ウヰスキーのある風景

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口熊野霊異記

2017-04-28 | 雑記
月曜の夕方から木曜の昼まで、帰省していた。

何度か書いたが、拙の弟が病んで実家に戻って療養している。その見舞いついでに帰省したのである。

ここしばらく妖怪染みてきたので、妖怪になるためのメソッドを伝えて、昔より元気にしてやろうなどとも考えたが、この辺りはあまり上手くいかなかった。

三日目の夕方、野口整体の背骨呼吸の話だとかをしていたら、階下から母親が「ゴミないか?」などと問いかけてくる。狙ったようなタイミングであった。

所謂陰謀論とか言われる話にも少し触れた。といってもいきなり「物質は幻なんだ」と伝えても、俄かには信じられないとは言っておった。

アイクがどうこうだとか、物理学者がこの世界はホログラムなんだと言い出している話もしておいた。

それでもって、ついでに、オーラとか言われてるものが見えるようになった、とも言った。名実共に仙人染みてきたのだと。

そこはともかく、背骨呼吸と姿勢に意識を向けていけば、改善されるだろうとは思う。薬なんぞ飲むな、とはいきなり言っても通じないだろうから、ここまでにしておく。


弟にその話をする少し前。一階のリビングで、親父殿がたまに座っているマッサージチェアに座ってみたところ、一日目は警戒して寄り付こうとしなかったチワワ(弟が連れてきた)が何故か膝に乗ってきた。

しばらく撫でて、ふと思いついた。皮膚炎だかを煩っていて、今はそれほど問題ない状態なのだが、首から肩辺りにまだその様子が見て取れる。

掌を当ててしばらく、野口整体でいう「愉気」というのをしてみた。

すると、チワワが何か思ったのか、膝から飛び降り、母親のいる仏間とリビングを行ったり来たりし始めた。

そのうち、犬用のトイレの上に立ち、口を下に向け、吐き始めた。

何を吐いたのかというと、シイタケだった。


その前夜。家で鍋をしていた。某キムチの素でやる、簡単な鍋である。

具が足りないぞと母親に言うと、少々酔った母(酒にひどく弱い)が冷凍されていたシイタケを一つ、取り落としてしまった。

すかさずチワワは駆け寄り、それを食べてしまったのである。取ろうとすると返って無理に飲み込んで窒息するし、凶暴な奴なので、噛み付いて危険なのもある。

それから、先ほどの吐きだすところまで、一日は経っていなかったが、他に食べた餌は吐いてなかったようで、シイタケだけ胃に取り残されていたようだ。

「撫でてたらシイタケ吐いた」というと、母が「あんたは救世主やな」と言っていた。


その後、弟に陰謀論だとかオーラが見えるだとか、野口整体だとかの話をしたというわけである。

チワワがシイタケ吐き出せたのは、拙の「愉気」のせいかもしれぬなぁ、といった具合である。


実家のあるところは、霊場として名高い、熊野の入り口辺りで、口熊野とも呼ばれている。

神社や神社跡がそこかしこにあったりする。今の状態の拙がそこに立つと大丈夫なんだろうか?と思いつつ、各地を訪ね歩いてきた。


一日目の夜、母が「どこか行きたいところあるか?」と尋ねてきた。

「特にないかな?パンダくらいか?」などと言ったが、寝ながら思い出したものである。

今は合併されて、同じ市になったとかなってないとか、未だにややこしいみたいだが、隣の市にあたるところに、南方熊楠(ミナカタ・クマグス)が死ぬまで住んでいた家があり、記念館になっているというのを、数年前にその市の駅の案内で見た。

たしか、2011年の一月下旬なので、六年ごしか。そこに行きたいと、次の日の朝伝えた。

母は三時から用事があるとのことで、二時前に家を出て、駅に降ろしてもらった。帰りは歩き回るので暗くなったころだろうとは伝えた。

もしどうしようもなくなったら電話してくれたら迎えに行くとのことで、記念館を探しに行くことにした。

かつて、駅前にあった案内はなく、観光案内所はあったが、元々地元民だったのがそこに尋ねに行くのも妙だと思い、記憶を頼りに歩き出した。

しばらく進むと、交差点の角に、この先何メートルなどと、案内が出ていた。なんとかなるものである。

施設の名称は「南方熊楠顕彰館」という。資料館と、隣に復元された住まいがある。

さすがに現物は置いてないが、模造品の原稿だとかがラミネートされてあり、手にとって見ることができる。

なかでもとんでもないのが、「履歴書」と銘打たれた巻物である。

履歴書とは言っているが、自身の履歴やら研究のことやら、なにやらたくさん書いてあり、「自伝文学の傑作」と言われているそうな。

そして、その巻物の長さが7.8メートル。このブログの文字より小さな字でびっしり書き込んである。たまに小さなイラストが描いてあったりするが、文字が氾濫しているかのようであった。

南方熊楠の主な関心は、「粘菌」と呼ばれる物体の研究だった。それ以外にも広範にわたる研究があり、日記にいたっては読みづらいのもあってか、全部解読できていない。

地元の高校生だかが集めてきた粘菌の標本があったのだが、どれも名前がひどかった。

なにがしホコリ、という名前だった。たしかに、ホコリにしか見えないので、頷くしかなかった。


その資料館の二階の参考図書だかに、粘菌についての新書があった。タイトルしか見てないが、どうやら調べると画期的なことが判り始めたらしい。

ゴキブリの体内を調べると、人類の病気だか寿命だかに素晴らしい効果のものが見つかった、とかいうのが昔あったが、粘菌というものにも、そういう話が出てきたようである。

「陸上トコロテン」(水木しげるの伝記漫画で書いていた)だとか、正式名称がホコリだとか、散々なのだが、世の中は不思議でたくさんのようである。

南方熊楠は、当時のヨーロッパで広まっていたオカルトだとかにも並ならぬ関心があり、友人の天台宗の高僧とやり取りしていた手紙に、カバラのことだとかを書いていたようだ。

オカルト系陰謀論の世界だと悪名高い、ブラヴァツキー夫人の著作も読んでいたようである。一回読んだときは無視していたらしいが。

本人も幽体離脱の経験があって、霊だとか魂だとか人間というのは何なのか、というものへの不安とでも言うものがあったのだろうと思われる。


資料館の横に、復元された住まいがある、と書いた。そこに入るには、資料館の受付で料金を支払う必要があった。

受付のお姐さんの喋り方も地元のなまりがあり、「ああ、やっぱりここは和歌山なんだな」と、わけのわからん感慨を覚えたものである。


書き物机がある部屋の襖の上の壁に、肖像写真が掛かっていた。

それをぼんやり眺めてみた。ただのぼんやりでなく、昨今の拙の「ぼんやり」である。

なんと。写真の中の肖像が少し動いている。ホラーな状況だが、こちらとしては当たり前の風景なので、気にはしていなかった。

オーラ診断に、写真を送ってください、というのがある。なるべくこういう背景のものが望ましい、とか書いてあったが、その肖像写真からも少し見えた。ただ、何色なのかはよく判らなかった。見えると気づいたころよりは色はまだ判りやすくなったかなとは思う。


その後、顕彰館を出て、海に行こうかと思ったが、断念した。余りうろつくと遅くなりすぎるので、神社巡りにすぐ方針転換し、駅に引き返し、その裏から実家のある方へ向かった。

立ち寄った神社は三箇所。一つ目は行った覚えがあったかどうかは忘れたが、残りの二つは子供のころから行っていたところである。

幸い、どの神社に立っても、奇妙な物が見えるとかいうことはなかった。よかったよかった。

最後の一つは、田中神社の森、となっていて、かつての廃仏毀釈で、一時期は消えていたこともあるそうな。

文字通り、田の中にある。田んぼの真ん中に樹が生い茂っているという、不思議な光景である。

ここに咲く藤が変種らしく、「オカフジ」と命名されているそうな。南方熊楠の銘、となっているそうだが、顕彰館で見たとき、煮え切らない表現をしていたので、実は違うのかもしれない。


顕彰館から凡そ三時間からその辺りを、舗装されているとはいえ、山の坂を登って戻った。

しかし、筋肉痛にならなかった。トボトボ歩いたのではなく、セカセカ歩いていたというのにである。

神社だとかはパワースポットなんぞといわれて、それ系統の人がよく巡ったりする。

地脈だとか龍脈だとか、そういうエネルギーに溢れた場所に、神社や寺が建てられていたりするのだとか。

何か得体の知れないものが見えるとかいう、拙にも困るようなことは起こらなかったが、何かは感じたのだろう。

おかげでひどく腹が減って、滞在中は「よく食べるナァ」と親にも弟にも驚かれたものである。


さて、これも前から書いているが、勘違いではないのかもしれないという話をして終る。

最近、自室で深呼吸や喫煙などでリラックスすると、部屋の壁が鳴ったりすると書いた。

見える範囲で鳴った時は、夜だとそこが光っていることもあって、これはこれで怖い。怖くはないが、爆発するんじゃなかろうかと。

それはさておき。滞在中の夜も、布団でリラックスしていると、やはり部屋のそこかしこで音が鳴る。

「やっぱり、偶然じゃないんだな」と、納得する数日であったとさ。


では、よき終末を。


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