ウヰスキーのある風景

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結果と原因

2017-04-02 | 雑記
四月になったというのに、寒かったりする。いまだに冬のコートでお出かけである。お出かけと言っても、出勤である。

ここには載せてないが、マフィアみたいな格好で出かけている。なんせ、首からマフラーを垂らして、さらにハットまで完備。

「機関銃で殺されるかと思った」は仕事場の人の感想。イメージは英国紳士と、コートを仕入れたセレクト・ショップの人の言である。

ただのウールのコートで、ダウンではなく、秋から冬までのものかと思っていたのだが、結局冬を通して着ていた。

セレクト・ショップの店員さんの言では、「シャツの上からセーター着たりするとよい」だったのだが、シャツにブレザーにコートに麻のマフラーというスタイルで、春を迎えてしまったのである。

このままでは、春眠暁を覚えずどころか永眠か?と思ったが、特に問題なく過ごしている。


さて、三月のある夜。夜中上がりの仕事が連日だったので、寒い中を歩いて帰っていた。

寒いなぁ、とは思うのだが、特に体全体が震える感覚に襲われることもなく、平然と歩いている。

出している手が冷えるな、と思った矢先、肘より体よりの方から、何か伝わってくるものを感じる。

すると、冷えた手の感覚がなくなった。鈍くなったのではなく、温まったのである。

なんだろうか?と思い、辺りを見回す。いや、外を見ていたのではなく、身体の感覚を見回したのだ。

それは、腹の方、つまり、身体の中心のほうに熱があって、ここが冷えてないから、手先や足先が冷えても別に問題がなかったのである。

なるほど、と思い、寒さを感じる時に何度か注意を向けてみたのだが、いつも同じ感覚を覚える。

いくらブーツを履いているからとはいえ、足も寒いはずだが、手先の方ばかりに気をとられていたので忘れていたが、足も温かくなっていた。

昼間温かい日が三月もあったが、夜の気温は一桁の前半だったり、住んでいる場所は夜中に氷点下を示している日もあったのだが、気づけば暖房もつけずにこうやって記事を書いている。

その上、冷え切ってどうしようもないから、風呂でも入りたい、といった具合もない。

ためしに、ワンルームの窓の通風口を開けておいたのだが、別になんともなく、ここしばらくそのままで寝起きしていた。

二月の頭にインフルエンザっぽいので寝込んだ以来、風邪らしい症状でクラクラするというのもなかった。


人の身体というのは、改造できるのだなぁ、と感慨に耽ったものである。昔はよく風邪を引いていたのに、この状態なら引きそうもないなと。


手が冷えるから何かで温める、足についても同文、というのが常だったが、やればやるほど冷えていた。

これはつまり、身体で温まっておくべきところが冷えているから、手足も冷えていたと。結果と原因を取り違えていたというわけである。

そして、対症療法をやり続けて、本来温まっておくべきところがどんどん冷えて、冷え性になるのだろう。

ニーチェも書いていたが、科学は結果と原因を取り違えていると言っていた。

端的に言えば、胃潰瘍の原因は胃が悪いから、という流れだと思えばいい。

ストレスが原因だ、という意見も出てきた。ストレスに負けて胃に穴が開くと。

じゃあ、ストレスはなんだ?となる。対人関係か?環境か?と。それで、殺菌と同じ感覚で退治にかかる。

対人関係が悪いからといって、別に殺人セヨ!という話ではないが、大抵は対象をどうにかしようとするのが、現代社会のよくある風景。

無理に嫌な対人関係を続ける必要はそもそもないのだが、嫌な対人関係というのも、そもそも結果だといえる。

結果を原因として、そこから話を考えるから、話はこじれていくのである。

その対人関係を無理矢理やめたところで、つまり引っ越したりだとかで離れたところで、同じ事を繰り返すこととなる。


これはつまり、己と己自身という対人関係が原因だった、ということになる。

一番最初の他人とは、実は自分自身だった、というわけだ。


というわけで、最近、自身に起こった話を書く。


わしは、何か嫌なことがあると、かなり引きずる性格だった。ああ、例のおっさんの件?それもあったか。

自分が原因だったにしろ、相手が理不尽だったにしろ、たまに思い出して、怒りに我を忘れそうになることも、多々あった。

しかし、それがめっきりなくなった。有った事を思い起こすことは出来るのだが、感情を引きずられることがなくなったらしい。

具体的な件を書く。

ある日のこと。仕事はホテルの従業員。フロントにいたら、常連客がやってきた。

しかし、予約がない。そして、相手は予約したはずだという。

「見当たらない」と伝えると、相手は怒鳴るほどでもなかったのだが、すごむような感じで「客を嘗めるなよ」と言ってきたものである。

この予約の件は、実は別のスタッフが前に受けていたにも関わらず、書き起こすのを忘れていたミスであり、実際は自分自身のミスではなかった。

これが以前なら、時折思い出しては嫌な気分になるのだが、なんともない。

なんたらの法則的に、その常連客もどこかで客を嘗めるようなことをしていたがゆえに、めぐり巡って嘗められたのだろう、という、メチャクチャなことを思いついたくらいだった。

あの台詞は、実際はその常連客自身のことだったのだろうな、という具合である。


つまり、何がいいたいのかというと。

自分なんぞというのも、別に決まりきった型なんてなくて、変えられてしまう、ということである。


何度か話に書いてきた、シャイン氏。彼も言う。「自分の性格って変えられないものなんだろうな」と。

それで、上記の話をしたものである。以前なら問題だった寒さや空腹がなんともなくなったのと同じく、性格も同様に変わったのだよ、と。

普通なら順序は逆な気がするが、気がついた順がこうだった故である。



感情というのは、記憶による条件反射である。
塩と砂糖を間違えたとかでまずかった料理を食べて、ちゃんと出来ている同じ料理をもまずい料理だと認識するのは、こういう理由である。

記憶とは、経験の蓄積である。しかし、経験とは何か?となる。それは、結果を経験しているわけで、違う結果を経験したなら、すぐ取って代わってしかるべきの、曖昧なものなのである。

記憶というのもまた、脳内の化学物質による情報である。敢えて言うなら、錯覚となる。

錯覚を確固たる物としていたが故の、以前のわしの性格だったというわけである。


野口晴哉が書いていたが、気は物質以前の存在であり、心だか感情は、気の流れるほうに動くという。

また、一粒種が大樹になるのは、気が大樹に育てるために必要なものを集めてきたが故であり、根を掘り返したり解剖したりしても生命の本質は見えてこないと言っていた。


アイクは、物理学者の所見を引用し、この世は映画の『マトリックス』とまったく同じだと述べている。確固たる物質世界だと思っているだけで、全ては幻だと。


結果を経験している、と書いた。それはつまり、まずい料理をまずいと決めているのは、料理が原因ではなく、あなた自身だというわけである。

とはいえ、また味付けを間違えていたらまずいことには違いないだろうが、新しい料理と思えば問題ないだろう。

そもそも、その料理の見た目や匂いや味という錯覚がその前提にあるが故の、結果なのだから。


だから、この世という料理はあなた次第で、美味くもまずくもなるわけである。


では、よき終末を。


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