元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「夢の祭り」

2019-06-14 06:32:03 | 映画の感想(や行)
 89年作品。ひょっとしてこれは、デミアン・チャゼル監督の「セッション」(2014年)と似た構造の映画なのかもしれない。もちろん「セッション」ほどのヴォルテージの高さは無いが、日本映画で音楽の何たるかをこれだけ追求した作品というのは珍しいと思う。

 昭和初期の津軽の農村。小作人の息子の健吉は大の津軽三味線のファンで、いつか隣村の地主の息子である勇造に祭りの三味線競争で勝つこと夢見ていたが、家は貧しいので三味線も持っていなかった。ある日畑仕事に精を出すことを条件に、父親から三味線を買ってもらう。喜び勇んだ健吉は、津軽で屈指の三味線の名手に教えを請いつつ、猛練習を重ねる。ところが祭りの当日、勇造は事前に盗み聴きした健吉のアドリブのフレーズを使って先に演奏してしまう。動揺した健吉は敗れ去り、恋仲であった幼馴染みのちよも勇造に奪われてしまう。



 健吉は失意のうちに師匠と修行の旅に出かけるが、途中で師匠は死去。すると健吉は、当代一の達人である津村信作を訪ねて弟子入りを志願する。信作のレッスンは超ハードだったが、健吉は何とか食らいつく。そして再び祭りの三味線競争の日がやってきた。直木賞作家の長部日出雄が自身の原作を元に監督も出掛けている。

 ハッキリ言って、筋書きは上出来ではない。雪山の奥深くに隠遁生活を送る津軽三味線の名人と、彼に寄り添って暮らすナゾの女に関する詳細な描写は存在せず、名人はどうして一度は三味線を捨てたのかはまるで不明。主人公とちよとの仲も扱い方が中途半端。そして何より、健吉がなぜ津軽三味線に傾倒していたのか、その理由もハッキリしない。

 だが、観ていてそれほど違和感を覚えないのは、本作が紛れもなく音楽映画だからだ。主人公(および名人)の三味線に対する度を越した執着は、通常のドラマツルギーをなぎ倒してしまうパワーがある・・・・という作者の達観(≒決めつけ)が横溢している。まさに“矛盾点が残るだけ合戦は盛り上がるのだ”と言わんばかりだ。さらにラストの強引さには、呆れるより前に感心してしまった。

 主演の柴田恭兵は熱演。有森也実に佐野史郎、馬渕晴子、宮下順子、佐藤慶、加賀まりこ等、キャストはけっこう豪華(明石家さんままで顔を出している)。また、三味線大会の勝敗の付け方も興味深かった。
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「12か月の未来図」

2019-06-10 06:37:50 | 映画の感想(英数)

 (原題:LES GRANDS ESPRITS)「パリ20区、僕たちのクラス」(2008年)や「バベルの学校」(2013年)など、フランス映画は教育現場を舞台にしたメッセージ性の強いドラマを作るのが得意だが、本作も見応えがある。また提起される問題はヘヴィであるが、青筋立ててシュプレヒコールを叫ぶようなことは決してなく、ユーモアを交えてのスマートな語り口も魅力だ。

 パリの私立進学校で国語を教えるベテラン教師フランソワ・フーコーは、日頃より“地方の教育困難校にも経験豊富な教師を送り込み、改革に当たるべきだ”との持論を吹聴していた。その意見が偶然に政府高官の耳に入り、“素晴らしい主張だ。ならば本人から率先垂範してもらおう”とばかりにパリ郊外の中学校へ1年間限定で派遣されることになってしまう。

 気の進まないまま赴任してみると、治安の悪い土地柄を反映するかのように、フランソワの受け持つクラスも学級崩壊状態だ。挨拶がわりに実施した書き取りテストも、話にならないレベル。生徒の中でもセドゥは札付きの問題児で、教師の間では退学候補者としてリストアップされていた。成り行きとはいえ、現場改革の旗振り役を任じられたフランソワは、複雑な家庭環境によって難しい立場にいるセドゥを、何とかして退学処分から救おうと奔走する。

 通常、こういう“落ちこぼれ生徒と熱血教師”という図式は純然たるフィクションとしての訴求力はあるが、少しでもリアリズムに振った作劇を伴う映画においては、途端に嘘っぽくなるものだ。しかし本作は実録物のような雰囲気がありながら、絵に描いたようなフランソワの教師としての奮闘が強い説得力を持つに至っている。それはひとえに設定の巧みさだろう。

 藪蛇的に問題校に勤めるハメになったとはいえ、主人公は進学校では実績を積んでいた。しかも、成果を上げる必要はあるし、有名人の父親や妹に対する抵抗の意味合いもある。そして何より、フランソワが国語教師だということは大きい。文学の造詣が深い彼は「レ・ミゼラブル」の面白さを熱心に説き、少しずつ生徒の関心を集めていく。物語の力はどんな者でも振り向かせるという作者の信念(≒真実)が、映画に求心力を持たせている。

 しかも、このクラスは見事なほどの“他民族”の構成であり、それが(遅かれ早かれ)世界中の教育現場の実態になるという示唆は、大いに参考になる。オリヴィエ・アヤシュ=ヴィダルの演出はソツが無く、自然体で主題を浮かび上がらせる。主役のドゥニ・ポダリデスも妙演だ。
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「赤い薔薇ソースの伝説」

2019-06-09 06:22:07 | 映画の感想(あ行)

 (原題:COMO AGUA PARA CHOCOLATE)92年メキシコ作品。妙な映画で、決して幅広い層に奨められるシロモノではないのだが、不思議な吸引力はある。少なくとも“グルメ映画”としての価値は誰しも認めるところであろう。93年度の英国アカデミー賞において、外国語作品賞にノミネートされている。

 19世紀末、メキシコ革命の頃。リオ・グランデ川近くにある農家の15歳の娘ティタは、ペドロという若者と相思相愛になり、婚約する。しかしティタの母親エレナは、末娘は親の面倒を最後まで見なければならないという家訓に則り、結婚を許さない。さらにはペドロにはティタの姉ロサウラを嫁に薦めるのだった。どうしてもティタのそばで暮らしたいペドロは、これを承諾してしまう。

 ところが結婚式の当日、おかしなことが起きる。ウェディングケーキを食べた参列者が突然泣き出したのだ。そのケーキは、ティタが今は亡き家政婦のナチャのことを思って嘆き悲しみながら作ったものである。実はティタに、料理を通して自分の気持ちを人に伝えることができる不思議な能力が発動したのだ。こうしてティタは、予測不可能な人生を歩むことになる。

 タマネギにまつわる冒頭のシークエンスから、ラテン・アメリカ文学や映画が得意とする伝奇的リアリズムの雰囲気が充満する。料理が持つ力を描いた作品としてはガブリエル・アクセル監督の傑作「バベットの晩餐会」(87年)を思い出す向きが多いだろうが、本作はあれほどの高踏的な芸術性は無い代わりに、人間が誰しも持ち合わせるプリミディヴな部分にコミットしてくる。まさしく料理とは、言葉や理屈を通さずに相手の感情に直接触れる思いそのものなのだろう。

 革命軍や幽霊といった、まさしく浮き世離れしたモチーフが次々と出てくるにも関わらず、少しも違和感を覚えないのは、優れた料理が非日常を現出させるほどに形而上的な存在であることを押さえているためだと思われる。

 アルフォンソ・アラウの演出は奇態な題材を扱ってはいるわりにはオーソドックスで、映画が空中分解することはない。エマニュエル・ルベツキのカメラによる映像は、オレンジ色を基調にした独特の美しさを実現している。ティタ役のルミ・カヴァソスは好演。彼女は本作で第5回東京国際映画祭において主演女優賞を受賞している。
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「轢き逃げ 最高の最悪な日」

2019-06-08 06:49:52 | 映画の感想(は行)

 捻ったストーリーで観客を翻弄しようとして、物語の根幹部分が崩壊するに至るという、何ともやりきれない映画だ。有名俳優が演出(および脚本)を手掛けること自体に異存は無いが、今回のケースは的確な助言やサポートが出来る人材が周囲にいなかったと思わざるを得ない。

 関西地方のある都市で、若い女性が轢き逃げに遭って死亡するという事件が発生。運転していたのは大手ゼネコン社員の宗方秀一で、彼は同社の副社長の娘である白河早苗との挙式を控え、その打ち合せに急ぐ途中だった。助手席には彼の親友の森田輝が座っていたが、2人ともその夜から不安で押し潰されそうになる。さらに、目撃者と思われる者から脅迫状のようなものが届けられる始末。一方、被害者の父親である時山光央は遅々として進まない警察の捜査に業を煮やし、自分で勝手に犯人を追い詰めようとする。

 単純な轢き逃げ事件に見えたが実は裏に意外な真相が控えていて・・・・という筋書きだが、困ったことにプロットの組み立て方が弱い。事件の鍵を握る人物が後半に焙り出されるのだが、その伏線は無いに等しい。そもそも轢き逃げ自体が“偶然の産物”に過ぎず、裏の人物が明確に狙ったシロモノではないことは、マイナス要因ではないのか。事件に付随した事柄が判明したところで、秀一の罪状が変わるわけではないのだ。

 光央の行動にも随分と無理があり、ヘタすれば逮捕されるのはこっちの方じゃないかと思ってしまう。また、若手平社員に過ぎない秀一がどうして副社長令嬢のハートを射止めたのか、まるで不明。だいたい、このゼネコンの社内風景は異様だ。斯様にパワハラが表立って横行する有名企業など、今どきあるのだろうか。さらに、秀一と輝がまるで“恋人同士”のように戯れるシーンは、正直気持ちが悪い。

 水谷豊の演出は前作「TAP THE LAST SHOW」(2017年)よりは幾分こなれてきたが、まだ不安定だ。特にキャストの動かし方がぎこちない。各キャラクターの振る舞いには違和感しか覚えないし、一部のキャストに“意味の無い大熱演”を強いるのも愉快になれない。

 中山麻聖に石田法嗣、檀ふみ、岸部一徳、そして水谷自身という出演陣は揃って精彩が無く、僅かに早苗役の小林涼子の可愛らしさが印象に残る程度。ロケ地の神戸市の風景はキレイだが、どこか絵葉書的。手嶌葵による主題歌は良かったが・・・・。
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「鹿鳴館」

2019-06-07 06:29:21 | 映画の感想(ら行)
 86年作品。市川崑監督作としては殊更優れたものでないが、伯爵夫人を演じる浅丘ルリ子の突出したパフォーマンス、および高いレベルの美術と衣装デザインにより、存在感のある映画に仕上がっている。また、製作デスクに原作者の三島由紀夫の遺児である平岡威一郎が加わっているのも感慨深い。

 明治19年11月、天長節の舞踏会で鹿鳴館は賑わっていた。外務卿の影山伯爵は政界では指折りの実力者で、政府に鹿鳴館の建設費用を出させたのも彼の功績である。妻の朝子は新橋の芸者あがりだが、華やかな外見と人当りの良さで社交界の人気者になっていた。

 朝子は侯爵令嬢の節子から恋愛の相談を受ける。その相手の名は清原久雄というのだが、それを聞いた朝子はショックを受ける。実は朝子と久雄との間には重大な“秘密”があったのだ。しかも、久雄の父である清原永之輔の指揮で自由党の残党がテロを計画しているという。久雄を邸に呼んだ朝子は、20年もの間誰にも言えなかったその“秘密”を打ち明ける。三島の同名戯曲の映画化だ。

 やっぱり、舞台劇の映画化は難しい。特に三島のレトリックの多い台詞回しは、そのままでは堅苦しい。もちろん映画向けに手直しされているのだろう(脚色は市川と日高真也)、それでも違和感は拭えない。加えて、各キャストには精彩が無い。影山伯爵役の菅原文太をはじめ、石坂浩二、中井貴一、井川比佐志、三橋達也、神山繁、浜村純など男優陣は駒を揃えているが、揃いも揃って無気力演技に終始。節子に扮した沢口靖子も、この頃はまだ大根だった(笑)。

 しかしながら、そんな中にあって浅丘ルリ子の奮闘は光る。彼女の挑発的な佇まいが、いかにも“訳あり”のヒロイン像に完全にマッチしている。正直言って、彼女が出ていなかったら途中で席を立っていたところだ。ワダエミによる衣装デザインは素晴らしい。鹿鳴館は遠景こそ安っぽいが、中身は十分それらしく仕上げられている。小林節雄による撮影、山本純ノ介と谷川賢作が担当した音楽もイイ線行っている。
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「アベンジャーズ エンドゲーム」

2019-06-03 06:24:55 | 映画の感想(あ行)

 (原題:AVENGERS:ENDGAME)見事な出来映えで、3時間もの上映時間がまったく長く感じられなかった。もっとも、細かいところを見れば辻褄の合わない箇所が散見される。しかしそれでも“11年間にも及ぶシリーズを何とか完結させよう。それにはこの手しかない!”という作者の気迫は、少々の瑕疵など吹き飛ばしてしまう。また総花的な展開のように見せて、最後には個人のストーリーに収斂させる手法にも感服だ。本年度のアメリカ映画の収穫である。

 前作「インフィニティ・ウォー」において強敵サノスにより全宇宙の生命の半分が消し去られてしまい、アイアンマンことトニー・スタークは地球への帰還も覚束ない有様だ。残ったメンバーはサノスを急襲して仕留めるが、前回のカタストロフの原因であったインフィニティ・ストーンはすでに存在しておらず、去って行った者達が戻ることはなかった。

 それから5年後、アントマンことスコット・ラングは、量子力学を用いたタイムトラベルを提案する。過去に戻ってサノスがストーンを手に入れる前に回収しようという算段だ。アベンジャーズは3つのグループに分かれて別の時代に飛んでストーンを集めるが、それはまた“生前のサノス”を召喚することにも繋がるのだった。

 タイムパラドックスに関する考察は十分とは言えないが、アンソニー&ジョー・ルッソの演出は淀みがなく、次から次へと見せ場が繰り出され、そんな欠点はどうでもよくなってくる。クライマックスのバトルシーンなど、手に汗握るほどだ。

 しかし、印象的なのは主要キャラクターの人間ドラマが十分に掘り下げられていることだ。ホークアイことクリント・バートンとブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフとの関係性も見応えあるが、それより感心したのはトニー・スタークとキャプテン・アメリカことスティーヴ・ロジャースの扱いだ。2人は、過去において縁の深い人物と“再会”し、それぞれの人生に向き合う。そして終盤には自身の生き方を決める。結局、この長いシリーズはトニーとスティーヴの物語であったことが分かり、まさに感無量である。

 ロバート・ダウニーJr.にクリス・エヴァンス、スカーレット・ヨハンソン、ジェレミー・レナーら御馴染みの面々に加え、ロバート・レッドフォードやナタリー・ポートマン、ティルダ・スウィントンなど、過去のシリーズ作品のキャラクターが顔を見せるのも実に嬉しい。一応、本作をもってマーベル・シネマティック・ユニバースも区切りが付いたが、アメコミの世界は複数のステージが存在するので、また新たな展開を見せるのだろう。楽しみに待ちたい。
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「普通じゃない」

2019-06-02 06:26:37 | 映画の感想(は行)
 (原題:A Life Less Ordinary)97年作品。天使の策略で出会った男女の恋の行方を描く、変則的なラブコメディ。センスが良いとは言えないこの邦題は“普通以下”という意味で、作品の内容を表現しているのかもしれない。

 ダニー・ボイル監督のハリウッド進出第一作だが、鋭い動きを見せるカメラワークやカッティングの大胆さなどにこの監督の特徴はあらわれているものの、肝心のストーリーがアメリカ映画らしい脳天気なエンジェル・ストーリー(?)であり、舞台も陰影に乏しいユタ州の片田舎では、それらの技巧も上滑り。そしてキャスティング。特に女優陣の扱い方は感心しない。



 キャメロン・ディアスは誰しも認める陽性のキャラクターだが、気取った男勝りの令嬢を演じるにはどうも“無理している”という感が強い。ここは可愛らしさよりも抜け目の無さを全面に押し出せる女優を起用すべきだった(そしてあの音痴ぶりには、観ている側も赤面してしまう)。ホリー・ハンターは久々のコメディ出演で舞い上がってしまったのか、完全なオーバーアクト。未熟な2人をくっつける役目の天使にしてはどぎつい言動が目立ち、天使よりは悪魔に見えてしまう(笑)。かといってC・ディアスとエゲツない張り合いを見せてくれるわけでもなく、画面から浮いてしまった。

 ユアン・マクレガーも今回は影が薄い。デルロイ・リンドやイアン・ホルム、ダン・ヘダヤ、スタンリー・トゥッチといったクセ者が脇に控えてはいるのだが、上手く使いこなしてない。冒頭の“白一色の天国の描写”というのは監督陣の芸の無さか、あるいはあまり難しいことを考えないアメリカの観客におもねた結果か。

 ラストのクレジットでは這々の体でスコットランドに舞い戻るボイル監督を暗示するような人形アニメがバックに流れるが、封切り時に本作を観たときは“やっぱりローカルな映画を地道に撮る方がこの作家には合っている”と思ったものだ。なお、ベックやザ・プロディジーなどをフィーチャーしたサントラ盤だけはオススメである。
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「ザ・フォーリナー 復讐者」

2019-06-01 06:31:17 | 映画の感想(さ行)
 (原題:THE FOREIGNER )ジャッキー・チェン主演作としては珍しい、コメディ的要素が皆無のシリアスな活劇だが、とても楽しめた。何より、脚本が良い。事件に絡む複数の勢力を的確に配置し、それぞれに十分な役割を与えた上でラストにすべて回収するという、まるでお手本のようなシナリオだ。筋書きの面白さを味わうだけでも、観る価値はある。

 ロンドンでチャイニーズレストランを経営しているクァン・ノク・ミンは、ある日一人娘のファンを車で送って行った際、爆弾テロに巻き込まれる。本人は難を逃れたが、ファンは死亡。どうやら、北アイルランド解放を主張する過激派組織の仕業らしい。悲しみに暮れるクァンは北アイルランド副首相のリーアム・ヘネシーが昔この組織に加入していたことを知り、犯人の名前を教えるようにリーアムに迫る。



 だが、リーアムも犯行グループを特定出来ていない。それどころかクァンの存在を煙たく感じるリーアムとその一派は、クァンを片付けようとする。しかしクァンはベトナム戦争時代にアメリカ陸軍の特殊部隊に所属していた工作員で、多彩な戦法を駆使してリーアムらを翻弄する。一方、犯人達は2度目のテロも成功させ、いよいよ要人の暗殺に向けて大規模な破壊工作を計画していた。スティーヴン・レザーの小説「チャイナマン」の映画化だ。

 基本的にはクァン及びリーアムとその一派、そして犯人グループの三つ巴の抗争だが、リーアムの妻と愛人、リーアムの甥で元英軍特殊部隊のショーン、事件を追うジャーナリスト、そしてもちろん警察も絡んで、ドラマは複雑な様相を呈してくる。さらには難民であったクァンの壮絶な半生、そして北アイルランドを巡るヘヴィな歴史が通奏低音のごとくストーリーを支えている。

 本当に悪いのはテロ実行犯なのだが、リーアムも“立場上”事件の落とし前を付ける必要があるため荒仕事を請け負う。クァンのやっていることも厳密に言えば犯罪行為だ。各人の一筋縄ではいかないスタンスを冷静に追うことによって、作劇に厚みが付与されている。

 マーティン・キャンベルの演出は骨太かつ着実で、テンポに乱れは無い。そしてジャッキー・チェンのアクションは、同時期に撮られた「ポリス・ストーリー REBORN」とは比べ物にならないほど達者だ。この年齢でよくこれだけ動けるものだと感心する。特にショーンに扮したロリー・フレック・バーンズとの一騎打ちは、全盛期の彼のパフォーマンスを彷彿とさせる。

 リーアムを演じたピアース・ブロスナンはさすがの海千山千ぶりで、ドラマを盛り上げる。オーラ・ブラディやレイ・フィアロン、チャーリー・マーフィといった脇の面子も良い。余韻たっぷりのラストも含めて、鑑賞後の満足度は高い。またカメラマンのデイヴィッド・タッターサルと、音楽担当のクリフ・マルティネスの仕事も高水準だ。
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