前の記事に続いて「書けない病」について・・・
この病気(いや、精神的な甘え)から復活する方法は2つある。1つは「締切」である。明日発表の資料なら、明日の発表に間に合うくらいのタイミングで、とりあえず、一旦、病気は癒える。留年や退学を決意しているのなら別だが、一応、学生としての本分をクリアする気概が残っているのなら、たとえ、「ヘボ資料」となるリスクを含んでいても、なんらかの「作品」は完成するはずだから。
あとはリハビリ。読書をするとか、モチベーションのあがりそうな話を聞くとか、あるいは「お仲間の頑張り」なんかを見ていると、ついつい、「自分も頑張らないと!」と思ってしまう。そんな流れから書き始めることができる時もある。
そもそも自分の本業は銀行員であり、「作家」でもなければ、「アカデミックな研究家」でもない。書かなくても生きていけるし、書かなくてもその日の暮らしにこまることはない。
しかし、人として生まれてきた以上、人にしかできないこと・・・すなわち、自分の考えを書きあげて、他者に伝えるということを排除する必要はないだろう。ブログの記事のように、好き勝手に、気ままに書くだけではなく、師匠に師事し、テーマをいただく、あるいはテーマを自分で決めて、それについて研究し、書き綴ることも、また大切な修行といえよう。
そして、その修行を乗り越えた証が「学位記」なのだから、何枚あってもいいものなのかもしれない。
時には、精神的に追い詰められることもあるが、何度もやっていると、その「ストレス度」というか、「強度」というものがわかってくる。だから、その範囲において「書けなくなる」のかもしれない。それが、健全であり、知らず知らずのうちに、防衛機能が作動して、あえて、自分の心理が書かないようにしているともいえる。
適度なストレスがないと人間は生きていけない。そして、一定の負荷がなければ、成長もありえない。自己の成長のためとはいえ、ストレスはストレス。頭でわかっていても、気持ちがついていかない。それが「書けない病」の正体である。
この苦しさこそが、自分をたくましくしてくれる。簡単な運動では筋肉がつかないのと同様、苦しみ、悩み、それを乗り越えることで自己成長が促進されるのだから。ゆえに、つらくても耐えていかねばならない。少なくとも、私の目指す「生涯学習」というものは、「楽しみ」こそあれ、「楽」というカテゴリーではありえない。
そして、そんな苦しみに併走してくださる「同志」をありがたく思っている。
たとえば、リンク先の1つである「番頭さん」の今日の記事。昨日の深夜にレポートを完成させ、通常なら15円で済む切手代を350円に換えて、速達で提出。
このような記事を見ると、一見「もったいない」という感情を持つ人もいるかもしれないが、それは、修羅道に身を置いたことのない人の率直な感想である。我々、楽に生涯学習をしていないカテゴリーの同志は、このような「生涯学習の実践」を、とてつもなく理解できるし、共感してしまうし、リスペクトしてしまう。
還暦を超えても博士課程に挑戦する「と~ま君」さん。還暦を超えても年間50単位も履修している「ゆず」さん。他にもいろいろな方々を紹介したいのだが、このような方々の姿を見て「何かを感じる人」と「何も感じない人」に分類され、「何かを感じる人」の中でも「共感できる人」こそ、私が同志と呼べる人なのだろう。
「無用の用」。こんなことをしなくても、生きていけるし、生活に支障が生じるわけでもない。いわば「無用」なものである。しかし、その「無用」なものが「必要」となることがあるかもしれない。だから、あらかじめ「天命」として、「無用」なものを学ぶ。それこそが「無用の用」というものであろう。本当、呆れるくらい「アホちゃう?」と思ってしまう方々であるが、私が尊敬してやまない方々でもあるのだから。
さて、そろそろ私も書かねばならぬし、動き出さなければならぬ。少なくとも、明日は同期10名とアイマミエルわけなのだから。どのような猛者と一緒に学べるのかワクワクしてくる。きっと、とんでもない人もいるだろうから、楽しみである。
この病気(いや、精神的な甘え)から復活する方法は2つある。1つは「締切」である。明日発表の資料なら、明日の発表に間に合うくらいのタイミングで、とりあえず、一旦、病気は癒える。留年や退学を決意しているのなら別だが、一応、学生としての本分をクリアする気概が残っているのなら、たとえ、「ヘボ資料」となるリスクを含んでいても、なんらかの「作品」は完成するはずだから。
あとはリハビリ。読書をするとか、モチベーションのあがりそうな話を聞くとか、あるいは「お仲間の頑張り」なんかを見ていると、ついつい、「自分も頑張らないと!」と思ってしまう。そんな流れから書き始めることができる時もある。
そもそも自分の本業は銀行員であり、「作家」でもなければ、「アカデミックな研究家」でもない。書かなくても生きていけるし、書かなくてもその日の暮らしにこまることはない。
しかし、人として生まれてきた以上、人にしかできないこと・・・すなわち、自分の考えを書きあげて、他者に伝えるということを排除する必要はないだろう。ブログの記事のように、好き勝手に、気ままに書くだけではなく、師匠に師事し、テーマをいただく、あるいはテーマを自分で決めて、それについて研究し、書き綴ることも、また大切な修行といえよう。
そして、その修行を乗り越えた証が「学位記」なのだから、何枚あってもいいものなのかもしれない。
時には、精神的に追い詰められることもあるが、何度もやっていると、その「ストレス度」というか、「強度」というものがわかってくる。だから、その範囲において「書けなくなる」のかもしれない。それが、健全であり、知らず知らずのうちに、防衛機能が作動して、あえて、自分の心理が書かないようにしているともいえる。
適度なストレスがないと人間は生きていけない。そして、一定の負荷がなければ、成長もありえない。自己の成長のためとはいえ、ストレスはストレス。頭でわかっていても、気持ちがついていかない。それが「書けない病」の正体である。
この苦しさこそが、自分をたくましくしてくれる。簡単な運動では筋肉がつかないのと同様、苦しみ、悩み、それを乗り越えることで自己成長が促進されるのだから。ゆえに、つらくても耐えていかねばならない。少なくとも、私の目指す「生涯学習」というものは、「楽しみ」こそあれ、「楽」というカテゴリーではありえない。
そして、そんな苦しみに併走してくださる「同志」をありがたく思っている。
たとえば、リンク先の1つである「番頭さん」の今日の記事。昨日の深夜にレポートを完成させ、通常なら15円で済む切手代を350円に換えて、速達で提出。
このような記事を見ると、一見「もったいない」という感情を持つ人もいるかもしれないが、それは、修羅道に身を置いたことのない人の率直な感想である。我々、楽に生涯学習をしていないカテゴリーの同志は、このような「生涯学習の実践」を、とてつもなく理解できるし、共感してしまうし、リスペクトしてしまう。
還暦を超えても博士課程に挑戦する「と~ま君」さん。還暦を超えても年間50単位も履修している「ゆず」さん。他にもいろいろな方々を紹介したいのだが、このような方々の姿を見て「何かを感じる人」と「何も感じない人」に分類され、「何かを感じる人」の中でも「共感できる人」こそ、私が同志と呼べる人なのだろう。
「無用の用」。こんなことをしなくても、生きていけるし、生活に支障が生じるわけでもない。いわば「無用」なものである。しかし、その「無用」なものが「必要」となることがあるかもしれない。だから、あらかじめ「天命」として、「無用」なものを学ぶ。それこそが「無用の用」というものであろう。本当、呆れるくらい「アホちゃう?」と思ってしまう方々であるが、私が尊敬してやまない方々でもあるのだから。
さて、そろそろ私も書かねばならぬし、動き出さなければならぬ。少なくとも、明日は同期10名とアイマミエルわけなのだから。どのような猛者と一緒に学べるのかワクワクしてくる。きっと、とんでもない人もいるだろうから、楽しみである。
単純に「締切日ギリギリだったから、何とか間に合わせたい」という思いだけなんです。
でも社会人学生の方なら、一度くらいは速達で送られた事もあると思いますよ。
皆さん仕事同様【納期順守】が身に染みてわかっておられるからだと思います。
逆に、納期が気になるときは、大学の窓口までもっていってしまう。それができるのは、大学と自宅が近いことをポリシーにしているからでしょうか。