『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第175回
「今日は “領土史” をお読みになったとか。 如何でしたか?」
「まだ一冊しか読めていないんで、よく分かりませんでした」
「そうですか。 そうですね・・・書蔵に行かれる時は梁湶にお声がけください」
「梁湶さんにですか?」
「領土で一番書蔵のことを知っていると思います。 紫さまがお知りになりたいことが書かれている書をすぐにお探し出来ると思います」
「そうなんだ。 今日は “領土史” を探すだけで時間がかかりましたから」
「どちらかに行かれる時には、お付きの誰かにお声がけください。 一番適したところをご案内いたしますので」
ハッキリ言って黙って出掛けるなよ、ってことである。
「そうですね」
そう言われれば、祭の後、書蔵に行けないと思っていたら、阿秀が人目につかない道を案内してくれたのだった。
「そうします」
その時、塔弥が入ってきた。 此之葉が塔弥の顔を見て驚いたが、既に治療はされているようだ。 すぐに領主を呼んで来ると部屋を出た。
「大丈夫ですか?」
「醜態をお見せしてお恥ずかしい限りです」
塔弥の返す言葉使いが気になる。
「私と塔弥さんって、遠い親戚になるんでしょ? 普通の話し方でいいんじゃないのかなぁ」
「いえ、私はあくまでも紫さまのお付きですので」
「そんなものなのかなぁ・・・。 ふふ、面白いことを思いついた。 もしかしてお婆様がお爺様にプロポーズした時にも、お爺様はそんなことを仰ったかもしれませんね」
「え?」
「今の塔弥さんを見てたら、充分に考えられます」
「あ・・・どうでしょうか」
どうしていいものか分からず、顔に手をやって誤魔化そうとする。 ずっと独唱と共に居たのだ。 こんな砕けたことなど初めてである。
「紫さま、お待たせしました」
領主が奥の部屋からやって来た。 此之葉の姿はない。
塔弥が礼をする。
「何かあったのか?」
紫揺が見つかったということは此之葉から聞いていた。 そして紫揺に変わった様子がないことも。 そうであるのならば紫揺の事は無事に終わったということ、敢えて何を訊く必要もなければ、訊くこと自体が憚られる。
座りながら、塔弥にも座るように目で合図をする。
領主の真向かいではなく、斜の席についた塔弥が先程紫揺が言ったことを領主に聞かせた。
一瞬驚いた顔を見せた領主だったが、すぐに疑問を紫揺に向けた。
「紫さま、その似た方と仰るのはどちらに?」
「じゃ、独唱様にご姉妹がいらっしゃるということですか?」
有り得ないところに居るのだから簡単に言えない。 確信を持ってからでないと。
領主と塔弥が目を合わせた。
「居ないんですか?」
二人の様子が普通ではない。
「これは、このことは私と塔弥、そして独唱様しか知りません」
コクリと紫揺が頷く。
「先の紫さまが北に攫われた日、塔弥の曾祖叔父も居なくなりました。 曾祖叔父があの崖に来ていたのは確かなことです。 阿秀の祖が、紫さまの一番近くにいた塔弥の曾祖叔父に紫さまをお守りするようにと言ったのですから。 塔弥の曾祖叔父は間違いなくあの争いの中で何かあったと考えられました。 ですが全く違うところでもう一人姿を消した者がおりました。 それが独唱様の姉上です」
まだ三歳だった独唱は、先代 “古の力を持つ者” の臥せる横に座っていたが、いつまで経っても水を替えに出た姉が戻って来ない。 外は暗くなりかけていた。 とうとう先代古の力を持つ者の横を離れて姉を探しに出たが僅か三歳。 どれだけ一生懸命歩いても大人の数歩にしかならない。 そんな時、姉が持って出たはずの桶が転がっていた。
不安だけが広がっているところに女が声を掛けた。 拙い口で事情を説明すると女がすぐに辺りを探したが姉が見つからない。 女がすぐに領主に言いに行ったが、既に領主は先の紫のことに動いていて “古の力を持つ者” はその後のことといわれてしまった。 そしてそのまま独唱の姉は見つからなかった。
「ということは・・・。 こちらに神隠しなんてあるんですか?」
「今までに聞いたことは御座いません」
「北に攫われた可能性が高いということでしょうか?」
「・・・」
腹の内に隠していたことをストレートに言われてしまった。
「でも言い伝えでは、北の者は先の紫さまだけしか見ていなかったと」
戸惑いながら塔弥が領主に問う。
「ああ。 たしかにそうだ。 だがそれ以外考えられん。 とは言っても、あのあと北の人間に制裁を加えた本領から何も言ってこなかったのだからな。 だからこの考えは腹の中に収めていた」
「そうですか。 ・・・人違いかもしれませんけど、私が見たのは・・・」
塔弥が紫揺を見る。 領主も組んでいた手を解いて紫揺を見た。
「北の、北の領土の人の日本にある屋敷で見ました」
「え!?」
「北の領土の人の屋敷というのは、領主さんのあっちの家と同じようなものです」
あっち、それは東の領土の日本での屋敷のこと。
「それは・・・あの島ということですか?」
「ご存知だったんですか? そうです。 二度しか会ったことはありませんが、お年頃も似てらっしゃいました。 お顔はそんなにじっと見たわけではないのですが、それでも一目でわかるほど似てらっしゃいました」
「北の人間の瞳の色をしておりませんでしたか?」
この東の人間の瞳の色は黒だが、北の人間の瞳の色はグレーだ。
「北の領土のことばかり考えていらっしゃいましたから、目をじっと見て話す気にもなれなくて。 見ていません、すみません」
初めて会った時には逃げ出したほどだったのだから。
「いいえ、そのような。 私の気が急き過ぎました」
途中まで下げかけた顔が止まり、ふっ、と領主が何かを思い出したような顔をした。
「・・・有り得る」
「領主?」
「北がどうして紫さまの居られる場所を特定できたのか」
『独唱様ならば幼かったといえど、幼少の頃の先の紫さまを知っている。 だからして、その気をもとに紫さまを追うことが出来たのだが、それでもかなりの疲労がついて回った。 それが、先の紫さまを知る事のない北の領土の人間が、紫さまを探し当てたとは、尋常ならぬ力の持ち主ではなかろうか』
船の上でそう思ったではないか。
「独唱様の姉上ならば可能だ」
可能どころではない。 先の紫と一緒にいたのは独唱よりよほど長い。
それは紫の気を追うに独唱以上であるということ。
領主は領主の考えの中に解決の糸口を見つけ、紫揺は紫揺で何かが引っ掛かることに気付いた。
「独唱様、独唱様、どくしょうさま・・・どくしょうさま」
紫揺が急に口の中で唱えだした。
「紫さま?」
「どくしょうさま、どくしょうさま・・・独唱様。 ・・・そうか」
塔弥と領主が首をかしげる。
「お名前を唱和(ショウワ)様って、仰いませんか?」
塔弥と領主が大きく目を開いた。
紫揺はショウワと聞かされて、ずっと漢字で “昭和” と覚えていた。 だが、独唱と姉妹だとするならば “昭和” ではなく “唱和” と考えられるではないだろうか。 この東の地は、お付きと言われる者の名をずっと受け継いでいるほどだ。 日本人より名前に対して想いが大きいはず。
独唱とは、一人で歌う事。 言ってみればソロ。 それに対して唱和とは、一方の作った詩歌に答えて、他方が詩歌を作ること。
遠い関係ではない。
紫揺が言った “唱和” それは独唱の姉の名前である。
ハッと音がするほどに息を吸った領主と塔弥。 あまりのことに、降ってわいた話に領主が次に何かを考えようとする前に塔弥が口を開いた。
「領主! 本領に申し出て―――」
「あ! こら! それを言うんじゃ―――」
紫揺に対しての禁句を言いかけた塔弥を止めようとしたが、時すでに遅し。 しっかりとある文節が紫揺の耳に入ってしまった。
[は? なに? 本領? 本領に申し出て? それでなんですか? まさかその後にお願いなんかするんじゃないですよね!」
紫揺が立ち上がって領主を見据える。
「言いましたよね! あの! あの! マツリにお願いごとなんてするくらいなら死んだ方がマシってっ!!」
「いえ、あの・・・」
居てはいけないのだろうと、座を外していた此之葉が紫揺の大声に驚いて飛び込んできた。 目に映ったのは立ち上がっている紫揺が腰に手を当て、隣に座る領主を睨み据え、当の領主は紫揺に身体を向け椅子から落ちそうなくらいそっくり返っている。 塔弥は意味が分からないといった顔で、入ってきた此之葉を見た。
「今日はどうなさいますか?」
湯呑を置いた此之葉が紫揺に尋ねている。 今日が最後の祭だ。 昨日のように顔を出すのかどうかを訊いている。
彰祥草の飾られた昼食の箸を置き、茶を飲んでいる時だった。
「・・・どうしましょうか。 昨日みたいに紫に・・・私に会えた喜びっていうのを、今日も踊るんですか?」
そうなればまたそれなりに返事をしなくてはいけない。
「はい。 昨日もそうでしたが、初日も民は踊っておりました」
初日には紫揺は座を外していたが。
「お返事しなくっちゃいけないんですよね」
紫揺が何を言いたいのか分かったのか、此之葉が軽く頷いただけだった。
「昨日みたいなことになったら困るしなぁ・・・。 私、北の領土に居る時に、何度か小さくですけど花を咲かせてしまってたんです。 勝手に花が咲いたっていうか。 自分の意識のないところでです。 それで、向こうにいる時によくして下さった方がいらっしゃって、その方の助言で昨日は意識的に咲かすことが出来たんですけど、あれ程になるとは思っていなかったし、それについでに言うと・・・」
屋敷で物を破壊したことを言った。 “紫さまの書” で読んだ祖母程ではないと思うが、と希望的観測を添えて。
「だからいつ何やっちゃうか分からないんです。 お婆様の二歳の時と変わらない状態なんです」
此之葉が首を傾げた。
「破壊するということはないでしょうけど、加減が出来ないっていうか。 それに次は皆さんにどう応えてもいいかも分からないし」
「先の紫さまがお花を咲かせられたということは、書かれておりませんでした」
「・・・あ、そう言えば」
「あれ程に慈悲深いお方が、お花を咲かせるようなことがおありになかった・・・」
「あ、だってそれは、まだ二歳までの話でしょ? 慈悲もなにもない無い歳です」
「あやされれば、お笑いになっておられたはずです」
「ま、まぁ・・・そうかもしれません」
「私たちは紫さまのお力のことを詳しくは存じません。 先程のお話からすると、紫さまもよくご理解されていないようですが?」
「はい・・・。 さっきも言いましたが、よくしてくれた人から助言を受けて、考えただけです」
「こちらでお生まれになり育たれれば、それなりの自覚というものを身にお付けになられます。 それは母からの話、民からの話や態度で紫さまとはどういうお方かということを、ご自身でお分かりになられます。 ですが紫さまは、そのお話を何も聞かれておられませんでした。 お分かりになられないのは致し方ないことです」
「そういう風に言われたらそうかもしれないですけど」
「先程のお話ですが」
「はい?」
「本領でお伺いされませんか?」
此之葉の独断で言ったことである。 だがそれは、ついさっきまで領主の家にいた時に領主からの説明はなかったが、領主の独語を聞いたからだった。
此之葉は領主に茶を淹れるからと、紫揺のことは塔弥に任せ、紫揺の部屋まで付いてもらった。 茶を淹れ領主の前に置いた時に、両手で顔をさすりながら 『どうすれば、本領に行っていただけるか・・・』 とポツリとこぼしたのだった。
「は? 本領? 本領って!」
「どうぞ、お気をお静め下さい、マツリ様ではございません、シキ様にございます」
膝立ちになって紫揺の怒りを止める。 何故だかは分からないが、マツリに対しての怒りは此之葉もよくよく知っている。
「え?」
「マツリ様の姉上のシキ様でございます。 シキ様は先の紫さまを無くしたこの東の領土をずっとお気にされ、民を励まして下さっていました。 つい先日まで連日にこの領土に居て下さっておりました。 お心のお優しいお方です」
辺境にいる領主の息子たちから、連日朝から夜までシキが民に声を掛けていると連絡が入っていた。
民の心の内でとうとう紫さまへの想いが “いつかは” でなく “もう帰って来られないのでは” に変わってきていると言っていた。 それは諦めではなく悲しみとなっているというのであった。
『姉上兄上が領土を見てまわっておられる』
リツソの言っていたことを思い出した。 そうだ、あのマツリには姉がいたのだ。 その姉のことをリツソは 『父上様も恐いけど、父上様はジジ様に逆らえない。 ジジ様はオレの言うことを何でも聞いてくれる。 兄上は父上様に進言するけど・・・姉上に逆らえない』
質問に対する的を射た答えでないことを、無駄に長く言っていた。
要するに、マツリは姉上であるシキには逆らえないということだ。 あのマツリのことだ、仏頂面でシキという姉上に従っているのであろう。
――― その顔を見てみたい気がする。
だがその前に疑問がある。
「そう言えば、領主さんも言ってらっしゃったけど、どうして紫のことになると本領が出てくるんですか?」
「その昔、紫さまは本領からいらっしゃいました」
「え?」
「本領から独立するにあたって、五色(ごしき)様を本領から送られてきたのです」
「五色って・・・北の五色のことじゃないんですか?」
「北の五色様も五色様ですが、紫さまはお一人で五色(ごしょく)をお持ちの五色様です」
「そんなこと “紫さまの書” に書いてなかったはずです」
「はい。 それは領土史に書かれております」
「じゃ、私のルーツって本領っていうところなんですか?」
「るーつ? でございますか? それは良くは分かりませんが、事実として辿りましたら、本領が紫さまの祖がお暮しになっておられたところです。 ですが我ら東の領土はそんなことは考えておりません。 紫さまは東の領土のお人でございます」
「・・・」
自分が分からなくなってきた。 自分は日本人じゃなかったのか?
「紫さま?」
「・・・そのシキ様っていう人に会います。 どこへ行けばいいんですか?」
―――自分はいったい誰なのだ。
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「今日は “領土史” をお読みになったとか。 如何でしたか?」
「まだ一冊しか読めていないんで、よく分かりませんでした」
「そうですか。 そうですね・・・書蔵に行かれる時は梁湶にお声がけください」
「梁湶さんにですか?」
「領土で一番書蔵のことを知っていると思います。 紫さまがお知りになりたいことが書かれている書をすぐにお探し出来ると思います」
「そうなんだ。 今日は “領土史” を探すだけで時間がかかりましたから」
「どちらかに行かれる時には、お付きの誰かにお声がけください。 一番適したところをご案内いたしますので」
ハッキリ言って黙って出掛けるなよ、ってことである。
「そうですね」
そう言われれば、祭の後、書蔵に行けないと思っていたら、阿秀が人目につかない道を案内してくれたのだった。
「そうします」
その時、塔弥が入ってきた。 此之葉が塔弥の顔を見て驚いたが、既に治療はされているようだ。 すぐに領主を呼んで来ると部屋を出た。
「大丈夫ですか?」
「醜態をお見せしてお恥ずかしい限りです」
塔弥の返す言葉使いが気になる。
「私と塔弥さんって、遠い親戚になるんでしょ? 普通の話し方でいいんじゃないのかなぁ」
「いえ、私はあくまでも紫さまのお付きですので」
「そんなものなのかなぁ・・・。 ふふ、面白いことを思いついた。 もしかしてお婆様がお爺様にプロポーズした時にも、お爺様はそんなことを仰ったかもしれませんね」
「え?」
「今の塔弥さんを見てたら、充分に考えられます」
「あ・・・どうでしょうか」
どうしていいものか分からず、顔に手をやって誤魔化そうとする。 ずっと独唱と共に居たのだ。 こんな砕けたことなど初めてである。
「紫さま、お待たせしました」
領主が奥の部屋からやって来た。 此之葉の姿はない。
塔弥が礼をする。
「何かあったのか?」
紫揺が見つかったということは此之葉から聞いていた。 そして紫揺に変わった様子がないことも。 そうであるのならば紫揺の事は無事に終わったということ、敢えて何を訊く必要もなければ、訊くこと自体が憚られる。
座りながら、塔弥にも座るように目で合図をする。
領主の真向かいではなく、斜の席についた塔弥が先程紫揺が言ったことを領主に聞かせた。
一瞬驚いた顔を見せた領主だったが、すぐに疑問を紫揺に向けた。
「紫さま、その似た方と仰るのはどちらに?」
「じゃ、独唱様にご姉妹がいらっしゃるということですか?」
有り得ないところに居るのだから簡単に言えない。 確信を持ってからでないと。
領主と塔弥が目を合わせた。
「居ないんですか?」
二人の様子が普通ではない。
「これは、このことは私と塔弥、そして独唱様しか知りません」
コクリと紫揺が頷く。
「先の紫さまが北に攫われた日、塔弥の曾祖叔父も居なくなりました。 曾祖叔父があの崖に来ていたのは確かなことです。 阿秀の祖が、紫さまの一番近くにいた塔弥の曾祖叔父に紫さまをお守りするようにと言ったのですから。 塔弥の曾祖叔父は間違いなくあの争いの中で何かあったと考えられました。 ですが全く違うところでもう一人姿を消した者がおりました。 それが独唱様の姉上です」
まだ三歳だった独唱は、先代 “古の力を持つ者” の臥せる横に座っていたが、いつまで経っても水を替えに出た姉が戻って来ない。 外は暗くなりかけていた。 とうとう先代古の力を持つ者の横を離れて姉を探しに出たが僅か三歳。 どれだけ一生懸命歩いても大人の数歩にしかならない。 そんな時、姉が持って出たはずの桶が転がっていた。
不安だけが広がっているところに女が声を掛けた。 拙い口で事情を説明すると女がすぐに辺りを探したが姉が見つからない。 女がすぐに領主に言いに行ったが、既に領主は先の紫のことに動いていて “古の力を持つ者” はその後のことといわれてしまった。 そしてそのまま独唱の姉は見つからなかった。
「ということは・・・。 こちらに神隠しなんてあるんですか?」
「今までに聞いたことは御座いません」
「北に攫われた可能性が高いということでしょうか?」
「・・・」
腹の内に隠していたことをストレートに言われてしまった。
「でも言い伝えでは、北の者は先の紫さまだけしか見ていなかったと」
戸惑いながら塔弥が領主に問う。
「ああ。 たしかにそうだ。 だがそれ以外考えられん。 とは言っても、あのあと北の人間に制裁を加えた本領から何も言ってこなかったのだからな。 だからこの考えは腹の中に収めていた」
「そうですか。 ・・・人違いかもしれませんけど、私が見たのは・・・」
塔弥が紫揺を見る。 領主も組んでいた手を解いて紫揺を見た。
「北の、北の領土の人の日本にある屋敷で見ました」
「え!?」
「北の領土の人の屋敷というのは、領主さんのあっちの家と同じようなものです」
あっち、それは東の領土の日本での屋敷のこと。
「それは・・・あの島ということですか?」
「ご存知だったんですか? そうです。 二度しか会ったことはありませんが、お年頃も似てらっしゃいました。 お顔はそんなにじっと見たわけではないのですが、それでも一目でわかるほど似てらっしゃいました」
「北の人間の瞳の色をしておりませんでしたか?」
この東の人間の瞳の色は黒だが、北の人間の瞳の色はグレーだ。
「北の領土のことばかり考えていらっしゃいましたから、目をじっと見て話す気にもなれなくて。 見ていません、すみません」
初めて会った時には逃げ出したほどだったのだから。
「いいえ、そのような。 私の気が急き過ぎました」
途中まで下げかけた顔が止まり、ふっ、と領主が何かを思い出したような顔をした。
「・・・有り得る」
「領主?」
「北がどうして紫さまの居られる場所を特定できたのか」
『独唱様ならば幼かったといえど、幼少の頃の先の紫さまを知っている。 だからして、その気をもとに紫さまを追うことが出来たのだが、それでもかなりの疲労がついて回った。 それが、先の紫さまを知る事のない北の領土の人間が、紫さまを探し当てたとは、尋常ならぬ力の持ち主ではなかろうか』
船の上でそう思ったではないか。
「独唱様の姉上ならば可能だ」
可能どころではない。 先の紫と一緒にいたのは独唱よりよほど長い。
それは紫の気を追うに独唱以上であるということ。
領主は領主の考えの中に解決の糸口を見つけ、紫揺は紫揺で何かが引っ掛かることに気付いた。
「独唱様、独唱様、どくしょうさま・・・どくしょうさま」
紫揺が急に口の中で唱えだした。
「紫さま?」
「どくしょうさま、どくしょうさま・・・独唱様。 ・・・そうか」
塔弥と領主が首をかしげる。
「お名前を唱和(ショウワ)様って、仰いませんか?」
塔弥と領主が大きく目を開いた。
紫揺はショウワと聞かされて、ずっと漢字で “昭和” と覚えていた。 だが、独唱と姉妹だとするならば “昭和” ではなく “唱和” と考えられるではないだろうか。 この東の地は、お付きと言われる者の名をずっと受け継いでいるほどだ。 日本人より名前に対して想いが大きいはず。
独唱とは、一人で歌う事。 言ってみればソロ。 それに対して唱和とは、一方の作った詩歌に答えて、他方が詩歌を作ること。
遠い関係ではない。
紫揺が言った “唱和” それは独唱の姉の名前である。
ハッと音がするほどに息を吸った領主と塔弥。 あまりのことに、降ってわいた話に領主が次に何かを考えようとする前に塔弥が口を開いた。
「領主! 本領に申し出て―――」
「あ! こら! それを言うんじゃ―――」
紫揺に対しての禁句を言いかけた塔弥を止めようとしたが、時すでに遅し。 しっかりとある文節が紫揺の耳に入ってしまった。
[は? なに? 本領? 本領に申し出て? それでなんですか? まさかその後にお願いなんかするんじゃないですよね!」
紫揺が立ち上がって領主を見据える。
「言いましたよね! あの! あの! マツリにお願いごとなんてするくらいなら死んだ方がマシってっ!!」
「いえ、あの・・・」
居てはいけないのだろうと、座を外していた此之葉が紫揺の大声に驚いて飛び込んできた。 目に映ったのは立ち上がっている紫揺が腰に手を当て、隣に座る領主を睨み据え、当の領主は紫揺に身体を向け椅子から落ちそうなくらいそっくり返っている。 塔弥は意味が分からないといった顔で、入ってきた此之葉を見た。
「今日はどうなさいますか?」
湯呑を置いた此之葉が紫揺に尋ねている。 今日が最後の祭だ。 昨日のように顔を出すのかどうかを訊いている。
彰祥草の飾られた昼食の箸を置き、茶を飲んでいる時だった。
「・・・どうしましょうか。 昨日みたいに紫に・・・私に会えた喜びっていうのを、今日も踊るんですか?」
そうなればまたそれなりに返事をしなくてはいけない。
「はい。 昨日もそうでしたが、初日も民は踊っておりました」
初日には紫揺は座を外していたが。
「お返事しなくっちゃいけないんですよね」
紫揺が何を言いたいのか分かったのか、此之葉が軽く頷いただけだった。
「昨日みたいなことになったら困るしなぁ・・・。 私、北の領土に居る時に、何度か小さくですけど花を咲かせてしまってたんです。 勝手に花が咲いたっていうか。 自分の意識のないところでです。 それで、向こうにいる時によくして下さった方がいらっしゃって、その方の助言で昨日は意識的に咲かすことが出来たんですけど、あれ程になるとは思っていなかったし、それについでに言うと・・・」
屋敷で物を破壊したことを言った。 “紫さまの書” で読んだ祖母程ではないと思うが、と希望的観測を添えて。
「だからいつ何やっちゃうか分からないんです。 お婆様の二歳の時と変わらない状態なんです」
此之葉が首を傾げた。
「破壊するということはないでしょうけど、加減が出来ないっていうか。 それに次は皆さんにどう応えてもいいかも分からないし」
「先の紫さまがお花を咲かせられたということは、書かれておりませんでした」
「・・・あ、そう言えば」
「あれ程に慈悲深いお方が、お花を咲かせるようなことがおありになかった・・・」
「あ、だってそれは、まだ二歳までの話でしょ? 慈悲もなにもない無い歳です」
「あやされれば、お笑いになっておられたはずです」
「ま、まぁ・・・そうかもしれません」
「私たちは紫さまのお力のことを詳しくは存じません。 先程のお話からすると、紫さまもよくご理解されていないようですが?」
「はい・・・。 さっきも言いましたが、よくしてくれた人から助言を受けて、考えただけです」
「こちらでお生まれになり育たれれば、それなりの自覚というものを身にお付けになられます。 それは母からの話、民からの話や態度で紫さまとはどういうお方かということを、ご自身でお分かりになられます。 ですが紫さまは、そのお話を何も聞かれておられませんでした。 お分かりになられないのは致し方ないことです」
「そういう風に言われたらそうかもしれないですけど」
「先程のお話ですが」
「はい?」
「本領でお伺いされませんか?」
此之葉の独断で言ったことである。 だがそれは、ついさっきまで領主の家にいた時に領主からの説明はなかったが、領主の独語を聞いたからだった。
此之葉は領主に茶を淹れるからと、紫揺のことは塔弥に任せ、紫揺の部屋まで付いてもらった。 茶を淹れ領主の前に置いた時に、両手で顔をさすりながら 『どうすれば、本領に行っていただけるか・・・』 とポツリとこぼしたのだった。
「は? 本領? 本領って!」
「どうぞ、お気をお静め下さい、マツリ様ではございません、シキ様にございます」
膝立ちになって紫揺の怒りを止める。 何故だかは分からないが、マツリに対しての怒りは此之葉もよくよく知っている。
「え?」
「マツリ様の姉上のシキ様でございます。 シキ様は先の紫さまを無くしたこの東の領土をずっとお気にされ、民を励まして下さっていました。 つい先日まで連日にこの領土に居て下さっておりました。 お心のお優しいお方です」
辺境にいる領主の息子たちから、連日朝から夜までシキが民に声を掛けていると連絡が入っていた。
民の心の内でとうとう紫さまへの想いが “いつかは” でなく “もう帰って来られないのでは” に変わってきていると言っていた。 それは諦めではなく悲しみとなっているというのであった。
『姉上兄上が領土を見てまわっておられる』
リツソの言っていたことを思い出した。 そうだ、あのマツリには姉がいたのだ。 その姉のことをリツソは 『父上様も恐いけど、父上様はジジ様に逆らえない。 ジジ様はオレの言うことを何でも聞いてくれる。 兄上は父上様に進言するけど・・・姉上に逆らえない』
質問に対する的を射た答えでないことを、無駄に長く言っていた。
要するに、マツリは姉上であるシキには逆らえないということだ。 あのマツリのことだ、仏頂面でシキという姉上に従っているのであろう。
――― その顔を見てみたい気がする。
だがその前に疑問がある。
「そう言えば、領主さんも言ってらっしゃったけど、どうして紫のことになると本領が出てくるんですか?」
「その昔、紫さまは本領からいらっしゃいました」
「え?」
「本領から独立するにあたって、五色(ごしき)様を本領から送られてきたのです」
「五色って・・・北の五色のことじゃないんですか?」
「北の五色様も五色様ですが、紫さまはお一人で五色(ごしょく)をお持ちの五色様です」
「そんなこと “紫さまの書” に書いてなかったはずです」
「はい。 それは領土史に書かれております」
「じゃ、私のルーツって本領っていうところなんですか?」
「るーつ? でございますか? それは良くは分かりませんが、事実として辿りましたら、本領が紫さまの祖がお暮しになっておられたところです。 ですが我ら東の領土はそんなことは考えておりません。 紫さまは東の領土のお人でございます」
「・・・」
自分が分からなくなってきた。 自分は日本人じゃなかったのか?
「紫さま?」
「・・・そのシキ様っていう人に会います。 どこへ行けばいいんですか?」
―――自分はいったい誰なのだ。