『虚空の辰刻(とき)』 目次
『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第170回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。
『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ
- 虚空の辰刻(とき)- 第177回
領主には二人の男の子供・・・と言っても、成人している子がいると聞いていた。 領主の年齢を考えると、紫揺より随分と年上だろう。
「じゃ、その息子様にお祭の後を任せて本領に行くと?」
本日の夕飯の最後である賑やかな色の芋を噛み砕いた後に飲み込んだ。
「はい」
立てていた予定がどんでん返しになった。 が、それもそれ。 シキという人物に話を聞きたいと思っていた。 それにリツソにも会えるかもしれない。 ちゃんと手紙を読んでくれただろうか。
シキの弟・・・マツリとは顔もあわせたくなければ話もしたくない。 だが、万が一にも顔を見たのなら。
――― 迎え撃ってやろうではないか。
気合は入っている。
「祭は明日の早朝まで続きますので、昼前ということでよろしいでしょうか?」
早朝まで祭を見て、昼前まで身体を休めるということか。 この三日間そうしてきたのだろうが、あの年齢でそれだけの睡眠時間でこの三日間に積み重なった疲れが取れるのだろうか。
紫揺が逡巡をみせる。
「紫さま?」
「・・・それだけの休みでいいんですか? こんな言い方は良くないかもしれませんけど、領主さんもお歳です。 明日一日休まれた方がいいんじゃないですか?」
祭の疲れもあるだろうし、本領は近くにないと聞いている。 それに本領という所にはかなり気を使っているように思える。 行くと気疲れもするはず。
「領主からは紫さまさえご了承願えるなら、と聞いております」
今もこの時、紫揺はこうしてゆっくりとしているが、領主はずっと歩き回っているのだろう。
どうしようか・・・。 領主が少しでも早く本領に行きたいと思っているのは、唱和のことがあるのだろうとは分かっている。 だが領主自身の身体を考えるのは、紫揺以外いないのではないのだろうか。
「・・・いいえ。 明後日。 はい、明後日に行きます。 それも明日のお祭の後に明後日まで領主さんが身体を休めるという条件付きです。 領主さんが祭の後に息子さんと事後のことなどされたら、その度に一日ずつ伸ばします」
「紫さま・・・」
「領主さんにそうお伝えください。 ごちそうさまでした」
手を合わせた。
長旅を終えたショウワがニョゼに手を取られ馬車から下りた。 前には領主であるムロイの家がある。 辺りはもう暗くなりかかっている。
「やっとついたか・・・」
ケミにはゼンとダンと合流し、いったん家に帰るように言ってある。 家というのはショウワの家である。 影たちが領土にいる時は、そこでショウワと共に暮らしている。
「お疲れ様でございました」
そう言うニョゼだが、この領土のことはあまり記憶にない。 記憶が薄いのではなく、幼少の頃にニョゼの持つ聡明さを先代領主が見抜き、この領土から彼の地へ連れ出したのだから、五年分の記憶しかない。 その内の何年かは赤子であったのだから。
「もう夏も終わりじゃのぅ」
北の領土の夏は短いが良い時に来たものだ。 これが真冬ならもう八十歳を超え、ここの所の体力の落ちようでは身体がついていかなかったであろう。
「さて、まずはムロイの様子じゃ」
「はい」
目の前には遠い記憶にある領主の家がある。 先代領主にここに連れてこられ、そのあと馬車に乗り彼の地に行った。
ニョゼが再びショワの手を取る。
「心配性じゃのう」
柔和な面差しをニョゼに送る。
数歩歩みニョゼが戸を開けた。 丁度廊下を歩いていたセノギが驚いた顔をしている。
ニョゼ? と言いかけて、その傍らにショウワが居るのが目に入った。
「ショウワ様!」
「ムロイの様子は?」
「かなり良くなられました。 それよりどうしてショウワ様が?」
「わしが本領に申し開く」
セノギがニョゼを見た。
獣の足がゆっくりと動いた。
「マツリ様から聞いていた話とは違うねぇ」
黄金の毛色を持つ狼、シグロだ。
狼たちは北の領土の民におかしな動きが無いかを、夜な夜な耳をそばだてるのが仕事であって、領主や五色、ショウワやセノギの家には耳をそばだてることなどないのだが、ここ数日はマツリからの下知でシグロが領主の家を刮目(かつもく)して待っていた。
「まぁ、一応ご報告しようか」
民の家と違って簡単に声が漏れてこない、しっかりとした造の家だ。 耳の良い狼だからといって、声がするのは聞こえてもショウワのように小声では会話まで聞き取れない。
「戻ってハクロにこのことを言いな。 マツリ様にご報告するようにってね」
茶のオオカミが頷くとすぐに音もたてず走り出した。
「あのマヌケ三匹とえらい違いだね。 楽なことだ」
フッと鼻から息を吐くと片方の口角を上げた。
マツリを薬草師のところに案内し、帰ってくるとマヌケ三匹を従えていた六匹から事の次第を聞かされた。 途端、ハクロにこう言ったのだ。
『随分とゆっくりできただろう。 アンタのやり方は失敗だ。 責任を取ってアイツらのことはアンタが見な』 と。
押し付けられたのはシグロ曰くのマヌケ三匹だった。
結局、ハクロ提案のマヌケ一匹につき他の二匹を付けるというやり方は失敗に終わった。 それどころか、マヌケ一号が民に見つかりかけたという。 見つからなかったから良かったものの、と、マヌケ三匹をハクロに押し付けたのだった。
「まぁ、長い間見てるんだから、ハクロもそろそろ疲れただろうさね」
マツリの所に行くのはその休憩になるだろう。 感謝をしてもらわなくてはならない。
「リツソ様に見つからなければの話だがね」
茶の狼から報告を聞いたハクロ。 疲れ果てた顔をしていたが、報告を聞いた途端、目に光が灯ったように言う。
「分かった。 では、こいつらのことはお前が―――」
「とんでもない! これからすぐにシグロの元に帰りますので」
では、といって茶の狼が走り出した。
ハクロが後ろを振り向く。 他の茶の狼たちが目を合わせるのを避けた。 尚且つ「さ、そろそろ行こうか」 と全頭が連なり尻をこちらに向けて、カニのように横歩きでザッザッザっと音をたててこの場を去ろうとしている。
このままこのマヌケ三匹をここに置いて、大人しくしていればそれでいいが、勝手に麓に降りられてはたまったものではない。
「おい!」
肩を大きくビクつかせ、ザッと最後の音をたててカニの隊列が止まった。
「勇気のあるヤツはおらんのか」
「・・・」
隊列はびくともせず前を向いて、目をギョロつかせているだけだ。 確認のために言う。 あくまでもハクロには尻を向けている。
ギャン! と一匹の啼き声が上がった。 続いてギャン、ギャンと二匹の声が上がる。 ハクロの後ろ脚で尻を蹴られたのだ。 当然ハクロは力を抜いているが、茶の狼とハクロとの体格差を考えると、ハクロが力を抜いていても茶の狼は簡単に飛ばされる。
「お前たち三匹それぞれがこいつらにつくように。 不安であればそれぞれ一匹づつ加勢をとってもいい」
三匹が立ち上がると残っている隊列に目を向けた。 隊列は一匹残らず牙を剥いて今にも三匹に唸りかかろうとしている。
隊列が牙を向けたままカニ歩きをはじめ、段々と斜め歩きになり後ろ歩きになり、とうとう身を翻してその場から走った。
ハクロに蹴られた三匹が頭を垂れて観念する。
「本領に行ってくる。 それまでこいつらから目を離すな」
「はい・・・」
門番がすぐに門を開けた。 マツリから事前に言われていたのだろう。
「端を歩けよ」
門番が分かり切ったことを言う。
門をくぐるとすぐに裏に回って目立たないように床下に潜り込む。 ここの住人たちが多少なりとも狼を見慣れていることは知っているが、門番に言われなくとも、狼を見ては人間が慌てることくらい知っている。 新人の門番が狼の姿を初めて見た時には、たいてい泡を吹くのだから。
床下に潜るといっても、人間が立って進める程に高くはないが、場所によって違いはあるものの、マツリの部屋までは、場所を選べば身体の大きなハクロでさえ身を伏せなければいけない程に低い所はない。
「さて、房にいらっしゃるだろうか」
床下から身を出して渡殿の下を走り、また床下を走る。 それを繰り返してマツリの部屋の下まで来た。 身を躍らせて床下から出る。 回廊に一歩でも足をかけるわけにはいかない。 もちろん尻尾をかけるわけにもいかない。 高さがあるので、中を見られるように後ろに歩いて行く。
「マツリ様、外を」
一番に気付いたのは止まり木に留まっているキョウゲンだった。
「やっと来たか」
だが間の悪い時に。 とは口に出せない。
開け放してあった襖と蔀(しとみ)から出てくると勾欄から跳び下りた。
「来たのか?」
「それが、領主の家に初めて見る女とショウワが来たと」
「娘ではなくか? それに五色のセッカは?」
「シグロは娘も五色も知っております。 間違えることなどありません」
「単に偶然訪ねてきたか、見舞いに来たかということも考えられるが。 その女というのは、辺境かどこかの民ではないのか? シグロもそこまで知ることはないだろう」
「そう言われますと、そうですが」
民の声は聞くが姿まで見ることは無い。
「ふむ・・・。 日はかかると言っておったが、それにしても遅すぎる。 ・・・一度行ってみる。 苦労であった」
「では」
ハクロが元来た道を戻っていく。
ハクロが去ると、母上である澪引の部屋を訪ねようと部屋の前まで行くと、側仕えが並んで座っていた。
澪引の様子を聞くと、泣いてばかりのリツソを心配し過ぎての心労だろうと、医者が言っていたということだった。 そして「シキ様がお付きになられておられます」 という。
「母上のご様子を見たいが」
お待ちくださいませというと、側仕えの女が少しだけ襖を開けた。 襖内には澪引の側付きの千夜(せんや)が座している。 側仕えがマツリの訪問を告げると千夜が頷いてみせた。 中に男が入って困る様子はないということだ。
「よろしいかと」
側仕えの女が襖をゆっくりと開けると中に入り、奥の間に足を進める。 と、シキが振り向いた。
「マツリ」
「母上のご様子は?」
どちらも声を殺している。
「倒れられた時より、お顔のお色は随分と良くはなられていますが、決してまだ良いというお色ではありません」
横たわる澪引を見ると白磁器のように白い肌が、うっすらと青みを帯びている。
「お熱は?」
「下がりました」
「リツソが原因だそうですね」
「可愛がっていらっしゃるから。 リツソが泣くのがご心痛だったのでしょう」
「そのリツソは来ていないんですか?」
「リツソにはまだ言っておりません。 ここで大泣きされても・・・ね?」
「ああ、そういうことですか」
「暫くはわたくしが付いているから心配しないで」
「ですが、姉上も床上げされたばかりですのに」
「床上げなどと、昌耶が心配性なだけよ」
「・・・。 北に・・・北に何か動きがあったかもしれませんので、我は出なくてはなりませんが・・・」
「ええ、気にせずにお行きなさい」
「では、母上のことを頼みます。 姉上もご無理をされませんように」
「ありがとう。 いってらっしゃい」
部屋に戻り着替えをすませる。 キョウゲンが縦にクルリと回り途中で身体を大きくすると、勾欄から跳んだマツリがその身体に跳び乗った。 いつものように片足を曲げ、その膝の上に腕を置き、もう片足をだらりと下げて座っている。
膝についている手を上げると指で唇を軽く挟んだ。
「娘がきていないということか・・・。 いったいどこまで呼びに行っているというのだ」
キョウゲンが僅かに首を傾げたが、マツリはそれに気付いていない。
洞から本領を抜けると滝の裏に出た。 キョウゲンが左翼を中心に身体を斜めにし九十度曲がると勢いを殺すことなく、滝の裏を飛び抜けた。
「いつも感心するな」
「なにがで御座いましょう」
「この滝を抜ける時だ。 他のフクロウならあれほど器用に曲がれない。 それに俺を一度も濡らしたことなどない」
「それを仰るのでしたらマツリ様こそ、私があれほど身体を傾けても体勢をお崩しになったことなどございません。 私にマツリ様を落とさせることを一度もなさったことがありません」
これがリツソならキョウゲンにしがみついて、羽の何本かを抜いているであろうが、マツリは乗った時の体勢のままで、手さえキョウゲンの身体につけてはいない。
「互い様ということか」
「光栄に御座います」
闇夜に紛れて薄い灰色の顔から始まって、段々と羽先と尾にいくほどに黒い色をしたフクロウが北の領土の空を飛んだ。
いま領主の家には、向かい合っているマツリと、腰を折り頭を下げたショウワ、そしてショウワの手を取っているニョゼと別部屋に伏せっているムロイ、その横につくセノギが居る。 女たちはショウワが来た時点で帰された。
ムロイの顔は腫れは引いたものの、まだ痣となって残っていた。 鼻もまだ固定されたままだったが、薬草師を代えたのが良かったのだろう、呂律はしっかりと回っていた。 身体の方は布団を被っているので見えはしなかったが、起き上がらないということはまだどこか痛んでいるのだろう。
ムロイの様子を見た後、セノギの案内で居間に通され、さながらソファーにマツリがかけている。
『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第170回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。
『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ
- 虚空の辰刻(とき)- 第177回
領主には二人の男の子供・・・と言っても、成人している子がいると聞いていた。 領主の年齢を考えると、紫揺より随分と年上だろう。
「じゃ、その息子様にお祭の後を任せて本領に行くと?」
本日の夕飯の最後である賑やかな色の芋を噛み砕いた後に飲み込んだ。
「はい」
立てていた予定がどんでん返しになった。 が、それもそれ。 シキという人物に話を聞きたいと思っていた。 それにリツソにも会えるかもしれない。 ちゃんと手紙を読んでくれただろうか。
シキの弟・・・マツリとは顔もあわせたくなければ話もしたくない。 だが、万が一にも顔を見たのなら。
――― 迎え撃ってやろうではないか。
気合は入っている。
「祭は明日の早朝まで続きますので、昼前ということでよろしいでしょうか?」
早朝まで祭を見て、昼前まで身体を休めるということか。 この三日間そうしてきたのだろうが、あの年齢でそれだけの睡眠時間でこの三日間に積み重なった疲れが取れるのだろうか。
紫揺が逡巡をみせる。
「紫さま?」
「・・・それだけの休みでいいんですか? こんな言い方は良くないかもしれませんけど、領主さんもお歳です。 明日一日休まれた方がいいんじゃないですか?」
祭の疲れもあるだろうし、本領は近くにないと聞いている。 それに本領という所にはかなり気を使っているように思える。 行くと気疲れもするはず。
「領主からは紫さまさえご了承願えるなら、と聞いております」
今もこの時、紫揺はこうしてゆっくりとしているが、領主はずっと歩き回っているのだろう。
どうしようか・・・。 領主が少しでも早く本領に行きたいと思っているのは、唱和のことがあるのだろうとは分かっている。 だが領主自身の身体を考えるのは、紫揺以外いないのではないのだろうか。
「・・・いいえ。 明後日。 はい、明後日に行きます。 それも明日のお祭の後に明後日まで領主さんが身体を休めるという条件付きです。 領主さんが祭の後に息子さんと事後のことなどされたら、その度に一日ずつ伸ばします」
「紫さま・・・」
「領主さんにそうお伝えください。 ごちそうさまでした」
手を合わせた。
長旅を終えたショウワがニョゼに手を取られ馬車から下りた。 前には領主であるムロイの家がある。 辺りはもう暗くなりかかっている。
「やっとついたか・・・」
ケミにはゼンとダンと合流し、いったん家に帰るように言ってある。 家というのはショウワの家である。 影たちが領土にいる時は、そこでショウワと共に暮らしている。
「お疲れ様でございました」
そう言うニョゼだが、この領土のことはあまり記憶にない。 記憶が薄いのではなく、幼少の頃にニョゼの持つ聡明さを先代領主が見抜き、この領土から彼の地へ連れ出したのだから、五年分の記憶しかない。 その内の何年かは赤子であったのだから。
「もう夏も終わりじゃのぅ」
北の領土の夏は短いが良い時に来たものだ。 これが真冬ならもう八十歳を超え、ここの所の体力の落ちようでは身体がついていかなかったであろう。
「さて、まずはムロイの様子じゃ」
「はい」
目の前には遠い記憶にある領主の家がある。 先代領主にここに連れてこられ、そのあと馬車に乗り彼の地に行った。
ニョゼが再びショワの手を取る。
「心配性じゃのう」
柔和な面差しをニョゼに送る。
数歩歩みニョゼが戸を開けた。 丁度廊下を歩いていたセノギが驚いた顔をしている。
ニョゼ? と言いかけて、その傍らにショウワが居るのが目に入った。
「ショウワ様!」
「ムロイの様子は?」
「かなり良くなられました。 それよりどうしてショウワ様が?」
「わしが本領に申し開く」
セノギがニョゼを見た。
獣の足がゆっくりと動いた。
「マツリ様から聞いていた話とは違うねぇ」
黄金の毛色を持つ狼、シグロだ。
狼たちは北の領土の民におかしな動きが無いかを、夜な夜な耳をそばだてるのが仕事であって、領主や五色、ショウワやセノギの家には耳をそばだてることなどないのだが、ここ数日はマツリからの下知でシグロが領主の家を刮目(かつもく)して待っていた。
「まぁ、一応ご報告しようか」
民の家と違って簡単に声が漏れてこない、しっかりとした造の家だ。 耳の良い狼だからといって、声がするのは聞こえてもショウワのように小声では会話まで聞き取れない。
「戻ってハクロにこのことを言いな。 マツリ様にご報告するようにってね」
茶のオオカミが頷くとすぐに音もたてず走り出した。
「あのマヌケ三匹とえらい違いだね。 楽なことだ」
フッと鼻から息を吐くと片方の口角を上げた。
マツリを薬草師のところに案内し、帰ってくるとマヌケ三匹を従えていた六匹から事の次第を聞かされた。 途端、ハクロにこう言ったのだ。
『随分とゆっくりできただろう。 アンタのやり方は失敗だ。 責任を取ってアイツらのことはアンタが見な』 と。
押し付けられたのはシグロ曰くのマヌケ三匹だった。
結局、ハクロ提案のマヌケ一匹につき他の二匹を付けるというやり方は失敗に終わった。 それどころか、マヌケ一号が民に見つかりかけたという。 見つからなかったから良かったものの、と、マヌケ三匹をハクロに押し付けたのだった。
「まぁ、長い間見てるんだから、ハクロもそろそろ疲れただろうさね」
マツリの所に行くのはその休憩になるだろう。 感謝をしてもらわなくてはならない。
「リツソ様に見つからなければの話だがね」
茶の狼から報告を聞いたハクロ。 疲れ果てた顔をしていたが、報告を聞いた途端、目に光が灯ったように言う。
「分かった。 では、こいつらのことはお前が―――」
「とんでもない! これからすぐにシグロの元に帰りますので」
では、といって茶の狼が走り出した。
ハクロが後ろを振り向く。 他の茶の狼たちが目を合わせるのを避けた。 尚且つ「さ、そろそろ行こうか」 と全頭が連なり尻をこちらに向けて、カニのように横歩きでザッザッザっと音をたててこの場を去ろうとしている。
このままこのマヌケ三匹をここに置いて、大人しくしていればそれでいいが、勝手に麓に降りられてはたまったものではない。
「おい!」
肩を大きくビクつかせ、ザッと最後の音をたててカニの隊列が止まった。
「勇気のあるヤツはおらんのか」
「・・・」
隊列はびくともせず前を向いて、目をギョロつかせているだけだ。 確認のために言う。 あくまでもハクロには尻を向けている。
ギャン! と一匹の啼き声が上がった。 続いてギャン、ギャンと二匹の声が上がる。 ハクロの後ろ脚で尻を蹴られたのだ。 当然ハクロは力を抜いているが、茶の狼とハクロとの体格差を考えると、ハクロが力を抜いていても茶の狼は簡単に飛ばされる。
「お前たち三匹それぞれがこいつらにつくように。 不安であればそれぞれ一匹づつ加勢をとってもいい」
三匹が立ち上がると残っている隊列に目を向けた。 隊列は一匹残らず牙を剥いて今にも三匹に唸りかかろうとしている。
隊列が牙を向けたままカニ歩きをはじめ、段々と斜め歩きになり後ろ歩きになり、とうとう身を翻してその場から走った。
ハクロに蹴られた三匹が頭を垂れて観念する。
「本領に行ってくる。 それまでこいつらから目を離すな」
「はい・・・」
門番がすぐに門を開けた。 マツリから事前に言われていたのだろう。
「端を歩けよ」
門番が分かり切ったことを言う。
門をくぐるとすぐに裏に回って目立たないように床下に潜り込む。 ここの住人たちが多少なりとも狼を見慣れていることは知っているが、門番に言われなくとも、狼を見ては人間が慌てることくらい知っている。 新人の門番が狼の姿を初めて見た時には、たいてい泡を吹くのだから。
床下に潜るといっても、人間が立って進める程に高くはないが、場所によって違いはあるものの、マツリの部屋までは、場所を選べば身体の大きなハクロでさえ身を伏せなければいけない程に低い所はない。
「さて、房にいらっしゃるだろうか」
床下から身を出して渡殿の下を走り、また床下を走る。 それを繰り返してマツリの部屋の下まで来た。 身を躍らせて床下から出る。 回廊に一歩でも足をかけるわけにはいかない。 もちろん尻尾をかけるわけにもいかない。 高さがあるので、中を見られるように後ろに歩いて行く。
「マツリ様、外を」
一番に気付いたのは止まり木に留まっているキョウゲンだった。
「やっと来たか」
だが間の悪い時に。 とは口に出せない。
開け放してあった襖と蔀(しとみ)から出てくると勾欄から跳び下りた。
「来たのか?」
「それが、領主の家に初めて見る女とショウワが来たと」
「娘ではなくか? それに五色のセッカは?」
「シグロは娘も五色も知っております。 間違えることなどありません」
「単に偶然訪ねてきたか、見舞いに来たかということも考えられるが。 その女というのは、辺境かどこかの民ではないのか? シグロもそこまで知ることはないだろう」
「そう言われますと、そうですが」
民の声は聞くが姿まで見ることは無い。
「ふむ・・・。 日はかかると言っておったが、それにしても遅すぎる。 ・・・一度行ってみる。 苦労であった」
「では」
ハクロが元来た道を戻っていく。
ハクロが去ると、母上である澪引の部屋を訪ねようと部屋の前まで行くと、側仕えが並んで座っていた。
澪引の様子を聞くと、泣いてばかりのリツソを心配し過ぎての心労だろうと、医者が言っていたということだった。 そして「シキ様がお付きになられておられます」 という。
「母上のご様子を見たいが」
お待ちくださいませというと、側仕えの女が少しだけ襖を開けた。 襖内には澪引の側付きの千夜(せんや)が座している。 側仕えがマツリの訪問を告げると千夜が頷いてみせた。 中に男が入って困る様子はないということだ。
「よろしいかと」
側仕えの女が襖をゆっくりと開けると中に入り、奥の間に足を進める。 と、シキが振り向いた。
「マツリ」
「母上のご様子は?」
どちらも声を殺している。
「倒れられた時より、お顔のお色は随分と良くはなられていますが、決してまだ良いというお色ではありません」
横たわる澪引を見ると白磁器のように白い肌が、うっすらと青みを帯びている。
「お熱は?」
「下がりました」
「リツソが原因だそうですね」
「可愛がっていらっしゃるから。 リツソが泣くのがご心痛だったのでしょう」
「そのリツソは来ていないんですか?」
「リツソにはまだ言っておりません。 ここで大泣きされても・・・ね?」
「ああ、そういうことですか」
「暫くはわたくしが付いているから心配しないで」
「ですが、姉上も床上げされたばかりですのに」
「床上げなどと、昌耶が心配性なだけよ」
「・・・。 北に・・・北に何か動きがあったかもしれませんので、我は出なくてはなりませんが・・・」
「ええ、気にせずにお行きなさい」
「では、母上のことを頼みます。 姉上もご無理をされませんように」
「ありがとう。 いってらっしゃい」
部屋に戻り着替えをすませる。 キョウゲンが縦にクルリと回り途中で身体を大きくすると、勾欄から跳んだマツリがその身体に跳び乗った。 いつものように片足を曲げ、その膝の上に腕を置き、もう片足をだらりと下げて座っている。
膝についている手を上げると指で唇を軽く挟んだ。
「娘がきていないということか・・・。 いったいどこまで呼びに行っているというのだ」
キョウゲンが僅かに首を傾げたが、マツリはそれに気付いていない。
洞から本領を抜けると滝の裏に出た。 キョウゲンが左翼を中心に身体を斜めにし九十度曲がると勢いを殺すことなく、滝の裏を飛び抜けた。
「いつも感心するな」
「なにがで御座いましょう」
「この滝を抜ける時だ。 他のフクロウならあれほど器用に曲がれない。 それに俺を一度も濡らしたことなどない」
「それを仰るのでしたらマツリ様こそ、私があれほど身体を傾けても体勢をお崩しになったことなどございません。 私にマツリ様を落とさせることを一度もなさったことがありません」
これがリツソならキョウゲンにしがみついて、羽の何本かを抜いているであろうが、マツリは乗った時の体勢のままで、手さえキョウゲンの身体につけてはいない。
「互い様ということか」
「光栄に御座います」
闇夜に紛れて薄い灰色の顔から始まって、段々と羽先と尾にいくほどに黒い色をしたフクロウが北の領土の空を飛んだ。
いま領主の家には、向かい合っているマツリと、腰を折り頭を下げたショウワ、そしてショウワの手を取っているニョゼと別部屋に伏せっているムロイ、その横につくセノギが居る。 女たちはショウワが来た時点で帰された。
ムロイの顔は腫れは引いたものの、まだ痣となって残っていた。 鼻もまだ固定されたままだったが、薬草師を代えたのが良かったのだろう、呂律はしっかりと回っていた。 身体の方は布団を被っているので見えはしなかったが、起き上がらないということはまだどこか痛んでいるのだろう。
ムロイの様子を見た後、セノギの案内で居間に通され、さながらソファーにマツリがかけている。