辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第9回
歩いている先から大きな鳥の姿の影が飛んでいるのが見えた。
「おや?」
領主が見上げる。
その大きな鳥はフクロウ。
「こんな朝早くに・・・」
シキはサギが供であるが故、朝から飛んで来てはいたが、マツリはフクロウが供であるから、特別なことがない限り早くても夕刻の前のはずだ。 それに一昨日の祭に来たばかり。
「何かあったのか?」
マツリが家並みの奥にあたる領主の家の奥の緑が生えている所に降り立った。
領主だけではなく紫揺のお付きたちも見ていたようで、すぐに一人が領主の家に呼びに走った。 呼ばれて領主の家から走り出てきたのは秋我であった。
領主自身は家から離れた所に居る。 もう七十手前の歳、年齢的に全速力で走るなどということは困難だ。
「マツリ様」
走り寄った秋我が頭を下げる。
「ああ、気にせずともよい。 ・・・紫は」
「紫さまで御座いますか?」
秋我が驚いて目を開ける。
祭の時には互いに堪えていたようだが、また言い合いが始まっては自分の力ではどうにもならない。
「もうどこかに出かけたか」
「あ、そのようなことは・・・。 あの、お呼びしてきますので、どうぞ我が家でお待ちください」
「大した用ではない、ここで済ます。 悪いが呼んできてもらえるか」
「はい。 ではしばらくお待ちください」
どういうことだろうと思いながらも、踵を返すと前から小走りに走ってきた領主が目に入った。 すれ違いざま「紫さまに御用と」 と言うと、もれなく領主も目を見開くが、秋我にしてみれば自分一人で背負うことがなくなったとホッとしている。
紫揺のお付きたちが秋我に寄ってきた。
「マツリ様が紫さまに御用ということだ。 紫さまはもう朝餉はおすみか?」
「はい。 先程此之葉が膳を下げておりました」
「ではお呼びしてきてくれ」
頷いたお付きがすぐに紫揺を呼びに走った。
「は? マツリが?」
「紫さま、なにとぞマツリ様と」
此之葉が崩れるように低頭する。
「・・・だって、向こうが俺はマツリだって言ったんですよ、だったらマツリでいいじゃないですか」
「それは・・・」
低頭している此之葉が溶けていきそうになる。
「此之葉、あまりお待たせしてはならん」
「そうですよね。 気分の悪いことはさっさと終わらせてきます。 此之葉さんは来ないでくださいね、気絶するかもしれませんから。 湖彩(こさい)さん、此之葉さんを押さえておいてください」
全く意味の分からない湖彩。 お付きたちは紫揺のサル技なら知っているが、マツリとのバトルは知らない。 反対にマツリは紫揺と口で言い合ったことはあるが、紫揺のサル技を知らない。
脹脛まである若葉色の合わせの一枚物、衿のところには三色の色に染められ、そのまま帯に隠れるまで続いている。 その帯は紫色の半巾帯の半分ほどの幅の帯である。 足元は踵を覆うサンダルのような履き物。 紫揺用に新調されたものである。
走って領主の家に向かうとそこに悠蓮(ゆうれん)が居た。 秋我を呼びに行ったのは悠蓮だったようだ。
「奥で御座います」
芝生のような緑が豊富な方を指し示す。 てっきり領主の家にいるのだと思っていたがそうではなかったようだ。
歩を進め目先を変えるとしっかりとマツリが居た。 領主と何やら話しているようで秋我も一緒に立っている。
領主の家にも入らずマツリと立ち話などと、紫揺が首を傾げるが首を傾げていても何にもならない。 すぐに走り出すとマツリが紫揺の姿を捕らえた。 その様子に気付いた領主と秋我が振り返る。
「紫はいくつになったのだったか」
「この月で23の歳におなりになります」
「23の歳というと・・・。 走るか?」
軽い小走りではない。 腕を振っての全力疾走。
ああ、またこんなことが切っ掛けで言い合いになってしまうのではないかと、領主が言い訳じみたことを言う。
「マツリ様をお待たせするようなことにならないためかと・・・」
言いながらも苦い顔をしているのが自分でも分かる。
息を上げることも無く走って来た紫揺が領主を見る。 あくまでもマツリではない。
「お呼びですか?」
呼んでいるのはマツリと知っていて領主に訊くという一手。
領主と秋我が紫揺の隠れたケンカ腰の雰囲気を感じとる。 秋我が下を向き、領主が “お頼みします、どうぞ穏やかに” と言った目を紫揺に向けてくる。
「用があるのは我だ」
「俺じゃないんだ」
即答の紫揺が眉を上げて怪訝そうにマツリを見上げる。
北の領土に居る時には俺と言っていたのを憶えている。
マツリがそれをかわし、領主に向いて一言いう。 「悪いが外してもらえるか」 と。
驚いた領主が「ですが」 と言うが「悪いが」 と繰り返された。 二度も言われてしまった、これ以上何も言うことは出来ない。
「紫さま、くれぐれも」 と言い残してそこから離れ、秋我と共に家の方に向かった。
紫揺がなお一層怪訝な顔をする。
その紫揺の顔など意ともしないように、懐の中からリツソの部屋から取ってきた紫色の石を取り出した。
「これを」
上部を指でつまみ紫揺の目の前に出してきた石に近付きよく見る。
「え? ん? これってリツソ君の宝物の石?」
リツソの部屋で見たきれいな透き通った紫色の石。 リツソが気に入った物をくれると言った時にこれが気にはなっていたが、あまりにも綺麗すぎるので別のものを手に取ったのだ、よく覚えている。
「そうだ」
知っていたようだ。 手間が省けた。
「これが?」
紫揺が顔を上げマツリに目を合わせた。 そのマツリが紫揺を見ていた。
(こいつ、いつから見てたんだ・・・)
だがそんな表情は見せない。 今は石のことだ。 どうしてリツソの宝物の石をマツリが持っているのか。 そしてどうして今こうして差し出しているのか。
「貰ってやってくれんか」
「は?」
「我の勝手で決めたことではあるが、リツソも望んでいよう」
「意味がよく分かりませんが?」
「リツソはお前・・・紫のことを想っておる。 その紫に自分の大切な物を渡したいだろうと、そう思うだろうと思ってのことだ。 これを選んだのはおま・・・紫の名にちなんで我が選んだ」
「全くもって分かりませんが?」
(その人を馬鹿にした言い方はなんだっ)
心の中で思うがそんな顔など出せない。
「・・・リツソに万が一があってからでは気付かぬ間に時が過ぎてしま―――」
「はっ!?」
「いや・・・思わぬ時が過ぎてしまってはリツソの想いどころでは無くな―――」
「違う! そこじゃない。 万が一ってなんのこと!」
簡単に食い付いてきた。
「ああ、気にせずともよい。 とにかくこれを受け取っ――――」
「リツソ君からなら受け取るわよ」
(こいつは人の話を最後まで聞くということが出来んのか)
「それが叶わぬか―――」
「叶わないって何? リツソ君に何かあったの?!」
まるでマツリがリツソをブッ叩いたかのように睨んでくる。
(腹の立つ・・・)
ここまで睨まれるとは思ってもいなかった。 だがあくまでも涼しげな顔を作っている。
「受け取ってはもらえんのか」
「リツソ君に何があったのかって訊いてるの!」
紫揺の声にお付きたちや領主と秋我が身体を隠して覗いている。 だが声を荒げていることは分かるが言葉は聞き取れない。
「無理に受け取ってもらおうとは思っておらん。 リツソの想いを叶えてやろうと思っただけのこと」
「返事になってない!」
「時をとらせた」
「待ちなさいよ!」
「紫も民が待っておろう。 戻るが良い」
あまりにも簡単にいきすぎて自分が騙されているような気にさえなる。
「何一人で話を終わらせるのよ! 話は終わってないからね! 待ってなさいよ!」
言い置くとすぐに領主の家に走りかけた紫揺の背中にマツリの声が投げかけられた。
「リツソのことは他言無用。 分かっておろうな」
一瞬足を止めた紫揺が走り出した。
(他言無用って・・・)
それ程にリツソに何があったのか・・・。
「よく走るものだ・・・」
呆れて紫揺の後姿から目を外し身体の向きを変えた。
だがこんなに簡単に乗ってくるとは思ってもいなかった。
(さて、ここで帰ろうか、それともアイツを待つか・・・)
もう少し揉めるつもりだった。 それを領主なりが止めに来る予定であった。 そこで紫揺本人から本領に行くと言わせるつもりであったが。
待っていろと言われて待つというのも間が抜けた話だが、領主に釘を刺しておきたい。
(どうしたものか・・・)
考えていると肩からキョウゲンの声が聞こえてきた。
「かなり慌てておりますが、もう宜しいのではないですか?」
首をクルリと元に戻したキョウゲンが言う。
「・・・そうだな」
キョウゲンがマツリの肩から飛び立ち、縦に大きく円を描く途中でその身体を大きくした。 そしてマツリが地を蹴ろうとした時、
「帰るんじゃないわよー!!」
紫揺の大声が聞こえた。 振り返ると紫揺の後ろを追って秋我が走って来る。
背に乗ってもらえなかった身体を大きくしたままのキョウゲンが上空に上がる。
「マ、マツリ様、いったい何が?」
走りながら秋我が問う。
何がということは、リツソのことを言っていないのだなと分かる。
遥か後ろには領主がこちらに向かって小走りに走ってきている。
「キョウゲン」
呼ばれたキョウゲンがもう一度縦に円を描いて身体を小さくし、マツリの肩に乗った。
マツリの元に走り寄ってきた紫揺と秋我。
「ああ、走りにくいったらない!」
こんな時はジャージが恋しくなる。 自分の着ている衣に文句をつけたくもなる。
「マツリ様、紫さまが急に本領に行くと仰られて、いったい何があったのでしょうか」
「いや? 特に何も。 紫、本領に来てどうする」
「ど、どうするって・・・行くのよ」
「来る必要などない」
「なに? 五色は本領に行っちゃあいけないってわけ!?」
「そんなことを言っておるのではない。 だが各領土は本領に何某か用のある時にだけ来るもの」
「用があるから行くんじゃない!」
「では何用か」
「だから! だから、その・・・」
―――他言無用。
(ほほぅ、意外と言われたことを守るのか)
守ってもらわなくては困るが。
ようやくやって来た領主。
「マツリ様、本領に何かあったので御座いましょうか?」
「いや、なにも」
「ですがマツリ様とお話の後に紫さまが本領に行くと仰って」
「秋我から聞いた。 宮としては紫が来ることを拒む理由は無いが、それは何用かある時に限る。 いま紫から聞くと用があると言っておるのだが。 紫、何用か? それとも領主が何用かあるのか? 祭の後にでも何かあったか?」
「いいえ、その様なことは」
マツリに向かって言うと次は紫揺を見て言う。
「紫さま何がありました?」
「え・・・と。 その。 シキ様・・・シキ様の―――」
「姉上はお幸せに暮らしておられる。 案ずることは無い」
「そうなんだ。 それはなによりで。 じゃ、えっと」
(じゃ、などと言うな、馬鹿者が)
「紫、先ほども言った。 民が待っておろう、行くがよい」
「・・・」
「領主、時をとらせた」
領主に聞かせるにはこれくらいで十分に釘が打てただろう。 それに領主の居ない間のことを秋我から聞くだろうし、こちらが拒んでいるのは明らかだろう。
「ちょっと待ちなさいってば!」
「紫さま・・・! お言葉をお選びください」
領主が腰を曲げて低頭する。
「ああ、そうだ。 うん。 領主さん、マツリと話をつけてきます」
「は?」
腰を曲げたまま領主が顔だけを上げる。
そしてマツリと呼ばれマツリが眉をしかめる。
「ほら、ここだったらみんなが困るでしょ? 私とマツリのバトルを見たら」
「ばとる?」
「あ、言い合いです、言い合い。 だから本領でしてきます」
「とんでも御座いません!」
曲げていた腰を一気に伸ばす。
(コイツは! もっとマシなことを考えられんのか!)
「本領でマツリ様を愚弄するなどと! 絶対に本領に行っていただいては困ります!」
「ちぇっ・・・。 あー! そうだ! この手がある!」
「この手?」
領主がキョトンとした顔をする。 そして覚った。
(この大馬鹿者がっ!)
マツリが皆から顔を背け大きく歪める。
「紫の力で分からないところがあるんです。 “紫さまの書” を読んでもどこにも書かれていなくて。 それで、シキ様に教えて頂きたくて」
そう言うと今度はマツリを見る。
「ちょっとお話を伺うだけならシキ様のお幸せの時間・・・時を割かないでしょ? だからいいでしょ? いいはずよね!? いいわよね! 絶対にっ!!」
クレッシェンドに感情がこもっている。
紫揺の全開馬鹿さ加減にマツリが口を曲げる。 肩の上からキョウゲンが「マツリ様」 と囁き注意を促す。
「領主さん、だから今から本領に行きます」
領主と秋我にしてみれば、何か理由があって紫揺は本領に行きたがっているのだろう、ということは分かっている。 その理由付けとして紫の力のことを言っているのだろうと。 それは明らかに分かってはいるが、紫の力と言われれば言い返しようがない。
「えっと、分からないっていうのは、此之葉さんに訊いてもらえれば何のことか分かります。 あ、阿秀さんでも。 私が悪くなった時ずっと抱っこしててくれましたから」
マツリの方片眉が無意識に動いた。
領主にしてみれば阿秀からその報告は聞いている。 あながち嘘ではないことは分かるが、あくまでも理由付けだろうことは明白。
「ですが今すぐなどと。 シキ様のご都合もありましょうし」
領主が何と言おうともせっかく考えた理由、それを水に流す気もなければ本領行きを無いものにする気もない。 領主に合わせていた目をマツリに転じる。
「いいわよね、マツリ! 今すぐ行っていいわよね! マツリから領主さんに私が本領に行くって言ってよ!」
何度も何度も気軽にマツリ呼ばわりする。
「・・・お前」
マツリの眉間にくっきりとしわが寄っている。
「あ? なに? まさかお前って言わなかったでしょうね。 今度お前って言ったら、こっちもアンタって言うからねって言ったわよね。 その足りない頭でよく覚えておきなさいって言ったわよね!」
「領主・・・」
更にマツリの眉間が寄り、その刻まれた縦皺が更に更に深くなっていく。
「も、申し訳ございません。 ・・・紫さま・・・!」
下げた頭のまま小声で叱責するように紫揺の名を呼ぶ。
「領主さん謝らなくていいですよ。 これは約束事なんですから」
「約束をした覚えなどない」
紫揺が一方的に言っただけだ。
「ああ、今はそんなことどうでもいい。 領主さん行っていいでしょ?」
言い返したことに対しての返事がそれか。 マツリの口がもう一度曲がる。
いつまで持つか分からないマツリの忍耐。 領主もそれは分かっている。 これ以上紫揺に何も言わせたくない。
「マツリ様、ご迷惑では? それにシキ様のご都合が」
先ほどは馬鹿なことを言う紫揺のお蔭で反対方向に話がいきかけた。 今を逃してはまた話がどうなるか分からない。
「東の領土には紫に伝えられなかったものがあろう。 五色として分からないところがあるのならば、本領を預かる宮として手を貸さぬことは無い。 それに姉上に限らずとも父上にも教えて頂ける」
怒りをドンと腹に置いて言う。 そしてこんな紫揺に自分は教える気などない。
「ゲッ、四方様?」
あのいけ好かない本領領主とは話したくもない。
「紫さま・・・そのような仰りようは」
紫揺の言いように、顔を下げ領主が言う。
「だって・・・あ、じゃないか。 と言うことで、領主さん今から行ってきます」
「宜しいのでしょうか?」
マツリを見て問う。
「五色としての向上の心が見えるならば、それを折るのは愚昧な者であろう」
領主が深く頭を下げ秋我を呼ぶ。
「あ、大丈夫です」
「は?」
領主が間の抜けた顔を紫揺に向けた。
「一人で行ってきます」
「とんでも御座いません!」
「だって、ほら、一緒に行っても退屈ですよ? 本領の領主さんやシキ様の時が取れなかったらいつ帰ってくるか分からないんですから」
「そんな! 何日も本領に居られるなどと!」
「お忙しくされてる本領の領主さんに無理矢理に訊くとでも? シキ様にしても?」
「いいえ、決してそのようなことを言っているのではなく・・・」
「それにマツリがずっと上を飛んでついて来てくれるって」
「はぁー?」
いつそんなことを言った! と言いたいが、紫揺一人の方が都合がいいことには違いない。
「ほら、ついて来てくれるって」
「マツリ様はその様なことを一言も言っておられな―――」
「秋我さん、馬の用意をお願いします。 すぐに着替えてきます」
そう言うと走り去って行った。
「・・・領主、苦労するな」
マツリ自身今頭痛がしてきそうだが、毎日一緒にいる領主はそれ以上であろう。 その領主は頭を垂れている。
「取り敢えず今回は紫が言うように我が上からついて行こう」
「マツリ様にそのようなことはお願いできません」
「気にすることは無い。 それに秋我も知っていようが、紫は姉上や母上に気に入られておる。 姉上付きの者で姉上と共に宮を出た者もおるが残った者もおる。 その者たちとも紫は顔見知りだ。 待つ時が必要ならばその間、その者たちと過ごすであろう」
言ってしまえばマツリの作った筋書きだ。 その筋書きに馬鹿ほど簡単に乗ってきた紫揺。 これ以上、領主に心労を負わせるのは気が引ける。
「秋我、紫に馬の用意をしてやってくれ」
秋我が領主を見るが、マツリからの命令に逆らえるはずなどない。 領主が渋々と頷く。
「ではせめて山までは阿秀達につかせますか?」
「ああ、そうしよう」
了解したと、すぐに秋我が走った。
歩いている先から大きな鳥の姿の影が飛んでいるのが見えた。
「おや?」
領主が見上げる。
その大きな鳥はフクロウ。
「こんな朝早くに・・・」
シキはサギが供であるが故、朝から飛んで来てはいたが、マツリはフクロウが供であるから、特別なことがない限り早くても夕刻の前のはずだ。 それに一昨日の祭に来たばかり。
「何かあったのか?」
マツリが家並みの奥にあたる領主の家の奥の緑が生えている所に降り立った。
領主だけではなく紫揺のお付きたちも見ていたようで、すぐに一人が領主の家に呼びに走った。 呼ばれて領主の家から走り出てきたのは秋我であった。
領主自身は家から離れた所に居る。 もう七十手前の歳、年齢的に全速力で走るなどということは困難だ。
「マツリ様」
走り寄った秋我が頭を下げる。
「ああ、気にせずともよい。 ・・・紫は」
「紫さまで御座いますか?」
秋我が驚いて目を開ける。
祭の時には互いに堪えていたようだが、また言い合いが始まっては自分の力ではどうにもならない。
「もうどこかに出かけたか」
「あ、そのようなことは・・・。 あの、お呼びしてきますので、どうぞ我が家でお待ちください」
「大した用ではない、ここで済ます。 悪いが呼んできてもらえるか」
「はい。 ではしばらくお待ちください」
どういうことだろうと思いながらも、踵を返すと前から小走りに走ってきた領主が目に入った。 すれ違いざま「紫さまに御用と」 と言うと、もれなく領主も目を見開くが、秋我にしてみれば自分一人で背負うことがなくなったとホッとしている。
紫揺のお付きたちが秋我に寄ってきた。
「マツリ様が紫さまに御用ということだ。 紫さまはもう朝餉はおすみか?」
「はい。 先程此之葉が膳を下げておりました」
「ではお呼びしてきてくれ」
頷いたお付きがすぐに紫揺を呼びに走った。
「は? マツリが?」
「紫さま、なにとぞマツリ様と」
此之葉が崩れるように低頭する。
「・・・だって、向こうが俺はマツリだって言ったんですよ、だったらマツリでいいじゃないですか」
「それは・・・」
低頭している此之葉が溶けていきそうになる。
「此之葉、あまりお待たせしてはならん」
「そうですよね。 気分の悪いことはさっさと終わらせてきます。 此之葉さんは来ないでくださいね、気絶するかもしれませんから。 湖彩(こさい)さん、此之葉さんを押さえておいてください」
全く意味の分からない湖彩。 お付きたちは紫揺のサル技なら知っているが、マツリとのバトルは知らない。 反対にマツリは紫揺と口で言い合ったことはあるが、紫揺のサル技を知らない。
脹脛まである若葉色の合わせの一枚物、衿のところには三色の色に染められ、そのまま帯に隠れるまで続いている。 その帯は紫色の半巾帯の半分ほどの幅の帯である。 足元は踵を覆うサンダルのような履き物。 紫揺用に新調されたものである。
走って領主の家に向かうとそこに悠蓮(ゆうれん)が居た。 秋我を呼びに行ったのは悠蓮だったようだ。
「奥で御座います」
芝生のような緑が豊富な方を指し示す。 てっきり領主の家にいるのだと思っていたがそうではなかったようだ。
歩を進め目先を変えるとしっかりとマツリが居た。 領主と何やら話しているようで秋我も一緒に立っている。
領主の家にも入らずマツリと立ち話などと、紫揺が首を傾げるが首を傾げていても何にもならない。 すぐに走り出すとマツリが紫揺の姿を捕らえた。 その様子に気付いた領主と秋我が振り返る。
「紫はいくつになったのだったか」
「この月で23の歳におなりになります」
「23の歳というと・・・。 走るか?」
軽い小走りではない。 腕を振っての全力疾走。
ああ、またこんなことが切っ掛けで言い合いになってしまうのではないかと、領主が言い訳じみたことを言う。
「マツリ様をお待たせするようなことにならないためかと・・・」
言いながらも苦い顔をしているのが自分でも分かる。
息を上げることも無く走って来た紫揺が領主を見る。 あくまでもマツリではない。
「お呼びですか?」
呼んでいるのはマツリと知っていて領主に訊くという一手。
領主と秋我が紫揺の隠れたケンカ腰の雰囲気を感じとる。 秋我が下を向き、領主が “お頼みします、どうぞ穏やかに” と言った目を紫揺に向けてくる。
「用があるのは我だ」
「俺じゃないんだ」
即答の紫揺が眉を上げて怪訝そうにマツリを見上げる。
北の領土に居る時には俺と言っていたのを憶えている。
マツリがそれをかわし、領主に向いて一言いう。 「悪いが外してもらえるか」 と。
驚いた領主が「ですが」 と言うが「悪いが」 と繰り返された。 二度も言われてしまった、これ以上何も言うことは出来ない。
「紫さま、くれぐれも」 と言い残してそこから離れ、秋我と共に家の方に向かった。
紫揺がなお一層怪訝な顔をする。
その紫揺の顔など意ともしないように、懐の中からリツソの部屋から取ってきた紫色の石を取り出した。
「これを」
上部を指でつまみ紫揺の目の前に出してきた石に近付きよく見る。
「え? ん? これってリツソ君の宝物の石?」
リツソの部屋で見たきれいな透き通った紫色の石。 リツソが気に入った物をくれると言った時にこれが気にはなっていたが、あまりにも綺麗すぎるので別のものを手に取ったのだ、よく覚えている。
「そうだ」
知っていたようだ。 手間が省けた。
「これが?」
紫揺が顔を上げマツリに目を合わせた。 そのマツリが紫揺を見ていた。
(こいつ、いつから見てたんだ・・・)
だがそんな表情は見せない。 今は石のことだ。 どうしてリツソの宝物の石をマツリが持っているのか。 そしてどうして今こうして差し出しているのか。
「貰ってやってくれんか」
「は?」
「我の勝手で決めたことではあるが、リツソも望んでいよう」
「意味がよく分かりませんが?」
「リツソはお前・・・紫のことを想っておる。 その紫に自分の大切な物を渡したいだろうと、そう思うだろうと思ってのことだ。 これを選んだのはおま・・・紫の名にちなんで我が選んだ」
「全くもって分かりませんが?」
(その人を馬鹿にした言い方はなんだっ)
心の中で思うがそんな顔など出せない。
「・・・リツソに万が一があってからでは気付かぬ間に時が過ぎてしま―――」
「はっ!?」
「いや・・・思わぬ時が過ぎてしまってはリツソの想いどころでは無くな―――」
「違う! そこじゃない。 万が一ってなんのこと!」
簡単に食い付いてきた。
「ああ、気にせずともよい。 とにかくこれを受け取っ――――」
「リツソ君からなら受け取るわよ」
(こいつは人の話を最後まで聞くということが出来んのか)
「それが叶わぬか―――」
「叶わないって何? リツソ君に何かあったの?!」
まるでマツリがリツソをブッ叩いたかのように睨んでくる。
(腹の立つ・・・)
ここまで睨まれるとは思ってもいなかった。 だがあくまでも涼しげな顔を作っている。
「受け取ってはもらえんのか」
「リツソ君に何があったのかって訊いてるの!」
紫揺の声にお付きたちや領主と秋我が身体を隠して覗いている。 だが声を荒げていることは分かるが言葉は聞き取れない。
「無理に受け取ってもらおうとは思っておらん。 リツソの想いを叶えてやろうと思っただけのこと」
「返事になってない!」
「時をとらせた」
「待ちなさいよ!」
「紫も民が待っておろう。 戻るが良い」
あまりにも簡単にいきすぎて自分が騙されているような気にさえなる。
「何一人で話を終わらせるのよ! 話は終わってないからね! 待ってなさいよ!」
言い置くとすぐに領主の家に走りかけた紫揺の背中にマツリの声が投げかけられた。
「リツソのことは他言無用。 分かっておろうな」
一瞬足を止めた紫揺が走り出した。
(他言無用って・・・)
それ程にリツソに何があったのか・・・。
「よく走るものだ・・・」
呆れて紫揺の後姿から目を外し身体の向きを変えた。
だがこんなに簡単に乗ってくるとは思ってもいなかった。
(さて、ここで帰ろうか、それともアイツを待つか・・・)
もう少し揉めるつもりだった。 それを領主なりが止めに来る予定であった。 そこで紫揺本人から本領に行くと言わせるつもりであったが。
待っていろと言われて待つというのも間が抜けた話だが、領主に釘を刺しておきたい。
(どうしたものか・・・)
考えていると肩からキョウゲンの声が聞こえてきた。
「かなり慌てておりますが、もう宜しいのではないですか?」
首をクルリと元に戻したキョウゲンが言う。
「・・・そうだな」
キョウゲンがマツリの肩から飛び立ち、縦に大きく円を描く途中でその身体を大きくした。 そしてマツリが地を蹴ろうとした時、
「帰るんじゃないわよー!!」
紫揺の大声が聞こえた。 振り返ると紫揺の後ろを追って秋我が走って来る。
背に乗ってもらえなかった身体を大きくしたままのキョウゲンが上空に上がる。
「マ、マツリ様、いったい何が?」
走りながら秋我が問う。
何がということは、リツソのことを言っていないのだなと分かる。
遥か後ろには領主がこちらに向かって小走りに走ってきている。
「キョウゲン」
呼ばれたキョウゲンがもう一度縦に円を描いて身体を小さくし、マツリの肩に乗った。
マツリの元に走り寄ってきた紫揺と秋我。
「ああ、走りにくいったらない!」
こんな時はジャージが恋しくなる。 自分の着ている衣に文句をつけたくもなる。
「マツリ様、紫さまが急に本領に行くと仰られて、いったい何があったのでしょうか」
「いや? 特に何も。 紫、本領に来てどうする」
「ど、どうするって・・・行くのよ」
「来る必要などない」
「なに? 五色は本領に行っちゃあいけないってわけ!?」
「そんなことを言っておるのではない。 だが各領土は本領に何某か用のある時にだけ来るもの」
「用があるから行くんじゃない!」
「では何用か」
「だから! だから、その・・・」
―――他言無用。
(ほほぅ、意外と言われたことを守るのか)
守ってもらわなくては困るが。
ようやくやって来た領主。
「マツリ様、本領に何かあったので御座いましょうか?」
「いや、なにも」
「ですがマツリ様とお話の後に紫さまが本領に行くと仰って」
「秋我から聞いた。 宮としては紫が来ることを拒む理由は無いが、それは何用かある時に限る。 いま紫から聞くと用があると言っておるのだが。 紫、何用か? それとも領主が何用かあるのか? 祭の後にでも何かあったか?」
「いいえ、その様なことは」
マツリに向かって言うと次は紫揺を見て言う。
「紫さま何がありました?」
「え・・・と。 その。 シキ様・・・シキ様の―――」
「姉上はお幸せに暮らしておられる。 案ずることは無い」
「そうなんだ。 それはなによりで。 じゃ、えっと」
(じゃ、などと言うな、馬鹿者が)
「紫、先ほども言った。 民が待っておろう、行くがよい」
「・・・」
「領主、時をとらせた」
領主に聞かせるにはこれくらいで十分に釘が打てただろう。 それに領主の居ない間のことを秋我から聞くだろうし、こちらが拒んでいるのは明らかだろう。
「ちょっと待ちなさいってば!」
「紫さま・・・! お言葉をお選びください」
領主が腰を曲げて低頭する。
「ああ、そうだ。 うん。 領主さん、マツリと話をつけてきます」
「は?」
腰を曲げたまま領主が顔だけを上げる。
そしてマツリと呼ばれマツリが眉をしかめる。
「ほら、ここだったらみんなが困るでしょ? 私とマツリのバトルを見たら」
「ばとる?」
「あ、言い合いです、言い合い。 だから本領でしてきます」
「とんでも御座いません!」
曲げていた腰を一気に伸ばす。
(コイツは! もっとマシなことを考えられんのか!)
「本領でマツリ様を愚弄するなどと! 絶対に本領に行っていただいては困ります!」
「ちぇっ・・・。 あー! そうだ! この手がある!」
「この手?」
領主がキョトンとした顔をする。 そして覚った。
(この大馬鹿者がっ!)
マツリが皆から顔を背け大きく歪める。
「紫の力で分からないところがあるんです。 “紫さまの書” を読んでもどこにも書かれていなくて。 それで、シキ様に教えて頂きたくて」
そう言うと今度はマツリを見る。
「ちょっとお話を伺うだけならシキ様のお幸せの時間・・・時を割かないでしょ? だからいいでしょ? いいはずよね!? いいわよね! 絶対にっ!!」
クレッシェンドに感情がこもっている。
紫揺の全開馬鹿さ加減にマツリが口を曲げる。 肩の上からキョウゲンが「マツリ様」 と囁き注意を促す。
「領主さん、だから今から本領に行きます」
領主と秋我にしてみれば、何か理由があって紫揺は本領に行きたがっているのだろう、ということは分かっている。 その理由付けとして紫の力のことを言っているのだろうと。 それは明らかに分かってはいるが、紫の力と言われれば言い返しようがない。
「えっと、分からないっていうのは、此之葉さんに訊いてもらえれば何のことか分かります。 あ、阿秀さんでも。 私が悪くなった時ずっと抱っこしててくれましたから」
マツリの方片眉が無意識に動いた。
領主にしてみれば阿秀からその報告は聞いている。 あながち嘘ではないことは分かるが、あくまでも理由付けだろうことは明白。
「ですが今すぐなどと。 シキ様のご都合もありましょうし」
領主が何と言おうともせっかく考えた理由、それを水に流す気もなければ本領行きを無いものにする気もない。 領主に合わせていた目をマツリに転じる。
「いいわよね、マツリ! 今すぐ行っていいわよね! マツリから領主さんに私が本領に行くって言ってよ!」
何度も何度も気軽にマツリ呼ばわりする。
「・・・お前」
マツリの眉間にくっきりとしわが寄っている。
「あ? なに? まさかお前って言わなかったでしょうね。 今度お前って言ったら、こっちもアンタって言うからねって言ったわよね。 その足りない頭でよく覚えておきなさいって言ったわよね!」
「領主・・・」
更にマツリの眉間が寄り、その刻まれた縦皺が更に更に深くなっていく。
「も、申し訳ございません。 ・・・紫さま・・・!」
下げた頭のまま小声で叱責するように紫揺の名を呼ぶ。
「領主さん謝らなくていいですよ。 これは約束事なんですから」
「約束をした覚えなどない」
紫揺が一方的に言っただけだ。
「ああ、今はそんなことどうでもいい。 領主さん行っていいでしょ?」
言い返したことに対しての返事がそれか。 マツリの口がもう一度曲がる。
いつまで持つか分からないマツリの忍耐。 領主もそれは分かっている。 これ以上紫揺に何も言わせたくない。
「マツリ様、ご迷惑では? それにシキ様のご都合が」
先ほどは馬鹿なことを言う紫揺のお蔭で反対方向に話がいきかけた。 今を逃してはまた話がどうなるか分からない。
「東の領土には紫に伝えられなかったものがあろう。 五色として分からないところがあるのならば、本領を預かる宮として手を貸さぬことは無い。 それに姉上に限らずとも父上にも教えて頂ける」
怒りをドンと腹に置いて言う。 そしてこんな紫揺に自分は教える気などない。
「ゲッ、四方様?」
あのいけ好かない本領領主とは話したくもない。
「紫さま・・・そのような仰りようは」
紫揺の言いように、顔を下げ領主が言う。
「だって・・・あ、じゃないか。 と言うことで、領主さん今から行ってきます」
「宜しいのでしょうか?」
マツリを見て問う。
「五色としての向上の心が見えるならば、それを折るのは愚昧な者であろう」
領主が深く頭を下げ秋我を呼ぶ。
「あ、大丈夫です」
「は?」
領主が間の抜けた顔を紫揺に向けた。
「一人で行ってきます」
「とんでも御座いません!」
「だって、ほら、一緒に行っても退屈ですよ? 本領の領主さんやシキ様の時が取れなかったらいつ帰ってくるか分からないんですから」
「そんな! 何日も本領に居られるなどと!」
「お忙しくされてる本領の領主さんに無理矢理に訊くとでも? シキ様にしても?」
「いいえ、決してそのようなことを言っているのではなく・・・」
「それにマツリがずっと上を飛んでついて来てくれるって」
「はぁー?」
いつそんなことを言った! と言いたいが、紫揺一人の方が都合がいいことには違いない。
「ほら、ついて来てくれるって」
「マツリ様はその様なことを一言も言っておられな―――」
「秋我さん、馬の用意をお願いします。 すぐに着替えてきます」
そう言うと走り去って行った。
「・・・領主、苦労するな」
マツリ自身今頭痛がしてきそうだが、毎日一緒にいる領主はそれ以上であろう。 その領主は頭を垂れている。
「取り敢えず今回は紫が言うように我が上からついて行こう」
「マツリ様にそのようなことはお願いできません」
「気にすることは無い。 それに秋我も知っていようが、紫は姉上や母上に気に入られておる。 姉上付きの者で姉上と共に宮を出た者もおるが残った者もおる。 その者たちとも紫は顔見知りだ。 待つ時が必要ならばその間、その者たちと過ごすであろう」
言ってしまえばマツリの作った筋書きだ。 その筋書きに馬鹿ほど簡単に乗ってきた紫揺。 これ以上、領主に心労を負わせるのは気が引ける。
「秋我、紫に馬の用意をしてやってくれ」
秋我が領主を見るが、マツリからの命令に逆らえるはずなどない。 領主が渋々と頷く。
「ではせめて山までは阿秀達につかせますか?」
「ああ、そうしよう」
了解したと、すぐに秋我が走った。