元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ヴェラ・ドレイク」

2015-06-14 06:23:50 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Vera Drake)2004年イギリス作品。どうもピンと来ない映画だ。マイク・リー監督作は「秘密と嘘」にしても「人生は、時々晴れ」にしても、物語性よりキャラクターの周辺を描き込むことにより観客を映画の方に引っ張ってゆく手法に特徴があると思っていた。シナリオなしで即興性をメインにした演出法も、徹底して各キャラクターを地に足が付いたものにして、ストーリーを登場人物の視点で追えるように工夫したものだろう。ところが本作は不必要に物語が先行している。これでは評価出来ない。

 1950年のロンドン。労働者階級が住む界隈に居を構える家政婦のヴェラ・ドレイクは、愛する夫のスタンと二人の子供に囲まれて平穏な生活を送っているように見えたが、実は大きな秘密を抱えていた。不用意に妊娠をしてしまった周囲の女たちに、非合法の堕胎の手助けをしていたのだ。ある日、ヴェラが堕胎を施した若い女の体調が急変し、それが警察の知るところになり彼女は逮捕されてしまう。家族は最初仰天するが、やがてヴェラにもそれなりの事情があったことを理解し、彼女の帰りを待ち続けることを決意する。

 当時は中絶は禁止されており、それを勝手にやることは犯罪で、それ以前に素人療法は危険だ。事実、いい加減な処置をしたおかげで“患者”の一人は命を危険にさらす。こんな危ない橋を渡っていたヒロインも、素顔は面倒見の良いオバサンに過ぎませんでした・・・・ということを描いて、いったい何になるのだろうか。

 映画が主張するのは“分かっちゃいるけど、やめられない”という小市民の無責任さか、あるいは無用な妊娠をした女性の愚かさか、中絶を認めない社会に対するフェミニズム的視点か、それともヒロインみたいな“普通の善人”を罰してしまう政府への抗議なのか、いずれにしても“語るに落ちる”レベルである。

 もしもこのネタでマイク・リー的アプローチが可能であるならば、主人公がこの“犯罪”に手を染めねばならなかった最初の動機を微細に描くことだろう。その他の、彼女の“犯罪”が前面に出るような作劇では、どう逆立ちしても(安っぽい)社会派ドラマにしかならない。それはこの監督には不向きだ。

 主演のイメルダ・スタウントンは好演だし、歴史考証も万全。茶系を基調にした映像も美しい。また2004年度のヴェネチア国際映画祭で金獅子賞と主演女優賞を受賞している。しかし内容がこれでは、苦言を呈するしか無い。
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「パレードへようこそ」

2015-06-13 06:15:20 | 映画の感想(は行)

 (原題:PRIDE )楽しめた。驚きの実話を取り上げつつも単に物珍しさでは無く、イギリス社会の構図の描出はもちろん異なるカルチャーを持つ者達同士でも価値観を共有し連帯出来ることを的確に示し、観た後の満足感はけっこう大きなものがある。

 84年、時のサッチャー政権は炭坑の閉鎖案を打ち出し、これに対して全国の炭鉱労働者達はストライキに突入する。そんな中、ロンドンで権利を訴えてデモ活動していた同性愛者の団体は、政府や警察から圧力を掛けられていた炭鉱の労働組合員を“自分達と同じ立場だ”と思い、勝手に支援の募金を始める。ところが集めた金を送ろうにも、彼らがゲイやレズビアンであることを理由に、各炭坑組合はことごとく拒絶。わずかにウェールズの奥地にある組合事務所が“受付担当者の勘違い”によって申し出を受諾する。

 こうして普段交わるはずもない二つの団体の付き合いが始まるのだが、趣味嗜好はもちろん生活環境も違う双方のメンバーがそう簡単に打ち解けるはずがない。すったもんだの挙句ようやく“共闘”の約束を取り付けた両者は、資金集めのコンサートを企画する。しかし容赦ない当局側の締め付けによって、炭鉱労働者の立場は厳しくなる一方だった。2014年のカンヌ国際映画祭の監督週間でクィア・パルムを受賞、第72回ゴールデングローブ賞の作品賞(ミュージカル/コメディ部門)にもノミネートされた話題作だ。

 当初労働組合がゲイ団体を受け入れなかったのには、同性愛者に対する偏見があったのは間違いない。だがそれ以外に大きく立ち塞がったのは、ウェールズの住民のロンドン市民に対する確執だ。元々この地はイングランドとは別個の国であり、民族も違えば言語も異なる。ロンドンからやってきた得体のしれない連中を最初から温かく迎え入れることは、まず考えにくい。

 しかしながら、そのギャップを乗り越えさせたのが“自分達の権利を守る”という共に相通じる心意気、そして歌とダンスだった。腹を割って話し合えば克服できない障害なんかないと言わんばかりの楽天性は、観ていて気持ちが良い。イングランドとウェールズとを繋ぐ巨大なセヴァーン・ブリッジが、両者の架け橋の象徴のように思える。

 マシュー・ウォーカスの演出は好調。ビル・ナイやイメルダ・スタウントン、ベン・シュネッツァー、パディ・コンシダインといったキャストも芸達者揃いだ。それにしても、サッチャー政権が推進したような新自由主義的な経済政策が現在でも暗い影を落としていることは、まことに憂慮すべき事態だ。経済は需要と供給によって成り立っているという基本事項を捨象し、格差拡大と景気低迷を是認する風潮は、サッチャリズム以後も世界中に蔓延し続けている。
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Technicsのシステムを試聴した(その2)。

2015-06-12 06:35:33 | プア・オーディオへの招待
 前のアーティクルで言及した通り、久々に新しいラインナップを発表したPanasonicのオーディオブランド、Technicsのシステムの音はとても誉められたものではなかった。しかしながら、この新製品には面白い機能や意匠が投入されており、今後のオーディオ界全体にとってはとても有意義なものになる可能性がある。

 何といっても注目すべきは、アンプに搭載されたLAPCなる機能だ。これは「Load Adaptive Phase Calibration 」の略称で、早い話が接続されたスピーカーの特性をアンプ自身が測定し、それに合った補正を自動的に作成するという仕掛けである。今も昔もオーディオファンを悩ませるのは、スピーカーとアンプとの相性だ。本来は“繋ぐスピーカーを選ぶアンプ”とか“駆動するアンプが限定するスピーカー”とかいうのは、あってはならないことだと思う。しかしながら現実は“このブランドのスピーカーには、あのメーカーのアンプがベストマッチだ”というような定説が罷り通っている。



 このようなオーディオ界の通説を、このLAPCは打破するかもしれない。ちなみに、リファレンスシステムでこの機能を発動させると、それまで聴き辛かったスピーカーのSB-R1が、ほんの少しまろやかになるのが確認された。もちろん音色が変わってしまうほどの補正能力は有り得ないが(笑)、アンプとの相性確認に悪戦苦闘してきたオーディオファンの苦労が軽減される(かもしれない)ことを想像すると、悪い気分はしない。

 そして、リファレンスシステムのコントロールアンプSU-R1とパワーアンプのSE-R1は、通常のアナログケーブルではなくLANケーブルで繋がれる。全段に渡ってデジタルで駆動しようという考え方からきており、それぞれ別のメーカーのプリアンプあるいはメインアンプと接続することは(今のところ)出来ないかと思うが、セパレートアンプの形式の新たな提案としては興味深い。

 デザイン面は旧来よりの高級装置の外観を踏襲しているリファレンスシステムよりも、プレミアムシステムの方が断然面白い。スピーカーのSB-C700は(前回述べたように)音は大したことはないが、白い筐体と黒いユニットが鮮やかなコントラストを見せるエクステリアはセンスが良い。

 アンプのSU-C700は今回の同ブランドの製品の中では一番売れているらしい。パネル前面のかなりの割合を占めるレベルメーターはオーディオファンの琴線に触れることは間違いないし、ボリュームつまみを上方に取り付けたデザインもユニークだ。またLAPCも付いているのだから、お買い得感は確かにある。



 さらに、プレミアムシステムはアンプ類のサイズが小振りである点は評価したい。いつまでもフルサイズの製品しか提供しないというのは、メーカーの怠慢だ。同じく小さめのサイズのアンプ類を展開している大手メーカーにはTEACがあるが、このプレミアムシステムはあっちよりも垢抜けている。

 ただ残念なのは、ラインナップにアナログプレーヤーが無かったことだ。今は業界挙げて次世代メディアとしてハイレゾ音源を持ち上げており、このシステムもそれを前提とした製品作りが成されているが、あいにく消費者側の反応は今のところ冷ややかなものである。それよりも近年急速に見直されているアナログレコード再生に対応させた方が、より大きく話題になったのではないか。

 Technicsは世界で初めてダイレクトドライブ方式のレコードプレーヤーを考案したことで知られる。思えば、私が初めてオーディオシステムを揃えたときも、プレーヤーはTechnicsのものだった。つい数年前まで同社はアナログプレーヤーを作っていたのだから、ノウハウも残っているはずだ。次回の製品リリースの際は是非とも発売して欲しい。

 あと、LAPCにしろフルデジタル構成のアンプにしろ、これらを開発可能にしたのは大手家電メーカーとしての資本力であったのは間違いない(専業メーカーでは難しいだろう)。その意味では今回の復活劇は大いに意義があったと思う。ともあれ、スピーカーの練り上げ方にはもっと工夫が必要だった。往年のユニークな形状のリニアフェイズ型スピーカーも再登場をお願いしたいところだ。

 余談だが、今年(2015年)は同ブランドが発足してから50周年に当たる。そのせいか、会場で配布されたカタログは冊子形式の豪華なものだった。今回発売された製品を買う予定は無いが、このカタログだけは“永久保存版”としたい(笑)。

(この項おわり)
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Technicsのシステムを試聴した(その1)。

2015-06-11 06:29:36 | プア・オーディオへの招待
 Panasonicが展開するオーディオブランド、Technicsのシステムの試聴会に行ってきたのでリポートしたい。このブランドは松下電器時代の1965年に発足し、数々の実績を上げてきた。ところが折からのオーディオ不況により90年代には商品開発を終え、2010年には一度完全消滅している。復活はまず有り得ないと思っていたが、2014年に突如新製品の投入を宣言。顧客層の見直しによるPanasonic自体の業績回復も無関係ではなかったはずだが、このニュースには驚いたものだ。

 第一弾としてリリースされたのは、リファレンスシステムと名付けられたハイエンドのシリーズと、プレミアムシステムと銘打ったミドルクラスの二つである。もちろん各構成コンポーネントは単体商品として個別に購入もできるが、今回はシステムとしてのパフォーマンスを披露するためのイベントである。



 まず聴いたのはリファレンスシステムの方で、コントロールアンプとネットワークプレーヤーを兼ねるSU-R1とパワーアンプのSE-R1、そしてスピーカーのSB-R1から成る、定価ベースで約500万円のシステムだ。外観はかなり立派で、他社の高額製品に引けを取らない。ならば肝心の音はどうだったのかというと・・・・残念ながら、あまり芳しいものではなかった。

 とにかく、不必要に前に出る中高音が硬すぎる。ハイレゾ音源を使ってあらゆるジャンルを鳴らしていたが、どれも印象は一緒。キンキンカンカンと賑やかで、短時間の試聴にもかかわらず疲れてしまった。大昔の“やたらハイファイ度を強調した音”にも通じるところがある。かと思えば低音は制動が効いてスムーズながら、中高域との連携がほとんど取れていない。

 これはおそらく、スピーカーのキャラクターによるものだ。筐体内部で実質的に低音用と中高音用に仕切られているためか、全体としてチグハグで要領を得ないサウンドであり、しかもユニット数の多さも相まって定位が悪い。なおかつ指向性がシビアで、リスニングポジションが限定される。SB-R1はペアで270万円もするが、同価格帯で優秀な海外ブランド品がいろいろと出回っている現状においては、この機種の居場所は無いと思う。

 次に、プレミアムシステムのデモが行われた。CDプレーヤーSL-C700、ネットワークオーディオプレーヤーのST-C700、プリメインアンプのSU-C700、そしてスピーカーのSB-C700によって構成される総額50万円台のシステムだ。



 前述のリファレンスシステムの10分の1の価格帯であるため、当然のことながらスケール感や解像度等には差が出る。しかし、聴きやすさではプレミアムシステムの方が上だ。決め手はやはりスピーカーである。SB-C700のユニットは同軸型の一発だけで、そのせいか定位がとても良い。低域と高域のバランスは悪くないし、指向性も緩いので部屋のどこにいても違和感の無いサウンドが得られるだろう。

 しかしながら、このシステムにおいても出張った中高域の硬さには閉口する。Panasonicのスピーカーの開発陣には“消費者に高音質なスピーカーだと思わせるには、中高音をハデに響かせることが不可欠だ”という認識があるのではないか。もちろん、このような展開のスピーカーを好む者も存在するだろう(確かに店頭効果は期待できると思う)。ただ、他社にバランスの良いモデルが揃っている現在、この製品の音が気に入って買い求めるリスナーはそう多くはないと予想する。

 ちなみに、SB-C700は私が使っているKEFのLS50と似たような価格帯で、同軸ユニットを搭載してる点も共通している。たまたま同じ店内にLS50も展示されており、比較する意味で試聴会が終わった後に少し聴いてみた。繋げていたアンプこそ違うものの、やっぱり(普段聴き慣れていることもあるが)LS50の方が均整のとれた親しみやすい音が出る(笑)。

 いろいろと批判的なことを述べてきたが、ならばTechnicsの復活劇自体を評価しないのかというと、決してそうではない。かなり興味深い提案もおこなわれている。それに関しては次のアーティクルで述べたい。

(この項つづく)
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「リベンジ・オブ・ザ・グリーン・ドラゴン」

2015-06-08 06:26:17 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Revenge of the Green Dragons)傑作「インファナル・アフェア」のアンドリュー・ラウ監督が参画し、マーティン・スコセッシまでもが製作に関わっているわりには、薄味な印象を受ける。これは筋書きの図太さに対してキャストの存在感や描写の力強さといったものが不足しているためで、要するにプロデュースの拙速ばかりが目立つ結果になってしまった。これでは評価できない。

 80年代は中国において民主化運動に対する圧力が強まり、それと連動してアメリカへの移民が激増した時代である。その大半が不法入国で、本作の主人公である10歳の少年サミーもそのひとりだ。渡航中に親を亡くして孤児となったサミーは、同じ年ごろのスティーヴンと共にニューヨークのクイーンズ地区にある中華料理店で働き始める。とはいえ環境は劣悪で、彼らは辛酸を嘗めるばかりで将来への希望が全く持てない。

 ある日2人はひょんなことから犯罪組織“グリーン・ドラゴン”に引き抜かれ、ボスからこの国で成り上がるためにはギャングになるしかないと教えられる。時は流れて青年になったサニーとスティーヴンは組織での仕事もソツなくこなすようになっていたが、香港からやってきた歌手のテディとその娘ティナと出会ったことから、2人の運命は大きく変わっていく。一方、密入国斡旋のシンジケートを追うべくFBIも動き出していた。

 穏やかで理性的なサミーと血気盛んなスティーヴン、凶暴なボスとそのまた上の血も涙もない大ボス、厳しい現実に翻弄される娘など、登場人物の配置は申し分ない。しかし、演じている連中が弱体気味で少しも感情移入できないのだ。ジャスティン・チョンやケビン・ ウー、ハリー・シャムJr.やシューヤ・チャンといったキャストに知っている顔は見当たらない。もちろん無名でも作品のカラーに負けないほどの力量を発揮していれば文句はないのだが、どいつもこいつも軽量級で記憶にも残らない(FBI捜査官としてレイ・リオッタが出てくるのだが、あまりドラマに絡んでこない)。

 こういった面々がいくらヘヴィな境遇に追いやられても、観ている側としては“関係ない”とばかりに冷ややかな視線を送るしかないのだ。まあ確かに当時のニューヨークの犯罪事情や、白人が殺されなければ捜査当局は動かないといった事実が紹介されているのは興味深いが、それだけでは映画一本を支えきれない。

 暴力描写はかなり激しい。しかし血糊の多さにもかかわらずインパクトに欠けるのは、演出の気合が入っていないせいだ。実話の映画化らしいが、それ相応の切迫感というものは最後まで感じられなかった。取って付けたようなラストも盛り下がるばかりだ。
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「コックと泥棒、その妻と愛人」

2015-06-07 06:22:52 | 映画の感想(か行)
 (原題:The Cook, the Thief, His Wife & Her Lover)89年作品。監督はイギリスの異才と言われるピーター・グリーナウェイである。封切られた時点において私がこの監督の作品を観たのはこれが初めてで、おそらく同監督の映画の中で最も広範囲に知られたシャシンかと思う。公開当時はアメリカでも絶賛されて評論家もベタ褒めしていたので、うっかり“軽い気持ち”で劇場に足を運んでしまったが、そのことを後悔するのにさほど時間はかからなかった(笑)。

 泥棒の親玉で暴力団も仕切っているアルバート(マイケル・ガンボン)と美しい妻ジョージーナ(ヘレン・ミレン)は毎夜のごとく彼が経営している高級フランス料理店“ル・オランデーズ”で食事をする。盗んだ金で贅沢三昧、傍若無人にふるまうアルバートにイヤ気がさしているジョージーナだが、夫の残忍さを熟知している彼女は逃げ出すこともできない。



 そんなある日、彼女は常連客マイケル(アラン・ハワード)と恋に落ち、シェフのリチャード(リシャール・ボーランジェ)の計らいもあって夫の目を盗んで情事を重ねるが、妻の不貞に気づいたアルバートは嫉妬に狂い妻の愛人を殺してしまう。ジョージーナの怒りはやがて絶対多数の復讐へと発展していく。

 全編これグロテスクなシーンの連続。冒頭から老人に犬のクソをぬりたくって拷問するというキツい描写から始まり、アルバートの手下が食卓でゲロを吐きまくる場面や、腐った肉の中で抱き合うジョージーナとマイケル・・・・といった冷汗の出る場面が続き、極め付けはラストのクライマックスで、どういうシーンかはここでは書けないが、とにかく並のホラー映画まっ青の気色悪い仕掛けが用意されている。

 そのかわり、と言っちゃなんだが、セットと美術はめちゃくちゃ凝っている。そして衣装はあのジャン=ポール・ゴルチエが担当。独特の美空間を構築するのに成功・・・・・と言えなくもないのだが、私はどうしても作者の自惚れの強い唯美主義、スノッブな雰囲気がどのシーンにもみなぎっているように思えて愉快になれない。

 このアブナイ映画がどういうわけか当時“ゴルチエが衣装を担当したオシャレな映画”という紹介のされ方をしてしまい、ほぼ満員の映画館で男は私一人で、あとは若い女の子ばっかりだったことを思い出す。しかしエンドマークが出た途端、みんなマッ青な顔をして口をおさえながら早々に立ち去って行ったのは言うまでもない(暗然)。
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「チャッピー」

2015-06-06 06:22:26 | 映画の感想(た行)

 (原題:Chappie )面白い。何より、いわゆる“人間性”というものを捨象している点が痛快だ。もっとも送り手は全然そうは思っておらず、作者なりの“人間性”を真面目に提示していると信じているのだろう。もっともそれは世間の認識とは少し外れたフィールドに存在しているものなのだが(笑)、そのギャップが大きな興趣を生む。

 2016年、世界有数の犯罪都市である南アフリカのヨハネスブルグでは既存の警官だけでは手が足りなくなり、テトラバール社の開発した警察ロボットが配備されて職務をこなしていた。同社の開発者のディオンは、意志を持つ人工知能(AI)を独自に考案し、廃棄処分される予定だった1台の警察ロボットにAIをインストールしようとする。しかし、その矢先にロボットもろともチンピラやくざ3人組に誘拐されてしまい、AI搭載のロボットは彼らにチャッピーと名付けられてギャングとして育てられるようになる。

 そんな中、作るロボットがあまりに過激な戦闘型であるために冷や飯を食わされていたテトラバール社の科学者ヴィンセントは、偶然にチャッピーの存在を知るが、ディオンとチャッピーを始末すれば自分にスポットが当たると思い込んだ彼は、殺人ロボット“ムース”を出動させる。一方でチンピラやくざ達に上納金を要求するギャングの首領も動き出し、事態は混迷の度を増してゆく。

 劇中に“人間の脳内情報をマシンに転送する装置”が登場するが、作者の考える“人間性”とは生身の人間に“たまたま”存在しているものに過ぎず、その正体はデータの集積物であり、どのようなメディアにもインポートが可能であると言い切っている。これはあまりにも冒涜的だと感じる向きもあるだろうが、作者のスタンスは決してニヒリスティックではない。

 “人間性”そのものを転送することが可能ならば、愛情や真心や、その他プラスの属性のものを伝播させていくことも出来るという、前向きな姿勢をも示唆している。つまり“人間性”は失われないという肯定的なメッセージの表明だ。

 すでに各批評で指摘されている通り、この作品は「ピノキオ」を彷彿とさせる図式を持っている。しかし、チャッピーはピノキオみたいに人間になりたいとは微塵も思わない。両親代わりに彼を育ててきたチンピラのカップルや、創造主のディオンとの関係によって培われたチャッピーの“人間性”としてのデータは、入れ物を生身の人間に限定させる必要はないのだ。

 快作「第9地区」で世に出たニール・ブロムカンプの演出はパワフルでスピーディー。特にクライマックスの三つ巴のバトルは盛り上がる。ディオン役のデブ・パテルは熱演だが、それよりも男女のチンピラに扮した地元のヒップ・ホップグループ“ダイ・アントワード”のニンジャとヨーランディ・ビッサーの存在感が圧倒的だ。さらにテトラバール社の幹部としてシガニー・ウィーバーを配し、ヴィンセント役には珍しく悪役に回ったヒュー・ジャックマンが怪演を見せる。そしてモーション・キャプチャーでチャッピーを演じ切ったシャールト・コプリーの力量にも感心した。
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「マッドマックス サンダードーム」

2015-06-05 06:16:27 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Mad Max Beyond Thunderdome)85年作品。今年(2015年)久々に新作が公開される往年のシリーズの第三作。カルト的な人気を誇り、各ジャンルで少なからぬエピゴーネンを輩出した第二作(81年)とは打って変わり、過激度は抑え目だ。そのため興行面で割を食ったそうだが、今から考えるとそれほど悪い作品ではないと思う。市場が求めるものと作者のメッセージ性とが齟齬を来たした一つの例であろう。

 核戦争で荒廃した近未来の地球。前作での死闘で心身ともにすり減らしたマックスは、沙漠の町・バータータウンにたどり着く。そこでは首長のエンティティが専制的権力を振るい、人々を支配していた。エンティティは親衛隊員たちによそ者のマックスを襲わせるが、マックスはこれを一蹴。独裁者に気に入られた彼は、地下の国を支配するマスター・プラスターと戦って倒すように命令される。

 ところが思わぬトラブルによって町から叩き出され、またしても荒野をさまよう羽目になるマックス。彼が偶然行き着いたのが、3歳から16歳までの子供だけが暮らす小さなコロニーだった。子供たちはマックスを救世主だと思い込み、しかも元から外界への憧れを持っていた何人かが勝手にコロニーを出てバータータウンに向かってしまう。彼らを救うために、マックスは再びエンティティと対峙する。

 このシリーズの目玉であったはずのカーアクションは控えめだ。マスター・プラスターとの肉弾戦や、ラスト近くのカタストロフこそ賑やかだが、別に“この映画じゃないと味わえない”というレベルのものではない。観客のウケが良くなかったのも分かるような気がする。だが、弱肉強食の社会を描くディストピアSFの方法論を、作者が“本気で”提示しようとしていることは、いい意味での気負いが感じられるのは事実だ。さらに言えば、ここで示されている構図は現在でも世界のあちこちに見受けられるものであり、決してピントはずれのモチーフではない。

 活劇場面ばかりが取り沙汰されるジョージ・ミラーの演出は、意外にも丁寧。主演のメル・ギブソンはこの頃は若く、近年のようなやさぐれた雰囲気は希薄だ(笑)。エンティティに扮するティナ・ターナーはまさに怪演。彼女がいなければ作品はもっと薄味になっていただろう。モーリス・ジャールの音楽も聴きごたえがある。
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「駆込み女と駆出し男」

2015-06-01 06:20:10 | 映画の感想(か行)

 リズミカルなセリフ回しに尽きる映画である。井上ひさしの時代小説「東慶寺花だより」(私は未読)を元にした作品だが、ストーリーは駆け足になりがちで大事なモチーフが描かれていないという欠点はあるものの、この独特の会話のノリで2時間23分の上映時間を一気に見せきってしまう。いつもながら原田眞人監督の力量は大したものだ。

 1841年、天保の改革による質素倹約令が出され、経済成長は止まり庶民の暮らしは苦しくなる一方であった。当然、そのしわ寄せは社会的弱者である女たちに来る。鎌倉の東慶寺はいわゆる“縁切り寺”として離婚を望む女が逃げ込むことを許されていたが、当時は困窮してこの寺の門を叩く女も後を絶たなかった。

 今回も東慶寺に顔に火ぶくれがある鉄練り職人のじょごや、唐物問屋の主人の妾であるお吟たちが逃げ込んでくる。彼女たちの身柄は寺指定の宿である柏屋が一時的に預かっていたが、見習い医師で戯作者の修業をしている信次郎は縁あって柏屋の居候となり、彼女らの世話をすることになる。

 各登場人物の会話はかなり早口で、最初はよく聞き取れない。だが、それが江戸っ子の“きっぷの良さ”や時代の雰囲気や話し手の勢いが伝わってきて、ほとんど気にならなくなる。これは単に“セリフの抑揚に奇を衒ってみた”ということではなく、会話のリズムに乗せてカメラやストーリー展開も勢いを増すという相乗効果を狙ってのことだ。

 特に信次郎の造形にそれはよく現れており、もっさりした感じの大泉洋がドラマを一人で引っ張っていけるほどの“作劇的リーダーシップ(?)”を発揮。柏屋に乗り込んできたヤクザを口上だけで撃退するシーンは本作のハイライトだ。

 とはいえ、改革の先導者である水野忠邦およびその取り巻きが時代から“退場”した経緯は描かれておらず、唐物問屋の旦那の事情が詳説されていない等、不手際も目立つ。だが、そういう瑕疵があまり気にならなくなるほど作品の独特の持ち味は際立っている。

 大泉以外のキャストでは、何といってもじょごに扮する戸田恵梨香に注目だ。元より実力はある女優だと思っていたが、今回は世間知らずで一方的に夫にこき使われていた人妻が東慶寺に駆け込むことによって、見る見るうちに自分を取り戻していく様子を違和感なく演じて圧巻だ。お吟を演じる満島ひかりも鉄火肌の立ち振る舞いから寺に入ってからの薄幸な佇まいまで、振れ幅の多いキャラクターを余裕でこなしている。

 内山理名、キムラ緑子、樹木希林、堤真一、山崎努ら中堅・ベテラン勢の存在感は言うまでもない。ヘヴィなエピソードも散見されるが、観終わった印象は明るく爽やかだ。原田監督も機会があればまた時代劇を手掛けて欲しい。
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