96年作品。米米クラブの石井竜也の監督第二作で、人魚伝説に魅せられた男たちが織り成すSFファンタジーである。序盤にこんなシーンがある。大学での講義を終えた佐古田教授(藤竜也)がボロいトラックに乗り、キャンパス内の駐車場から港へ出て船で対岸まで渡り、自宅を兼ねた灯台小屋にたどり着く。その行程を少しも省略することなくカメラは追う。しかし、この部分がドラマ自体にどうかかわってくるかというと、何もないのである。単に教授の家と勤務先との地理的関係が示されるだけだ。
このことに代表されるように、この映画には無駄な部分が多い。思わせぶりで登場して結局は何もしない教授の娘や、浅野忠信に付きまとい何かありそうだと予測させといて早々に消えてしまう山下徹大演じる学生、吉野公佳の必然性のないヌード、浅野とホモ・アクエリアスの間の抜けたラブシーンと低レベルなクリーチャー・デザイン。対して重要な役であるはずの浅野の治療に当たる医者や環境保護派の政治家などは、演じるのが外国人だということもあってか、存在感はまるでなし。
シネスコ画面にもかかわらず、TVドラマ同様の登場人物のクローズアップの切り返しが目立つのは感心しないし、ワン・シークエンスごとに挿入される日付等のタイトルも間が悪くて失笑ものだ。
要するにこれは演出がヘタなのだ。石井竜也は「河童」(94年)で一部にウケたことを鼻にかけての第二弾だが、公開当時は東宝の夏番組の一翼を担うメジャーな番組を手掛けるには、あまりにも素人でありすぎた。まったく、わざわざオーストラリアくんだりまでロケに行って何やってんだか。美しい自然の風景も虚しい。
人魚が人間の先祖だったのどうのという話には元より興味がないが、おそらく大部分の観客が食指を動かさない題材をヒットさせるためには、もっとエンタテインメントに振った意匠と、アッと驚く見せ場を作る、いい意味でのハッタリが必要だったろう。とにかく、音楽屋は本業だけやっとれば良かったのだ。
このことに代表されるように、この映画には無駄な部分が多い。思わせぶりで登場して結局は何もしない教授の娘や、浅野忠信に付きまとい何かありそうだと予測させといて早々に消えてしまう山下徹大演じる学生、吉野公佳の必然性のないヌード、浅野とホモ・アクエリアスの間の抜けたラブシーンと低レベルなクリーチャー・デザイン。対して重要な役であるはずの浅野の治療に当たる医者や環境保護派の政治家などは、演じるのが外国人だということもあってか、存在感はまるでなし。
シネスコ画面にもかかわらず、TVドラマ同様の登場人物のクローズアップの切り返しが目立つのは感心しないし、ワン・シークエンスごとに挿入される日付等のタイトルも間が悪くて失笑ものだ。
要するにこれは演出がヘタなのだ。石井竜也は「河童」(94年)で一部にウケたことを鼻にかけての第二弾だが、公開当時は東宝の夏番組の一翼を担うメジャーな番組を手掛けるには、あまりにも素人でありすぎた。まったく、わざわざオーストラリアくんだりまでロケに行って何やってんだか。美しい自然の風景も虚しい。
人魚が人間の先祖だったのどうのという話には元より興味がないが、おそらく大部分の観客が食指を動かさない題材をヒットさせるためには、もっとエンタテインメントに振った意匠と、アッと驚く見せ場を作る、いい意味でのハッタリが必要だったろう。とにかく、音楽屋は本業だけやっとれば良かったのだ。


