元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「イコライザー2」

2020-11-14 07:02:25 | 映画の感想(あ行)

 (原題:THE EQUALIZER 2 )2018年作品。前作(2014年)ほどには面白くない。ただ、これはこれで退屈せず最後まで観ていられる。もともと80年代にアメリカで放映されていたテレビドラマ「ザ・シークレット・ハンター」の映画版なので、シリーズ化を見込んだ上での一作ということで割り切れば、まあ許せるレベルだと言えるだろう。

 ボストンでタクシーの運転手をやっているロバート・マッコールは、実は元CIAの凄腕エージェントだ。夜は法で裁けない社会の悪を退治する“仕事人”に変身して、ワルどもの“排除”に励んでいる。ある日、かつての上司スーザンが出張先のブリュッセルで何者かに殺されるという事件が発生。その際のカメラ映像を入手したマッコールは、明らかに自分と同じようなプロのエージェントの犯行であると確信する。その背後には、マッコールがCIAに籍を置いていた際の“ある出来事”が関係しており、彼はその“過去の亡霊たち”との闘いを強いられることになる。

 前回のマッコールの職業はホームセンターの店員で、ショップに置いてあるものを“仕事”に利用するあたりは愉快だったが、今回はそんな愛嬌は無い。敵の設定もありきたりだ。そもそも、事件がヨーロッパで起こったのに悪者の皆さんがわざわざ帰国し、主人公の実家にまで足を運んでくれるという御都合主義には苦笑するしかない。

 マッコールは相変わらず強く、ピンチらしいピンチも無く流れ作業のように敵を片付ける。これだけの大暴れをしていながら、警察当局の捜査がまるで及んでいないのも苦笑する。しかしながら、クライマックスの嵐の中での死闘はアイデアが満載で飽きさせない。前回の少女娼婦のように主人公に絡んでくる若造として、画家志望の青年が出てくるが、この扱いもけっこうサマになっている。

 アントワン・フークアの演出は大味だが、盛り上げるべき箇所はしっかりと押さえてある。主演はパート1に続いての登板になるデンゼル・ワシントンで、存在感と顔の圧の強さによって無理筋のストーリーをパワフルに押し進めていく。ペドロ・パスカルにアシュトン・サンダース、オーソン・ビーン、ビル・プルマン、そしてメリッサ・レオといった脇の面子も悪くない。
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「スパイの妻」

2020-11-13 06:37:55 | 映画の感想(さ行)
 黒沢清監督作品としては、ひどくつまらない。話の設定はもちろん、展開やキャストの演技なども評価するに値しない。第77回ヴェネツィア国際映画祭での銀獅子賞(最優秀監督賞)の獲得は、いわば“功労賞”と言うべきもので、この映画での仕事に対して贈られたものではないことを認識すべきかと思う。

 戦前の神戸で貿易会社を営んでいた福原優作は、その手腕で妻の聡子と共に地元の名士としての人望も厚かった。しかし1940年に訪れた満州の奥地で、彼は国際問題にも発展する重大な事実を知ってしまう。優作はそのことを世界に公表しようと決意するが、軍当局はスパイ容疑で監視するようになる。やがて、優作は聡子と一緒に思い切った行動に出る。



 満州で日本軍によって行われていた重大な行為とは731部隊での一件であると思われるが、いくら企業経営者とはいえ、優作のような民間人が軍の機密事項に接触できるはずがない。そもそも、優作の主義主張には説得力がゼロだ。彼は“自分はコスモポリタンだ”と言い、軍の狼藉を広く知らしめようとするのだが、その目的はどうやら不当行為の告発ではなく、日本国の壊滅であるらしい。

 百歩譲って彼がコスモポリタンだとして、日本はもちろん世界中の国々の主権を否定してもよさそうなものだが、彼が欲しているらしいのは“日本のみの消滅”なのだ。しかも、軍の違法行為を目撃しただけで、簡単に極端なニヒリズムに走ってしまう。これではまるで性格破綻者ではないか。題名にあるような“スパイ”にも成りきっていない。こんなのに付き合わされる部下の竹下や妻の聡子こそ、いい面の皮だ。

 そして聡子が夫を疑うくだりにも、サスペンスは皆無。伏線の張り方がわざとらしく、観ていてシラけてしまう。終盤のオチは誰でも読めるし、それを登場人物たちが大袈裟に驚いているあたりは、もはや茶番としか思えない。黒沢の演出には今回は光る箇所は無く、凡庸な仕事ぶりだ。本作がテレビ番組の再編集版だということを差し引いても、彼らしい才気は認められない。

 出演者では聡子に扮した蒼井優が目立っていたが、彼女にとってはさほど“本気”を出せる役柄ではない。ラストの大芝居なども“軽く流した”程度に見えてしまう。優作役の高橋一生は物足りない。もっと海千山千の俳優を持ってくるべきだった。

 そして酷かったのが将校を演じた東出昌大で、相変わらずの大根ながら、出番は無駄に多い。くだんのスキャンダルで“消えた”と思っていたら、いつの間にか仕事が回ってきているという、日本映画界の憂慮すべき実態をあらわしている(苦笑)。映像面でも見るべきものは無く、良かった点といえば衣装デザインぐらいだ。黒沢監督には純然たる劇場用作品にて本領を発揮してもらいたい。
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「博士と狂人」

2020-11-09 06:28:33 | 映画の感想(は行)

 (原題:THE PROFESSOR AND THE MADMAN)堂々とした風格のある映画で、見応えがある。手際良くまとまった脚本と、揺るぎない演出。キャストの的確な仕事に、見事な映像と美術。扱う題材も興味深いが、それ以上に観る者の内面を触発する示唆に富んだモチーフの積み上げに感心した。今年度の外国映画を代表する秀作だ。

 19世紀末のイギリス。オックスフォード大学出版局は世界最高峰の英語辞典の製作に着手していた。その責任者に任命されたのが在野の言語学のエキスパートである、スコットランド人のジェームズ・マレーだった。ところが大量のデータを処理する必要のある編纂作業は困難を極め、進捗は芳しくない。そこにマレー充てに有用な資料を送ってくる謎の協力者が現れる。その正体は、アメリカ人の元軍医で精神を病んだ殺人犯のウィリアム・チェスター・マイナーだった。オックスフォード英語大辞典の誕生秘話を描いたサイモン・ウィンチェスターによるノンフィクションの映画化だ。

 叩き上げの研究者と、精神病院に収監された異能の才人という組み合わせは興味深いが、それ以上に2人のキャラクターは良く掘り下げられており、容赦ない内面描写には圧倒される。コンプレックスを抱えたまま、家族にも負担をかけて苦行に挑もうとするマレーの決意には感服するしかない。

 対して、南北戦争で大きなトラウマを抱え錯乱した挙げ句に殺人を犯したマイナーの苦悩もまた、観ていて身を切られるほどに厳しい。犠牲者の未亡人イライザに対する想い、罪の意識と赦し、身を挺して使命を貫徹しようとするマイナーの生き様には、大いなる映画的趣向が創出される。もちろん、世界一の辞書の製作という題材の面白さも十分に表現されていて、特に言葉の持つ奥深さや魔力の表現には端倪すべからざるものがある。

 特に文字を読めなかったイライザが、マイナーから単語を一つ一つ教わるたびに、視野と語彙をどんどん広げていく様子の描写は効果的だ。そしてマレーに対しては出版側や論壇からの圧力、マイナーには無謀な“治療法”を強いる病院側と、度重なる逆境に置かれる2人の苦闘とそれらの克服を粘り強く追う作劇は申し分ない。

 これが初監督作品になるP・B・シェムランの仕事は的確で、弛緩した部分が無い。キャストでは何といってもマレー役のメル・ギブソンと、マイナーに扮したショーン・ペンとの演技合戦が見ものだ。特にペンは彼にとって最良の演技の一つである。イライザを演じるナタリー・ドーマーとマレーの妻役のジェニファー・イーリーのパフォーマンスも申し分ないが、看守のマンシーに扮したエディ・マーサンが儲け役だ。音楽担当のベア・マクレアリーとカメラマンのキャスパー・タクセンはあまり聞かない名前だが、とても上質の仕事をしていて感心した。
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「ある画家の数奇な運命」

2020-11-08 06:29:33 | 映画の感想(あ行)
 (原題:WERK OHNE AUTOR )最初の方こそ面白かったが、映画が進むと展開が平板になり、結局は要領を得ないまま終わる。上映時間は3時間を超えるものの、大事な部分は十分に描かれておらず、反対にどうでもいいモチーフに尺が充てられている。かなり世評の高い映画ではあるが、個人的には冗長なシャシンとしか思えない。

 ナチ政権下のドレスデンに暮らす少年クルト・バーナートは、若い叔母エリザベトの影響で芸術に親しむ日々を送っていた。しかしエリザベトは統合失調症を患っており、当局側によって強制的に入院させられた挙句、安楽死政策により“処分”されてしまう。終戦後、クルトは地元の美術学校に進学し、そこで出会ったエリーと恋に落ちる。



 ところがエリーの父親で医師であるカールは、かつてエリザベトをガス室に送った張本人であった。クルトとエリーはそのことに気づかぬまま結婚するが、次第に東ドイツの抑圧的な体制に疑問を抱くようになったクルトは、ベルリンの壁が築かれる直前、エリーと共に西側に亡命。デュッセルドルフの美大に通いながら、創作に没頭していく。

 エリザベトをめぐる序盤のエピソードから、ドイツが戦火に覆われる展開までは本当に面白い。まるで歴史大河ドラマのような風格だ。ところがドラマが成長したクルト中心に動くようになると、映画は失速気味になる。一番の敗因は、クルトの芸術に対する執着が十分に描かれていないことだ。

 高名な芸術家を主人公にした映画は数多いが、いずれもアートに身も心も捧げたような切迫した心境を描こうとしていたし、そのモチーフが無ければ芸術家を題材にする意味がない。ところが本作には、そのような切羽詰まった主人公の焦燥が見当たらない。何となく美術に興味を持ち、何となくスキルを身に着け、何となくスランプになって何となく新しい技法を“発明”する。そこには狂おしいほどの情熱は見られず、クルトは単なる“絵の上手いアンチャン”でしかない。

 しかも、悩んだ末に編み出したというクルトの新機軸には、何らインパクトを覚えないのだ。この映画は現代美術界の巨匠ゲルハルト・リヒターの半生をモデルにしているらしいが、映画の中ではクルトはあくまで架空の人物であり、リヒター本人ではない。このことが、芸術に対する淡白な姿勢のエクスキューズになっていると言えなくもないが、とにかく絵空事みたいな展開が延々と続くのだけは勘弁してほしい。

 かと思えば、カールにまつわる秘密にクルトが向き合うパートは、意外なほど軽く扱われている。また、西ドイツに亡命するくだりにもサスペンスは無い。いくらでも盛り上げられる個所だが、作者はそのことに興味が無いのには閉口するしかない。

 実を言えばフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督の出世作「善き人のためのソナタ」(2006年)にも手ぬるい描写はあったのだが、尺が本作みたいな長さではなかったのでさほど気にならなかった。だが、この長時間映画では欠点が目立つ。主演のトム・シリングはよくやっていたとは思うが、演出も相まって印象は薄い。セバスチャン・コッホやパウラ・ベーア、オリヴァー・マスッチといった脇の面子の方が目立っている。またエリザベトに扮するサスキア・ローゼンダールはキレいでエロくて魅力的だが(笑)、出番が短いのは残念だ。なお、キャレブ・デシャネルの撮影とマックス・リヒターの音楽は及第点だと思う。
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「ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ」

2020-11-07 07:02:10 | 映画の感想(ら行)

 (原題:THE LAST BLACK MAN IN SAN FRANCISCO )面白そうな場面はあるのだが、全体的に薄味かつ散漫な印象で求心力があまり感じられない。かと思えば、時折取って付けたようなメッセージ性が強調されて、観ていて居心地が悪い。聞けば2019年のサンダンス映画祭の監督賞と審査員特別賞を受賞したとのことだが、それほどのシャシンとは思えない。

 サンフランシスコで生まれ育った黒人青年のジミーは、介護士をしながら親友で脚本家志望のモントの家に居候している。彼の興味の対象は、山の手にあるヴィクトリア様式の美しい邸宅だ。かつてこの家でジミーは両親と暮らしていたが、父親は経済的に維持できずに家を手放してしまった。それ以来、いつかこの家を取り戻そうと心に誓っている。ある日、ジミーは現在の家主が売りに出したことを知る。早速彼はモントと共にその家に忍び込み、家具を持ち込んで勝手に暮らし始める。だが、この物件の持ち主である不動産屋は、ジミーたちの思惑には関係なくドライに仕事を進めるのだった。

 冒頭、防護服に身を包んだ者たちが、海岸で廃棄物を撤去しているシーンが映し出される。そして、近くには環境保護を訴えて演説している男がいる。また、劇中では件の邸宅周辺は今はブルジョワの白人しか住んでいないことが示される。要するに“昔は良かったが、現在は環境が悪化した世知辛い街になってしまった”という懐古趣味を前面に出しているわけで、そんな後ろ向きのスタンスにまず脱力してしまう。

 そもそも、ジミーはどうしてモントと親友になったのかが推察できないし、この2人が罪の意識も無く他人の家に不法侵入するあたりもまったく共感できない。ジミーがこの家に執着するのは“以前住んでいたから。その頃は幸せだったから”という感傷以外に理由は見当たらず、自らの境遇を改善しようという意思が見受けられない。

 誰だって過去のノスタルジーに浸ることはあるが、それだけに拘泥するのは愚かでしかない。何しろ父親は別の場所に住んでいてあの家には未練はないし、母親に至っては偶然ジミーと会うまでどこに暮らしているか分からない始末だ。モントは劇作家を目指しているというが、ラスト近くでの“仕事の成果”を見る限り、大して才能があるとは思えない。こんな2人が見果てぬ夢を追っても、ドラマ的な興趣は生まれない。

 ただし、サンフランシスコの町は効果的に描かれている。金門橋や市電などの観光名所の風景はカラリとした明るさは無く、主人公たちの姿を象徴するかのように灰色に沈んでいる。2人が坂道をスケートボードで移動するシーンの絵面は面白い。ジョー・タルボットの演出はメリハリが不足していて平板だ。主演のジミー・フェイルズとジョナサン・メジャースはどうもパッとしない。ただ、ダニー・グローヴァーが久々に元気な姿を見せてくれたのは嬉しかった。
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「ラ・バンバ」

2020-11-06 06:23:22 | 映画の感想(ら行)

 (原題:La Bamba)87年作品。公開当時は話題になった映画だが、出来の方も良い。夭折した実在のロックスターを主人公に、その“周囲”を丁寧に描き、青春映画としてかなりのレベルに達している。そしてもちろん、大ヒットしたテーマ曲をはじめ劇中で流れるナンバー、および演者たちのパフォーマンスは素晴らしいの一言だ。

 1957年。ブドウ農場で働く16歳のリッチー・バレンズエラは音楽好きで、いつかプロデビューして家族の生活を楽にさせたいと思っていた。ある日、刑務所に入っていた兄のボブが出所して帰宅する。父親が違って性格も正反対の2人だが、仲は良かった。如才ないボブは、一家をロスアンジェルス郊外の町暮らしへ生活を変えてやる。

 リッチーは新たに通い始めた学校で、ブロンドの少女ドナと仲良くなり、同時に地元のバンドに加入。悪酔いしたボブのためにデビューコンサートは散々な出来に終わったが、その演奏を聴いていたデルファイ・レコードのプロデューサーであるボブ・キーンはリッチーの実力を認め、レコード会社と契約することを奨める。やがて頭角を現したリッチーは、次々とヒット曲を生み出すのだった。バディ・ホリーらと共に飛行機事故により17歳で世を去った、リッチー・ヴァレンズの生涯を描く。

 リッチーとボブの関係性は興味深い。明るくて誰からも好かれ、音楽の才能にあふれた弟に対し、いくらか弁は立つが、所詮は風采のあがらない凡人のボブ。映画はこの2人を対比し、運命の残酷さをリアリスティックに描き出す。特に、ただ生き残っただけというボブの境遇には観ていて身を切られるものがある。

 それから、本作にはマイノリティである主人公が直面する偏見や差別が意外なほど取り上げられていない。せいぜい、白人であるドナの親がリッチーに対していい顔をしないぐらいだ。これは別に手を抜いているわけではなく、平等のチャンスを与えられたアメリカ人としてアメリカン・ドリームを追い求めた主人公像を描く上で、さほど重視する必要が無いと割り切ったためだろう。

 ルイス・ヴァルデスの演出はテンポが良く、かつ堅実だ。本来は製作担当のテイラー・ハックフォードが監督する予定だったらしいが、ハックフォードの演出タッチではこれほど盛り上がらなかったと想像する(笑)。主演のルー・ダイアモンド・フィリップスをはじめ、イーサイ・モラレス、ロザンナ・デ・ソート、ダニエル・フォン・ゼルニックなどのキャストは皆好演。ロス・ロボス、カルロス・サンタナなど、同じラテン系のミュージシャンによる音楽には文句の付けようが無い。
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「シカゴ7裁判」

2020-11-02 06:25:55 | 映画の感想(さ行)
 (原題:THE TRIAL OF THE CHICAGO 7)アメリカ現代史における重要な事件を扱っているとのこと。しかし、映画を観る限りどうもピンと来ない。法廷劇らしいスリリングなタッチを期待していたが、題材へのアプローチや演出に問題があったとしか思えず、展開が平板で中盤あたりでは観ていて眠気との戦いに終始した。

 1968年8月。シカゴで開かれていた民主党の全国大会では、大統領選の候補者たちのベトナム戦争に対する見解をめぐって活発な議論が行われていた。同じ頃、会場近くのグランド・パークでは、ベトナム戦争に反対する多くの活動家や市民たちの集会が開催されていたが、その中の一部が民主党大会の会場に押しかけようとして警官隊と衝突する。この騒ぎで双方合わせて数百名の負傷者を出し、暴動を扇動した容疑でデモ参加者のうち、リーダー格のトム・ヘイデンをはじめ何人かが逮捕される。大陪審は彼らを起訴し、翌年9月より地裁にて公判が始まる。



 実際の法廷での質疑がどうだったのかは知らないが、ここで描かれる裁判の様子はメリハリが無く漫然と流れていくように思える。せいぜい当時の判事の無能ぶりがクローズアップされる程度で、映画的興趣に乏しい。弁護側と被告人たちとの情報共有や打ち合わせの描写も、何ら目立った進展が無く退屈なだけだ。

 前職の司法長官が証人として呼ばれるくだりでようやく盛り上がるかと思われたが、事態を打破する有効な決め手とはなり得ずにドラマは停滞する。裁判が長引いた挙句、ようやく終盤で事件の全貌が見え始めるのだが、これが釈然としない様相を呈している。今までの審議はいったい何だったのかと言いたくなるほどだ。こんな調子でラストに“感動的”みたいなモチーフを挿入しても、場が白けるだけだ。そもそも、本件では警官側の逮捕者も出ているのだ。そちらの顛末もフォローしなければ物語として不完全なものになるだろう。

 アーロン・ソーキンの演出は冗長で盛り上がりに欠ける。ヘイデンを演じる英国人俳優エディ・レッドメインには、アメリカ人のアンチャン役は似合わない。アレックス・シャープやサシャ・バロン・コーエン、ジョン・キャロル・リンチといった脇の面子も精彩を欠く。フランク・ランジェラやマイケル・キートンといったベテラン勢も、真価を発揮できていない。本国では好意的な受け止められ方をしているらしいが、何となく取り上げた題材のイデオロギー性だけで突っ走っている感じで、個人的には評価しがたい。
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「ミッドナイトスワン」

2020-11-01 06:55:35 | 映画の感想(ま行)
 本年度のワーストワンを争うこと必至の駄作である。話が支離滅裂であるだけではなく、各キャラクターにまったく感情移入できず。果ては不快なシーンの連続と、評価できる箇所がほとんど無いという惨状だ。明らかに企画段階で製作を差し止めるべきネタであり、いったいプロデューサーは何をやっていたのかと、文句の一つも言いたくなる。

 新宿のニューハーフショークラブで働くトランスジェンダーの凪沙のもとに、故郷の広島から姪の一果がやってくる。中学生の彼女は、実家でのネグレクトに耐えきれないため、期間限定で凪沙に預けられることになったのだ。伯父の姿を“男性”であったときの写真でしか知らなかった一果は戸惑うが、とりあえず共同生活を始めることにした。やがて凪沙は、一果にはバレエの才能があることを知る。そのため、何とかして彼女の夢を叶えるために奔走するのだった。



 まず、いくら親戚とはいえ狭いアパートで一人暮らしの独身男に一果が身を寄せるという設定には無理がある。そして、最初は反発しあっていた凪沙と一果がどのようなプロセスで心を通わせたのか、そのあたりが全く描けていない。一果にはバレエの経験があったらしいが、裕福ともいえない荒れた家庭環境にあって、いつバレエのレッスンを受けられたのか不明。中盤で、飲んだくれの母親が突然上京するあたりは面食らったが、それ以降の展開はもう滅茶苦茶だ。

 怪しげな男に貢いで身を持ち崩す凪沙の同僚や、ケガのためバレエを断念せざるを得なくなる一果の友人りんの運命、凪沙が転職して柄にもなく力仕事に挑戦するくだりなど、いくつものエピソードが散りばめられていながら、どれも尻切れトンボのまま放置される。そして、いつの間にか時が過ぎ、終盤には映画は取って付けたような愁嘆場に突入。凪沙と一果はどう考えても理に適っていない行動をとった挙句にラストを迎える。

 また、りんに誘われた一果が足を踏み入れる怪しげなフォトスタジオや、りんの家族のマンガチックな造形、ヤンキーの溜まり場みたいな東広島の街の風景、さらには後半に凪沙が被る不幸の描写など、不愉快極まりないモチーフがてんこ盛りで、大いに気分を害した。監督の内田英治はシナリオも手掛けているが、ドラマツルギーの何たるかが分かっていないと思われる。しかも多分に自己満足的な要素を詰め込み、観る者を疲れさせるばかり。

 主演の草なぎ剛はかなりの熱演だと思う。しかし、映画自体が斯様な状態なので、その努力が報われているとは言い難い。佐藤江梨子に根岸季衣、水川あさみ、田口トモロヲなどの顔ぶれも精彩を欠く。そしてヒドかったのが一果に扮した新人の服部樹咲で、ほとんど演技をしていない。これではただの“バレエの上手い女子”であり、映画に出すならばキチンとした演技指導が必要だった(りんを演じる上野鈴華の方が、いくらかマシ)。しかしながら、本作は世評は決して低くはない。やはり元SMAPとか、ああいう系列の者が出演する映画には“固定票”が入るのだろう。
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