元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「エクスペンダブルズ3 ワールドミッション」

2014-12-15 06:36:50 | 映画の感想(あ行)

 (原題:The Expendables 3 )何と、前作よりも面白いではないか(笑)。元より、内容は差し置いて顔ぶれを楽しむための映画ではあるが、最後まで退屈しないシャシンに仕上げているのはアッパレだ。ポップコーンとコーラをお伴に盛り上がるにはもってこいの作品である。

 隊長バーニー率いる傭兵集団“エクスペンダブルズ”は、アフリカ某国にて囚人護送列車から古くからのメンバーであるドクを派手な立ち回りの末に救い出す。その足でソマリアに向かい武器商人どもを壊滅させるはずが、そこに昔死んだはずの仇敵ストーンバンクスが現れる。思わぬ反撃に遭った上に負傷者まで出し、さすがの彼らも退却するしかなかった。

 その後、依頼主であるCIA幹部のマックスから正式にストーンバンクスの生け捕りを要請されるが、バーニーはこの機会に古参の面々を“卒業”させ、若手メンバーに入れ替えることにした。しかし、今回の敵は若造達に手の負える相手ではなかったのだ。

 新顔を多数配したことによりレギュラーメンバーの活躍の場面が減ったのはマイナスと思われがちだが、作劇がタイトになって見せ場が多様化したことは大きなメリットである。若手メンバーによるストーンバンクス捕獲作戦は、これまでの“脳みそが筋肉”みたいな面子では考えられないほど理詰めに展開する。まあ、ストーリー上ではそれが成功するほど甘くはないのだが、新味を出したこと自体は評価したい。またストーンバンクスは昔バーニーの仲間であり、見解の違いにより敵対することになったのだが、その微妙な屈託が反映されているあたりも悪くない。

 内輪ウケを狙ったキャスティングも絶好調。ドクを演じるのがウェズリー・スナイプスで、本来ならば第一作から参加予定のはずが“ある理由”から見送られ、本作で満を持してのエントリーとなる。しかも、登場の仕方は明らかにそのことをネタにしており、思わず笑ってしまった。

 ストーンバンクス役はメル・ギブソンで、もちろん昨今の悪行三昧で完全に干されていた彼の境遇の楽屋落ちを暗示させている。そんなメルギブ先生にも仕事を与えてくれたバーニー役のシルヴェスター・スタローンの心の広さにも感心してしまうのだ。始終減らず口を叩く元スペイン外人部隊の傭兵アルゴに扮したアントニオ・バンデラスも“見た目は良いが中身はチャラい”という、彼の魅力(?)のひとつをアピールさせている。

 あとアーノルド・シュワルツェネッガーやジェト・リー、ジェイソン・ステイサム、ドルフ・ラングレン、ハリソン・フォード等の大御所からケラン・ラッツやロンダ・ラウジー等の新入りに至るまで、思う存分に活劇をやらせているのは言うまでもない。アクション・シーンはテンコ盛り。パトリック・ヒューズの演出も及第点に達しており、今後のシリーズ継続に期待を持たせる出来だ。
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昔の映画のことばかり語る者は嫌いである。

2014-12-14 06:45:35 | 映画周辺のネタ
 世の中には映画ファンを自認している人はけっこういると思うが、当然のことながら映画に対するスタンスはそれぞれ違う。私みたいに、面白そうだと思う映画はジャンル関係なく観てしまう者もいれば、ハリウッド製アクション映画が好きな人、あるいは時代劇に関して一家言持っていたり、ミニシアターの熱心な観客もいるだろう。ただし、中には“困った人達”も存在する。その“困り具合”は各人さまざまだが(笑)、一番始末に負えないのは“古い映画にしか価値を見出さない者”だと思う。

 もちろん、古い映画が好きでも一向に構わない。私だって昔の映画を観て感心することは多々あるし、若い時分に観た映画を思い出して感慨に浸ることもある。しかしその“困った人達”は、古い映画こそが最上のものであると信じ込んでいる。さらにそのことを周囲の者に向かって(誰も頼みもしないのに)滔々と言い募る。

 昔は偉大な監督達が顔を揃え、綺羅星のごとき名優が多数存在し、まことに素晴らしかった云々と述べた後、決まって出るのは“今の映画はダメだねぇ”というセリフだ。

 映画に限らず、音楽でも演劇でも娯楽小説でもマンガでも何でもそうだが、“昔のものは良かった。対して最近の○○はつまらん”と無節操に吹聴する者は、大抵その“最近の○○”を知らない。さらに彼らの言う“素晴らしかった古き良き時代”というのは“自分が若かった頃”である場合が多い。つまり意地悪な言い方をすれば、彼らの頭の中はある意味“若い頃で停止している”ということだ。

 映画は娯楽であるが、時代性を照射していなければ娯楽足り得ることは難しい。映画は過去の遺物ではなく、現在進行形である。過去に拘泥するばかりでは、新鮮な感動は得られない。今作られているものは、今観てこそ価値があるのだ。

 ハッキリ言って、昔の映画のことばかり話す人は、総じて退屈である。昔の価値観でしか物事を捉えられていない。そんなことは自分の心の中にとどめておくか、せいぜい自身のブログか何かに書くだけでよろしい。こっちが聞きたくもないのに延々と話しかけないでいただきたい。

 ともあれ趣味の世界において、自身の見解を他人に押し付けるほど不粋なことは無い。昔の映画ばかり褒めそやし、現在の映画を(ロクに観もしないのに)頭から否定するような者は、逆に言えば今の映画を素直に楽しんでいる多くの観客をバカにしているも同様だ。

 自分だけを高みに置いたように現在の映画を軽く見る者に対しては、自身はそれほど御大層な人間なのか一度考えてみろと言いたいが、それを実際に口に出すと剣呑な話になりかねないのでやらない(笑)。ただ、そんな“古い映画ばかりに執着する奴”は他者からは距離を置かれるのは確実。知らぬは当人ばかりというのは、何とも情けない話である。
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「デビルズ・ノット」

2014-12-13 06:52:36 | 映画の感想(た行)

 (原題:DEVIL'S KNOT)事実に基づいたセンセーショナルな題材を取り上げているが、観た印象はかなり薄味。やはりこれは“評論家による後講釈”みたいな、不必要に“引いた”スタンスに問題があるのだろう。まあ、この監督(アトム・エゴヤン)の作品では珍しいことではないが・・・・。

 93年のアーカンソー州ウェスト・メンフィスで、3人の小学生の失踪事件が起きる。親や地域住民は無事を願うが、その思いを裏切るように数日後3人の惨殺死体が発見される。事件に関係していると思われる不審者の目撃情報は相次ぐものの、いずれも決め手に欠ける中、当日3人と行動を共にしていたという子供の証言により、十代の若者3人が容疑者として浮上。警察は彼らを犯人と断定し逮捕するが、そこに不自然さを感じた調査会社のロン・ラックスは独自に調査を開始。一方、被害者のひとりの母親パムも、この決着のつけ方に納得してはいなかった。

 逮捕された3人には補導歴があり、しかもヘヴィメタや黒魔術にハマっているという、封建的な南部の土地柄からすれば最も忌避されやすいキャラクターの持ち主だ。大事件が起きれば真っ先に犯人に仕立て上げられる環境がそこにはある。その欺瞞性を告発したいという製作の動機はあったのだろう。

 しかし、どうも御膳立てが上等ではない。何より物語の中心になるべきロンのプロフィールがほとんど語られていない。どうしてこの事件に首を突っ込んだのか。どんな考えを持ち、何をしたいのか、まるで分らない。セリフでは“不正は許さない”みたいなことを述べるが、職域を逸脱したような行動を取る動機付けにはなっていない。もっと切迫した事情があったはずなのだが、映画ではほとんど見えてこないのだ。

 さらに言えば、閉鎖的な町の雰囲気も表面的にしか捉えられていない。何が起こるか油断ならないような、不穏な空気の描出があってしかるべきだが、まるで不発だ。裁判の場面も大して盛り上がらず、真犯人と思しき者の動機さえロクに暗示もされていない。ちなみに、

 この事件はまだ完全に解決してはいない。それだけにもっと迫真性のあるモチーフがいくらでも提示できるはずだが、何もやっていない。通り一遍で、作劇の焦点が全然見えてこないような映画である。存在価値があるのかどうかすら疑わしい。

 ロン役のコリン・ファース、パムに扮するリース・ウィザースプーン、共に大して印象にも残らない。本国では客が入らず、評論家からのウケも悪かったそうだ。すでに示唆に富んだドキュメンタリーがいくつか製作されていたという背景もあるが、この出来栄えでは不評も仕方がないと思う。
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拙宅で“映画音楽鑑賞会”を催してみた。

2014-12-12 06:35:27 | 音楽ネタ

 先日、映画好きの仲間を自宅に何人か呼んで“映画音楽鑑賞会”みたいなものを催してみた。実はずっと以前からやりたいと思っていたのだが、なかなか日程の都合が付かなかったのだ。今回ようやく関係各位(?)のタイミングが一致し、開催に至った次第である。

 拙宅で実施する理由は、仲間内では最も高価なオーディオ・システムを保有しているからである。もちろん、当ブログで何度も触れている通り、私のシステムは大して高額でもない。マニアから見ればオモチャだろう。しかし、それでも普及品ミニコンポに比べればいくらかマシな音はすると自負している。どうせ皆で聴くならば、サウンド環境は少しでも良好な方がいい。

 私には映画のサントラ盤ばかりを集める趣味は無いが、手持ちのディスクをよく見てみると映画で使われた楽曲およびそれをジャズなどにアレンジしたナンバーがけっこう入っていることが分かる。他の参加者が持ち寄ったCDも含めて、それで2時間あまりの予定時間を十分に保たせることが出来た。

 参加メンバーは全員ピュア・オーディオシステムの音に触れるのは初めてらしく、一様に“ミニコンポとは次元の違う良い音だ”と言ってくれたのにはホッとした。ただし、今回の企画の趣旨はシステムのお披露目ではなく、あくまで音楽鑑賞会なのだ。こうして映画に使われた曲を続けて聴いてみると、改めて映画音楽というジャンルの幅広さと深さに感じ入る。そして、聴くたびに映画のワンシーンが蘇ってくる。

 そういえば、若い頃に“自称オーディオマニア”諸氏の家に何度も招かれたことがあるが、あまり良い印象は無い。それは彼らの目的が音楽を聴かせることではなく、システムを見せつけることだったからだと思う。大金を掛けながらも、招かれた側からすればとても良い音とは思えないサウンドを延々と聴かされるのは論外だが、たとえ良好な音を出していても、楽曲の再生時間よりも“ワシはいかにしてこの高品質の音を実現するに至ったか”という自慢話の時間の方が長くて閉口したことは一度や二度ではない。

 やっぱりオーディオというのは個人的な趣味である。同好の士と交流するような類のものではないと思う。

 その点、オーディオについてあまり知らない一般の音楽ファンと共に楽曲を聴き、(システムの話は程々にして)音楽について語り合うのは実に楽しいものである。そしてそっちの方がオーディオの良さを無理なくPRする手段に成り得るとも思う。

 ともあれ、けっこう好評だったこの企画、機会があればまた開きたいものだ。
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「タンデム」

2014-12-08 06:39:48 | 映画の感想(た行)
 (原題:TANDEM)87年フランス作品。落ちこぼれ男二人の物悲しいロードムービー、しかも彼らは若くはなく、それどころか片方は身体にガタが来ている。ならばショボくれて気の滅入るような作品かと思うとさにあらず、含蓄のあるペーソスあふれた展開でしみじみとした感慨を呼ぶ。パトリス・ルコント監督の初期作品だが、この頃からその才気には端倪すべからざるものがあった。

 ラジオの聴取者参加型クイズ番組のベテラン司会者ミシェルは、もう20年以上もこの仕事を続けており、マネージャーのベルナールと共に全国を回る日々を送っている。ある町での公開録音のショーの最中に、局の上層部からベルナールに収録中のものを最後に番組を打ち切るとの知らせが届く。ところがベルナールはミシェルに本当のことを言い出せない。それからはベルナールはニセモノの公開録音をセッティングし、オンエアされることのない“番組”作りに専念するハメになるが、やがて隠し切れずにミシェルに知れてしまう。



 面白いと思ったのは、彼らは女性に対して極度に臆病だということだ。かといってゲイでもない。ただナイーヴすぎるだけである。ミシェルは(たぶん)結婚はしておらず、ベルナールにしても妻との仲は“あって無いようなもの”だという。二人が旅先で出会う女達は多分に積極的。しかし彼らはそそくさと逃げてしまうのだ。

 劇中でミシェルが“女性が内気にさせるんだよ”とつぶやくように、二人の“女性観”と実際のそれとは大きな落差がある。だが、決してそれは軽く笑い飛ばせるようなものではない。男ならば誰しも女性の言動に対して納得出来ないもの(あえて言えば、理解不能な部分)を感じることが多々あるはずだ。その心情を切々と訴えるようなこの映画の作劇は、観る者の共感を呼ぶ。男の心根というものは、本作が示すように男同士じゃないと分かり合えないのかもしれない。

 ほんの少しであるが、希望を感じさせるラストは秀逸だ。ミシェル役のジャン・ロシュフォールとベルナールに扮するジェラール・ジュニョーは好演。ドニ・ルノワールのカメラによる奥深い画面造型も見応えがある。
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「紙の月」

2014-12-07 06:41:27 | 映画の感想(か行)

 くだらない映画だ。出てくる連中が全員薄っぺら。もちろん、軽薄な人間ばかりが登場する作品が必ずしも駄作とは限らないが、この映画はそれが明らかに描写不足や洞察の浅さに基因しており、断じて評価するわけにはいかない。

 1994年、会社員の夫と2人で暮らす主婦・梅澤梨花は、銀行の契約社員として渉外業務に従事し、マジメな仕事ぶりで周囲の信頼も得ていた。ある日、小金を貯め込んでいる老年の男の家を訪問した際、その孫である男子大学生・光太と知り合う。それから偶然も重なり彼と会うようになる梨花だが、この若い男の歓心を買うため顧客の預金に手をつけてしまう。最初は少額を借りただけだったが、次第に歯止めが利かなくなる。角田光代による同名小説(私は未読)の映画化である。

 まず、ヒロインが若い男と付き合うために、どうして重大な犯罪行為に手を染めるようになったのか、その説明が成されていないことに苛立ちを感じる。映画は彼女が十代の頃に経験した、世界の恵まれない子供のための募金活動についての経緯がワケあり風に紹介されるが、やたら冗長であるばかりか、まるでメイン・ストーリーに対するフォローになっていない。これでは、梨花が少し思い込みの強い少女であったということしか分からない。

 夫との関係はマンネリ化が著しく、海外勤務が決まったダンナに同行せずに単身赴任を強いるのは言語道断だが、それが横領事件の伏線になるとも考えにくい。

 梨花に扮する宮沢りえの演技は驚くほど大根で、耳障りな舌足らずの声も相まって、印象は最悪である。思えば彼女はキャリアが長いにも関わらず、主役を張った映画というのは極少数であることを考えると、もとより主演向きではないのかもしれない。田辺誠一演じる夫や、池松壮亮扮する光太、大島優子演じる同僚、そして石橋蓮司らの顧客達も、どうしようもないほど中身がカラッポだ。比較的シッカリしたキャラクターといえば小林聡美扮する先輩行員ぐらいだが、それも取って付けたような役柄に過ぎない。

 犯罪ドラマとしてのプロット構築の興趣は皆無で、ラストなんか作劇を放り出したような有様だ。ひょっとすると、ヒロインの転落へのプロセスを通して、バブル崩壊後の当時の世相を浮き彫りにしたかったのかもしれないが、たとえそうでも小賢しい限りである。

 監督は「桐島、部活やめるってよ」が思いがけず過大評価された吉田大八だが、今回も重厚さとは無縁のチャラい展開に終始。撮影も舞台セットもテレビドラマの域を出ず、安っぽいBGMが雰囲気をさらに盛り下げてくれる。唯一印象に残ったのは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコの「宿命の女」が劇中曲として使われていることぐらいか。とにかく、観る価値無しの愚作である。
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「永遠の愛に生きて」

2014-12-06 06:37:22 | 映画の感想(た行)
 (原題:SHADOWLANDS )93年作品。おそらく「ガンジー」や「コーラスライン」と並んで、リチャード・アッテンボロー監督の代表作として記憶されるであろう佳篇である。これまで幾度か実録物を手掛けてきた彼だが、その出来映え以前に事実の重みが強く印象づけられることが多かったように思う。しかし本作は、題材が広く知られた事実ではなく作家の私生活という(それまでの作品に比べれば)小さな世界で展開されるためか、ドラマとして優れた演出の構築性が前面に出ている。そしてそのタッチはスムーズで淀みが無い。

 1952年。「ナルニア国ものがたり」等で知られる小説家C・S・ルイスの名声は、本国イギリスをはじめ世界中に轟いていた。ある日、アメリカの女流詩人ジョイ・グレシャムから“あなたのことが好きになったので、息子と一緒に会いに行く”という不躾な手紙が届く。ルイスは興味にかられて彼女と会うことにするが、保守的な英国社会で育った彼は自分の意見をハッキリと言うジョイに面食らう。



 それでも彼女に惹かれた彼は、乱暴な夫と別れて活動の拠点をイギリスに移したいというジョイの意向を受けて、当初は戸籍上の夫婦となることを決める。だが、いくら戸籍上だけの連れ合いとはいえ、一緒にいる時間が長い二人の間にはカルチャーギャップその他の行き違いが生じ始め、次第に上手くいかなくなる。そんな中、ジョイが不治の病に冒されていることが明らかになり、ルイスは自分が彼女のために何をしてやれるのか、真剣に考えるようになる。

 作家としての成功の陰に、幼い頃に母親を亡くしたトラウマが大きく存在しているルイスの屈託。それを伴侶であるジョイの感性を通して浮き彫りにしようという、構成の巧みさが光る。またそれによって自分も彼女の人生そして愛の一部であったことを知り、自らの“闇の世界”(原題のシャドウランド)からのブレイクスルーを果たすのだ。元は舞台劇だが、その戯曲も手掛けたウィリアム・ニコルソンのシナリオは、ルイスの作品の真髄を知り抜いているのだろう。

 ルイスに服するアンソニー・ホプキンス、ジョイ役のデブラ・ウィンガー、共に好演。ロジャー・プラットのカメラによる映像は格調高く、ジョージ・フェントンの音楽も素晴らしい。
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「レッド・ファミリー」

2014-12-05 06:43:05 | 映画の感想(ら行)

 (英題:Red Family)やっぱりキム・ギドクが製作に関わった映画はダメである。彼は世評は高いが、個人的には彼の作品のどこが良いのか分からない。いずれも思わせぶりな設定、センセーショナルなモチーフ、しかし内実はお寒い限り。シナリオを担当した本作も同様で、要領を得ない展開に終始している。

 郊外の住宅地に住む一見平凡な4人家族、しかしその実体は、母国からの密命を遂行するために韓国に潜入している北朝鮮の工作員チーム“サザンカ班”であった。表では仲良く見せかけても、一歩家の中に入ると厳格な階級社会に早変わり。鉄の掟で縛られたスパイ集団となる。主な任務は政治活動に手を染めた脱北者の“粛正”だ。

 そんな彼らに付きまとうのが、事あるごとに図々しく押し掛けてくる隣人一家である。鬱陶しく思いながらも、いつの間にか家族ぐるみで仲良くなってしまう。そんな中、メンバーの一人が母国に残した妻子が脱北に失敗し、身柄を拘束される。助け出すには大きな手柄を立て、それを大義名分にして上層部と交渉するしかない。ところが、先走った行動により逆に彼らは窮地に追い込まれてしまう。そして“サザンカ班”に悪影響を与えていると思われた隣の一家を始末しろとの命令が下る。果たして彼らに残された道はあるのか。

 シチュエーションはちょっと面白そうだが、ディテールが粗雑で話にならない。まず、どう見たって隣人達は“サザンカ班”が憧れを抱く“資本主義の権化”ではない。父親は甲斐性無し、母親は借金まみれで、息子はヘタレ野郎だ。しかも、下品でギャーギャーうるさい。こんなのが隣にいたら“サザンカ班”ならずとも“粛正”したくなる(笑)。少なくとも、マジメに付き合いたくはない連中だ。

 加えて言えば、彼らおよび現地司令部の面々は韓国暮らしが長いはずであり、資本主義にかぶれた(と思われる)“南”の国民なんか珍しくもない。それがどうして今回に限って親密になり、あまつさえ憧憬の念を覚えるのか、説明がまるで不足している。また“サザンカ班”の仕事ぶりはけっこう杜撰で、いつ司直の手が入ってもおかしくない。しかも手口は残忍で、相手が女子供でも簡単に抹殺してしまう。これでこの一家に感情移入しろと言われても、そうはいかないのだ。

 話もヘンにオフビートなところがあると思ったら、一方では残虐描写も出てくるし、ドラマ運びに筋が通っていない。終盤の脱力するような愁嘆場もどきを経て、御都合主義的なラストを見せられるに及び、ドッと疲れが出てきた。

 イ・ジュヒョンの演出はリズムが悪く、ギャグも外しっぱなしだ。キム・ユミやパク・ソヨンらのキャストは可も無く不可も無し。2013年の東京国際映画祭で観客賞を受賞したことが信じられないほど、ヴォルテージの低いシャシンである。
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「GO」

2014-12-02 06:38:27 | 映画の感想(英数)
 2001年作品。決して軽くはないテーマを見事にライトなタッチで綴り、最後まで飽きさせず、しかも考えさせられるという、明朗娯楽編の手本みたいな映画だ。普段は三流のシャシンばかり垂れ流している行定勲監督も、長編映画では途中で息切れしてしまいがちのシナリオ担当の宮藤官九郎も、良い素材に恵まれれば結構ヴォルテージの高い仕事をするものだ。金城一紀による原作(直木賞受賞作)と比べても、決してひけは取らない。

 落ちこぼれ高校生の杉原は、実は在日韓国人三世だ。勝手に彼の国籍を朝鮮から韓国に変えた父親と反目し合いながらも、それなりに楽しく日々を送っていた。しかし、親友で優等生の正一やガールフレンドの桜井とのシビアな関係性は、そんなチャラい杉原にも人生の決断を迫る。



 自分は何者であるのかという、青春映画に共通したモチーフはここでも踏襲されている。結局、自分は他の何者でもなく“自分は自分だ”という自覚に収斂される事柄なのだ。それがたまたま在日韓国人だったという“状況”は示されるものの、それは出発点でしかなく、肯定的に受け入れて生きるしかないのである。

 キャスティングが素晴らしい。存在感はあるが演技が少し硬い窪塚洋介の周りに山崎努と大竹しのぶの両親、民族学校教師の塩見三省や先輩役の山本太郎、果てはタクシー運転手の大杉漣とか冴えない警官の萩原聖人とかヤクザの親分の上田耕一などのクセ者を、きら星のごとく贅沢に配置し、それらの素材を破綻無く使いこなしている時点でこの映画の成功は約束されたようなものだ。

 しかも演出にテンポがあり、飽きさせない。在日朝鮮人の問題をからめた映画のモチーフは李相日監督の「青 ~chong~」に通じるものがあり、同じように“差別”や“イデオロギー”を前面に出さず普遍的な青春ドラマに昇華しているのもポイントが高い。誰にでも薦められる明朗娯楽編である。さらに、この頃の柴咲コウが魅力的に撮られているところも見逃せない。
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「郊遊 ピクニック」

2014-12-01 06:37:05 | 映画の感想(さ行)

 (原題:郊遊)熱心な映画ファンにとっては“試練”になりそうなシャシンである(笑)。この作品を観て“ワケが分からない。退屈だ。つまらん”と単純に切って捨てれば良いのだろうが、日頃から映画に関して突っ込んだコメントをせずにはいられない手練れの映画好きにとっては、これほどの難物はめったにないと思う。

 台北市街にある廃墟に、中年男とその2人の子供が住み着いている。父親は宣伝広告の看板を持って路上に立つ“人間立て看板”をしながら、僅かな収入を得ている。幼い息子と娘は学校へも行かず、スーパーマーケットの試食コーナーで何とか飢えを凌ぎ、公衆トイレで身体を洗う。そんな子供達を見かねたスーパーの女性主任は、2人を父親から引き離そうとするのだが・・・・。

 劇中に3人の女優が演じる女が登場するが、それぞれがどういう役柄なのか分からない。しかも、スクリーンに映し出されている光景は現在のことなのか、過去の回想場面なのか、はたまた登場人物の空想なのか判然としない。そもそも主人公はなぜこのような境遇に身を置いているのか、その理由も不明である。思わせぶりな長回しや、各キャラクターの挙動不審な行動を克明に追うシークエンスの連続で、ラストなんか作劇の継続を拒否したような処理で観客は呆気にとられるばかりだ。

 ならば本作は徹頭徹尾送り手の“心象風景”とやらの羅列でしかないナンセンスな仕上がりなのかというと、それは違う。全編にみなぎる強烈な緊張感は、少しでも映画を能動的に鑑賞しようとする者にとっては、切迫したメッセージの存在を感じ取ることだろう。

 ストーリーは曖昧模糊としており、観る者によって複数の解釈が可能だと思うが、私はおそらく主人公はかつて妻を死に追いやったのだと思う。吹きさらしの路上に立ちながらも満江紅を詠む彼は、明らかにインテリ層に属する人間で、昔はカタギの生活を送っていたと思わせる。それが何か大きな事件があって妻を失い、職場も追われて子連れでホームレス暮らしに身をやつしているのかもしれない。

 ただ、そんな勘繰りもこの大きな悲劇性を伴うような喪失感の前では、小賢しいものでしかない。廃屋の壁に描かれた風景画に見入る彼らは、何かをどこかに置いてきてしまった“漂泊者”のように見える。すでに“リアル”なものは絵の中にしかなく、あとは空っぽの日々を送るしかないという絶対的な孤独感。そんな暗いパッションが観る者に迫ってくる。

 監督は「青春神話」「愛情萬歳」などで知られる台湾の異能ツァイ・ミンリャンだが、分かりやすいとは言えないこれまでの諸作と比べても、本作は群を抜いて難解だ。しかし、それだけ贅肉をそぎ落としたようなレアなインパクトが感じられる。主演は従来のツァイ監督作と同様リー・カンションで、彼が重ねた時の流れをも実感できる。ヤン・クイメイ、ルー・イーチン、チェン・シャンチーらの女優陣も印象は強烈だ。第70回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別大賞を受賞。異形の問題作である。
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