目を流す。
「ちょっと・・・な。 どうだ? 見回れるか?」
「造作もないでしょう」
「キノラ、トウオウ、セイハどうだ?」
「さっさと掃除をして屋敷に帰るだけよ」
「出来るだろ。 子供じゃないんだし」
「疲れるけどね」
「では、それでやっていってくれ。 私は引き返す」
「引き返す?」
セッカが訊き返した。
「ああ・・・いやな予感がする」
「だからと言って、ムロイが引き返したところで何の力もないでしょうに」
「そういう問題じゃない。 ・・・とにかく、後は頼んだ」
セッカに合鍵を渡した。
大急ぎで昼飯を食べた紫揺。 だが、アマフウはゆっくりと食している。
「は!? どういうことだ?」
茶の狼から黄金の狼であるシグロが報告を受けた。
「・・・ですからして・・・」
睨みをきかされて次の言葉が出ない。
「ハッキリと言え!」
茶の狼が言いたいことは分かっている、今聞いたのだから。 でも、信じるに程遠い。 訊き返さずにいられない。
「あ、あの・・・あの、その、リツソ様が気にかけておられた・・・」
「シユラだろう! シユラがどうしたのだと訊いているんだ!」
リツソがシユラと言っていた。
「あ、の。 ヒ・・・ヒトウカが言うに・・・」
最初の報告はこうであった。
『ヒトウカが言うに、娘が領主の家から出たらしいです。 ですが、歳浅い仔ヒトウカが言ったそうなので―――』
と、ここでシグロに声を被せられたのだった。
「なんだって!?」
「その、仔ヒトウカが見たそうです」
「何をだ!」
「娘が領主の家をでて、南に向かって行ったと」
「どうしてだ!?」
「仔ヒトウカが会いに行こうとして、母ヒトウカに止められたそうです」
「馬鹿か! そんなことは訊いていない! どうしてあの娘が南へ向かったのかを訊いているんだ!」
「そ、それは・・・」
「それは?!」
「・・・分かりません」
「分からない・・・?」
シグロが怒りにも似た息を鼻から吐いた。
「お前たち、そんなことでこの領土を守っているつもりか。 ヒトウカからの情報頼りばかりで、お前たち自身が足を使っておらん証拠じゃないのか!?」
シグロの目の前にいる茶の狼が足の間に尻尾をまき、遠目に見ていた他の茶の狼が数歩後ろに下がった。
「お前たちに探すことが出来なければ、仔に頼れ」
これ以上なく皮肉を籠めて言う。
「ヒトウカの移動を留めよ・・・そしてその仔ヒトウカを走らせその後に続け。 あの娘がどこに行くか報告せよ」
「ですが、ヒトウカの群れを留めるには・・・」
群れを留めておくには至難の業がいる。
チッと牙の隙間から音の出る空気を出した。
「親ヒトウカを留め、仔ヒトウカを自由にさせよ」
ヒトウカの群れは一匹でも足並みが揃わなくては移動はしない。
「仔ヒトウカを信じるという事ですか?」
「お前がそう報告したのではないのか?」
「微塵の報告です」
聞いて、見て、それを報告するのが役目。
「お前の報告に誰が微塵と唱えた?」
「そ、それは」
「お前の報告は嘘か?」
「み、微塵ではありますが、嘘ではありません!」
「では、アタシの言ったように動け。 分かったな!」
茶の狼が顎を引くと踵を返した。 その後を三頭の茶の狼が追った。
茶の狼が走り去るのを見てシグロが残っていた茶の狼たちに、お前たちも己の動きを考えろ、 と言葉を残した。
リツソのお気に入りの娘が領主の家から居なくなったという事を告げねばならない。 それはあくまで短期間かもしれないが、最近のリツソと紫揺の在り方を知らないシグロは、現状をハクロと共にリツソにではなく、マツリに知らせねばならない。
「何を考えているだか・・・」
紫揺のことである。
取り敢えずは次の報告を待ってから動こうと、残っていた狼たちに睨みを利かせた。
茶の狼たちが互いに目を合わせる。 どうしたものか、と。
茶の狼がヒトウカの群れに入った。 ヒトウカの群れている所は足元に氷が張っている。 それに呼応するように、下葉や木々にも氷が張り巡り、とてもじゃないが人が気軽に入ることのできる様相では無い。
「娘のことを言ったヒトウカ、どこに居る?」
母ヒトウカが長い首を捻じり振り返った。 他の母ヒトウカは狼が来たというのに、警戒する気配さえ見せない。
この群れには雄はいない。 雄と雌は分かれて過ごしている。 ここに居るのは雌ヒトウカと、二年までの雄の仔ヒトウカだけだ。 二年を過ぎた雄の仔であったヒトウカは此処を出て雄の群れに入る。
「お前か」
後を追ってきた三頭の狼がその場に止まる。
茶の狼がノソリとそちらに向かう。 振り返った親ヒトウカの足元に仔ヒトウカが居る。 親ヒトウカが仔ヒトウカを守る様に身体の下に入れた。
ゆっくりと群れの中を歩いてきた茶の狼が、親ヒトウカの身体の下に居る仔ヒトウカを見て言う。
「娘の後を追えるか?」
それを聞いた途端、抱きしめてもらった人間に会いに行ける。 仔ヒトウカの目が輝いた。 親ヒトウカの下から足を一歩出すと、親ヒトウカがそれを遮るように足を動かした。
「邪魔をするな」
茶の狼が親ヒトウカを睨み据えるが、そんなことに怯む母ではない。 狼に噛み千切られようと、我が身から仔を離したくない。
この数日、元気なこの仔は群れから離れて遊びに出ていた。 そしてとうとう、一昨日は帰って来なかった。 母ヒトウカは半狂乱になり、仔ヒトウカの名を呼び山の中を駆け巡った。 仔のない雌も一緒に探し回った。 心が千切れるほど狂いそうになるほど仔ヒトウカを探し回った。 そして夕べ見つけた。 あんなことは二度としたくない。 仔どもを我が身から離すことなど絶対にしたくない。
見つけられた時に詳細を訊かれた。 また人間の所に行ったのかと厳しく母に怒られ、今度は首長にまで怒られた。 そしてその話が狼に伝わったという事だった。
茶の狼がヒトウカの凍らした氷の上に立ち続ける。 力が充満する。 北の領土ではこの氷が身を震わすほどに身体に力をみなぎらせる。
『ヒオオカミの好物がヒトウカ』 などとは人間の勘違いも甚だしい。
ヒトウカが居なくてはヒオオカミはまともに生きていけない。 だが力を失ったヒトウカには確かに牙を立てる。
氷を作れない、狼たちのエネルギー源を作れないヒトウカは狼たちの牙に落ちる。 それはヒトウカが年老いたからではない。 邪心を持ったヒトウカにはヒオオカミのエネルギー元となる氷は作れないからだ。 この地に災いを持たす者を生かすことは出来ない。 それはヒオオカミたちから排除の選別を受ける。
『ヒオオカミがヒトウカに牙を立てる』 それはヒオオカミに排除の選別を受けたヒトウカだけだ。
だが人間はそのことを知らない。 ヒオオカミがヒトウカに牙を立てたところを見て、ヒオオカミはヒトウカに牙を立てると考えた。 その昔、邪心を持った人の影響をヒトウカが受け、その邪心がヒトウカの間に幾重にも広がり、ヒオオカミが何頭ものヒトウカの喉元に牙を立てた。 それを見た人間が勝手にヒオオカミの好物はヒトウカだと思い込んだ、玩具にしているとも。 何も知らない人間が勝手に決めただけだった。